『ビジネスウォーズ』より一部抜粋〉
〈登場人物:敬称略〉
よろしくお願い致します。🙇♂️
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1945年9月、
愛知県挙母(ころも•後の豊田市)
戦争が終わった。
トヨタの工場は瓦礫と化していた。
豊田英二、取締役。
机の上にある契約書に目を通している。
近くのソファーには、
ハットを被り、
真っ赤なシャツを着た
小柄な男が
それを興味なさそうに眺めている。
豊田英二は、ペンを止める。
『本田さん、本当に、いいんですか?』
本田宗一郎は、チラリと笑みを見せる。
『ああ、もちろん。
工場も、空襲にやられちまったし、
明日は、何が起きるか誰にも分からない…
売っぱらうには、いいタイミングだよ。』
『しかし、ウチが、製造再開したら、
あなたの技術と製品が、
必要になるんですよ。』
本田は、ニヤリと笑う。
『製造を再開したら?
再開できれば、の話だろう。
どうせアメリカは、
トヨタをフォードかGMに渡して
閉鎖させる気だよ。
決心は変わらないよ。』
豊田英二は、ため息をついて、
契約書にサインする。
本田は、天才的なエンジニアだ。
製造に1週間かかっていた、
飛行機のプロペラを
わずか30分で作れる機械を発明した。
軍は、彼のことを
〈技術の名人〉と呼んだ。
彼の会社のピストンリングは、
日本で最高の品質だ。
豊田英二は、ペンを置く。
『これから何をするつもりなんですか?』
『人間休業を取ろうと思っている。
俺は16の時から毎日働いて、
もう40だ。
そこで、ただ、庭を眺めながら
ウイスキーを飲むことにしたんだよ。』
豊田英二は、驚いた。
自分たちは、
日本復興の道を探しているというのに、
最高のエンジニアが、
ぶらぶらと休むと言うのだから…
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本田宗一郎は、
1906年(日露戦争後)、
静岡県浜松市に生まれる。
地方の貧しい少年として育った。
小学校を卒業した1922年4月、
15歳の本田は、
東京本郷湯島の〈アート商会〉の
丁稚小僧になった。
彼は、大学に行っていない。
仕事をしながら、技術を覚えた。
謂わば、
現場からの叩き上げだ。
↑上の車は、
アメリカのカーチス、
〈ジェニーA1複葉機〉の
中古航空エンジンを
アメリカ車のシャシーに乗せた
スペシャルマシン、『カーチス号』。
1924年11月、
第5回、日本自動車競争大会で優勝。
17歳の、本田少年の胸に燃えた、
モータースポーツへの情熱は、
生涯、消える事はなかった。❤️🔥
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1946年9月、
浜松に戻っていた本田。
たまたま知人から預かっていた
旧陸軍の無線機発電用エンジン。
本田の頭に、
アイデアが閃く。
《これを、自転車の補助動力に使おう》
もともと、修理工だが、
発明家でもあった。
(塩やアイスキャンディーが有名)
戦後始めた
『人間休業』も、
一年も経たず、止める事になる。
豊田英二の考えは当たっていた。
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2スト50cc改造エンジン
原動機付き自転車
通称『バタバタ』
10月には、発売を始めた。
口コミで、評判になり、
買い手が、やって来た。
しかし、
改造エンジンが、
間もなく底をつくのは、
目に見えていた。
本田は、次の準備に取り掛かる。
《自身のエンジンの開発》
1948年、
オートバイを作る会社、
本田技研工業を創立した。
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1949年8月
ドリームD型
黒い塗装が通常だが、
本田好みのマルーンカラー
彼が、
心に描くホンダは、
模倣よりイノベーションを重んじ、
個人の決断が、会社を作っていくような
技術者の会社だった。
しかし、順風ではなかった。
1949年、
GHQの政策により、
日本全体が、急激な不景気になる。
ものを作る事は、得意だが、
営業、特に金銭勘定は、
本田の最も不得意とするところだった。
取引先の倒産、
売り掛け金の未回収が多くなる…
本田は、運命的な出会いをする。
藤沢武夫。
彼は、
(戦後、復興の為に木材の需要が伸びる)と
予想。
山林を買取り、製材屋を始める。
予想的中、財を成した男だ。
藤沢は、
本田の噂を聞き、興味を示した。
共通の友人によって、
二人は、出会う事になる。
お互いに夢を語り合った。
わずか5分、
二人は、意気投合した。😓ほんとか?
本田『金の事は任せる。
オレは、技術屋だ、
物作りについては、
一切口を出して欲しくない。』
藤沢『お金の方は、私が引き受けよう。
必ず、儲かるとは言えません。
近視的な見方は、しないで下さい。
ただ、あなたが一番
仕事がし易い様に持っていきます。』
本田『分かった。』
藤沢『では、私にやらせてくれますか?』
本田『頼む。』
以降、
ホンダの資金調達と販売の大部分を
藤沢が担う事になる。
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1950年9月、朝鮮戦争が始まる。
『特需ブーム』によって、
日本は、好景気に。
ホンダも、息を吹き返した。
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1951年、サンフランシスコ平和条約
サインする吉田茂首相。
6年ぶりに、日本は、独立をした。
藤沢は、予想した。
『パワーは出るが、
エンジン音が、うるさい2ストよりも、
低パワーでも、
静かな4ストの方が好まれる。』
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/ca/b085dde36c351e321931117f7f84fcdb.jpg?1690678981)
初の4ストバイク
ドリームE型
D型が、月生産160台
E型は、月生産500台
1年後、月生産2000台
3年後、年間32000台の大ヒット!
E型は、飛躍のキッカケとなった。
しかし、
販売力の弱さは、
相変わらずで、
代理店、販売店を、
どう開拓していくかが問題であった。
藤沢は、
未開拓の流通網を開拓することになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/41/8e1bb0d206b9576fa38411aae112a219.jpg?1690683266)
カブF型
自転車用補助エンジンの最新作。
〈白いタンクに、赤いエンジン〉
2スト50cc
スマートで可愛いらしく、
誰にでも親しめる雰囲気。
F型を見て、
藤沢は、
全国5万軒の自転車店に
DMを送った。
今のように、パソコンはない。
宛名は、全て手書きだ。
『あなた方のご先祖は、
日露戦争の後、
勇気を持って輸入自転車を
売る決心をされた。
それが、今日のあなたの商売です。
ところが、今、
お客様は、エンジンの付いたものを
求めている。
そのエンジンを、
ホンダは、作りました。
興味が、おありなら、お返事下さい。』
反響は、すごかった。
5000軒の自転車店に
F型を売る事に成功した。
それも、売掛けでなく、前金で…
藤沢は、
あっという間に
自前の販売網を作り出した。
(自転車とバイクが、一緒に売っている店が
あるのは、こういう訳です)
同時に、
今までにないダイナミックな、
宣伝活動を行った。
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当時、人気絶頂の日劇ダンサー50人が、
カブF型に乗り、
東京銀座の大通りを華やかに
パレードした。
沿道の観客は、拍手喝采。
マスコミも全国に報道。
女性も乗れる〈カブF型〉の名が、
一気に広まった。
藤沢は、後年、著書で言っている。
『松明は、自分で持って歩かなきゃ、
先頭を歩けないんだ。
他人の松明で歩くのは、
道も迷わないし、つまずきもしない。
けれど、リードすることは、
出来ないんだよ。』
本田にとって、
藤沢は、無二のパートナーであると
同時に、
切磋琢磨し合うライバルでもあった。
作る人、本田。
売る人、藤沢。
見事なパフォーマンスを見せた。
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つづく。
そうそう、
自転車にエンジンを付ける
アイデアは、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/9b/1da1ad94113c78658e0b33d0bb5cf462.jpg?1690685681)
遠くに買い出しに行く
奥さんの為だったんだって。
素敵な話しだと思わない?
それで、あなたは、何をしてくれるの?
チーン😓
それでは、また。