■ 2023年09月06日〜09月07日 東海3名城と久能山東照宮
JTB旅物語「家康ゆかりの東海3名城と日本平夢テラス2日間」に参加してきました。東海道新幹線静岡駅でツアーバスに乗り換え、駿府城~うなぎ丼の昼食~浜松城~大河ドラマ館~岡崎城~メロン試食とメロン狩り~日本平夢テラス~久能山東照宮をめぐりました。
【1日目】
▼ 往路の東北新幹線は懐かしいカラーリングの車両でした
▼ 東海道新幹線静岡駅に到着
▼ 静岡駅からバスツアー開始
■ 駿府城・・・外堀、中堀、内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城。本丸を中心に回字形に本丸、二ノ丸、三ノ丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には五層七階の天守閣があったが寛永12年(1635)に焼失。駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13年(1585)に徳川家康公が築城を開始したことに始まる。この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12年(1607)将軍を退き駿府に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張。修築した(説明板より抜粋)。
▼ 巽櫓・・・駿府城二ノ丸の東南角に設けられた二重三階の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれた。櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目を持つ。寛永12年(1635)焼失後、寛永15年(1638)に再建された巽櫓は幕末の安政地震によって全壊、現在の建物は平成元年(1989)に復元されたもの(パンフレットより抜粋)。
▼ 東御門・・・駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入り口。二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多門櫓で構成される枡形門。東御門は寛永12年(1635)に天守閣、御殿、巽櫓などともに焼失、同15年(1638)に再建された(説明板より抜粋)。
▼ 東御門内入退場口
▼ 駿府城復元模型
▼ 二ノ丸堀から発見された青銅製鯱
▼ 竹千代手習いの間(復元)
▼ 本丸跡の徳川家康像
▼ 本丸跡発掘現場
▼ 駿府城の歴史
▼ 本丸堀・・・駿府城の三重掘の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいる。石垣は荒割した石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方、角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしている(説明板より抜粋)
■ 昼食を頂いた「浜名湖グルメパーク」・・・昼食はうなぎ丼
■ 浜松城・・・徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)に入場し17年間在城した。
▼ 野面積みの石垣・・・野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しないで積む野面積み方式。慶長(1596~1615)以前はこの方法が多く用いられていたといわれている。格段の積み方は布積とよばれる石材を一段ずつ横に並べて据えながら積み上げ、布の横糸が通ったように積む技法が採用されている。しかし、石材があまりにも荒々しくて不揃いなことから、横の通りが乱れた部分が多くあり布積崩しと呼ばれることもある。
不整形な石を積むとはいえ原則的には石の大きな面を表にし、小さな面を内側にして積み、隙間に背後から飼石を入れて石が動かないように固定する。背後(内側)には多量の栗石を詰めて強化する。栗石は約1~1.5mほど詰めてあり、さらに砂利を入れてあるので水はけも良く、水圧で崩れることはない(説明板より抜粋)。
▼ 天守門
▼ 若き日の徳川家康公像
▼ 本丸北東隅石垣・・・明治時代以降上部が失われ、下部のみが地中に埋もれていたため、令和2年度の調査で発見されるまでの間、絵図から存在をうかがい知る程度だった。発掘調査により隅角部を検出し、本丸の規模が明らかになった。石垣には浜名湖沿岸地域で産出するチャートが多く使われ、石材の加工が少ない野面積みの技法を用いて石垣が築かれている(説明板より抜粋)。
■ どうする家康浜松大河ドラマ館・・・浜松城公園内に設置され、ドラマに使われたセットや衣装の展示
■ 宿泊先は「THE HAMANAKO」
▼ 夕食はバイキング
▼ 部屋からの眺め・・・浜名湖、遠くに浜名湖大橋が見える
▼ 朝食もバイキング
【2日目】
■ 岡崎城・・・15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が現在の岡崎城の一にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。天分11年(1542)、徳川家康はここ岡崎城内で誕生。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる(説明板より抜粋)。
▼ 岡崎城の城郭模型(内郭)
▼ 岡崎城にまつわる伝説・・・竜神伝説、南切通しの怪物、岡崎の化け猫
▼ 岡崎城下町模型
▼ 天守台石垣と穴蔵・・・天正18年(1590)に城主となった田中吉政の時代に創建。花崗岩の自然石を用いて築かれている。北・東面には巨大な鏡石が入る城内でもっとも古い石垣。天守台の石垣の内部は、地階として石垣に囲まれた穴蔵となっている(説明板より抜粋)。
▼ 鯱瓦・・・銘文によると弘化4年(1847)の作。瓦師は細井新助と倅細井金右衛門(説明板より抜粋)。
▼ 用材・・・明治6年(1873)の廃城令により取り壊された岡崎城の建物に使われていた柱材(ケヤキ)。は下のほぞに「宝暦三年八月」と墨書されており、宝暦年間(1751-64)の岡崎城大修理の際に用いられたものと考えられる(説明板より抜粋)。
▼ 龍城神社
▼ 岡崎公園内にある松平元康像・・・平成4年(1992)に開催された「家康公生誕450年祭」の一環として、450年祭実行委員会が市内外から寄付を募って設置し、岡崎市へ寄贈したもの。若き元康公(のちの家康公)の騎馬像は城を背にし、大権現として再生する日光東照宮の方角を向いている(H.P.より転載)。
▼ 岡崎公園内にある徳川家康像
▼ 岡崎公園内にあるからくり時計・・・毎時00分・30分に能を舞い、遺訓を語るらしいが今回はタイミングが合わず見れませんでした。
■ メロン試食とメロン狩り・・・試食の場所とメロン狩りの場所が異なるのは、添乗員さん曰く「大人の都合?」らしい
▼ メロンを試食した「蒲郡オレンジパーク」
▼ メロン狩りをした「えびせんべいとちくわの共和国」
■ 昼食・・・新東名高速浜松PA内にある「ドライバーズ・スポット天神屋」で頂いた「静岡おでん」
■ 日本平夢テラス
▼ 駐車場から日本平夢テラスへ
▼ 夢テラスから見た富士山・・・手前に見えるのは清水港
▼ 隈研吾氏設計の夢テラス
▼ 夢テラスの下にある「日本平ロープウェイ」・・・ここから久能山東照宮へ移動します
▼ 夢テラスから駐車場に戻る道路脇にある「赤い靴母子像」
▼ 富士山眺望の地(右の石碑)
▼ 日本平公園案内図
■ 久能山東照宮
▼ 日本平ロープウェイ@日本平駅
▼ 日本平駅から見える久能山
▼ 久能山駅にある久能山城二ノ丸石垣跡
▼ 久能山東照宮全景
▼ 入場券購入後、参道から楼門へ
▼ 楼門
▼ 楼門に架かる扁額「東照大権現」
▼ 社殿には直接上がれず、右手方向へ迂回します
▼ 日枝神社
▼ 拝殿
▼ 本殿
▼ 本殿横を抜けて進んだ先にある神廟へ向かう石段
▼ 神廟
▼ 神廟前にある遥拝所と東照宮遺訓
▼ 金の成る木
▼ 五重塔跡・・・三代将軍家光公の建立で高さ約30m輪奐美を極めたもの。明治6年神仏分離で取り払われ、現在は在りし日を偲ぶ礎石を残すのみ(説明板より抜粋)。
▼ 久能山麓に広がる苺のハウス栽培
▼ 久能山東照宮表参道の石段
▼ 「久能山」石碑
▼ 国指定史跡「久能山」(説明板より抜粋)
・久能寺・・・古く平安時代初期に開創された「補陀落山久能寺」があり、山の上には多くの僧坊が建てられた。久能山は周囲を断崖絶壁に囲まれた天然自然の要害の地をつくる孤立した丘陵となっており、南北朝時代の観応の擾乱(1350-1352)や室町時代の今川氏の内紛花蔵の乱(1536)などに際して兵が立てこもることがあり、寺院城郭としての一面を持つに至った。
・久能山城・・・駿府に攻め入った武田信玄公は永禄2年(1569)に要害の地久能山にあった寺院を移し、本格的な山城を築いた。
・久能山東照宮・・・元和2年(1616)大御所徳川家康公が駿府上にて薨去。遺言に御尊骸を久能山に埋葬。二代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創建。
▼ 久能山駅
▼ ゴンドラのすれ違い・・・遠くに見えるのは日本平駅
▼ ちゃっきりぶし民謡碑・・・ちゃっきりぶしは昭和2年、静岡鉄道(当時:静岡電気鉄道)が狐ヶ崎遊園地の開園を記念し、沿線の観光と物産を広く紹介するためにつくられた(説明板より抜粋)。
▼ 日本平ロープウェイ銘板と久能山、駿河湾
▼ 帰路はJR東海道新幹線新富士駅から「こだまグリーン車」で東京へ
【参考】
2、浜名湖グルメパーク
4、THE HAMANAKO
5、岡崎城
6、蒲郡オレンジパーク/いちご狩り・メロン狩り・ぶどう狩り・みかん狩り
7、えびせんべいとちくわの共和国(愛知・蒲郡・豊川のえびせんべい・ちくわ)
8、施設・サービス案内 | NEOPASA浜松上り | サービスエリア・お買物 | 高速道路・高速情報はNEXCO 中日本
9、日本平夢テラス
10、久能山東照宮|静岡