前の続き。
多分戦前まではあったのだと思うけれど、銀座に十二ヶ月という汁粉屋があった。
12ヶ月になぞらえたお汁粉12杯を食べたらタダという事をしてたらしく、東京では結構な有名店で繁盛していたらしい。
戦前の東京の汁粉の名代のひとつ。(他は人形町の初音、浅草の梅園、銀座の若松など)
場所は銀座なのだけれど新橋寄りにあったので、本によっては新橋の十二ヶ月になっている。(後他所に移転)
地図を見ないと銀座と新橋が隣り合ってることすら分からない人間にそんなことを言われても紛らわしいだけである。
『東京名物食べある記』によると、1月若菜、2月梅、3月桜、4月卯の花、ここまではお汁粉。
5月さつき、ぜんざい。6月みなつき、葛。7月天の川、生姜入り雑煮風。
8月明月、月見団子。9月翁草、10月小春、11月神楽、不明。
12月とび雪、ぼた餅。
これは昭和4年のルポタージュなので、明治前半とは様子も違っているのではないかと思うけれどまあ似たようなもんだったんでしょう。
実はこのお店、昔の回顧録や追想録を読んでいるとぽつぽつ名前を見かける。
山本笑月(明治6年生、ジャーナリスト、長谷川如是閑の兄)の『明治世相百話』によると
名代の随一は新橋の十二ヶ月、硝子戸を開けてすぐ二階に上る、みんな食えば景品を出すなどと噂はあったが、三月四月となると紅餡や白餡が出て大抵は箸を投げる。
当時の主人に聞くと、「全部召上った方は開業以来一人か二人、別に景品など差し上げませんよ」
鶯亭金升(明治元年生、ジャーナリスト)『明治のおもかげ』によると、
当時汁粉では、銀座に「十二ヶ月」と言う店があって、正月から十二月まで十二種類の汁粉を出す。
十二ヶ月を残らず喰べた客には、景品として傘や手拭いを出したものだ。
ずっと以前には代価を取らぬことにしたが、二年喰ったり一年半喰ったりした客があったので、後にはこんな張紙を出した。
十二ヶ月を皆召上りましても代は頂きます
その側に客の書いた紙が二、三枚、人目を惹いている。
十二ヶ月みんな喰べた、下谷の○○
一年半、ぺロリ、まだやれます、浅草の男
嘘ではないと女中が言ったから真にこんな客があったのだろう。
笑月と金升の話では若干食い違いがあるのだけれど、前出『東京名物食べある記』にも
十二ヶ月を喰つて頂けたなら、お代も要りません。
その上お景物もさし上げませう、という看板で、一時は随分有名になつた十二ヶ月である。
とあって、多分景品は渡していたんだと思う。
広瀬武夫がこの十二ヶ月で汁粉を12杯食べたという話があります。
幾つかの伝記にも出ている話なので、ご存じの方も多いかも。
伝記に出ているだけなら「はいはい誰が言い出したの」という所なのですが、話の出元が友人知人なんだよね。
飛騨高山時代に得た親友福田吉郎兵衛。
海軍兵学校の生徒の頃の話だと思うけれどと前置きして、
「銀座にある十二ヶ月という汁粉屋で12ヶ月分残らず食い尽くした」
という事を広瀬から聞いていたと言っている。
広瀬戦死後に友人とその話をしたら、その人は「12ヶ月分を2回食べたって聞いたよー」と。
更にもうひとりいて、柔道仲間のひとり山口鋭。
山口の名前に触れるのはこれで何回目かですな。
秋山真之と同期の海兵17期で、2・26事件に関与した山口一太郎の叔父になります。
この山口が、
「築地時代に例の十二ヶ月を征服して手拭か何かを分捕ってきたのを覚えている」
という事を言っていて、福田の言う通り海兵時代の話のようです。
というか、
>12ヶ月分を2回食べたって聞いたよー
こーゆーのが結構いるから「十二ヶ月を皆召上りましても代は頂きます」こういうことになったんだろう…^^;
汁粉と言えば金升の『明治のおもかげ』には
・汁粉は元々汁粉餅と言っていた→餅を取って汁粉に
・明治時代に大きい餅を入れた汁粉屋があり、それは駄汁粉と言って下等扱い。一流の汁粉屋は小さい餅を入れて出した
という話が載っている。
駄汁粉て。
お餅が大きい方がよさげな気もするのだけれど。
生方敏郎(明治15年生、ジャーナリスト)『明治大正見聞史』にも駄汁粉の話が出ていて、値段は1銭だったそうだ。
明治30年代初期の話ですが、とにかく安かった。
対になって書かれているのが御膳汁粉(こしあん⇔田舎汁粉・粒あん)で、これが2銭。
生方は群馬出身、明治32年に上京して明治学院、35年に早稲田に入っています。
明治学院の側には明治学院の学生がよく行く汁粉屋があったそうで。学生なので勿論駄のつく方。
友人に「ルビ食いに行こうぜ」と誘われてついて行ってみると駄汁粉屋だった。
この場合ルビ=汁粉ということになるけれど、何でルビ?
友人が言うには、
「ジュリアス・シーザーがルビコン川を渡るか渡るまいか迷っただろう」
「それがどうして」
「この駄汁粉屋はあまりに汚いからシーザーだって入るには躊躇する。でも食べずに帰る訳にもいかないから思い切って飛び込むんだ。ルビコン川みたいだろう?」
汚くてまずかったらしい。
上記の通り生方は明治30年代に東京で学生生活を送っています。
当時の学生はかなりバンカラだったみたい。
生方曰くバンカラも甚だしい。
そうした風俗は薩摩から来ていたという事で、当時の学生の様子は
蓬髪汚面、短褐弊袴、醤油で煮〆めたような手拭を腰をブラ下げ、右か左の肩を怒らせ、弥蔵というものを拵えて懐におさめ、目を怒らせて歩き、友達に会えば「貴様どこへ行く」。(略)
これことごとく薩摩学生の模倣であったのだ。(略)
やはり薩摩人を真似て、学生の間には鶏姦ということがかなり盛んに流行した。
…(略)…
鶏姦はこの頃の流行物で、それも勿論薩摩の学生を模倣した結果であるが、彼の外にも鶏姦を実際犯しつつあったものは幾らもあったので、よく皆が稚児だとか念者だとか、話していたものだが(略)
やっぱりか。やっぱり薩摩か(笑) 知ってたけど…
明治20年代、30年代は大流行した時期ですよねー…何がってナニが…^^;
ははは…
(※弥蔵 別窓)
広瀬がいた攻玉社も学生が乱暴で有名で、ボートを漕いでいる時に攻玉社生徒の乗るボートが見えたら一目散に逃げたそうです。
攻玉社は30年代に制服が制定されていて、その為に遠くからでも識別出来たらしい。
まあ、乱暴さといったら時代が古い方がより一層乱暴そうな気はしますな…^^;
ただ広瀬の攻玉社時代(10年代後半)を知っている人が言うには、当時の広瀬は痩せぎすで大人しく、喧嘩なんか出来るような感じではなかったとのこと。
続きます。
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あれで太らないとか、どんな暮らしをしていたのか…
うらやましい…
薩摩…なんか過剰な男らしさの影には、必ず出てきますね、彼らは…
移動がほぼ歩き、明治大正の頃は自動車も自転車も高級すぎて庶民の手には届きませんでした。
こういう風俗って何でか薩摩ですね(笑)
薩長の天下と言いつつこういう面ではなぜか影の薄い長州…なんででしょう。