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終戦後3

2020-03-17 14:08:40 | 日記1月3日  今日は3日なのに年賀状も新聞も来ない様だ。
終戦後多くのロシヤの民間人がやってきました。例えば市役所にも。とても日本語の上手な人もおりまして,家でおばあちゃんに[とても日本語の上手なロシア人が来た]と教えたら.おばあちゃんが[それはお前よりはどんなロシア人でも日本語がうまいだろう,何しろお前は何もしゃべらんのだから]と言われました。私は自分の無口には気がついて居りましたけれども、それほどとは思っておりませんでした。
ロシア人の性格について考えてみましたが,ロシア人は日本人よりも社交性が有るような感じがします。お客さんが来るのをとても歓迎します。私の知人の家にロシア人の子供が遊びに来ておりました。そのおばさんは元芸者で三味線をよくしておりました。斉藤さんと言う名前ですが三味線で佐渡おけさを、ひいておりましたら、その子供が[どうして斉藤さん斉藤さんと言うのですか]と聞いてきたそうです。佐渡へ佐渡へと草木もなびく]と言う歌なので,斉藤.斎藤と聞こえたようでした。そんな風で子供でも日本人の家に遊びに来るような感じです、街に小さなスキー場があるのですが.日本人の子供はおっかなびっくりで自分の技術にあったように滑りますがロシアの子供は難しいところでも果敢に滑っては派手に転んでおりました。日本人が仏壇に使う金蘭の布切れを珍しいものですから、窓辺に飾ったりしておりました。
私が趣味で横笛を吹いておりましたが、退屈な時海岸の方で出て行き、笛を吹いておりましたら,ソ連の兵隊に引っ張られていきました。
ロシアは海岸線が国境と言うことのようです。それで国境守備隊が海岸沿いを見守っております。どこかに連れていかれていろいろと尋問されましたので、その横笛でソ連の国歌を歌ったりして,許されて帰されました。
ロシアは住民全部に住民票のようなものを持たせました。そして時々検閲します。いちど映画館で映画を見ていた時に,一生検査が始まり持っていなかったものが数名引っ張られてきました。
 私は持っておりましたが、それを長靴の中に隠して引っ張られていきました。どんな風な検閲をされるのか試してみたかったわけです。
途中で怖くなって、長靴から住民票出して、帰されました。なぜそんなことをしたかと言うと、私の友人がロシヤの警察に引っ張られた時のことを話しておりました。引っ張られた理由は日本人の女の人がロシアの人と腕を組んで歩く人がたまにおった。それを非難して[日本人の女性よ、操を守れ]と言うような意味のビラを貼り出したものがあったのですが.その首謀者として私の友人が引っ張られていたそうです。

終戦後2

2020-03-13 20:35:00 | 日記1月3日  今日は3日なのに年賀状も新聞も来ない様だ。
終戦後から、ソ連の治世下で中学校などの授業が始まりました。私の居た
豊原工業学校も授業が始まりました。私は豊原を離れて、泊居に居たので、泊居商工学校に委託生として、そこで1年ほど授業を受けて、翌年の3月末に豊原の本校から先生が来て卒業証書を交付してくれました。それで私は豊原工業学校を卒業したことになりました。
卒寿後、直ぐに旧王子製紙工場に勤務しました。そこは、昔は日本の王子製紙工場でしたが,戦時中に製塩工場に作り替える途中でした。それを元の製紙工場に作り替えることになりました。工場長など幹部はソ連の人でしたが大部分の日本の幹部がその下で仕事をしました。
 私は営繕部と言うところに勤めました。そこで製紙工場に作り変えるためにいろんな作業をしました。
ソ連の方針でしょうか,働かざるもの食うべからずと言う考えなのでしょうか,工場の日本の幹部の課長や係長たちの奥さんも、皆工場で働きました。仕事はいろいろありました。
営繕部では、1人の職長に私など仕事に慣れてない人が323人ついて1組でいろんな仕事をやりました。例えば3本煙突の真ん中にエレベーターを作ったりもしました。その煙突の上に登って下を見るのは、高所恐怖症の私にはとても怖かったが、それでも腹這いになって下を見たりしました。
営繕部の職場にもロシア人が23人来て私たちと一緒に仕事をしました。1人は溶接工で優秀で日本人も一目置いておりましたが,もう1人はちょっとちゃらんぽらんなところがあって,日本人の職長に支持されたことをうまくやらないで腹を立てた日本人が、丸太ん棒で追いかけたりして居りました。その職人が2〜3日休んだので、理由を聞いたら、チョロに入って居たそうです。ロシヤの一般人とチヨロマは、気安い関係な様です。チヨロマは牢屋の事です。

終戦後2

2020-03-12 13:38:32 | 日記1月3日  今日は3日なのに年賀状も新聞も来ない様だ。
終戦後から、ソ連の治世下で中学校などの授業が始まりました。私の居た
豊原工業学校も授業が始まりました。私は豊原を離れて、泊居に居たので、泊居商工学校に委託生として、そこで1年ほど授業を受けて、翌年の3月末に豊原の本校から先生が来て卒業証書を交付してくれました。それで私は豊原工業学校を卒業したことになりました。

終戦後

2020-03-11 19:10:00 | 日記1月3日  今日は3日なのに年賀状も新聞も来ない様だ。
進駐してきたソ連軍は、
豊原工業学校の校庭に宿泊しました。炊事用の、大きな機械を積んだ車を校庭し据えて炊事をして居ました。将校が私たち寄宿舎の各部屋を覗いて、何やらロシア語で尋ねてきたので、私もロシア語で(わからない)と返事しました。器用な人が居るもので、終戦後1週間もたたないうちに、ガリ版刷りの簡単なロシア語の辞書が、安い値段で発売されていました。
それを見て、簡単なロシア語はわかるようになっていました。
引揚げ船に乗ろうとして、多くの人が大泊まで南下しましたが、ソ連軍に船を停められて引き上げができないものですから、元の住所に戻るように、ソ連軍に言われました。
それで引揚げ途中の避難民が、豊原工業学校の講堂にも、すし詰めで泊まりました。
その中に私の親戚のものも居りました。
ソ連軍は終戦後、布告を出して治安はソ連軍が守る。住民は元の場所に戻って元の職業に従事するようにと言う布告を出しておりました。
それで私も親類の人に一緒に、泊居と言うところに行くことにしました。豊原から真岡までの山道を豊真山道といいます。そこを徒歩で大勢の人が歩きました。2日ぐらいで泊居につき、親類の家で生活することになりました。