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文士から広瀬武夫へ

2013-03-30 | ヒストリ:広瀬武夫

産経新聞の『紅と白』(高杉晋作の伝記小説)が面白い所にさしかかってます。
といっても今に始まった訳でなく、池田屋事件を経て蛤御門の変が終わり、四ヶ国連合艦隊との戦争が始まり終わった所で、長州藩が一番大変だった時期の話。松門四天王が櫛の歯が欠けるように亡くなっていく。
そして今出てきているのは井上馨と伊藤博文です。当時は聞多と春輔だけど。
そろそろ山県有朋も出てきてますな。
しかし懐かしい…私が伊藤博文を好きになった辺りだ。
今は高杉晋作が野山獄から出てきて、宍戸刑馬として講和の談判に向かう直前のあたり。
伊藤博文が通訳したんだよねえ…
これから伊藤に触れる機会が増えると思うとそれも嬉しい。
歴史小説読みたいと言っていたけど、これ歴史小説じゃんと今更ながら気が付いた。
 


https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/20/2c92ca1f1afd123a9e15ad741b629c4b.jpg?random=

この人の話の続き。
 
編集者国木田独歩の時代』によると、国木田独歩は交友関係が大変広かったそうです。
私は文士の話は全然知らないので、名前を上げられても有名な作家位しか分からなかったけれど、武林無想庵の名前が出て来た時は少し驚いた。
そうなんだ。
山本夏彦の『無想庵物語』の人、武林無想庵。
山本夏彦の父(山本露葉・詩人)とは友人だった。
 
無想庵がフランスから帰国し久方ぶりに露葉を訪ねたら彼は既に泉下の人となっていて、その友に瓜二つだった夏彦少年に
「友の子は友だ」
といって交友関係を結んだ。
山本夏彦は青年期にフランスに滞在していますが、それも無想庵に連れられてだった。
まさかこんな所で名前を見ようとは。
実は父の本棚に『無想庵物語』はあるのだけれど、何回か読みかけていずれも挫折。笑。
今読んだら面白いかも。

山本夏彦のエッセーは何を読んでもまず面白いですが、このブログを御覧の方は近代史に興味がある方が多いだろうと踏んで『誰か「戦前」を知らないか―夏彦迷惑問答』をお勧めします。
めっちゃ面白いです。
自分たちの父祖父曽祖父が戦前に住んでいた日本はどんな世界だったのかを若い女性と問答していくという話なので、歴史に興味がなくても面白いと思う。
先日神田連雀町の話を書きましたが、ページを捲ったらこの本にも書いてあった。

連雀町の藪には戦前よく行った。
昭和十年ごろ日本髪なんか結ってる娘はもう稀。ところが藪の女中(数え十六、七)は皆桃割に結っている。
それがずらりと居並んで「いらっしゃいまし」。びっくりしたんでよく覚えてる。
連雀町の藪は震災戦災にも焼けてない。戦前の面影を見たければここで見られます。
近くに「ぼたん」って鳥屋、「竹むら」って汁粉屋、あんこう鍋の「いせ源」などこの一郭だけに明治大正の家並が残ってる。
竹むらを見ると、明治の汁粉屋はこんなだったんだなとわかる。

地図を見たら前の交通博物館の本当に近くだった。
なんだ須田町の辺りかよ…(広瀬武夫の銅像があった万世橋駅の付近)
近くまで行ってたのに知らなかったから見てないというのが悔やまれる。

夏彦さんの本には広瀬武夫の話も時々出てくるのだけれど、漢文を自由に操ったのは軍人では広瀬武夫、文人では夏目漱石が最後というのがその主張。
日本人のバックボーンについてが要諦になる話なのだけれど、考えさせられる話が多い。

マッカーサー元帥は若年の時日露戦争に従軍武官の一人として当時の将軍に接しています。
星移って元帥として「東京裁判」で昭和の陸海軍の将軍を見て、全く別人かと怪しんでいます。
日露戦争当時の将軍乃木希典、児玉源太郎以下は皆封建の人です。四つ五つの頃から四書五経の素読で育った人です。
漱石の弟子たちは明治の人で、東洋の古典を捨てて西洋の古典を得れば西洋人になれると思ってその双方を失った人たちです。
いわんや今の人は


今の人は(以下略)。後は書かなくても分かる。
 
余談が過ぎました。
国木田の交友で面白かったのが押川春浪と巌谷小波。
いや、ほんと何なんだこの人たち(笑)
押川はSF小説・冒険小説、巖谷はおとぎ話や童話、つまり子供向けの文章でよく知られている人です。
明治中期から大正期にこのふたりの文章に触れなかった少年は少なかったんじゃないか。

巌谷はね、既にサイトに名前が出ています。
分かる貴方は凄い。広瀬コーナー内の歌曲の所で紹介している『広瀬中佐』の作詞者です。
『広瀬中佐』って歌何曲あるの(笑)
という感じですが(5曲のうち4曲が『広瀬中佐』)、

神州男児数あれど 男子の内の真男児 世界に示す鑑とは 広瀬中佐のことならん

歌い出しがこの分。『日本海軍』のメロディで歌ってください。
ハイ!しんしゅーうだーんじかずあーれどー♪
広瀬で一番有名な「轟く砲音飛来る弾丸」の文部省唱歌の作詞者も巌谷小波と広瀬神社では伝わっていると書かれた本を読んだことがありますが、小笠原長生っぽいというのも読んだことがある。日記(未公開)にそれらしい記述があるようで。
真偽の程はよく分かりません。

日露戦争の当時、巌谷と押川は博文館にいたんですな。
博文館は日露戦争の際、『日露戦争実記』や『日露戦争写真画報』(実記の増刊号)といった雑誌を刊行していまして、この後者の編集長に押川を推したのが巌谷でした。
 
続く

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2 Comments

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Unknown (ジゴロウ)
2013-03-31 00:10:01
なんじゃこの繋がりは…
本当に昔の人は、赤の他人を探す方が難しいですね。

神田にある、あんこう鍋も、汁粉屋(揚げ饅頭が美味しいです)も鳥すき屋も、いまだ営業中ですもんね。

あんこう鍋の店が、たしか天保に開業とかで、上野の端っことかにも、享保開業の仏具屋とかありますが、建物は、神田や北区(この間放火された、都内唯一の酒蔵あたり)なんか、 すごいですよ。

京都じゃ新参もいいとこですけどね。
返信する
>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2013-03-31 08:11:07
江戸や明治の東京の風情を忍べるものが人の話と写真しか無いというのが寂しい事頻りです。
断片的かつ平面的で、全体像が分からないというのと今とはあまりに違い過ぎて想像ができないんですよねえ。
頑張って営業を続けて頂きたい… 
近くまで行く機会があれば一度立寄ってみたいです^^
 
確かに京都だと創業100年でも新参ですから比べちゃいけません(笑)
返信する

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