上高地は、長野県西部の飛騨山脈南部の梓川上流の景勝地である。中部山岳国立公園の一部ともなっており、国の文化財に指定されている。標高約1,500m。
上高地の歴史を語るとき、耳にする2人の名前、ウォルター・ウェストンと上條嘉門次。日本にやってきた英国人宣教師、W・ウェストンは1896(明治29)年に著した『日本アルプス登山と探検』の中で、自らが登った上高地と穂高連峰、槍ヶ岳を広く世界へ称賛しました。 それまで日本の登山とは、「信仰・修行としての山登り」であり、「狩猟など生活のため」の山行きでありました。その登山をレジャーとして広く知らしめ、上高地を有名にした彼の功績は「日本近代登山の父」として今日でも広く称えられています。 その際、W・ウェストンの山行きを案内したのが地元安曇村生まれの猟師・上條嘉門次。嘉門次の名は、W・ウェストンの著書の中にも“ミスター・カモンジ”と記されています。
私が訪れたのは20代の頃(約40年前で)、アルプス銀座を縦走し槍ヶ岳からの帰りに上高地へたどり着きました。
大正池はまだ枯れ木が林立しその幻想的な光景が忘れられません。
上高地の歴史を語るとき、耳にする2人の名前、ウォルター・ウェストンと上條嘉門次。日本にやってきた英国人宣教師、W・ウェストンは1896(明治29)年に著した『日本アルプス登山と探検』の中で、自らが登った上高地と穂高連峰、槍ヶ岳を広く世界へ称賛しました。 それまで日本の登山とは、「信仰・修行としての山登り」であり、「狩猟など生活のため」の山行きでありました。その登山をレジャーとして広く知らしめ、上高地を有名にした彼の功績は「日本近代登山の父」として今日でも広く称えられています。 その際、W・ウェストンの山行きを案内したのが地元安曇村生まれの猟師・上條嘉門次。嘉門次の名は、W・ウェストンの著書の中にも“ミスター・カモンジ”と記されています。
私が訪れたのは20代の頃(約40年前で)、アルプス銀座を縦走し槍ヶ岳からの帰りに上高地へたどり着きました。
大正池はまだ枯れ木が林立しその幻想的な光景が忘れられません。