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舟を漕ぐ

2020-05-15 22:27:00 | 日記1月3日  今日は3日なのに年賀状も新聞も来ない様だ。
テレビで剣客商売などを見ると川を船を漕ぐ場面が出てきます。それを見ると私のほろ苦い記憶がよみがえってきます。
 20歳の頃に長崎県の飛島と言う島の炭鉱に勤めておりました。
その時、私の彼女が海の向こうの今福と言う街に住んでおりました。
 彼女に会うために,小舟を借りて夜の海を越えて、今福町まで行きました。
夜の海と言うのは,とても怖い感じがします。その上潮の流れが早いので,目的地よりもだいぶ離れたところにつきました。
船は港につなぎ,櫓を担いで彼女の家まで行っていました。
次の朝早く,船を漕いで島に戻りましたがその時は島に帰る船がおったので曳航して貰いました。櫓はコツを覚えると、ぐんぐん進みます。
彼女は、ちょっと病弱だったので、もうとっくに死んで居る筈です。
 彼女とは結婚しないまま、私も70歳まで結婚しなかった。
 死ぬ前に、一度飛島に行きたいと思いますが、92歳の私では、付き添い無しでは、少し心配です。
 彼女との事があったので,私は70歳まで結婚しなかった。その後縁あって結婚しましたが2 〜3年位で離婚しました。
今は老人ホームで1人で暮らしています

珍内

2020-04-11 19:07:00 | 日記1月3日  今日は3日なのに年賀状も新聞も来ない様だ。
樺太の西海岸で泊居の少し北に珍内と言う街があります。私が生まれたのはその街です。
珍内は砂の町である。普通の土があったんだろうが、今思いだしてもよくわからない。
日本では鳥取砂丘が有名だけれども,珍来も砂丘がある。町外れから海の方に向かってなだらかな砂山があって頂上になると、急傾斜で、すぐ海になるのである。
海は数mの間は浅瀬で、それから急に50センチ位の深さになりそれが10メートル行った所で、浅瀬になり,そこからずっと浅瀬がついている徐々に深くなっていくその長さは50メートル位あっただろうか,
小学校に入る前に,よく泳いだ。50センチくらいの所でところで、手をついて足をバタバタさせて泳ぐのであるが、つかんだ砂の中に小さなエビが入ってることがよくある。
同年代の友達と一緒に、泳ぎに行った帰り、小さな壊れかけた小屋があってそこによじ登って飛び降りたときに、足をくじいたことがある。時々ふっと思い出し懐かしい気持ちになる。
私の居た家の裏に川が流れていた。思い出すのは大雨が続いて水害になったことがある。その時私の義兄が船を漕いで食料を届けてくれたことがあった。かすかな思い出である。

終戦後4

2020-04-07 21:27:00 | 日記1月3日  今日は3日なのに年賀状も新聞も来ない様だ。
昭和22年頃から引揚げの話しが出始めた。
父が気屯から泊居に来たので、おばあちゃんの家を出て父と2人で家を借りて住んでいた。なかなか引揚げの順番が来ないので,製紙工場の工場長のロシア人の家に干した鮭を持参して、引き上げの順番を早くしてくださいとお願いした。ポツポツと引き上げていく人が居るので,道を歩くと猫が私のそばに寄ってきて,体を擦り付けてきていた。引き上げに際して犬や猫は連れて行かれないので、野良が大勢いたはずである。
私達は昭和22年の8月に、引き上げ船に乗ることができた。函館に着いた時乗客の中に伝染病患者が出たと言う話があって、すぐに上陸できず2 3日函館の海上におった。

終戦後3

2020-03-17 14:08:40 | 日記1月3日  今日は3日なのに年賀状も新聞も来ない様だ。
終戦後多くのロシヤの民間人がやってきました。例えば市役所にも。とても日本語の上手な人もおりまして,家でおばあちゃんに[とても日本語の上手なロシア人が来た]と教えたら.おばあちゃんが[それはお前よりはどんなロシア人でも日本語がうまいだろう,何しろお前は何もしゃべらんのだから]と言われました。私は自分の無口には気がついて居りましたけれども、それほどとは思っておりませんでした。
ロシア人の性格について考えてみましたが,ロシア人は日本人よりも社交性が有るような感じがします。お客さんが来るのをとても歓迎します。私の知人の家にロシア人の子供が遊びに来ておりました。そのおばさんは元芸者で三味線をよくしておりました。斉藤さんと言う名前ですが三味線で佐渡おけさを、ひいておりましたら、その子供が[どうして斉藤さん斉藤さんと言うのですか]と聞いてきたそうです。佐渡へ佐渡へと草木もなびく]と言う歌なので,斉藤.斎藤と聞こえたようでした。そんな風で子供でも日本人の家に遊びに来るような感じです、街に小さなスキー場があるのですが.日本人の子供はおっかなびっくりで自分の技術にあったように滑りますがロシアの子供は難しいところでも果敢に滑っては派手に転んでおりました。日本人が仏壇に使う金蘭の布切れを珍しいものですから、窓辺に飾ったりしておりました。
私が趣味で横笛を吹いておりましたが、退屈な時海岸の方で出て行き、笛を吹いておりましたら,ソ連の兵隊に引っ張られていきました。
ロシアは海岸線が国境と言うことのようです。それで国境守備隊が海岸沿いを見守っております。どこかに連れていかれていろいろと尋問されましたので、その横笛でソ連の国歌を歌ったりして,許されて帰されました。
ロシアは住民全部に住民票のようなものを持たせました。そして時々検閲します。いちど映画館で映画を見ていた時に,一生検査が始まり持っていなかったものが数名引っ張られてきました。
 私は持っておりましたが、それを長靴の中に隠して引っ張られていきました。どんな風な検閲をされるのか試してみたかったわけです。
途中で怖くなって、長靴から住民票出して、帰されました。なぜそんなことをしたかと言うと、私の友人がロシヤの警察に引っ張られた時のことを話しておりました。引っ張られた理由は日本人の女の人がロシアの人と腕を組んで歩く人がたまにおった。それを非難して[日本人の女性よ、操を守れ]と言うような意味のビラを貼り出したものがあったのですが.その首謀者として私の友人が引っ張られていたそうです。

終戦後2

2020-03-13 20:35:00 | 日記1月3日  今日は3日なのに年賀状も新聞も来ない様だ。
終戦後から、ソ連の治世下で中学校などの授業が始まりました。私の居た
豊原工業学校も授業が始まりました。私は豊原を離れて、泊居に居たので、泊居商工学校に委託生として、そこで1年ほど授業を受けて、翌年の3月末に豊原の本校から先生が来て卒業証書を交付してくれました。それで私は豊原工業学校を卒業したことになりました。
卒寿後、直ぐに旧王子製紙工場に勤務しました。そこは、昔は日本の王子製紙工場でしたが,戦時中に製塩工場に作り替える途中でした。それを元の製紙工場に作り替えることになりました。工場長など幹部はソ連の人でしたが大部分の日本の幹部がその下で仕事をしました。
 私は営繕部と言うところに勤めました。そこで製紙工場に作り変えるためにいろんな作業をしました。
ソ連の方針でしょうか,働かざるもの食うべからずと言う考えなのでしょうか,工場の日本の幹部の課長や係長たちの奥さんも、皆工場で働きました。仕事はいろいろありました。
営繕部では、1人の職長に私など仕事に慣れてない人が323人ついて1組でいろんな仕事をやりました。例えば3本煙突の真ん中にエレベーターを作ったりもしました。その煙突の上に登って下を見るのは、高所恐怖症の私にはとても怖かったが、それでも腹這いになって下を見たりしました。
営繕部の職場にもロシア人が23人来て私たちと一緒に仕事をしました。1人は溶接工で優秀で日本人も一目置いておりましたが,もう1人はちょっとちゃらんぽらんなところがあって,日本人の職長に支持されたことをうまくやらないで腹を立てた日本人が、丸太ん棒で追いかけたりして居りました。その職人が2〜3日休んだので、理由を聞いたら、チョロに入って居たそうです。ロシヤの一般人とチヨロマは、気安い関係な様です。チヨロマは牢屋の事です。