徒然 さやか日記

思い出~ユーゴ内戦~

夕飯後、TVを付けると、
懐かしいユーゴスラビアの内戦特集をやっていた。
懐かしい、などと口にすると、当時、多くの犠牲者を出し、悲しみに今も包まれている人々には 大変失礼かもしれない。
約20年前…
そう、まさしく私もウィーンに渡り、
一人孤独な生活を送っていた時
ユーゴの戦で、命からがらセルビアから脱出して、ウィーンで生活を始めだした友人家族がいた。
私が通うドイツ語学校は、まさにあちこちのインターナショナル色で賑やかなお国柄。
ウィーンは、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、アジア、アフリカ、その他あちこちからの 人種のルツボ。
イランイラク戦争・湾岸戦争もあったし、ベルリンの壁が破れ間もない頃でもあった。

当時、ようやく、生活にも慣れだしてワンステップ上がった私のドイツ語クラスに、セルビアからの脱出者で、小児科医を目指す女性がやってきた。
名前は、メリマ(Merima)、私より少しお姉さんで、クラスに入ってくるなり、誰よりも勉強をよくして、優秀な賢い人だった。メリマは、一人暮らしの私とアパートがご近所ということもあり、良くドイツ語を教えてくれ、かわいがって気にかけてくれていた
メリマに誘われ、ゲーテインスティテュート国際ドイツ語ライセンスの資格試験もトライできた。
彼女は上級1級、そして私は2級上級に合格できた。
メリマに続いてドイツ語学校にご主人がやって来たのはそれから暫くしてのことだった。
ご主人・ゴーラン(Goran)は、暗く、口数が少なく、近寄りがたい人。
声のかけにくいゴーランは、それでも片言のドイツ語が日毎に増え仲良しになった。
彼はセルビアから、まず、一人脱出してWienに住む場所(私のアパートの近く)を見つけ、すぐに職が見つからず、日雇いの労働をしながらメリマ率いる家族7人を呼び寄せたのだった。
ゴーランは、祖国では一級建築設計士。夫婦そろってエリートだ。
ゴーランは初め、おびえた目で、引っ込みがち・・・
一緒に脱出した友人、そして、祖国に残した親戚が犠牲者として亡くなっているからだった。
そのゴーランが、私を日本人と判った時から恥ずかしそうにしながらもよく話しかけてくれるようになった。
なぜなら、彼は、安藤忠雄さんの大ファンであったから。
建築、そして日本の寺社仏閣の建築美の話をしだしたら止まらない人であった。

ウィーンで、彼らは、小さな台所と居間だけの部屋に8人で暮らしだした。
その、たったの一部屋にいつも私を招いてくれるのだ。
窮屈で遠慮がちになって、向こうもしんどいはずなのに、彼らは違った。
「さやか、いつでもおいで、ずっといてもいいよ、夕飯も一緒に」いつもそうだった。
の底にどろ~っとたまるトルコのコーヒー(トュルキッシュコーヒー)の旨さも彼らに習った。
7つの息子が、大きくなったら、戦争が終わったら、ピアニストになりたいんだ、と言っていたことも思い出す。
自分たちが本当に苦しい悲しい、悲惨な思いをしているのに(…だから!?)私にはもの凄く優しかった。

今夜のTV番組で、ものすごく懐かしくなった。
当時、北海道新聞社でウィーン特派員だった岡田さんご夫妻とも、交流を持って頂き、当時まだ治安の悪かった東の国、チェコやハンガリー旅行にご一緒して頂き訪れたことも思い出した。
豊かな国ニッポンからの特派員だった岡田さんは、隣国ユーゴ内戦に足を踏み入れ、戦争の恐ろしさ、むなしさを肌身にしみたとお話になっていらっしゃった

昨日は、息子が渡欧から帰国。
そして明日は、終戦記念日。
息子の一言に驚いた、
「・・・あのな、如何に、日本が平和ボケしてるか、ぬるま湯に浸かっているか、無駄な贅沢な国で、大切な生活の本質見落としてる国か、わかるよ、外に出てみたら…」
どうせ直ぐに、自分もその生活に順応して戻るくせに、と思いつつも、そんな風に感じてくれただけでも渡欧のプラスになったのかも。と、音楽そっちのけで喜んでしまった、あまちゃん母

「さやか、一日に1粒なら、チョコレート食べても太らないから!」
そう言っては、いつも小さなチョコを手にのせてくれていたメリマに、
メリマに、会いたいな…





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