押川春浪が巌谷小波により博文館発行の雑誌の編集者に押されたという事もあると思うのだけれど、押川は広瀬武夫の詳伝(でいいと思う)を書いている。
書いてるんですよ!
あまり言われない…というか、そういう事を言っている人を見たことないけど(押川サイドからは見ていないから全くノータッチかどうかというのはまだちょっと分からない)。
それが収録されているのが上写真の『日露戦争実記臨時増刊号 軍神広瀬中佐』。
この広瀬伝は博文館の押川、国府犀東、岸上質軒の3人がリレーで書いていて、押川は広瀬の出生から海軍兵学校を卒業するまでを担当しています。
間違いが多いけれど、出版日が明治37年4月18日で広瀬の戦死が同年3月27日である事を思うと、急場拵えとはいえかなり頑張って作ってある。
とは言えこの雑誌が出るまでに新聞があれこれとかき立てていて、悪い言い方をすればそれを纏めてしまえばいいという事もあるのだけれど。
それはともかく博文館がそういう雑誌を出していたため、広瀬の従弟の倉持という人物が出版社を尋ねてきた事があるそうで。
この倉持某は広瀬の書簡等にも出ておらず、どういった関係の従兄弟なのかがよく分からない。見逃してるだけかなー
詳細は分からないのだけれど、恐らく1番目の継母琴(きん)の甥ではないかと思います。
広瀬が東京にいた頃にね、結構交流があったみたい。
東京にいた頃ていつよという話ですが、岐阜から(高山にあらず)東京に出てきて攻玉社やら当時築地にあった海軍兵学校に通っていた頃。
明治16年から20年位の話。
なんて言うか、昔から大食で甘いものが好きだったらしい。やっぱり…
広瀬本人が倉持に語る所では鰻丼なら5人前、寿司なら10人前。ぺロリ。
しかし、広瀬は明治21年に大怪我(というか病気)をして足切断の寸前まで行きますが、その時からは以前のような大食ができなくなったそうで。
それでもお寿司7人前位はぺロリ。
風月堂では店先で大量のお菓子を平らげたり、お茶のアテに出された砂糖瓶を丸ごと平らげたり、随分な量の汁粉を平らげたり。
周りの人はやっぱりびっくりして笑い話としてそれを人に話している。
汁粉と言えば、広瀬にはひとつふたつエピソードがあります。
ひとつは明治35年の話。
シベリアを横断した後、広瀬は当時貿易事務官としてウラジオストクに滞在していた川上俊彦の家に何日か逗留します。
(旅順開城約成りました)
川上さん。としひこではなくてとしつね。
外務官僚で、日露戦争時旅順開城後に行われた水師営の会見で乃木希典とステッセルの通訳をしている。
また伊藤博文がハルビンで暗殺された際にはその側にいまして、重傷を負っています。
川上さんも大食漢で殊に天麩羅が大好き。
人に自分で作った天麩羅をご馳走するのも好きで、ついについた仇名が「川天」。
本願寺の法主大谷光瑞とも親交があり、天麩羅屋でもしたら?と天麩羅台まで送られています(仇名はこの人が付けた)。
広瀬がウラジオの川上邸に到着した時、とりあえず用意されていた3人前のご飯を平らげお櫃を空にして下働きの人を驚かせているのですが、川上の妻常盤には汁粉と味噌汁をねだっています。
常盤から広瀬の義姉春江に宛ての葉書には「甘きものに於ては私の味方とうれしく」とあるのですが、お汁粉を10何杯かお代りしたらしい。
うわあ…
あんこがあまり好きではない私からすると、かなりきっつい感じ…
変な所で切れるけど今日はここまで。
続くよー
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