その日も私は、定時に仕事を終えると真っ直ぐにいつもの亀山亭へ向かった。
開店直後の誰もいないカウンターで、ひとりくつろいで美味しいお酒を味わうのが最近の私の密やかな愉しみなのだ。
店のドアを開けて中に入ると、驚いたことに私の指定席には既に先客が座っていた。
上質なツイードのジャケットを着こみ、シルバーグレーの口髭を蓄えた、英国風の品の良い紳士だ。
ただ、表情は沈鬱で、何か重大な心配事を抱えているようにも見える。
「やあ、"魚賭寸"君。そろそろ現れる時間だと思っていたよ。とりあえずその辺りにでも鰍ッてくれたまえ。」
カウンターの中に居たマスターは私にそう言うと、その紳士に向き直った。
「ご紹介します。彼は私の有能な探偵助手、"魚賭寸"君です。きっとお役に立てると思いますので、貴方が体験なさったという奇妙な"事件"のあらましを、もう一度彼にも話してやってはいただけませんか。」
おやおや。いったい何時からマスターは探偵稼業なんか始めたんだ。
それよりなにより、どうして私が助手なんだ。そもそもそんな変な名前じゃないし。
Y氏と名乗るその紳士は、面食らっている私に気づく様子もなく、訥々と語り始めた。
「あれは、そう、一ヶ月ほど前のことです。
その日私は、初めての磯にメジナを狙いに行きました。
空はどんよりと曇って薄暗く、風もほとんどなくて、今にして思えばとても気味の悪い天気でした。
広い磯には、私以外誰も居ません。
私は磯の先端に立って、すぐ足元にコマセを打ってみました。
すると、驚いたことに、良型のメジナがわらわらと湧いてくるではありませんか。
私は夢中になって釣り、魚をスカリに入れる時間も惜しいので、釣り上げる都度、すぐ背後にあった潮だまりに泳がせておきました。
5匹ほど釣ったところで、まとめてスカリに入れようと潮だまりを見てみると、どういうわけだか一匹も魚がいません。
私は呆然としました。
ただ、そのときは、私がぼんやりしているうちに魚が潮だまりから飛び出して、跳ねて逃げてしまったものだとばかり思っていました。
私は気を取り直して、もう一度仕鰍ッを投入しました。
すぐにアタリがあり、今度は40cm近い立派なメジナがヒットしました。
今度こそ逃がしてはいけないと、私は針を外した魚をいったん潮だまりに入れると、すぐにバッグの中のスカリを取り出そうとしました。
そのときです。
背後からフッと、生温かい風が私の首筋にあたりました。
何だか嫌な予感がして背後を振り返ると、たったいまそこに置いた筈の魚の姿がありません。
広くて平らな磯の上ですから、そんなわずかな時間に跳ねて逃げてしまうことなどありえません。
私は背筋がぞくっと寒くなりました。
私の背後に、青白い顔をしたずぶ濡れの女が立って、メジナを掴んでにやりと笑う姿を想像してしまったからです。
きっとここはそういう場所なんだ。だから誰も釣り人がいないんだ。
恐ろしくなった私は、慌てて荷物をまとめて逃げ帰りました。
以上が、あの日私が体験した恐ろしい出来事の一部始終です。
そして、それ以来、私の事業も急にうまくいかなくなってしまったのです。
大口の取引がご破算になったり、古いお客さんの売葛烽ェ回収できなくなったり。
こんなことは今までありませんでした。
これもきっと、あの磯に居た何かの「祟り」のようなものじゃないかと思うんです。」
Y氏は、そう語り終えると、冷酒の入ったグラスを一気に飲み干した。
「どうだね、"魚賭寸"君。君は今の話を聞いてどう思うかね。」
マスターは私にそう尋ねた。
「これは奇妙な出来事だね。まるで魚の神隠しだ。」
「そのとおり。これは実に奇妙奇天裂な事件だ。神隠しだの幽霊だの非科学的なものを認めるつもりはないが、現にこうしてY氏は恐ろしい思いをなさって、現実的な被害を受けている。ここはひとつ、われわれでこの事件を解決して差し上げようじゃないか。」
私は驚いて訊き返した。
「解決すると言ったって、マスター、一体どうしようというんだい。」
「決まってるじゃないか、"魚賭寸"君。明日の朝、ふたりでその磯に行ってみるのだ。君は助手だから、今日は早く帰ってぐっすり眠って、明日の運転に備えてくれたまえ。念のために釣り道具を一式用意しておくように。
Yさん、ご心配は無用ですよ。明日の夕方にはすべての真実が明らかになっているでしょう。そして、うまくいけば、貴方のメジナも取り返してまいりますよ。」
・・・・・・・・・・・・
翌朝、わがままな探偵と哀れな助手は、件の磯にやってきた。
空は青く澄み渡り、海も穏やかだ。
「さて、ここが問題の磯だな。それではさっそく謎解きを始めるとしようか。」
「えっ、マスター。もうこの謎の答えがわかってるの。」
「もちろんさ。まあ、見ててごらん。」
マスターはそう言って用意してきたクーラーボックスの中から一匹のアジを取り出し、磯の上に置くと、少し下がって頭上の空を指さした。
すると、はるか上空を旋回していた数羽の「トビ」のうちの一羽が、こちらをめがけて音もなく急降下してくるではないか。
そして、地上すれすれで大きく羽を広げて体勢を立て直し、鋭い爪でアジを「わしづかみ」にすると、そのままどこかへ飛び去って行ってしまった。
そうか。神隠しの犯人は、トビだったんだ。
「猛禽類は獲物を見つけると、ああやってはるか上空から音もたてずに襲撃するんだよ。飛翔力があるから、尺メジナだって軽く運んで行ってしまうよ。Y氏が背後から感じたという風は、トビが飛び去るときに羽ばたいて起きた風だろうね。」
「マスター、最初にY氏の話を聞いたときからわかってたんだね。でも、Y氏の事業がうまくいかなくなったことはどう説明するの。」
「それとこれとは全く関係ないね。すぐれて現実的な理由が別にあるはずだよ。あいにく私は経営コンサルタントじゃないから分からないが。Y氏が悩むべきは本来そっちの方だ。」
「ずいぶんはっきりと言うね。」
「この世に不思議なことなど、なにひとつないのだよ。"魚賭寸"君。」
マスターは悪戯っぽくにやりと笑った。
ところで、用意してきた釣り道具はいったい何に使うのだろう。
私がそう尋ねると、マスターは、何をわかりきったことを訊くのだという顔でこう言った。
「決まってるじゃないか。今からわれわれはメジナを釣るのだ。今日の夕方にはY氏がまたお店に来るからね。彼の大好物の「漬け」を用意してお迎えしようじゃないか。さあさあ、有能なわが助手として、君の唯一誇ることのできる才能を存分に発揮してくれたまえ。」
なんだ。マスターが昨日Y氏にメジナも取り返してくると言ったのはそういうことか。
「ああ、それから、釣ったメジナはすぐにこのクーラーボックスに仕舞うように。トビにさらわれてしまうからね。」
私たちの話が聞こえたのか、はるか頭上でピーヨロロとトビが啼いた。
<本日の晩酌>
ニッカ「ザ千葉ブレンド」。
美味しいです。
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