1巻第5、6章の価値移転の意味と個別的な生産物の価値規定について
①個々の生産物の価値には、その生産物の生産のために支出された労働量のほかに、その生産手段の生産のために支出された労働量が“含まれる”。
後者は、生産過程において新たに“加えられた”ものではなく、ただ生産物の材料となっている生産手段に支出された労働量が、生産物にとっての必要労働量として現われるものでしかない(移転とか、保存とか、再現とか言っても同じことだが)。また、生産手段の価値のなかには、その生産手段を生み出した生産手段の価値は既に含まれている。言い換えれば、それ以前の価値にまで遡る必要はない。
第1巻第6章「不変資本と可変資本」の冒頭でマルクスは次のように述べています。
・「労働過程のいろいろな要因<つまり労働そのもの、その対象、その手段>は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する。
労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別にすれば<岩波文庫訳では「の如何にかかわらず」>、一定量の労働を付け加えることによって労働対象に新たな価値を付け加える。他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、見出す。つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。この<価値の>移転は、生産手段が生産物に変わるあいだに、つまり労働過程のなかで行われる。」【P261】
生産物(※)に対して価値性格を、すなわちそれが無差別な人間労働が対象化されたものであるという社会的な性格を与えることができるのは、一定の社会関係に他なりません。そして、生産物の価値の実体である抽象的人間労働(労働時間)を“創造”できるのは、人間の労働力の発揮──その大きさは発揮された継続時間で計られる──のほかにはありません。だから、労働者は「一定量の労働を付け加えることによって労働対象に新たな価値を付け加え」ます。
他方、消費された生産手段の価値は、この労働過程において付け加えられるのではなくて、ただ「再び生産物価値の諸成分として……見出」されるにすぎません。
この点について、第5章「労働過程と価値増殖過程」では、こう説明されていました。
・「<綿糸の原料となっている>綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸の<価値の>うちに含まれている。それだけの摩滅または消費なしには綿花を紡ぐことのできないという<労働手段である>紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。」【P245】
つまり、個々の生産物の価値には、その生産物の生産のために支出された労働量のほかに、その材料(素材)となっている生産手段の生産のために支出された労働量が“含まれ”ます。しかし後者は、ただその材料である生産手段に支出された労働量が、その生産物にとっての必要労働量として現われるからであって、生産手段に含まれる労働量がこの過程で“加えられた”からではないと言うのです。
このことは簡単な事実であるように思われます。例えば綿花を原料(素材)とする綿糸にとっては、生産手段である綿花の価値は、自らの価値に“含まれる”ものであって、綿糸自身とは別に、なにかそれに付け加えられなければならないといったものではありません。綿糸を作ろうとしても、もし綿花がないならば綿花の生産をしなければなりません。だからこそ、生産手段(綿花)の価値は、生産物の価値に含まれるのです。
こうして、例えば紡錘を利用して綿花を綿糸に加工する場合、その加工に要した労働時間が10であり、生産手段として消費された綿花と紡錘の価値(必要労働量)がそれぞれ10であったとすれば、生産物である綿糸の価値は、合計の30ということになります。
(※ここは本来なら「商品」とされるところでしょうが、いま私たちが問題にしようとしているのは、社会主義における、すなわち生産物が商品としての性格を失った場合の、生産物の「価値規定(労働時間)による分配」の問題ですので、このようにしておきます。)
さて、先ほどの第5章のなかでは、もう一つ重要なことが語られています。
・「こういうわけで、糸の価値、糸の生産に必要な労働時間が考察されるかぎりでは、綿花そのものや消費される紡錘量を生産するために、最後には綿花や紡錘で糸を作るために通らなければならないいろいろな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている、いくつもの労働過程が、同じ一つの労働過程の次々に現われる別々の段階と見なされることができるのである。@
糸に含まれている労働は<糸から見れば>すべて過去の労働である。糸を形成する諸要素の生産に必要な労働時間は、すでに過ぎ去っており、過去完了形にあるが、これに対して、最終過程の紡績に直接に用いられた労働はもっと現在に近く、現在完了形にあるということは、まったくどうでもよい事情である。一定量の労働、たとえば30日労働日の労働が、1軒の家の建築に必要だとすれば、30日目の労働日が最初の労働日よりも29日遅く生産に入ったということは、その家に合体された労働時間の総計を少しも変えるものではない。このように、労働材料や労働手段に含まれている労働時間は、まったく、紡績過程のうちの最後の紡績の形で付け加えられた労働よりも前の一段階で支出されたにすぎないものであるかのように、見なされうるのである。
要するに、12シリングという価格で表わされる綿花と紡錘という生産手段の価値は、糸の価値の、すなわち生産物の価値の成分をなしているのである。」【P246】
綿糸の生産手段となっている綿花や紡錘も、それ自身をとって見れば綿花栽培や紡錘製造の結果です。したがって同様に、綿花や紡錘の価値にもそれ以前の種々の生産手段の価値が含まれることになります。このように綿糸は多くの労働過程の結果なのですが、しかしそれらの諸過程は、すべて最後の労働過程(綿糸の生産)に至る諸段階とみなしうるのであり、それに至るまでの種々の生産手段の価値は、最終生産物になる一段階前の生産手段に含まれていると見なして計算できる、というのです。というのも、たとえば綿糸にとって、綿花や紡錘の価値が自らの価値の成分をなすということは、同様に綿花にとっても、その生産手段の価値は自らの価値の成分として含まれているということですから、それ以前の過去の生産手段の価値にはさかのぼる必要はなく、綿糸にとっては、綿花と紡錘の価値がその価値に含まれるだけなのです。
したがって、綿糸の価値に含まれる生産手段の価値は、綿花と紡錘の価値だけで計算され、それ以前に遡る必要はないのですから、綿糸の価値は、それらを綿糸に加工するために加えられた労働時間を含めて、合計30でよい、ということになります。
②労働(生産)過程において、労働は、その労働一般(抽象的労働)としての属性において生産物に新たな価値を付け加える、と“同時に”、その具体的有用労働としての属性において元の生産手段の価値を保存する。しかしこの過程において、生産手段に労働を付け加えて新たな生産物を生産する過程と、労働がその材料(対象)である生産手段を消費する過程とは、概念的に区別されるべきである。
いわゆる“有用労働による価値移転“は、後者(素材=労働対象の消費)との関連で前面に押し出されるのであって、労働(活動する労働力=生きた労働)は、いつでも有用的労働としての属性では生産物の使用価値を創造し、その抽象的労働としての属性では生産物の価値を創造する。
いわゆる“有用労働による価値移転“は、後者(素材=労働対象の消費)との関連で前面に押し出されるのであって、労働(活動する労働力=生きた労働)は、いつでも有用的労働としての属性では生産物の使用価値を創造し、その抽象的労働としての属性では生産物の価値を創造する。
さて前項では、個々の生産物の価値には、その生産物の生産のために支出された労働量のほかに、その材料(対象)となっている生産手段の生産のために支出された労働量が“含まれる”こと、しかしながら後者の労働量はそこで付け加えられたものではなくて、ただその材料である生産手段に支出された労働量が、その生産物にとっての必要労働量として現われるものでしかない、と触れました。この点には多分あまり疑問は出されないと思われます。
問題は、先ほどの第6章の冒頭の引用【P261】の後半部分、「生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。この<価値の>移転は、生産手段が生産物に変わるあいだに、つまり労働過程のなかで行われる。」と語られている、いわゆる“有用労働による価値移転”の意味、あるいは生産手段(労働対象)の価値がどのようにして生産物へ移転(保存)されるのか、その仕方・仕組みの理解のなかにあるように思われます。
資本論ではこの引用【P261】に続いて、こう指摘されています。
・「それ<価値の移転と保存>は労働によって媒介されている。だが、どのようにしてか?
労働者は同じ時間に二重に労働するのではない。一方では自分の労働によって綿花に価値を付け加えるために労働し、他方では綿花の元の価値を保存するために、または、同じことであるが、自分が加工する綿花や自分の労働手段である紡錘の価値を生産物である糸に移すために労働するわけではない。そうではなく、彼は、ただ新たな価値を付け加えるだけのことによって、元の価値を保存するのである。@
しかし、労働対象に新たな価値を付け加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生み出す二つのまったく違う結果なのだから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明できるものである。同じ時点に、彼の労働は、一方の<労働一般としての>属性では価値を創造し、他方の<具体的有用労働としての>属性では価値を保存または移転しなければならないのである。」【P261】
ここで、「同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならない」と言われているように、たしかに新価値の創造と旧価値の保存とは、生産過程で加えられる同じ労働によって同時に起こります。しかしながら、その労働が抽象的人間的属性によって新たな価値を創造するのは、そこで加えられる労働の支出が新たな生産物を創造すると同時に、その新たな労働支出が社会的労働の一部分と認められるからであるのに対して、その労働が具体的有用的属性によって労働対象(材料)である生産手段の価値を生産物に“移転”するのは、そこで生産手段の使用価値が生産的に消費されることで、すでに生産手段に含まれていた価値が新たな生産物の価値成分として引き渡されるからにすぎません。この生産物に引き渡される生産手段の価値の大きさは、この生産過程とは全く無関係な生産手段自身の生産過程で規定されるものであり、だからこそ生産手段のもつ価値は、それが消費された大きさだけ生産物の価値のなかに引き渡され、生産物の価値のなかに“再現”(保存)されるだけなのです。
新たな労働の支出による価値の創造と、生産手段の生産的消費による価値の引き渡しとが決定的に違うのは、前者が新たな使用価値と価値の生産にかかわるのに対して、後者はそのための材料(素材)の使用価値ならびに価値の消費にかかわるからです。新たに加えられる労働は、その具体的有用的属性において新たな使用価値を生産すると同時に、その抽象的人間的属性において価値を創造するのですが、他方、その労働によって(生産的に)消費される労働対象である生産手段は、それがもっていた使用価値は消滅するのであり、またそれがもっていた価値は新たな使用価値の生産と同時に、その必要労働量に含まれるものとして新たな生産物に引き渡されるのです。
いわゆる“有用労働による価値移転(保存)”とは、後者の生産手段(材料)の生産的消費という契機にかかわるのみであって、新たな労働支出による新たな生産物の生産(使用価値と価値の創造)にはかかわりがない、と言ってよいように思われます。そして、生産手段の生産的消費の契機において、有用労働が前面に出てくるのは、ただ生産手段が、新たな生産物(使用価値)のための材料=労働対象となるためには、それが新たに加えられる労働にとっての合目的的で有用的属性に適合する、特定の使用価値でなければならない、というごく当たり前な理由からと思われます。
マルクスは第6章のなか(先ほどの引用の少し後)で、こう指摘しています。
・「価値は、価値章表でのたんに象徴的なその表示を別にすれば、ある使用価値、ある物のうちにしか存在しない。(……)だから、使用価値がなくなってしまえば、価値もなくなってしまう。@
生産手段は、その使用価値を失うのと同時にその価値をも失うのではない。というのは、生産手段が労働過程を通ってその使用価値の元の姿を失うのは、実は、ただ生産物において別の使用価値の姿を得るためでしかないからである。@
しかし、価値にとっては、何らかの使用価値のうちに存在するということは重要であるが、どんな使用価値のうちに存在するかは、商品の変態が示しているように、どうでもよいのである。
このことからも明らかなように、労働過程で価値が生産手段から生産物に移るのは、ただ、生産手段がその独立の使用価値と一緒にその交換価値をも失う限りでのことである。生産手段は、ただ生産手段として失う価値を生産物に移すだけである。@
しかし、労働過程のいろいろな対象的要因は、この点ではそれぞれ事情を異にしている。」【P265】
ちなみに林さんは、パンフ『資本論を学び、資本論を超えよう』の第1章(P9上段)でこう述べています。
〔生産過程において行われるのは、その過程の前の諸商品の消費過程であり、同時に人間労働による新しい商品の生産過程であって、それはまた「価値移転」、つまり生産過程に入る前の商品の「価値移転」とはまったく別の、商品──したがってまた商品価値──の「再生産」の問題です。〕、と。
〔<生産>過程の前の諸商品の消費過程〕、すなわち生産手段の消費過程は、たしかに〔同時に〕、〔人間労働による新しい商品の生産過程〕であるのですが、しかしそこには概念的な“区別”があるのであり、それを見ることが、必要だと言っているのだと思われます。(私も読んだ当初は意味が受け取れませんでしたが。)
つまり、概念的には前段となる生産手段の消費過程においては、その使用価値が消費され消滅してしまうのと同時に、その価値は生産物に引き渡され──先に述べたように、この引き渡しを媒介するのは生産手段を“生産的に”消費する労働の具体的有用労働としての属性です──、この価値部分は新しい生産物の価値成分として移転・保存されます。それに対して、概念的には後段となる新しい生産物の生産過程においては、実際に、活動する人間労働が新たに付け加えられることによって、その具体的有用労働としての属性によって新しい生産物(使用価値)を生み出すと同時に、生産物にはその労働の抽象的人間労働としての属性によってそれに要した労働量である価値が“創造”される、のだと。
(次の項目3.では、この後に続く林さんの指摘を引用する予定です。それ以外の林さんの他の論点や、他の諸論文については、学習会で議論になると思われますが、この小論では対象外とさせてもらいます。なお、本文のなかで、材料(対象)と言ってみたり材料(素材)と言ってみたりしているのは、労働から見た場合と生産物から見た場合の違いとしてそうしたのですが、あまり違いはありません。質問が出るかもしれないので、念のため。)