■ 2024年11月28日 三内丸山遺跡
青森県青森市にある三内丸山遺跡を訪れました。数年前吉野ケ里遺跡を訪れており、その時から気になっていた三内丸山遺跡にやっと来れました。吉野ヶ里と比べると規模は小さいが屋外展示、屋内展示ともに充実しており縄文時代の生活ぶりに思いをはせることができました。
▼ 三内丸山遺跡へのアクセス・・・1時間に1回、新青森駅~青森県立美術館~三内丸山遺跡~青森県立美術館~新青森駅を周回する「あおもりシャトルdeルートバスねぶたん号」を利用、Suicaで支払いができました(¥300/回)
▼ エントランス
▼ 屋外展示
▼ 三内丸山遺跡へようこそ・・・縄文時代前期中頃から中期にかけて(紀元前3,900~2,200年)、長期間継続した大規模な集落跡。1992年から大規模な発掘調査が行われ、竪穴建物跡、大型竪穴建物跡、大人と子供の墓、盛土、大型掘立柱建物跡、掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘穴、道路跡などが見つかり、集落の様子と当時の環境が明らかになった(説明板より抜粋)。
▼ 環状配石墓と道路跡・・・環状配石墓は大人の墓のまわりを石で囲んだもので大きさは直径約4m、道路跡に沿った斜面に並列に作られている(説明板より抜粋)。
▼ 南盛土・・・盛土は竪穴建物や穴などを掘った時の土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが同じ場所に長期間継続して棄てられ、小山のように盛り上がったもの(説明板より抜粋)。
▼ 竪穴建物の復元・・・地面を掘って床をつくり、柱を立てて、屋根をかけている。縄文時代中期(紀元前3,000年)の竪穴建物を復元しており、屋根は発掘調査の結果や民族例を参考に、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類で復元している(説明板より抜粋)。
▼ 大型竪穴建物跡・・・長さ10m以上の竪穴建物は大型竪穴建物を呼ばれ、集落の中央付近から多く見つかっている(説明板より抜粋)。
▼ 大人の墓(土坑墓)・・・大人は地面に掘られた穴(土坑穴)に埋葬された。土坑穴は道路の両脇に向かい合うように得r津城に並んでいる(説明板より抜粋)。
▼ 掘立柱建物・・・柱穴を掘り、柱を立てたもので、地面に炉や床などの跡が見つからないことからm高床構造であったと考えられている(説明板より抜粋)。
▼ 北の谷・・・縄文時代前期(紀元前3,900~3,300年)にはおもにゴミ捨て場として利用されていた。水分が豊富なため、通常残らない動物や魚の骨、種子、漆器や木製品、編み物、寄生虫の卵などの有機質の遺物が良好な状態で出土している(説明板より抜粋)。
▼ 北盛土・・・発掘超っされた当時のまま展示、一面に敷き詰められたような土器は縄文時代中期(紀元前3,000年)のもの(説明板より抜粋)。
▼ 子どもの墓・・・土器に入れて埋葬、棺に使われた土器は、丸い穴があけられたり、口や底が壊されており、煮炊きに使用する土器とは区別されていた(説明板より抜粋)。
▼ 大型掘立柱建物と大型掘立建物跡・・・復元した建物は発掘調査の成果や柱穴の底の部分にかかっている土圧の分析結果などから全体の大きさを推定したもの。建物跡からは直径約2m、深さ約2mの柱穴が3個づつ2列に並んで見つかった。これらの間隔はすべて約4.2mで規則正しく配置されていた。柱穴の中からは直径約1mのクリの木柱が見つかり、縄文時代中期後半(紀元前約2,600年)のものと考えられている(説明板より抜粋)。
▼ 大型竪穴建物・・・長さが10m以上の竪穴建物は大型竪穴建物と呼ばれている。復元模型は長さ約32m、幅約9.8m、床面積約250m3で、日本最大のもの。縄文時代中期後半(紀元前約2,800年)のものを復元(説明板より抜粋)。
▼ 屋内提示品
【参考】