人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集7(1,2)

2024年11月30日 16時42分14秒 | 学習


イエス様の死は「生きながらの別れ」であったと私は思います。それは生き別れです。ですから、私たちの先祖、信仰の先祖たちは何一つ誇るべきものを持っていないのです。イエスを殺したことは選民としての本分ではありません。イエス様が歩むべき道はそのような道ではありませんでした。それは生き別れの道ではなかったのです。


この地上には、イエスの生涯を奪った死の恨みが残っています。だからこそ、神はイエスの死を通して、今なお人間を心情的な理念を通じて導いてこられているのです。ユダヤ民族が世界で勝利することができたのは、一時の心情的な結びつきがあったからです。このようなユダヤ民族が、天的な目標を見据えて進む人々を動かし、心情的な統一を成し遂げていたならば、そこから地上に一つの宇宙観的な内容を備え、人間の心情に深い感動を与えるような主義が生まれたでしょう。そして、ユダヤ民族を通じて一つの世界が必ず成し遂げられたであろうと私は考えます。


しかし、イエスを中心として成し遂げられるはずだったその故郷の国はどこに行ったのでしょうか?どこに行ったのですか?その民族が住むべきカナンの地はどこに行ったのですか?その故郷はどこに行ったのですか?アブラハムが祝福を受け、神の前に祭祀を行ったその地、その神殿はどこに行ったのですか?神が直接統治することができたアダム、選ばれたノアとその家族はどこに行ったのでしょうか?私たちが住むべき、天の安息所となるべき故郷の世界はありません、ないのです。だからこそ聖書では、私たちは孤児のようであり、未亡人のようであると記されています。


金サッカのような人は、放浪者として三千里の山河をさまよいながらも立派でした。立派だったのです。だからこそ、皆さんも人生の旅路においてその姿がどれほど哀れであったとしても、宇宙を歌える感情を持ち、天と共に、万物と共に、その流れる心情が天情と調和する人格者にならなければならないのです。もし私がそのような人に出会っていたならば、たとえ物乞いの缶を持って歩くことになったとしても、精一杯その人をお迎えしたでしょう。


私たち人間は、悲しみの歴史を繰り返し、自らを縛り、傷つけ、自己崩壊を繰り返してきました。それはノアの時代にも、アブラハム、モーセ、そしてイエスの時代にも同じでした。それでは、今日の歴史の終末時代において、人間の運命を解決し、人間が自らの使命を果たし、生命の道を切り開いていかなければならないというこの時に、神は人類をどのような方向に追いやろうとしておられるのでしょうか?イエスの時代には、故郷の国を取り戻すために人類を追いやりましたが、これからは神が望まれる故郷の世界を築くために人類を追いやっておられることを私たちは知るべきです。


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探し求めるべき故郷の世界、その世界を建て、治めるために万王の王が来られると言われています。その方こそ、私たちが待ち望む主です。人生の旅路で倒れることがあっても、故郷の国を探し求めるために引き寄せられ、命を失う者がいるなら、その国が建てられるとき、その者は忠臣であり功臣として名を残し、天によって称えられることは間違いありません。だからこそ、かつてパウロもすべての社会的な権威を捨て、一人で悲惨な死の道を歩むことができたのです。彼はその一時が来ることを確信していたからこそ、それができたのです。イエス様もその一時が来ることを確信していたからこそ、その道を進むことができました。そして神もまた、その一時が来ることを確信しておられるからこそ、今日までこのような摂理を続けておられるのです。この道を歩むべき人生だと知る皆さんは、自信を持ってこの道を進むべきです。自信がありますか?自信がありますか?


私たちが目指すべき場所は、ノアが探し求めた故郷の家庭であり、アブラハムが探し求めた故郷の地であり、モーセが探し求めた故郷の民族であり、イエス様が探し求めた故郷の国です。神とイエス様が成し遂げようとしているのも故郷の世界であるのに、皆さんはその世界と感情的に共鳴し、縁を結んでいますか?そうでなければ、皆さんには人類歴史の脱落者としての烙印を押される日が来るでしょう。


私たちは故郷の世界が恋しいのです。ノアの方舟も恋しいのです。今日、世界の二大陣営は岩礁にぶつかる瞬間に差し掛かっており、生死を分ける決断を迫られる厳しい局面に直面しています。善悪の出発が一つの起点を通じて始まったことを私たちは原理を通じて学んでいます。善悪が神を基に始まったのであれば、その解決もまた神を基にしなければならないというのが鉄則です。失われたものを探し求めるには、失われた場所に行って探さなければならないのと同じです。


本然の園は理想の園です。それは、互いに与え合い、通じ合う世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにでも通じることのできる世界でした。今日のように、民族的な感情や国家の主権的な違いを持ち出して議論するような理想や主義の世界ではありません。民族の差別や国家の主権といったあらゆる違いを超えて議論できる世界であり、経済的な状況や文化といった条件の違いを基に議論するのではなく、心情を基に議論する世界でした。


例えば、ある家庭に兄と弟がいて、その兄が大統領で弟が労働者であったとしましょう。その時、兄が弟に向かって「お前は労働者だから家に戻って労働でもしていろ」と言うことはできないはずです。本当の兄であるならば、弟が自分と同じ立場でないことを悔しく思い、彼を高めてあげたいという心情が湧き上がるはずです。それが真の兄の心情でしょう。


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神はそのような家庭的な理念、本然の家を恋しく思っておられるため、全人類もまたそのような故郷の家を恋しく思っているのだということを知らなければなりません。


これが私たちが必ず到達しなければならない運命的な歴史の解明点であり、人間的な解明点であり、摂理的な解明点であるならば、その視点と基準が自分とどれほど異なっているのかを問い直すべきです。その違いが大きければ大きいほど、私たちは大いに嘆き悲しまなければなりません。そのため、こう祈るべきです。


「神様、哀れな私をお許しください。私は何も知りませんでした。歴史の流れを知りませんでした。歴史が目指す摂理の方向と目的を知りませんでした。人生の歩みがどれほど混乱しているかを知りませんでした。歴代の預言者や先祖たちの苦しみや歴史的な内的心情を知りませんでした。そして、私たちが信じるイエス様が歩まれた道も知りませんでした。神様が進まれた道も知りませんでした。知らなかった罪をどうかお許しください!」と。そして、「知っていても赦されるべきではないのに、知らなかった私はなおさらお許しください!」と訴えるべきです。


人間は無条件でそうすべきです、無条件で。それゆえ宗教では「高慢は敵だ」と教えています。「高慢になるな。自分を出すな。自分自身が敵なのだ」と言っています。それは、私たちが彼らに負い目のある存在だからです。このような心情で静かに目を上げて自分を見つめ直すと、恐ろしい現実を感じることでしょう。そのような歴史的な心情を持ち、天と共に何かを感じ取るとき、恐怖が込み上げてきます。歴史的な悲哀、悲運の幕が張られているのを見ると、身体が震えるほどの衝撃を受けるのです。


そのような山場を乗り越えてこられた父なる神。そのような山場に直面して命を落としながらも、その国、その世界を恋い慕い、その世界の自由を求め、幸福を求め、平和を求めて戦い続けてきた預言者や先祖たちがいます。それが私の考えです。今日の私、今日の私たち、今日の統一教会が反対を受けることは当然だと思います。


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それでもなお、この道を切り開かなければならないという確固たる信念のもとで、「迫害なら来るがいい」と言える度胸を持たなければなりません。イエス様もイスカリオテのユダの一団の前に毅然とした姿で現れ、その堂々たる態度に彼らは頭を垂れました。イエス様は「来るなら来てみろ」という姿勢を見せられたのです。どれほど困難なことがあっても、心情を通じてすべてを超えることができます。そうではありませんか?


たとえ悪党が親子の愛を妨げようとしても、それを妨げることはできません。愛は何らかの意識的な啓示によって感じるものではなく、自動的で自然な感情として感じるものです。そのような感情が感じられる場があるならば、そこには悪魔がどれほど侵入しようとしても侵入できません。もし邪魔をすれば、悪魔自身が大変なことになるのです。悪魔が消え去るのです。人生の旅路でそのような感情を感じる人が天国に行くということです。


私たちは故郷を求めてもがき続ける人生の旅路を歩んでいます。イエス様はこうおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。しかし、ここにもう一つ付け加えられるべき言葉があります。それは『わたしは愛である』という言葉です。この言葉をイエス様はおっしゃらなかったのです。


ですから、ここに「神よ、私は愛であり、真理であり、道であり、命である。私を通さなければ神に出会うことはできない」と言える確信を持つ人、天の心情を通じることのできる人が現れるならば、その人を指して「お前はこの地で天を裏切った者だ」と裁きの座に引き出すことはできないでしょう。神はそのような息子娘が地上に多く現れることを待ち望んでおられます。それが、私たちがイエス様を高く見る理由でもあるのです。


私たち統一教会の信徒たちは、人生の旅路の中で荒れ狂う波に翻弄されながらも、天を探し求めてここまでたどり着きました。私たちには、自分の身体を委ねる場所、自分の心を委ねる場所、自分の心情を委ねる場所が必要です。本然のエデンの園においてアダムが万物の主人公であったならば、万物は彼に対してどう思ったでしょうか?すべての万物はアダムに向かって『どうか私たちの主人になってください』と言う存在であるべきだったのです。


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神はどのようなお方なのでしょうか?なぜ私たち人間が『神様、神様!』と呼ぶのでしょうか?それは、神がすべてのものから『私たちの主人になってください』と求められる立場にいらっしゃるからです。そうでなければ、理想的な主観を得ることができるでしょうか?


今日の人類は『私のすべてをあなたに捧げますので、神様、どうか私たちの主人になってください』と言える存在でなければなりません。そのように言える歴史、そのように言える摂理、そのように言える人格を確立した者であるべきです。そして、もし皆さんがそのような方と地上で出会ったならば、『私の身体を、私の心を、私の心情をどうかあなたが導いてください。私の主人になってください』と訴えるべきです。その時、万物もまたその方を待ち望んでいた主人として迎えたいと思う心が芽生えるでしょう。皆さんはそのような存在にならなければなりません。


今日の私たち統一教会の信徒たちが、真理を通してそのような身体となり、そのような心となり、そのような心情となれば、たとえ世間がどれほど反対しようとも、この真理が世界を支配する日が来るのです。そして、その日が来れば、この真理は世界を支配するだけでなく、それを超える影響力を持つことでしょう。


今、皆さんが「ここにいたい」「ここに住みたい」「ここに行きたい」と思う場所があるならば、それが本然の居場所であるはずです。その場所にいる家族や仲間たちは兄弟姉妹です。会わなければ会いたくなり、傷を負っていればその傷を抱きしめて涙を流すことのできる心が湧き上がらなければなりません。皆さんはそうなるべきです。仲間の誰かが傷ついたなら、その胸を抱えて涙を流すことのできる人間でなければなりません。


私たちの故郷の家とはどのような場所でしょうか?それは、お父様が私を抱きしめて涙を流してくれる場所です。主も共に涙を流してくださる場所です。心情の縁を一片も欠けることなく、同伴者として、友人として、あるいは新郎として接してくださる天の存在、それがありがたく、畏れ多いお言葉です。


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不甲斐ない自分を抱きしめて涙を流してくださる主、そのようにしてくださる父、それを思うとただ畏れ多いばかりです。その愛によって、人生の旅路で受けたすべての傷を忘れることができるでしょう。このように考えると、どうしようもなく圧倒的な父の愛を賛美する感情が先立ちます。それがなければ、天国に行くことはできません。そうではありませんか?


皆さん、学期の初めに初めて故郷を離れた学生たちは、学期の終わりになると故郷が恋しくなるでしょう。その心が純粋で本然の心情であるならば、どれほどの苦労をしても故郷に帰り、母や兄弟姉妹の手を握りながら涙を流し、自分のこれまでの苦労話を夜通し語り合える、そんな場所や村、山河を懐かしむはずです。


復帰の恨みを解消できていない私たちが人生の旅路を歩む中で、「ああ、主よ!お父様!」と叫ぶ瞬間に、天地万物が喜びの中で「その通りです!ハレルヤ!」と歓声を上げるような瞬間があったでしょうか。皆さんにはそのような瞬間が必要です。それがなければ、天は悲しみと哀れみの立場に置かれざるを得ないということを、皆さんは知るべきです。


皆さん、幸せな人とは、抱きしめて涙を流してくれる人がたくさんいる人です。子どもが素晴らしいというのは何故でしょうか?それは、親が困難に直面し、涙を流すときに一緒に泣いてくれるからです。そうではありませんか?また、親が喜ぶときに一緒に喜んでくれるからです。そのため、悲しみも喜びも共に分かち合える人がいる人は幸せなのです。


皆さん、友人を誇りに思ってはいけません。自分のために死ぬときに涙を流し、悲しみを共にするのは難しいことです。それができるのは親です。そして天もそのような存在です。


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私たちが進むべき道の理念を担う指導者や教団的な責任者がいるならば、その人は羊たちのために涙を流し、号泣し、哀れみの心を持つことができなければなりません。羊たちが自分のすべての事情をその指導者の前で打ち明け、その指導者によって喜びや悲しみ、怒りや楽しさの感情が豊かになるとき、その人々は真の牧者に出会った幸せな人々であると言えるのです。そのような天がいるからこそ、私たちは天を慕うのです。


ですから、今日の私たちは人生の旅路の中で疲れ果てた身体であっても、勝利の内容を持って現れるとき、歴史上のすべての聖人、賢人、そして天が歓喜して迎えてくれる日が来るということを知り、その日を栄光のうちに迎えるべきです。そして、その日を感謝し、その日に自分のすべての過ちを忘れることができ、待ち望んだ願いをすべて成就することを願いながら進むべきです。そのように進む人こそが、今日、道の道を歩む人々であることを皆さんはしっかりと認識すべきです。




<祈り>
お父様、招かれた道が容易いものだと思い進み始めましたが、それが困難な道であることを知りました。喜びの道だと思っていましたが、進むにつれて涙の峠がいくつもあることを知りました。


お父様、私たちに悲しみがあるならば、あなたを抱きしめて悲しみを分かち合いたいのです。人間を抱きしめて悲しみを分かち合うならば、失望することが多いことを知りました。そして、人を信じて進むと傷つくことを知りました。


変わることのない方は父なる神様であられました。お父様を抱きしめて泣いた時間がどれほど幸福な時間だったのでしょうか。そのためにイエス様もお父様を抱きしめて涙を流すための道を求められたのでしょう。


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今日ここに集まった統一の家族は、教派や形式が問題ではありません。お父様を抱きしめて涙を流すことのできる人々であり、人生の旅路が悲しく孤独であるからこそ、人類の前にイエスを立てて先にこの道を切り開かせた父の心情を理解し、父のために涙を流すことのできる真の息子、娘になりたいと願っています。


私たちが悲しいと嘆く前に、お父様が苛酷な鞭を受け、激しい迫害を受け、すべての不条理を耐え忍んでおられることを知るならば、どうして私たちが父の前で自分を弁明できるでしょうか?父の前では自分中心で悲しむ条件はないということを知ったのです。ですから、今日ここにいるあなたの息子娘たちをどうか憐れんでください。


故郷を目指す旅路がどれほど哀れで、悲運で、不幸なものであるかを知りました。お父様、私たちが自分を抱きしめて泣く前に、お父様が先に泣かれたことを知りました。私たちが打たれる前に、お父様が先に打たれたことを知りました。私たちが苦しむ前に、お父様が先に苦しまれたことを知りました。私たちが痛む前に、お父様が先に痛まれたことを知りました。そして、私たちが倒れる前に、お父様が先に倒れられたことを知りました。


これを知り、お父様に向かって言葉もなく進み続けるしかない自分自身を発見しながら、天の前で頭を垂れて「お父様」と呼ぶことのできる息子娘たちを、天はどれほど待ち望まれたことでしょうか。今日のこの言葉を通して、私たちの心にそのような感情が湧き上がることを許してください。そして、この国に対して、世界に対して、天に対して、そのような感情が湧き上がることを許してください。


そのような感情が湧き上がってこそ、個人から全世界的な理念圏に至るまで、自信を持った信仰を持っていると言えるのです。また、自らの理念を立てるための最高の心情を持つ天の立場に立つことができると知っています。そのような環境の道を切り開いていけるように、私たちの心を奮い立たせてくださいと、切にお願い申し上げます。


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今日のこの御言葉を通じて、これまでの人生の旅路で悲しみに暮れていた自分を省み、真の幸せに浸って生きることができるようにしてください。そして、自分の一身が天と結ばれている縁を高く評価し、謙虚に頭を垂れながら父の栄光を高めることのできる子女となることを許してくださいと、切にお願い申し上げます。


すべてをお委ねいたしますので、この者たちの命とその全生活、また彼らが持つすべての理念に至るまで、父の心情に背くことがないように、導き、統治してくださいと切に願い、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。





先生の「言葉選集」7巻 - 2. 父と私(1959年7月12日)
1959年7月12日(日)、前本部
ヨハネの福音書 14:1-19


<祈祷>
お父様! 30年以上の生涯、イスラエルの選ばれた民であることを誇りに思うユダヤの民を相手にしなければなかったイエスの心は、その民に平和と自由を実現させようという心情が消え去っていたことを、私たちはかすかにでも思い出にはいられません。


4千年の間、一人息子のために努力された父は、イスラエルの民とともにの苦悩の歴史を歩まれてきました。そして流れられた血と汗の跡は、イスラエル民族の歴史に深く刻まれています。



そのように苦労な苦労をなさり、血と汗が流れなかったのに、その当時のイスラエルの民が天と関係を結ぶことができなかったという事実は、無限に近づいて、心を痛いことこの上ありません。


今日の私たちは、過去の歴史の中で地上に来られたイエス様の存在を知り、信じています。しかし、その当時、イスラエルの民に追われ、迫害されていた悲惨なイエス様、ある村から追い出せば別の村へ、この町から追い出せばまた別の町になってしまったイエス様とその心情を知り、信じる者は誰もおりません。表されたイエス様の姿を正しく知る者は、歴史上においても見出すことができないのでございます。


メシアを待って待っていたイスラエルの民は、メシアを迎えるというを迎え、数千年間耐え忍び、戦い続けてきました。そして、メシアがいつ来てもかかと切に待っていました。その希望のしるしが現れたとき、彼らは自分の事情や置かれた環境に執着するあまり、天の心情を理解することができず、深い眠りに落ちてしまったことを、私たちは思わずにはいられません。


このような悲しみを嘆くべき歴史があったことを振り返りながら、今日、私たちには、父なる神の心に深く刻み込まれた覚悟を晴らす責任があるとするならば、来られたイエス様を認めるなかったイスラエルの罪過を、私達が知って背負い、我慢して出来るよう協助してください。


イエス様は、悲しみに満ちた30年以上の生涯を送られました。 特に、その中でご自身の全てを尊重された3年間の公生涯がありましたが、その期間において、誰がイエス様また、誰がイエス様の置かれた苦しい状況を真に知っておきましたでしょうか。 残念ながら、誰一人としておりませんでした。


師が死の道を歩むことを案じ、切なる心情で天にすがりつつ祈りを求めるべきであった弟子たちが、実に『イエス様とは一体誰なのか』と問い返すような状況になりました。そのような状況の中で、3年間の御業が無駄に終わったと感じられたはい様の心情は、争いの悲しみと悲しみに満ちていたことでございます。 もし対立があるとすれば、これ以上の悲しみが他にもあるのでお願いします。 また、心が裂けるような痛みがあると「もしそうだとしたら、これ以上の痛みがどこにあったでしょうか。


奇跡を行われたイエス様を崇拝し、仰ぎ見て敬うことのできるクリスチャンはお控えください。しかし、迫害され、踏みつけられ、押しのけられたイエス様のその足跡に寄り添い、その道をたどりながら生きようとするクリスチャンはほとんどありません。


お父様、哀れみ深いイエス様の心情を抱き、その心に寄り添って立ち上がることのできる息子娘達がこの全世界の中から多く現れよう私達は血の涙を流しながら願わずにはいられません。


生きていて、歴史の中で全てを操り導いておられるお父様、私たちに静かに進むべき道を示してくださることを心より感謝申し上げます。


お父様、どうか私たちが過去のイエス様をただ懐かしむ者に留まることなく、この時代に生きるイエス様を証し、その使命を担いながら歩む者となることができますように。御心に誓うために努力し、決意しながらも真実にその道を追い求めていけるよう、私たちに力をお与えください。

今、私たちが、かつて父なる神様のもとへ向かわなければならなかったイエス様の深い心情を理解し、その心情の前に謙虚にひれ伏すことができるようお考えください。喜び、切に望まれたことが仮にあるなら、それを実現できる者となれるよう私たちに寛容を与えてください。


2千年前、全人類の生命問題を解決するために深く苦しみましたイエス様の心情に接し、その心情と一つになれる息子や娘となれるよう、お父様、心からの願い切に求めます。


死の世界の中で孤独な心情を抱え、もがきに立ち会いながら集まったあなたの息子娘達、今座っているその場で深く悔しい思いをしてもできるようお許しください。生命の力を与えてください、過去のすべての誤りを否定し、天と新しい縁を結ぶことができるこの時にお与えくださいますよう、お父様へ心からの願いを求めます。


お父様、人間に直接語りかけたいと願われるその御心は、今後切実で深いものでお願いします。 、私たちの心の扉を開き、身体のすべての感覚を新たに、お父様の世界にあるすべての真実を体験させてください。そして、あなたの深い心情を慕い求めることができるようにしてくださいください。


どうか、私たちが善なる御旨に浸りながら心から父なる神様を呼び求め、御言葉によって新たに在り、再創造されるという恵みと喜びの時間をお与えください。切に願います。


お父様! この一時が無駄にならないよう、どうかお導きください。喜怒哀楽を感じる時には共にその心情を感じられるように、またお父様の前で敬虔になる時も同じようにその思いを共有できるようにしてください。


集まった人々は多くとも、この者たちが一つとなり、一つの祭壇、一つの生ける供え物となることができますよう、心から切に願います。


この日も、全人類を代表して尊敬される数多くの祭壇に祝福をお与えください。 そして、困難な状況の中で、心から切実にあなたの隠れた息子娘がいれば、それは深い心に寄り添い、相談相手になってください


さらに、彼らと恵みの縁を結んでください、彼らが命の解決点まで先に進むことができるようにお導びきください。


残された時間も主管して下さいます様にお願いいたします。すべてをお父様に委ねますので、この時間が悪魔に奪われる時間とならないようお守りください。


主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン


<御言葉>
今日、皆さんと考えようとする御言葉のタイトルは「父と私」です。これをもっと大きく言えば「父と私たち」「神と人間」になります。 「父と私」このようなタイトルを持ってしばらくお話しします。


世の中に悲しいことがある時には、子どもが愛する親を失った以上に悲しいことはないでしょう。また、親が愛する子を失った以上、悲しいことはないでしょう。


キリスト教では、人間は堕落したと言っています。それは、現社会を見たり、追及して解明してみるとき、視認しなくてはならない事実です。これは、あらゆる罪の原因となって今日のような結果の社会を築いたと推測することができます。ある曲折が原因となって持って今日の結果的な社会になり、その結果的な歴史路程の上に私が立っていて、その結果的な私自体で悩んでいるという事実を私たちは否定できないでしょう。


悲しみの中で一番大きな悲しみは何でしょうか? 失ってはいけない親を失うことになってしまう悲しみ、失われた親を探す悲しみ、これ以上大きな悲しみがないと思います。親や子どものいない悲しみ、それ以上大きな悲しみは無いと考えることができます。


人類は堕落しましたが、ここには人間と天が介在しています。またそこには、いかなる理念とも一致しない私が介在しているという事はありえません。人間が堕落したことを認めるならばと、堕落と言う事は相対的な関係を確立しなければ不可能であるという事実を否定できないでしょう。わたしが良いと感じなければ良いからです。こういうのが一つから全体まで関係を結んでいるのです。


私たちにとって、いかなる事情によってかもたらされた出来事は多いかもしれませんが、心情に絡まっている問題はただ一つのことです。それは人類が両親を失ったことです。両親を失い、神様が子供を失うことで壊れた縁を再び見つけなければなりません。失われた縁を再び結び、失われた喜びを再び探しだし、失われた幸福を再び見つけなければならないことが、まず最初に私たちが解決しなければならない重要な問題でしょう。


それでは、罪悪歴史であることを知っている私たち、罪の世界に住んでいることを認める私たち、自分の心と体の戦いで悩んでいる私たち、このすべては何で解決されるのか? 解決できずにいます。いかなる理念や観念的な信仰でも解決することはできません。その心情の世界は前後がなく、上下がなく、始まりで終わりであり、終わりで始まりと言えるところです。


人間の悲しみは何ですか?堕落によってエデンで真の主人を失ったのは悲しみです。その縁を失ったのが悲しみです。


私たちを創造した創造者はどんな人ですか? 私たちの心の主人であることはもちろん、私たちの理念や私たちの感情世界の主体格、主人格に立つことができる方であり、さらには私たちの心情の主人であり主体となる方です。私たちには、これらの神が絶対に必要です。私たちの意識や認定によって観念的に必要ではなく、絶対に必要です。そんな主人を失ったのが悲しみです。


絹の主人だけでなく一歩進んで神様はどんな格位におられるのかと言うと、人間の父親としておられます。天地を造られた神様が人間を創造して、主人としてのみおられるのではなく、父親としておられます。「私はあなたがたの父親です」これが父親の生活の中心であり、理念の中心であり、神様が人間を創造された目的であったことを私たちは知らなければなりません。


キリスト教徒は神を父と呼んでいます。父の前に息子娘の姿で立たなければならない人間が堕落し、貧しいお世話になっています。人間を息子娘と呼ぼうとするその父はどんな境遇であり、息子として立つべき人間の姿はどのような形をしているのか。父と呼べる息子と呼べる環境と境遇になっていません。息子が父を呼んでも「来るか、息子。」できず、父が息子を呼んでも「はい、父」と答えることができない曲折の巻内に落ちているこれが堕落です。


この寒い名詞を蹴るために下ってきたのが歴史路程であるのです。神様がいらっしゃるなら、その恥ずかしい名詞を踏んで、これを取り除くために戦って出てくるのが彼の仕事でしょう。


このように考えると、父と呼ぶのは簡単ですが、実体的な父として存在するのは難しく、認識的にはその父親を敬うことができますが、実体的に私のためにおられる父を祀るのは難しいのです。


これは魚人軟膏利尿? 堕落した軟膏です。堕落したため、このような立場に落ちたということです。こういう環境で苦しんでいる私たちですが、このような場でそれでも死なずに生きると戦っている私であることを認めるようになったとき、私とその父親との間隔がどうしても不透明でわからないと感じられます。


私たちは、この世界を造ることができるどんなリーダーがこの地上に現れるのかを楽しみにしなければなりません。この通りを埋め、平らな道を敷くことができる世界的なリーダーが現れるのを楽しみにしておかなければなりません。そのリーダーは私の肉的リーダーだけではなく、私の心情のリーダーだけではなく、私の心身のリーダーであるべきです。彼は時代によって変わる指導者ではなく、革命的な内容だけを内包した指導者ではなく、永遠絶対的な指導者でなければなりません。


皆さんがそのような指導者を考えることもできませんでした。占いの前に自分がどのような立場に立ったのか評価してみなければなりません。


堕落した人間にも感謝の気持ちがあります。このような縁を再び結ぶことができる一人が出てきたならば、これは神様の歴史的な恨を解くことができる方でしょう。


人類を滅ぼそうとするのが天の意ではなく、彼らに生きる道を求めてくれる様に責任を負って貰い、天が摂理の意を立ててくる。この気持ちが出なければならないということです。歴史を数えてみると、これは否定できない事実です。


堕落の世界で苦しむ私たちは、罪ある事自体を悔い改め、これに憤慨しなければならず、堕落当時の事を悔い改めなければなりません。それでは、私たちが目指すべきものは何ですか? 失われた本来の親です。失われた本来の主人、失われた本然の父親を探さなければならないという心情を感じられた人には復帰の道が開かれるでしょう。


そんな者達が、そんな群れが、そんな動きがこの地上にいる子供を求めて迷う神様はそのような群れを通って働かれ、被造万物との縁を結ぶためにご苦労される神様はそのような者達を掴んで投入されることを知らなければなりません。


数千年の歴史の道を経て来る中で、「誰がそうだ」とする事実を万民から聞くことができなかった時には、万民を恨むべきであり、歴史の道の中で聖賢たちがようそのまた、意志を持って立ち上がった聖人の言葉の中にそのような内容を見つけることができなかったとしても、神が存在しなくても否定してもよいと言う事です。


人間を救うために摂理される神様は、私たちの人間の中に住み、私たちの人間が神様の中にあることを楽しみにしておられるということです。それでイエス様は弟子に対して「わたしは神様の一人子であり、あなたたちは私の兄弟」と言われました。また「私が行うのは私の思い通りに行うのではなく、父の思い通りに行うことだ。私が望む国は私の国ではなく、父の国です。私が探している人は私の人ではなく、父の人です。私が住みたい場所は私の家ではなく、父の家です。私が誇ることができる国は私の国ではなく、父の国だ」。それから「天は父です。地は母である」と言われ、人類に対して「私は新郎であり、あなたたちは花嫁」と言われました。


続く


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御言葉選集7(1)

2024年11月30日 16時40分21秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 7 - 1. 故郷を探し求める人生の道
1959年7月5日(日)、旧本部教会


ルカの福音書 15:11-32


1


<祈祷 (Ⅰ)>
死の影の中でもがいていた私たちが、父なる神を慕う心でこの日に再び集いました。どうか私たちの心が父なる神の心に留まることができますようにお許しください。そして、私たちの心と体が父なる神のものとして動けるようにしてください。


父なる神は、無限の労苦をいとわず、時代ごと、世紀ごとにわたり、私たちの祖先たちと共に歩んでくださいました。どれほどのご苦労をされ、祖先たちの道を切り開いてくださったことでしょうか。それにもかかわらず、私たちの祖先たちは天の労苦の功績をないがしろにし、父なる神の心に心配を抱かせる恥ずべき姿をしていたことを、どうかお許しください。


祖先たちが犯した罪が永遠の恨みとして残っていることを私たちは知っています。そして、その悲しむべき堕落の行いによって、6千年もの間、数多くの人類を苦難の中に陥れたことも知っています。私たちは、父なる神の御心を裏切り、嘆き悲しませた歴史的な祖先たちの堕落した心を、再び受け継いでしまうのではないかと恐れています。私たちは、堕落から生じた恨みの峠を越え、祖先たちが残した恨みを踏み越えて進まなければならない時に生きています。どうか今、私たちの心が父なる神の御心に捕らえられることをお許しください。そして、私たちの体が父なる神の体に代わることのできる、栄光のひとときをお与えくださるよう、心から切に願い求めます。


誰が父なる神の御心に一つになり、涙を流して訴えることができましょうか?誰が父なる神の事情を代わりに背負い、戦うことができましょうか?この地上には多くの人々が住み、多様な人類の姿が見られます。しかし、父なる神が胸に抱える事情と御心について相談し合う相手となれる場所も地域も人もなく、そのために嘆きと悲しみの歴史を繰り返してこられた父なる神のことを知る者はほとんどいません。私たちは、このような哀れで無念な父なる神の内なる御心を知っているゆえに、今日、心を開き、事情を打ち明け、すべてを父なる神のものとして接ぎ木する時間を持たせてくださいますようお願い申し上げます。


父なる神よ、私たちのすべてを赦すことのないこの時間を与えてくださり、ただ父なる神と一つに接ぎ木された場所で喜びを享受できる姿となることを、この時間、誠心誠意をもって父なる神の前に訴え求めざるを得ません。


2


この日、愚かで至らない私たちが天を慕い、ひざまずきました。私たちの哀れな事情を知っておられる我が父なる神よ、悲惨な環境の中で共に戦い、支えてくださった父なる神よ、今日、私たちは心を一つにして父なる神の御前にひれ伏しました。どうか私たちを受け入れてください。私たちは父なる神のものとならなければならず、父なる神の御前で導かれなければならないことを知り、心を尽くし、想いを尽くして父なる神をお迎えするために、長年の苦労の道も厭わず歩んでまいりました。そして、困難で苦しい峠道も耐えて越えてきました。


このような道を耐え忍んできたのは、父なる神との縁の歴史を残すためでした。今日ここに集った私たちは、父なる神が探し求める者を無視せず、敵をも排除せず、求める者を友の立場に立たせるために御苦労されたことを知っています。父なる神よ、今日私たちは心を尽くして求めたいと願います。誠意を尽くして探し求めたいと願います。すべてを捧げて父なる神との絆を結びたいと願います。どうか私たちを憐れんでください。求める心を満たし、探し求める願いを叶え、叩く扉の事情を聞き届けてくださいますよう切に願います。


今、足りない私たちが父なる神の御前で待ち望むことがあるとすれば、それは父なる神の御心と共に喜びを分かち合うひとときを持つことです。それこそが私たちの唯一の願いであり、私たちのすべての財産であり、私たちの全生命であることを知っています。父なる神よ、この時間、集まったあなたの息子娘たちを憐れみ、どうかお守りください。


父なる神よ、私たちが進むべき生命の道をお示しくださり、導いてください。今日まで困難の中で私たちを耐えさせてくださり、迫害の中でも耐える力を与えてくださり、倒れそうになる場面でも恨みを残さないように歴史を通じて私たちを支えてくださった父なる神であることを知っています。今日、再び自分の誠意と心情を父なる神に捧げるために集まったあなたの息子娘たちがたくさんおります。どうか彼らの心に直接働きかけてください。そして、彼らの心情の上に再び父なる神が御臨在し、彼らの生命に天の生命が接ぎ木されることをお許しください。


今、心に深く刻まれた恨みを抱きながら、敵に立ち向かって戦わなければならない最後の使命を果たす時が来ました。父なる神よ、どうかあなたの力を現してください。生命の権威を持って私たちの前に現れてください。


3


私たちが死を覚悟して父なる神の恨みを解き放とうとするならば、愛の原則を備えて進むことができるようお許しください。そして、生命の主の御前に立ち、敵に立ち向かい戦う勇士となることができるようにしてください。そのようにして、復帰されたエデンの園において、この地上の多くの生命が私たちを見て生きる希望を見出せる生命の基準を備えた子女となれるようお許しくださることを、心から切に願い求めます。


今日まで信じてきた自分自身の信仰を悔い改める心、自らの行動を振り返り悔い改める心、自分が抱いていた希望を反省し後悔する心、自分自身の内なる心情を笑い飛ばすことができる心をお与えください。そして、自分自身のすべてを否定し、父なる神のものとしてすべてを結びつけ、父なる神を呼び求める栄光の場へと私たちを導いてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、三千里半島を憐れんでください。この地は歴史を通じて多くの民族の前で蹂躙された地であり、敵たちに踏みにじられた地でありました。この地の三千万の民族が血に染まった歴史の恨みを抱いていることを私たちは知っています。父なる神よ、この民族の心情の上にあなたの心情が重なり、この民族の事情の上にあなたの事情が重なり、この民族が望む希望があなたの希望と結びつくように導いてください。私たちが苦しい過去を恨むところに留まらず、目の前に迫る天の時を迎えるために心配し、訴えることができる息子娘となれるようお許しください。愛する父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、天的な歴史が残されており、多くの民族に代わってこの民族を探しに来られた父なる神の足跡が、嘆きと悲しみによって引き返される日が訪れないようにしてください。この地が悲しみの恨みを残さず、この民族がそのような悲しみを抱えないようお許しください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


眠りについている27億の人類は、父なる神がそれぞれの心に灯をともして幸福をもたらす時を準備しておられることを知りません。この人類を目覚めさせなければならない使命が私たちにあり、人類の複雑な事情を解決し、新しい理想天国を建設しなければならない使命、福祉を築く使命が私たちにあることを知っています。今日のこの至らない、不完全で不足した私たちがひざまずき、恐れ多く申し訳ない心を抱いています。この時間、訴える心情を通じて、天上から驚くべき恩恵をお与えください。父なる神が現れてくださり、そうでない心情をすべて取り除いてくださり、私たちのすべてが父なる神のものとして結びつけられ、父なる神が私たちを『あなたの後継者だ』と認めてくださる時間となりますよう、心から切に願います。


4


父なる神よ、ソウルに残っている家族たちと地方から集まった家族たちが、あなたの御前に新しい祭壇を築こうとして集まりました。どうか、あなたの幼い息子娘たちを憐れんでください。語りかけ、慰めたい言葉は多くあれど、語ることができない事情をお知りください。悲しい時も天の御心のために、孤独な時もただこのひとつの目的のために、迫害される時もこのひとつの目的のために、落胆する時もこのひとつの目的のために、追われ、追い詰められる切ない心情を父なる神の御前に訴えるしかない事情を抱えた息子娘たちがここに集っています。


今日、心を開いて父なる神と語り合い、すべての事情を父なる神の御前に打ち明け、解決することができるようにしてください。困難だった事情をすべて父なる神の御前において、父なる神が喜ばれる姿となり、『たとえ自分が死んでもこの道のために純粋な生ける供え物となります』と再び誓えるこの時間となるようにしてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


言葉だけで天の御心が成し遂げられるのではなく、誠意だけでも成し遂げられないことを知っています。御心に深く触れ、天のために歌うことのできるその心を懐かしく思います。すべてを忘れ、天のために夢中で走り回るその姿を懐かしく思います。そのような懐かしい心情を抱き、父なる神の栄光を歌えるひとときと場所があるならば、恐れ多い心情で頭を垂れたいと思います。どうか、私たちのこの切なる願いと切なる心情をご存じくださり、この時間、私たちのもとを訪れてくださるよう、父なる神よ、心から切に願い求めます。


どのような道であれ、実際に通ったことのない者はその道を知ることができず、体験していない者の言葉には命がないことを知っています。この民族が悲惨な境遇に追いやられていることも、父なる神の哀れみ深い御心を知らせるためであることを私たちは知っています。孤独な場におられ、悲しみの中にいらざるを得ない父なる神の御事情を知っており、私たちを迫害の場に置かざるを得ない父なる神の無念さと嘆きの御心を知っています。


今日、私たちの心が父なる神のものとなるよう、どうか私たちの心に訪れてください。私たちの心情に父なる神をお迎えし、共に涙を流すことのできる存在となりたいと願い、この場に来ました。過去を悔いるのは父なる神を知ったからであり、過去の出来事が無念に感じられるのも父なる神を知ったからです。そして、私たちが悲しむのも天を知ったからに他なりません。父なる神はどのような状況であっても私たちを受け入れなければならず、私たちは復帰の恨みを残した歴史を恨むべき立場にあります。このような自分自身を悟り、今日も明日も懸命に走り続け、天だけを頼りに進むことができるよう導いてください。父なる神よ、このような私たちの事情を誰よりもよく知っておられることを信じています。この日、すべてを忘れ、自らの心を束ねて父なる神の御前に捧げる、生ける捧げ物となることができるようにしてください。


5


この日、地方に散らばり、ひれ伏して訴えるあなたの息子娘たちの心に、新しい生命の贈り物をお与えください。そして、彼らを荒れ果てた地のような場所へ送り、生命の灯をともすことができるようお許しください。光と栄光の灯として現れる礼拝のひとときとして受け入れてくださることを、父なる神よ、心から切に願い求めます。


事情はそれぞれ異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情を持つことができるようにしてください。心情が異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情に結びつけてください。父なる神よ、このひとときを導いてくださり、父なる神のもの以外のすべてを取り除いてください。そして、三位一体が喜ぶひとときとして整え、あなたにお捧げすることができるようお許しください。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈祷 (Ⅱ)>


父なる神よ、私たちが祈りを捧げる前に、私たちの心情をご存じであることを信じています。このひとときが、父なる神が直接臨在される時間であることを知っています。天が私たちのすべてを注視している時間であることを、私たちが感じることができるようお許しください。


労苦に満ちた歴史の道を歩まれた父なる神よ、どうか今日、私たちの目の前に現れてくださり、新しい御言葉で私たちを飾り整えてください。新たな心情で私たちに向き合ってくださいますようお願い申し上げます。不忠なすべてを一掃し、幼子のような心で私たちのすべてをこのひととき、父なる神の御前にお捧げしたいと願います。世の中に染まった一切の意識や主義、観念を父なる神の御前に差し出し、幼子のような心、柔和で謙遜な心を持つことができるようお導きください。父なる神の御手によって再び形作られることを受け入れる謙虚な心を整え、御前にお捧げしますので、どうかお受け取りください。三位一体の神がこの場を導いてくださいますように。


悪魔的な要素を持ち、天に逆らう要素として残るものを、どうか一切お許しにならないでください。勝利の盾を備え、悪魔が侵略する場とならないようにしてください。


6


天の軍勢と天使たちに囲まれる中、喜びの心情でこのひとときを礼拝するこの場が、すべての生命を勝利へと導く祝福の祭壇となるようにしてください。心からお願い申し上げます。


すべてをお任せいたします。私たちの持つすべての主義と心情を父なる神の御前にさらけ出せるようにしてください。そして、私たちのすべてが父なる神のものに変えられるひとときとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。






<祈祷 (Ⅲ)>


この時間、頭を垂れるあなたの息子娘たちを憐れんでください。この場で誰が指導者となり、誰が天の御言葉を代行できるでしょうか?この者たちは、父なる神以外の誰も現れることを望んでいません。どうか、父なる神ご自身が直接現れてください。心情を通じて天を体験させてくださり、感じずにはいられない父なる神の御事情を理解することができるようお許しください。また、父なる神の御前で悔い改めずにはいられない心情を持つことができるよう、どうかお働きください。


人間同士が集まる場では、解決しようとしてむしろ絡み合ってしまうことが多いですが、天を中心に集まる場では、心のしこりが解けることを知っています。罪深い子孫のせいで絡み合ったすべてが、根本から解かれる蕩減の歴史、悔い改めの歴史、感動の歴史によって、私たち自身を振り返り、過去を悔い、新しい日を憧れる深い心情を引き起こしてください。そして、その心をしっかりとつかみ、もう一度自らを悔い改める再創造の歴史が起こることを、この時間どうかお許しください。心から願い求めます。


これから御言葉をお伝えしようとしています。この時間、集まったすべての者たちの上に、父なる神の愛と守りの御手を広げてください。語る者の心も聞く者の心も、心情の帰一する一点で動くことを求めます。今日、私たちは身体だけの幸福を望んでいるのではなく、ただ心だけに執着して生きることも望んでいません。ただ、心情をかけて永遠に生きることのできる楽園を望んでいます。日常生活の中でも、心情的な縁のひとつの条件が各自の心の深くから沸き上がり、心情の奥深くに根差す縁が結ばれることをお許しください。父なる神よ、切に願い求めます。


7


父なる神よ、これまであなたの愛する息子娘たちにお与えくださった御言葉は多くあります。この御言葉を中心として心を一つにし、責任と使命を果たすことこそが私たちが進むべき道です。どうか父なる神よ、私たちと共にいてくださり、その歩みの道が遮られることのないよう守り導いてください。この御言葉を通して、父なる神の内なる心情にふさわしい結実を得ることができるようお助けください。さもなくば、与えられた御言葉によって天の御前に後悔を残す息子娘となるのではないかと恐れる者となることを許してください。父なる神よ、切に願い求めます。


この日は聖なる日です。すべての人々の上に祝福の恩恵をお与えください。御心を代わりに担い、心情を抱いて天の御前に訴え、隠れた祭壇を築き祈る息子娘たちが多くいることを知っています。どうか彼らにも祝福をお与えください。また、天の孤独な心情を抱き苦しむ者、蕩減的な解怨の日を待ち望む霊界の多くの霊人たちも、私たちと関わりがあります。父なる神よ、彼らのためにも私たちを通じて良い結果をもたらしてください。


三位一体の神が私たちを取り囲み、見守り、待ち望むその心情の基準に私たちが不足しているならば、その責任を満たさないまま父なる神を呼ぶことのないように導いてください。私たちの責任が満たされた場で「父なる神よ」と喜びを持って呼ぶことのできる者として、この時間私たちを立ててください。そのような恩恵を持たないならば、幼子のように柔和で謙遜な心を持ち、父なる神の憐れみと慈悲の心情を引き寄せる息子娘となれるよう、この時間導いてください。心からお願い申し上げます。


この日、地方に散らばる家族たちにも祝福をお与えください。多くの命が天の時を憂い、訴えています。どうか彼らの前にも生命の恩恵を許してくださいと、切に願い求めるこの時、すべての祈りを主の御名によってお捧げします。アーメン。






<御言葉>


皆さんと一緒に考えてみたい御言葉の題目は、「故郷を探し求める人生の道」です。「故郷を探し求める人生の道」という題目でお話しいたします。今日の御言葉は、そのような内容になります。


8


現在、この世界の人類は平和を切望しています。それだけでなく、自由を享受する個人となり、自由な社会、自由な国家、自由な世界で生きることを、誰もが望んでいます。


私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真の幸福は存在し得ません。真実の人生の道を歩みたいと願う人がいるならば、その人は真の平和の中で真の自由を謳歌し、真の幸福を享受したいと望むことでしょう。


では、皆さん自身と真の人生の道を歩もうとするこのような理念的な条件を比較してみると、どのような立場にいるでしょうか?これが対立しているのか、それとも一致しているのかをはっきりさせるべき時が、終わりの日ではないかと考えます。


今日、優れた人もそうでない人も皆口をそろえて、この世界は平和な世界ではないと言っています。自由を叫んでいますが、心の底から自由を感じて生きられる環境ではないことを認めています。そのため、私たち人間は理念的に望む幸福な自我にはなっていないという事実を否定することはできません。


このような自分、このような私たち、このような社会、このような世界、そしてこのように歩んできた歴史の道、このように歩んでいる現実について、私たちはあまりにもよく知っています。


9


これを認めるならば、私たち自身は、自分が喜びを見出せる故郷の世界で生きているわけではなく、自分が幸福を謳歌できる故郷の園で生活しているわけでもありません。また、自分が考える通りに動き、主導できる本来の世界で生きているわけではないということに、誰も反論できないでしょう。


それでもなお幸福を願い、平和と自由を望まなければならない私たちの心の動きが、自分自身を急き立て、環境を急き立てているという事実を、皆さんは日常生活の中でよく感じていることでしょう。


このように内面的にも外面的にも、私たち人類が望む故郷の世界はまだ実現しておらず、人類がその世界で生きることもできていないため、今日の私たち人類は故郷を求めて彷徨い、苦しんでいるのです。このような状況にある人類であることを、私たちは明確に知らなければなりません。そのため、優れた人であっても故郷を求めて苦しみ、そうでない人もまた同じように苦しんでいるのです。


人間の姿をしているすべての存在は、誰であれ故郷への道を求めてさまよう歴史的な思想の潮流から抜け出すことができていないという事実を、この時間、皆さんは感じるべきです。


そこで今回は『故郷を探し求める人生の道』という題目でお話を進めたいと思います。


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これまでこの地上には、聖賢や賢哲たちが現れ、人々に人生の進むべき道を教えてきました。「このように進みなさい」あるいは「このような主義の中で生きなさい」と方向性を示してくれたのです。その中には、哲学が目指す方向性もあれば、ある権力者が掲げた理念による道もあり、また社会的な倫理観を通じて示される道もあります。さらに外的な世界を引き込んで、そこに永遠の理念を結びつけようとする宗教的な方向性も存在します。大きく見ればそのような道があり、小さく見れば「個人を中心に進むべき道」「家庭ではこうすべき道」「対人関係における在り方」といった方向性もあります。


しかし、これらすべては、全体的で天宙的な理念が目指す幸福の時を準備するために動く位置にあるべきです。そのような位置に立つことができなければ、それらすべては天倫を明らかにし、天の御心を完全に立てるその日には、必ず天倫に違反する立場となるのです。


では、宗教が進む道、倫理を中心とした道、あるいは哲学が目指す真理の道において、どのようにして幸福の世界を紹介し、平和と自由を見つけるべきでしょうか?


人間の心情は、誰もが同じです。数千年前に抱かれていた心情も、億千万年後に現れる心情も変わりません。心情の世界には進化がありません。


同じ基盤で動く心情を引き出し、幸福の園を築くことができる世界、幸福を感じられる社会的基準、幸福感を味わえる宗教的意識、そのようなものがこの地上に存在しないのでしょうか?もし存在しないと断定するならば、神はどこにいらっしゃるのでしょうか?そのような場合、その神は人類と共に存在することができないという結論に至るでしょう。


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しかし、人類を抱えながら摂理を進め、倫理と道徳を立てて善を目指すように導く天倫があるならば、天は必ず私たちと関係し、結びついたすべてを明らかにしてくださるだけでなく、さらに男性も女性も誰であれ、これを心情的に肯定できる日が来るはずです。そのような場において調和し共鳴しながら、この幸福が私たちの幸福であり、この平和が私たちの平和であり、この自由が私たちの自由であると、声高に語れる時が訪れるべきなのです。それがなければ、神も、どれほど偉大な思想家であっても、私たちとは何の関係もないという事実を知らなければなりません。


私たちが人間を分析する際、内面と外面の両方から分析することができます。同様に、社会の実情を見極める際にも、表に現れる社会の組織と、表に出ていない計画された組織があるということです。このように、すべてのものが内と外の両面から展開されているのです。


人間も同様です。人は外的な事情を持ちながら生きると同時に、内的な事情も抱えて生きています。そのため、お互いに内外の事情が通じ合い、同じ立場で心と心が通じ合い、幸福を歌える環境が必要です。そして、その環境を求めて彷徨うことが、私たちの人生の道のりであると言わざるを得ません。


これまでの歴史の過程で、多くの聖賢や賢哲たちが現れては去っていきましたが、自分の人生の道を歌いながら勝利的なスローガンを掲げ、「万民よ、このように進め」と訴えた人は一人もいませんでした。また、「私を頼りにし、私の心情と共に、私の愛と共に、このように生きなさい」と言った人もいなかったのです。


イエス様も愛について語られましたが、愛を中心とした幸福観、愛を中心とした平和観、愛を中心とした自由理念については解き明かすことができませんでした。「私についてきなさい、私を信じなさい、私を見つめて進みなさい」とおっしゃいましたが、ご自身の心情を明かし、「私の心情と共に天の情を中心として歌いながら生きよう」とはおっしゃいませんでした。


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そのため、時代を超えて多くの先覚者たちが歴史上に現れましたが、心情を中心に幸福を享受できる内容を紹介することはできませんでした。また、天の心情と通じる自由と平和の世界観を中心として、世界を和合させる喜びの内容を提示することもできなかったのです。


それでは、人類が切望する場所とはどこでしょうか?先ほど申し上げた通りです。それは「故郷の世界」、すなわち一度そこに行けば永遠に戻りたいと思わない世界、何度見ても飽きることのない世界、一度感じた感触が永遠に消えない世界、笑いがあれば永遠に笑い続けられる世界。その世界で主人を見つけたなら、その主人を決して手放したくないと思える世界です。そのような場所が存在しなければなりません。


そのような場所こそ、心情を持つ人間一人一人が住むべき場所であり、そのような故郷が人類歴史の終末期において紹介されるべき場所です。それがなければ、今日のこの世界はどれだけ収拾しようとしても収拾がつかないということです。すべてを説明できるような理念や主義を、論理的観点から打ち立てる必要がある時代が近づいているという事実を、皆さんは理解しなければなりません。そのため、私たちは永遠に生きられる故郷の世界、故郷の地、故郷の兄弟、故郷の家族、故郷の親戚、そして故郷の園を懐かしく思うのです。


では、今日、皆さんの中で『私はそのような故郷を見つけた』と断言できる人がいるでしょうか?いません。だからこそ、私たちは必然的にその故郷を探し求めなければならない運命にある存在なのです。


イエス様もこの地に救い主として来られ、『私についてきなさい』とその道を示されましたが、『私と共に暮らそう』と言える故郷の園を築き、それを実現してから去られたわけではありません。神もまた、人類を導いてこられましたが、今日のこの場で『私と共に暮らそう』とおっしゃるのではなく、『私たちが切望する故郷の園に行き、共に住もう』と言われ、そのような摂理を進めておられるのです。


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神がそのようにされたように、また神の子であるイエス様がそのようにされたように、この地上に生きる今日の私たち一人ひとりも、同じ運命に置かれているのです。


故郷を望みながらもがき歩んでいる皆さん、その日を迎え、喜びを感じたことがあるでしょうか?その日を迎えて『私は幸せだ』と歌った人がいるでしょうか?そのような人は今まで一人もいませんでした。神はそのような日を楽しむことができたでしょうか?神もまたそうではありません。では、その日を迎えさせてくれるような主義があるでしょうか?それもありません。天もそのような日を楽しむことができなかったのです。それが天地の現実なのです。


ゆえに、天地の運命を逃れることができない良心を持つ人間は、共通の目標と理念の下で方向を見つけていく過程の心情を体験することになっています。そのため、皆さんも進めば進むほど幸福への想いは切実になりますが、幸福そのものは皆さんから遠く離れ、さらに遠ざかっていくことを知らなければなりません。皆さんが自由や平和、幸福を心から切望し、それを目指して懸命に進んできたとしても、実際にはそれは掴もうとしても掴めない遠いところで、ぼんやりとしたものとして皆さんの心の世界に映っているだけなのです。


ここで私たちは、どうしても進まなければならない過程の現実を乗り越え、幸福の故郷を歌える存在となる必要があります。そしてその後に、万物と共に調和し、共に歌い、共に幸福を分かち合えるその日を迎えなければなりません。それが歴史の目的であり、どのような宗教があってもその宗教の目的です。また、創造主が存在するならば、その創造主も同じ目標の下で人間を導いているのです。そのような摂理の範囲から外れることのできない人間である以上、どのような個人であっても同じ方向に進まざるを得ないのです。


優れた人もそうでない人も、皆が同じ人生の道を歩んでいるこの状況の中で、皆さん、自分が優れていると誇らないでください。その環境が良いと自慢しないでください。その持っている力が強大であると誇らないでください。それらを持ってしても人生の道を解決することはできませんし、故郷の世界を解決することもできません。なぜなら、今日の人類が目指している方向性は、人間によって作られたものであるため、それでは解決されることがないからです。このことを知る必要があります。


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天がこのような立場で摂理を進めてこられたとしても、道理や真理の面で私たちに方向を示してはきましたが、心情を中心として私たちの進むべき方向を教えてはくれませんでした。心情の面で、実生活の中で実感できる幸福、日々の生活の中で肌で感じられる平和と自由を示してはくれなかったのです。そのため、神の摂理は人間にとってこれらを遥かな希望の一点として見上げさせるものとなっていたのです。


このような運命から逃れることができない私たちの立場において、優れた人もそうでない人も、悲しい時も嬉しい時も、一日の生活の中で自由があるかもしれません。あるいは一年の生活の中で感情の自由があるかもしれません。そして、生涯において生活の感情的な自由があるかもしれません。しかし、自分を中心として流れている歴史的な心情、生活、理念、価値観においては、皆同じです。天はそのように見ているでしょうし、そのように見なければならないのです。


だからこそ、この人を見ても哀れに思い、あの人を見ても哀れに感じるのです。この哀れな人類を前にし、その哀れな自分自身の姿を教えることができる人が必要な時代が来ました。「自分自身の哀れさを嘆け、自分の哀れな姿を見て涙を流せ。天と地を抱えて泣け。自分が歩む道の終着点はどうなるのか?移り変わる環境の結果がどのような内容を持ち、目的地に到達するのか?」このような問題を解き明かし、「自分自身のことを憂いなさい」と言える指導者が現れるべき時が来たのです。


これまでの歴史時代において、革命的な新しい文化を創造していく過程で、時代を越え、世紀を越えて、新しい理念、新しい目標、新しい幸福、新しい自由、「新しい」とされるさまざまなものを持ち込んできた多くの人々は、時代の壁を越え、哀れな自我を解き明かすために努力してきました。しかし、彼らはその時代に影響を与えた使命者であり、特定の時期や時代に必要とされた使命者に過ぎませんでした。


今日の時代は、新しい世界的な主義の時代です。ですから、今こそ世界の人類を取りまとめ、世界人類の模範となるべき存在が必要です。そして、「あなたたちは行くべき場所を知らず、立ち止まっていることを悲しみなさい」と訴える存在が現れる必要があるのです。


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イエス様は2000年前にこの地に来られ、ご自身が神の子であると語られました。しかし、その時、選ばれた民として誇っていたユダヤ人たちは、4000年という長い歴史の中で数多くの預言者の恩恵を受けてきたにもかかわらず、待ち望んでいたメシアが現れたことに気づくことができませんでした。そして、イエス様を十字架に送った後になって初めて、彼がメシアであったことに気づき、悲嘆に暮れる立場に追いやられたのです。


それでは、イエス様を救い主と呼びますが、彼は当時の人類の前でどのような救い主であるべきだったのでしょうか?「あなたたちの悲しみを私が引き受けよう」と自信を持って言える救い主であるべきでした。そのためにイエス様はこうおっしゃいました。「すべて疲れた人、重荷を負った人は、私のところに来なさい。私はあなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)これは感謝に値する、素晴らしい御言葉です。その一言は、人類にとって偉大な先覚者の言葉でした。


悲しい心情を抱え、焦燥感を持ちながら自分自身を解き明かそうと努力している若者たちが、この一言を聞いたならば、手を高く挙げてその前に進み出るでしょう。そして、「2000年前に来られて御言葉を残してくださったイエス様、ありがとうございます。イエス様を通して御言葉を授けてくださった神様、ありがとうございます」と感謝するでしょう。また、この精神と思想の流れから生まれた御言葉に対しても感謝を抱くことでしょう。


今、私たちには、この世界を担い、この民族を担い、そして心情の問題を引き受け、その重荷を解き放つことのできる一人の主人が必要なのです。このような背景があるために、イエス様は再び来ると約束して去られたのです。


イエス様がこの地に来られて成し遂げられなかったことは何でしょうか?それは、人類のすべての十字架の重荷を引き受けるために来られたにもかかわらず、人類の心情的な重荷を引き受けることはできなかったということです。そのため、今日、全世界の人類は心情的な重荷をイエス様のもとに再び委ねることを願いながら、『主よ、どうか早くおいでください』とイエス様を待ち望んでいるのです。


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だからこそ、歴史的に悲惨な環境に置かれている自分自身、私たちが生きているこの世界、そして流れゆく歴史に対し、「あなたたちの悲しみを知りなさい、あなたたちの哀れな姿を知りなさい、あなたたちの切なさを知りなさい。そして、こうしなさい」と語りかける何かが必要な時が来たということを知るべきです。


私たちは未知の人生の道を歩んでいるため、どこへ向かっているのか、どうなるのか分からないという恐怖が内在する世界の中で生きています。では、私たちが進む道の目的地はどこでしょうか?その道がどのようなものなのか、説明することができないまま、私たちは人生の道のりを歩んでいます。無鉄砲に引きずられるように進んでいるのです。しかし、その道中で岩にぶつかるのか、それとも崖から落ちるのかを知りながら進むべきです。皆さんがそのような状況に直面したら、どのような気持ちになるでしょうか?心がかき乱されるでしょう。


皆さんの中には、40年、あるいは70年、80年の人生を歩んできた人がいるかもしれません。「私は幸福を見つけ、幸福だ」と自慢する人がいるかもしれません。しかし、このような人生の道を突破した人は一人もいないでしょう。だからこそ、私たちは皆、哀れな存在なのです。


それゆえ、私たちは自分のこの哀れな状況をつなげ、世界と通じることのできる哀れな状況を抱えた方を探さなければなりません。また、自分に何か孤独があるなら、その孤独が世界と結びつき、何とも言えない息苦しさやもどかしさが心の中に深く刻まれているなら、その切ない心情が世界と通じる場を探し出さなければなりません。そして、それらすべてを解き明かし、私の不幸、私の哀れさ、私の孤独、私の恨みを引き受けてくださる方を見つけなければなりません。さらに進んで、私が待ち望んでいる理想の世界を紹介してくださる方、幸福と平和と自由の世界で永遠に感じたかった心情を満たしてくださる方、その心情が永遠性と結びつき、存在するすべてのものと共に堂々と幸福を生み出すきっかけを与える主体となる方に出会えたなら、その人は人生において成功者と言えるでしょう。


悲しい世の中でそのような一時を感じ、体験させてくれる方こそ、イエス様であり、神でなければなりません。私はそれを信じ、知っています。そして、今日の皆さんも、自分が「知っている」と思って歩んでいるその足跡を見直し、避けて通れない時期を乗り越える秘訣を教えてくれる方を見つけなければなりません。


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そのためには、自分が置かれている状況を通過し、自分の抱えている希望の基準を超えて事情を理解し、心情を整理できるだけでなく、その内容的な問題を解決してくださる神であって初めて、安心して信頼することができるのです。


また、そのような心情の理念を備えて歩むことで、苦しい人生の旅路で悲しみに直面しても、その心情の世界から生まれる感情を抑えることができるのです。どれだけ打ちのめされても、さらに強くなり、天を裏切ることのない何かがあるならば、それは心情の絆から生まれる何かであり、それがある限り、地獄の最深部に追いやられても征服されることはないでしょう。そのような場所が必ず存在しなければならないのです。神が人間に対して摂理を進められる方向は、そのただ一つの場所、すなわち本然の園を目指しているのです。


このように、歴史を支配する神の摂理は、数多くの曲折を経てその基準を定めてきました。そして、それに従うべき人間もまた、多くの苦難を経て初めてその基準の前に立つことができるのです。それは、存在するすべてのものが目指すべき一点として、存在世界の中で位置づけられているということを私たちは知るべきです。この道を歩まなければならない私たちは、哀れな存在です。


「故郷」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?故郷には必ず愛する親がいて、愛する村があり、愛する家があり、愛する兄弟姉妹がいます。私たちが故郷を離れて遠く異国に行くとき、その故郷の範囲は広がり、祖国、つまり国そのものが故郷となります。また、宇宙や天宙という観点から見るならば、この世界全体が私たちの故郷になります。このように、視野が広がれば広がるほど、故郷の範囲も比例して大きくなっていくということを、皆さんはさまざまな生活の中で感じていることでしょう。


それでは、私たちが望む「本郷」とはどのような場所でしょうか?皆さんが「ここが私の故郷だ」と言うような場所ではありません。本郷、心の本郷とは、心が喜びを見出し、心情の安息所となる場所、心情世界の巣となる場所です。このことを知るべきです。


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私たちは神が人間を探し求める過程を「救いの摂理」と呼んでいます。天が私を見つけ出し、人類を見つけ出すというのなら、私は神にこう言うでしょう。「状況的な条件ではなく、心情的な条件によって私を見つけ出してください」と。それはなぜでしょうか?状況というものは千差万別であるのに対し、心情には唯一の条件しかないからです。このことが、真の信仰観を求める人々の姿勢ではないかと思っています。


イエス様はおっしゃいました。「天国はどこにあるのか?あなたの心の中にある」と。では、自分の本当の本郷はどこにあるのか?それは生活の中ではなく、心の中にあります。天国は心と縁を結ぶことのできる歴史的な背景があるため、私たちは心を通してその本郷を懐かしむのです。心に感じる感情と共に、断ち切ろうとしても断ち切れない縁が絡み合っているため、その本郷が懐かしくなるのです。だからこそ、私たちの人生の旅路において、本然の心と縁を結ぶことのできる本郷の生活を送らなければなりませんし、本郷の園を感じなければならないのです。


では、そのような場所、今日私たちが住んでいるところではない、歴史が望んできた真の幸福の園とはどのような場所でしょうか?また、真の平和と真の自由を紹介できるその本郷には、誰がいるのでしょうか?考えてみてください。その本郷には誰がいるのでしょうか?そこには、偉大で尊厳に満ちた神がおられるでしょう。また、私たちが待ち望んできた主がおられるでしょう。そして、聖霊がそこにおられるでしょう。また、歴代の摂理史の中で現れて去っていった多くの功臣たちもそこにいるはずです。そうではありませんか?さらに、世界中の誰とも比べることのできない忠臣たち、そして孝子や孝女、節婦たちがそこにいるでしょう。しかし、皆さんが心の縁を広げ、理念的な感覚を持たないならば、その世界と縁を結ぶことはできないのです。


だからこそ、堕落した人生の道を歩む哀れな人間たちに対して、多くの聖賢たちは三綱五倫などの倫理を教え、モーセは十戒を示しました。また、多くの道を歩む者たちも、その一端を切り開くために努力してきたことは間違いありません。しかし、人類が故郷への道を進む上で、心の畑(心田)を開発する使命を持たない指導者、そのような宗教、そのような倫理、そのような理念は、この宇宙から退場させられるでしょう。退場しないと言っても、神が退けるでしょう。


皆さんは故郷を懐かしみ、その故郷を探し求めています。私たち人間が具体的な存在として、遥か彼方の故郷を目指して進んでいるとするならば、皆さんはその旅路のどこかの地点にいるでしょう。地獄の最底辺から天国の最果てまで、その道のりとは何か?それは故郷を探し求める道のりです。この道が故郷を探し求める旅路であることを知るべきです。


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もし皆さんの中に、70歳、80歳になり老いを感じている人がいるならば、自分自身を振り返って、「私は故郷の園からどれほどの距離にいるのか?」ということが心配の中の心配であり、憂慮の中の憂慮であるはずです。それでは故郷とはどのような場所でしょうか?それは、その場所を訪れた人を喜びの腕を広げて迎え入れてくれる場所です。その場所が懐かしいのです。


故郷を探し求める旅路では、不当な事情や痛ましい出来事、あるいは耐えがたい立場に立つこともあるでしょう。しかし、故郷を求めて進む者である以上、そのような事情は必然的にあると理解している人ならば、その道を引き返すことはないでしょう。そして、先祖たちが築いてきた歴史的な功績を無視することもできないでしょう。また、私たちの人生の道を切り開くために努力している指導者たちの功労も無視することはできないでしょう。


私たちは進むべきです。年を重ね、体力が衰える前に進むべきです。私たちは人生の旅路を切り開かなければならない存在です。ここで問われるべきは、「変わらない毅然とした姿勢を持ち、心情と心の中心を備えているか」ということです。この問いこそが、今日の皆さん自身が立ち向かい、答えなければならない中心ではないでしょうか。イエス様もこれを指摘して、『天国はあなたの心の中にある』とおっしゃいました。


本郷、それは懐かしい両親がいて、懐かしい兄弟がいて、懐かしい山河がある場所です。私たちが本郷を懐かしく思い、そこを目指して進むならば、喜ばない存在物は一つもない場所です。その場所を目指して歩む自分自身を振り返ると、「今日の私の生活は何と哀れなのだろう」「今日の私の人生の道は何と惨めなのだろう」と感じることでしょう。しかし、本郷を目指して進む道中である以上、無念さがあり、悔しさがあり、涙を流しながら生死を分ける決断をしなければならない瞬間があるとしても、本郷を想うその心を忘れて倒れてはいけません。これが私たちの人生の道であることを忘れてはならないのです。


すべての聖賢たちは、本郷を目指す道中で心と理念の世界をさまよいました。彼らはその世界を見つけるために、まず人間的な事情をすべて捨て、人間社会で情によって結ばれていたすべての環境さえも断ち切り、もがき続けました。私たちの先祖たちを挙げるまでもなく、天を代わって歩んだ預言者や聖賢たち、さらにはこの問題を解決し本郷を探し当てることを目標として来られたメシアであるイエス様も、この道を歩むために苦しみ抜きました。


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イエス様は、反対されて押しのけられていたわけではありません。反対や迫害が恐ろしくて静かな山河を訪れ祈りに逃げたのでもありません。ローマの圧政が怖くて、十字架の道が恐ろしくて、自らが歩むべき人生の道を引き返そうとされたのではありませんでした。イエス様は、必ず行かなければならない人生の旅路において、どのような状況においても進み続け、どれほど哀れな立場に置かれても進まなければならないと覚悟された方でした。


イエス様は、このように本郷の心情を感じ、本郷の事情を理解された方でした。そして、本郷が歓迎する主人公としての役割を果たさなければならないメシアだったのです。ですから、イエス様は本郷が懐かしくなればなるほど、その心の世界で本郷の世界が近づいていると感じれば感じるほど、悲惨な心情を耐え忍んで歩み続けられたのです。もし敵や悪魔がいるとするならば、この道を進む過程で最終的な決戦があることを私たちは知らなければなりません。


だからこそ、故郷への道を目指さなければならない世界的な新しい理念世界に直面している民主陣営の前には、望まない敵の槍や剣が立ちはだかることでしょう。しかし、それがどれほど妨げとなったとしても、民主陣営は天と地の運命の方向に従い、勇敢に進まなければなりません。


したがって、今や民主陣営は世界的な決断を下さなければなりません。一つの国家も決断を下さなければならず、民族や社会の機関だけでなく、一個人もまた決断を下すべきです。そして、故郷への道を進むにあたり、自信を持てる姿を備えなければなりません。天もそのような人を求め、またそのような家庭、社会、国家、そして世界を求めてきたことは間違いありません。


私たちが待ち望む再臨の日が来るとしましょう。理想が実現するその日が来るとしましょう。その日はどのような日でしょうか?傷つき、追いやられ、疲れ果てた足を引きずりながら、天の情を求めて故郷への道をもがきながら歩むその姿を見て、天はどのように対応するでしょうか?


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皆さん、考えたことがありますか?私はこんなことを考えました。「哀れなお父様が笑顔になれるその一瞬を見たい。私が慕い、しがみつきたかったその心情を理解し、私を抱きしめて共に涙を流してくれるお父様に会いたい」と。その時、その心はどのようなものになるでしょうか?


人生の道を歩む中で、他の誰よりも悲惨な環境で傷を受け、不当な扱いを受け、無念さを感じながら、それでも自分のためではなく、父のために、故郷を求めてその道を歩み続ける人がいるならば、天はその人を抱きしめて共に慟哭するでしょう。


私たちは故郷を求めて彷徨っています。進まなければならない運命の道のり、避けて通ることのできない過程にとどまっている存在です。どれだけ自分が賢く、優れていると豪語する人がいたとしても、『万民よ!全宇宙よ!私の言葉に従え』と堂々と言える人がいないことを私たちは知っています。


では、今日、この人生の旅路で故郷を目指す足をどこに向けるべきでしょうか?そこは、真実の愛の父母がいて、真実の愛の情を分かち合える巣のある場所です。その場所が、私たちが留まるべき場所であり、私たちが安息を得るべき場所です。また、その場所が、幸福と希望に満ちた平和の世界であり、自由の園となるでしょう。皆さんがその場所を慕う心が強くなればなるほど、この地に対する怒りや憤りの心が大きくなるでしょう。そして、『地上において清らかに生きよう』という決意が強まるはずです。過去の歴史的な偉人たちは、皆そのように生きた人々でした。


今日でも、世間では失った親を探すために千里の道を遠いとは思わずに駆けつけ、愛する人に会うために万里の道を厭わずに探し求める人がいます。そのような人々に比べて、もし皆さんが故郷の園を探す思いに欠けているならば、反省しなければなりません。皆さんの人生の中で、ある時、ある一瞬、ある一期間でも、故郷の道を探して彷徨ったことがありますか?もしそのような思いに無責任であるならば、そうではいけません。


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その道に責任を持ち、その道に責任ある生活の一部を刻むことができてこそ、故郷の歴史を再創造し、故郷の摂理の意図を立てていく天倫の前に、面目を立てることができるのではないでしょうか?そのように歩んだ先祖たちは歴史的な人物となり、そのように歩んだ道主たちは宗教を形成することができたのです。ですから、今日の私たちも故郷の父母を慕い、故郷の山河を懐かしみ、故郷の家庭を恋い慕い、故郷の世界を懐かしく思わなければなりません。そのような時が訪れたのです。


今日の共産主義者たちは唯物史観を中心として世界的な故郷を夢見ていますが、それでは解決できないということです。


皆さん、外的な事情が通じる世界ではなく、内的な心情が通じる世界で出会った人は、その人が黒人であれ白人であれ黄色人種であれ、永遠に手放したくないと思うものです。そのような世界の人に出会い、そのような場所の人を見つけたなら、食べることや着ることを超越して、その感情の中で生きることができるでしょう。


どのような理想主義があるとしても、その主義を通じて、またどのような思想があるとしても、その思想を通じて、どの程度まで感情に深く影響を与え、人を動かす力を持つかによって、その主義や思想が評価され、判断されるのです。


キリスト教の偉大な点は、イエス様を信じた後に心情をさらけ出し、涙を流して通じ合える感情が湧き上がるところにあります。この感情が歴史の過程においてキリスト教の形態を変革してきたのです。キリスト教が変革の段階に入るためには、心情を通じる人が必要であり、また、その人が変わらない心情の中で動くことのできる感情、すなわちキリスト教主義が必要だったのです。


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どのような思想家でも、ある思想に感化され、自分の生活感情を支配し、瞬間を超え、時間を超え、永遠を基準として動くことができる感情を見つけたならば、彼は幸福な人と言えるでしょう。それは天地の歴史観において合格者であり、天倫を動かす天情観においても合格者であると言えます。


ですから、世界的な理想世界を求めて歩む人がいるとすれば、その人は地上の心の世界に安住することはできないのです。歴史を越えて進む旅路において、その人は安らかな生活を送ることができません。偉人たちの人生を見てみてください。すべて同じです。


このように考えると、霊界におられるイエス様もまた哀れな方です。霊界におられながらも地上を抱えて『お父様、地上の人間たちをお許しください』と祈られる哀れな方です。なぜイエス様が神に栄光をお返しする存在ではなく、祈り続ける存在であるのか。それは、地上で歩むべき人生の道をすべて歩み切ることができず、再び来られる運命に置かれているからです。だからこそ、天国ではなく楽園にとどまっておられるのです。


イエス様は神の御心を中心としてご自身だけの心情の中でその喜びを感じることはできましたが、人類と共にその喜びを分かち合うことができなかったことが、イエス様の深い恨みなのです。


では、再臨のその日は何が異なるのでしょうか?それは、神の御心を中心として、人類が自らの心情と共に天に対して喜びを感じる時間を持つことができる点が異なるのです。このことを求めて歩んでおられるのがイエス様の事情であることを、皆さんは知るべきです。


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では、今日の皆さんは、自分の心の世界の中でそのような面を探し求めたことがありますか?『私はたくさん学び、知識が豊富だ。この程度であれば、どこへ行っても困ることはなく、教師として尊敬され、威厳を示すことができる』と自負する人がいるかもしれませんが、大きな声で誇らないでください。


また、『私は学がなく、無知でみじめな存在だ』と言う人がいるかもしれませんが、人生の旅路においては皆同じです。優れていようと、そうでなかろうと、差はありません。


なぜでしょうか?人間が心情を基盤にして動くという点では、皆同じだからです。大統領が子どもを愛する心と、一介の労働者が子どもを愛する心は何ら変わりありません。むしろ、立場の低い人々の方が子どもや配偶者を愛する心が強いことを知るべきです。彼らは自分に対して不足していると感じる心がより強いのです。自分が親としての務めを果たせていないから申し訳ない、夫としての責任を果たせていないから申し訳ない、という心を持っています。しかし、自信満々の人々は、『私はやるべきことをすべてやっている』と言います。


心情的に見たとき、どちらがより高い心情と言えるでしょうか?むしろ立場の低い人々の方が、より高い心情に立つ可能性があるのです。ですから、人生の旅路において誇るべきではありません。


そうした点で、皆さんはその縁と共に、本来の心情と共に、何かを感じ取り、『ありがとうございます』と感謝しなければなりません。イエス様もそのように歩むようおっしゃいました。また、いつも祈りなさいともおっしゃいました。なぜ、常に祈りなさいとおっしゃったのでしょうか?それは、道を外れてしまうかもしれないからです。昼も夜も確信を持って正しい道を歩める人には祈りは必要ありません。祈りは必要ないのです。


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イエス様がゲッセマネの園で祈り、オリーブ山を訪れて孤独な心情を天に訴えたのは、何のためだったのでしょうか?それは、イエス様がこの地に来られた目的である心情を中心に、人類と共に喜びを分かち合うことができたならば、ゲッセマネの園を訪れ、天に訴える必要はなかったでしょう。しかし、それが実現しなかったのです。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか?


故郷を求めて歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持っている人がいますか?もし確信を持ち、心情に浸りながら進むことができる人がいるなら、その人は前に出てみてください。それこそが審判であり、もし神がいらっしゃるならば、審判の日にそのような人を召喚するのではないかと思います。


人生の道を歩む中で、自分に確信を持ち、心情に浸って進んでいった人は、歴史がその人を支持します。イエス様もまた、自分に確信を持ち、神の御心に浸りながら生き、最終的には十字架を背負っていかれました。民族的にも、その民族の運命と進むべき方向を理解し、自分がその責任を果たすために命を賭けて進んだ人々は、忠臣や烈士と呼ばれました。歴史の流れがそのような人々の動きによって進んでいることを否定することはできないのと同様に、天情を求めて進む道もまた同じです。


このような故郷を懐かしく思う心を、誰が止めることができるでしょうか?心から湧き上がるその懐かしさを、誰が抑えることができるでしょうか?どれほど知識を持ち、多くのものを備え、自信に満ち溢れている人であっても、心から心へと新しい何かを目指すこの心を拒むことはできません。


そのような感情を持たない人には、理想的な感情を内包することはできません。そのような感情を切に待ち望み、その感情に浸りながら語る人だけが、今日のどのような主義や思想であっても導くことができるのであり、そうでない人はそうすることはできません。


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では、人類の前に立つ指導者とはどのような人でしょうか?その人は人生の旅路において、自分自身に確信を持つべきです。その確信は、人間の前でだけではなく、神の前で、そして被造物のすべての前でも、自らを立て、神の心情に浸りながら進むことのできる人でしょう。


そのような心情に浸る人がいるならば、誰もがその人のもとに行き、寄りかかって安らぎたいと願うでしょう。そのような内容を備えた人格者がいるならば、誰もがその人を崇拝したいと思うでしょう。それは、本然の心情の発露として、そのような道を進むことが運命であると感知し、その道が必ず進むべき旅路であることを知っているためです。心は常にその方向を目指し、動かずにはいられません。そのため、皆さん、落胆しないでください。そして、誇ることもしないでください。


同じ人生の道を歩む中で、悲惨な姿を見せている哀れな事情を理解し、私たちの同胞がその道で倒れるのを見て涙を流す人は、天に近い人です。兄弟たちが人生の旅路で挫折するのを見て、『お前はいつ来るのか』と心を痛める人がいるならば、その人は心情の指導者でしょう。今日の信徒たちはそのような指導者を、羊たちはそのような牧者を求めています。


そのため、イエス様は人間を見て涙を流されました。『私のもとに来なさい』と涙を流しながらおっしゃいました。また、エルサレムを見て嘆かれました。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者たちを殺し、お前に遣わされた者たちを石で打つ者よ。雌鶏がひよこを翼の下に集めるように、私はお前たちの子らを集めようとしたが、お前たちはそれを望まなかった」(ルカ13:34)と、ご自身の悲しい心情を訴えられました。


今日、この民族を抱きしめたいと願う青年男女はいますか?この民族が進むべき道を切り開き、ある目的地に近づけようとする使命感を抱き、それに対する責任を感じている人はいますか?そのような人がいるならば、その人は、この民族が苦しんでいる現実を見つめ、イエス様が天に向かって訴えながら流された涙が、この民族を支え、今日まで歴史的な縁をつなげてきたという事実を知るべきです。そして、その人もまた、イエス様のように、この民族のために天に向かって訴えなければならないでしょう。


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今日、歴史的な潮流もまた、未来の民族の展望も同様です。人類が天理的な時代を待ち望んでいることを否定できないのであれば、その過程で私たち自身もまたもがき苦しむ存在であることを知るべきです。したがって、自分が歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持つ必要があります。それがなければなりません。


その確信を持ち、希望の故郷を懐かしむ心情に深く浸りながら走り続ける人がいるならば、その人はこう言うでしょう。「山よ、遮れ。海よ、立ちはだかれ。敵よ、現れよ。私の進む道を誰が阻むことができるのか?」と。迫害の風が吹いても、それは一時的なものです。試練の矢が飛んできても、それも一時的なものです。死の恐怖が襲ってきても、それも一時的なものと理解し、その一時を乗り越えるために走る人、さらなる大きな一時を見つけるために自分の小さな人生の一時を忘れて駆け抜けることができる人、それこそが人生の旅路における成功者です。その通りではありませんか?


先ほど述べたように、皆さんが歩むその姿を見て、神が涙を流されることが必要です。そして、イエス様が十字架にかけられて亡くなられた時、なぜ神が顔を背けられたのかを知るべきです。それは喜んで顔を背けられたのではありません。死の道を進みながらも故郷の御心を思い、故郷の父母を気遣い、孝行を果たせないことを恐れるイエスの心情、それに対する天の深い痛みが、骨の髄にまで染み渡る瞬間だったからこそ、神は顔を背けられたのです。そうではありませんか?


そのようなイエス、その心情の究極点が天地を貫く基準に立ったため、死の境界を乗り越えて復活されたのです。皆さんも、そのような心情が動かなければ、死の世界を振り払い、勝利の歓喜を歌うことはできず、勝利の王者となることはできないということを知るべきです。


今日、そのような方をお迎えしようと考えるならば、私たちはもがき続けなければなりません。そのような感情、そのような心情に結びつき、それに浸ることのできる一貫した生活内容を持っていないならば、私たちはもがき続けるべきなのです。歴史の旅路を歩んできた多くの先祖たちももがきました。歴史を導いてきた神もまたもがき続けてこられました。それなのに、私たちがどうして動かずにいられるでしょうか。


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その道を切り開くために、イエス様はこうおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)もし安楽な場所で、すべてが整う天の摂理であるならば、このような言葉は不要ではないでしょうか。


苦しい人生の道を歩んでいく中で、自分では正しい目標に向かって進んでいると思っていても、実際には逆の方向へ進んでいたということです。これが天の悲しみなのです。親が望む方向はこのようなものなのに、子が放蕩者となり、反対方向へ進んで苦しむ姿を目の当たりにする親の心情を知らなければなりません。そのような子どもの姿を見つめる親がいるならば、その親は慟哭することでしょう。


今日、歴史の流れの中で、人間を中心に進んでいく方向、人間たちが進むべき方向は、天が目指している方向ではなく、その反対の方向です。そのため、天はこのような人間たちを引き戻すために、彼らの進む道を阻むことを何度もしてこられました。見てください。神はノアを立てて家庭的な基準を確立し、家庭の正しい理念を探そうとされました。そして、神は人類を滅ぼす覚悟であっても、誤ったすべてのものを阻止し、天が目指す方向にノアの家庭を導こうとされました。しかし、ハムの失敗によってその家庭を完全に取り戻すことはできませんでした。


アブラハムはどうだったでしょうか?故郷を探し求めるために選ばれたノアも哀れな存在でしたが、祖国の地、カルデアのウルを離れ、祝福の地であるカナンを目指して彷徨ったアブラハムもまた哀れでした。そうではありませんか?アブラハムだけではなく、ヤコブもモーセも同じです。しかし、本然の民族を回復するためにモーセをエジプトから荒涼たる荒野へと追いやった神の心情はどうだったでしょうか?


モーセの生活以上に、より深い痛み、より大きな無念、そして嘆きに満ちてイスラエル民族をエジプトから追い出した神の心情を誰も知りませんでした。一体誰がそのような神の心情を理解していたでしょうか?さらに、民族を導いていたモーセが神の心情に浸り変わらずに進んでいたならば、岩を二度打つことはなかったでしょう。しかし、モーセが天の心情を通じることができなかったために、彼自身が民族の道を阻む要因となったという無念の事実を私たちは知っています。


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本然の家庭を見つけるために神が追い出されたノアも、祝福の地を確立するために追い出されたアブラハムも同様です。


では、故郷の地を恋しがったヤコブはどうだったでしょうか?エジプトで死が近づいたとき、彼は自分の骨を故郷の地に埋めてほしいと遺言しました。それほどまでに故郷の地が恋しかったのです。死んだ後も、敵の地にその体が腐り流れ出ることすらも許したくなかったのです。このような選民としての誇り、選民としての感情を深く感じていたのがヤコブだったということを知るべきです。


再びモーセに目を向けてください。本然の民族を探し求めるためにモーセを追い出された神は、彼を通してどれほどその民族を導き共に生きたかったことでしょう。しかし、モーセはその願いを成し遂げることができませんでした。


全人類に故郷の家庭を取り戻し、山河を取り戻し、その地に民族を築き、国家を建て、世界を回復させようとする神の御心が、選ばれた人々によって果たされず、失敗したとしても、その御心はより大きな範囲で条件的な縁を結びながら進んでいくということです。その結果、本然の民族を探し求めようとする神の御心は延長されても、天はこれを収拾し、本然の国家を建てるためにメシアを送られました。しかし、そのメシアはどうなったのでしょうか?


イエス様は、民族を中心として神が主導される国家の形態を整え、天の主権をこの地上に確立したいとどれほど切実に願われたことでしょう。しかし、民族の責任者として来られたイエス様をイスラエル民族はどのように扱ったでしょうか?彼を中心に一つの本然の国家を建設し、悪魔に向かって行進する天軍となり、神の精兵となるべきであったイスラエル民族はどうだったのでしょうか?

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