「読む会」だより(23年12月用)文責IZ
(11月の議論など)
11月の読む会は、「斎藤幸平著『ゼロからの資本論』を読む」と銘打って17日に開かれました。レジュメは、レポータを引き受けていただいたDさんから当日に配布されたものを「読む会」のブログにも載せています。
第1章「商品に振り回される私たち」の部分では、まず斎藤さん(以下、“氏”)の言う富とはなになのか? 単なる自然的な豊かさということか? という質問が出ました。レポータは、氏は使用価値の側面は指摘するが価値のことを説明しておらず、社会の富が商品という姿をとるということの意味を語らないところに自分は疑問を感じると述べました。この点については別の参加者から、資本論ではもっぱら素材的な富と社会的な富でもある抽象的富との区別が語られており、素材的な富ばかりをもち出すのはやはり一面的ではないか、という意見や、価値と言っても言葉としてはいろいろな意味がもち出されるので、基本的なことが述べられるべきだという意見が出ました。また、自然の社会的共有の解体と私有制度の発展が、氏によれば自然の商品化による解体とされているが、両者は別の事柄と考えるべきではないか、という意見も出ました。レポータは、氏はこの第1章で価値の量的な規定が労働時間であることは述べるが、その質的な規定のことや、なぜ労働が直接に社会的労働として現れずに商品の価値という姿で現れるのかという根本的な事柄に触れていないのは問題だ、とまとめました。
第2章「なぜ過労死はなくならないか」の部分では、賃金を時給などとして受け取ると労働者が剰余労働をしているということが自覚しにくいということか、という質問や、絶対的剰余価値の説明の表はあまりにも当たり前のことでなぜこうした説明が必要なのかという質問が出ました。レポータは、氏は剰余価値の説明を分かりやすくしようとして、直接貨幣で説明しようとしているが、それでは必要労働と剰余労働の区別が明らかにならない。それでは搾取のメカニズムや、賃金が労働力商品の価値ではなくて労働の対価として現れるということが明確にならないと自分は思う、と答えました。また、氏は剰余という意味が分かりやすくなるだろうと思って、文章ではなくて図表で示したのだろうが、成功しているとは思えないという意見も出ました。レポータは、賃金については搾取について説明してからにすべきと思う、とまとめました。
第3章「イノベーションがくそどうでもいい仕事を生む」の部分では、構想と実行の分離というのは精神労働と肉体労働との分離と同じ意味なのかという質問や、くそどうでもいい仕事というのは機械化の進展による単純労働の増大ということか、という質問が出ました。レポータは、構想と実行というのはほぼ精神労働と肉体労働と同じ意味だろう、また、くそどうでもいい仕事というのは単純労働の増加というだけではなくて、ホワイトカラーにおいても内容のない仕事が増えるということで言われているだろう、と答えました。第3章については、細かいことを言えばきりがないが、大まかには氏の指摘に問題はないのではないかとレポータはまとめました。これに対しては、たとえば「分業が労働者を無力化する」という項目を読むと、氏には協業は善だが分業は悪だといった非弁証法的な考えが根底にあるように思える。協業とともに分業が発展すると資本論では言われているように思うのだが、という意見が出ました。
第4章「緑の資本主義というおとぎ話」の部分では、まずアソシエーションとは何か、という質問が出て、レポータは自発性、自主性をもった集団・組織ということと説明しました。また、レポータは、氏はマルクスは晩年にアソシエーション論や環境主義に向かったというが、疑問だ。人々は自然との物質代謝を社会のなかで行なうのであって、その社会関係をマルクスは強調している。自然との関係を強調するのは問題意識としては分かるが、それをもってマルクスが環境社会主義を唱えたというのは一面的だ、とまとめました。
第5章「グッバイ・レーニン」の部分では、レポータは国有は共有とは限らないという氏の主張はその通りと思う。しかしながら資本論執筆時点でマルクスが重視したのは、資本主義内部での脱商品化の領域を拡大するための改良だったとか、唯物史観からは転向したのだとか言われると歪曲だろう。商品生産に基づかない新しい社会をつくり出すということは、労働者が自発的な組織を生み出したという歴史的経緯とは別の問題だと述べました。また、マルクスが目指したのは、人々の自発的な相互扶助や連帯を基礎とした民主的社会だと言って、氏は民主主義を強調する。しかし来たるべき社会を語る場合には、マルクスは多数決原理に基づく民主主義と一人は万人のために万人は一人のためにという共同体原理とは相容れないという反省をもって語っているように思う、という意見が出ました。残念ながら時間が少なくなったために質問や意見の時間があまり取れませんでした。
残りの第6章とレポータのまとめの部分(ここは加筆したいとのことです)は次回に引き続きやってほしいという要望が出て、そのようにすることになりました。
Dさんより、加筆部分がなかなかまとまらないので当日配布にさせてほしいという連絡がありました。
(なお本文の第5章で、ソ連などを国家資本主義と指摘したのは大谷氏だという指摘がありますが、国家資本主義はすでにネップの時代のレーニンが唱えたものです。以下、簡単に要旨を引用しておきます。……チューター。
・「さて、ユンカー=資本家国家の代わりに、地主=資本家国家の代わりに、革命的民主主義国家を、すなわちあらゆる特権を革命的に破壊する国家、もっとも完全な民主主義を革命的に実現することを恐れない国家を、もってきたまえ。そうすれば、真に革命的民主主義的国家の下では、国家独占資本主義が、不可避的に社会主義に向っての一歩あるいは数歩を意味することが分かるだろう! ……
なぜなら、社会主義は、国家資本主義的独占からの、次の一歩前進に他ならないからである。言い換えれば、社会主義とは、全人民の利益を目指すようになった、そしてその限りで資本主義的独占でなくなった、国家資本主義的独占に他ならないのである。……」『差し迫る破局、それとどう闘うか』より
・「理論的にも実践的にも、全問題は、資本主義の不可避的な(ある程度までは、またある期間は)発展を国家資本主義の軌道に向け、その諸条件を整え、近い将来国家資本主義が社会主義へ転化するのを保障する正しい方法を発見することにある。」『食料税について』より
こうしたレーニンの“期待”が外れたことは、読む会のなかで幾度か指摘した通りです。)
また前回チューターが提出した参考引用は長かったので、再編して掲載しておきます。
『ゼロからの資本論』P197とP133にある引用部分の前後について(IZ)
追加①P110部分第1巻第13章「機械と大工業」の第4節「工場」より
(アンダーラインが本書での引用、太字がチューターの注目部分)
・「マニュファクチュアや手工業では労働者が自分に道具を奉仕させ、工場では労働者が機械に奉仕する。前者では労働者から労働手段の運動が起こり、後者では労働手段の運動に労働者がついて行かなければならない。マニュファクチュアでは労働者たちは一つの生きている機構の手足になっている。工場では一つの死んでいる機構が労働者たちから独立して存在していて、彼らはこの機構に生きている付属物として合体されるのである。……
機械労働は神経系統を極度に疲れさせると同時に、筋肉の多面的な働きを抑圧し、心身のいっさいの自由な活動を封じてしまう。労働の緩和さえも責め苦の手段になる。なぜならば、機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放するのだからである。資本主義的生産がただ労働過程であるだけではなく同時に資本の価値増殖過程でもあるかぎり、どんな資本主義的生産にも労働者が労働条件を使うのではなく逆に労働条件が労働者を使うのだということは共通であるが、しかし、この転倒は機械によってはじめて技術的に明瞭な現実性を受け取るのである。一つの自動装置に転化することによって、労働手段は労働過程そのもののなかでは資本として、生きている労働を支配し吸い尽くす死んでいる労働として、労働者に相対するのである。……」(全集版、P552~)
②P133部分第1巻、第13章「機械と大工業」の第10節「大工業と農業」より
・「農業の部面では、大工業は、古い社会の堡塁である「農民」を滅ぼして賃金労働をそれに替えるかぎりで、最も革命的に作用する。こうして、農村の社会的変革要求と社会的諸対立は都市のそれと同等にされる。旧習になずみきった不合理きわまる経営に代わって、科学の意識的な技術的応用が現われる。農業や製造工業の幼稚未発達な姿にからみついてそれらを結合していた原始的な家族紐帯を引き裂くことは、資本主義的生産様式によって完成される。しかし、同時にまた、この生産様式は、一つの新しい、より高い総合のための、すなわち農業と工業との対立的に作り上げられた姿を基礎として両者を結合するための、物質的諸前提をもつくりだす。資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積するが、地方では人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を、撹乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する。しかし、同時にそれは、かの物質的代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。農業でも、製造工業の場合と同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者たちの殉難史として現われ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現れ、労働過程の社会的な結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現れる。農村労働者が比較的広い土地の上に分散しているということは同時に彼らの抵抗力を弱くするが、他方、集中は都市労働者の抵抗力を強くする。都市工業の場合と同様に、現代の農業では労働の生産力の上昇と流動化の増進とは、労働力そのものの荒廃と病弱化とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけでなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度の不断の源泉を破壊することの進歩である。ある国が、たとえば北アメリカ合衆国のように、その発展の背景としての大工業から出発するならば、その度合いに応じてそれだけこの破壊過程も急速になる。それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。」(P656~)
③資本論、第1巻、第24章「いわゆる本源的蓄積」の第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」(全集版)より
・「資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的生成は、どういうことに帰着するのであろうか? それが奴隷や農奴から賃金労働者への直接の転化でないかぎり、つまりたんなる形態変換でないかぎり、それが意味するものは、ただ直接的生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私有の解消でしかないのである。
社会的、集団的所有の対立物としての私有は、ただ労働手段と労働の外的諸条件とが私人のものである場合にのみ存立する。しかしこの私人が労働者であるか非労働者であるかによって、私有もまた性格の違うものになる。一見して私有が示している無限の色合いは、ただこの両極端のあいだにあるいろいろな中間状態を反映しているだけである。……
……自分の労働によって得た、いわば個々独立の労働個体とその労働諸条件との癒着にもとづく私有は、他人の労働ではあるが形式的には自由な労働の搾取にもとづく資本主義的私有によって駆逐されるのである。
この転化過程が古い社会を深さから見ても広がりから見ても十分に分解してしまい、労働者がプロレタリアに転化され、彼らの労働条件が資本に転化され、資本主義的生産様式が自分の足で立つようになれば、それからさきの労働の社会化も、それからさきの土地やその他の生産手段の社会的に利用される生産手段すなわち共同的生産手段への転化も、したがってまたそれからさきの私有者の収奪も、ひとつの新しい形態をとるようになる。今度収奪されるのは、もはや自分で営業する労働者ではなくて、多くの労働者を搾取する資本家である。……
資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがって資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、ひとつの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。
諸個人の自己労働にもとづく分散的な私有から資本主義的な私有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産にもとづいている資本主義的所有から社会的所有への転化に比べれば、比べものにならないほど長くて困難な過程である。前には少数の横領者による民衆の収奪が行なわれたのであるが、今度は民衆による少数の横領者の収奪が行なわれるのである(*ここに注釈として『共産党宣言』からの引用)。」(P993~)