心は秘密

仏心に住して菩薩のように語るブログ

コロナ禍に人生の縮図を見る

2020-05-31 11:58:26 | 日記
今、世界規模でのコロナ禍の蔓延に、人々は苦しめられています。緊急事態宣言で人民の外出自粛を要請すると、蔓延も少し治まるが、経済活動も悪化する。そこで緊急事態宣言を解除して経済活動を取り戻そうとすると、コロナ禍もまた復活する。これではまるで世界中がコロナウイルス相手に「だるまさんが転んだ」遊びを始めたようなもので、こんなことを繰り返していても埒が明かない。


このようにコロナ禍を観察していると、一枚の人生の縮図を見る思いがする。人は此の世に生まれてきた時点で既に、将来の死は避けられない宿命を背負わされている。此の世に生を受けて、死なない人は誰もいないということですね。従って「生者は常に死魔を伴って生きている」と。


今回のコロナ禍もまた、自由な生活活動を脅かして蔓延する。これは世界規模での死活問題に繋がりますから、生を蝕み、病苦を齎し、死苦で脅かして、まるで人々の生存を終始脅迫している死魔との縁とも同じように、コロナ禍もまた、彼の世に潜んでいた死魔が、突如現実世界に飛び出して来たかのように、人々の自由な生存活動の現場を脅かしている死魔の姿としても、見えてくるのです。


そういうことであれば、死魔を解脱する要領で、予めコロナからの解脱も決めてから、心置きなくコロナ対策に取り組むと致しましょう。


「悟りの杖」への質問に答える(3)

2020-05-30 12:23:13 | 日記
拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、このテーマで記事を書いています。それ故、この記事に関する質問などを頂けると、今後の参考にもなりますので、有り難く思います。


今回は「悟りの杖」を読んだ方から、「まったく歯が立たない」という批判を頂いた件について、少しばかり述べてみたいと思います。


先ずこの書が目指した内容について語りますと、「解脱の実践技を易しく説く」ということにありました。したがって「まったく歯が立たない」と評されれば、心も痛みますが、それはその方の理解力の問題ではなく、単に仏教経典の類いに接した経験が殆ど無かったから、ということでしょう。誰だって始めて目にする仏教用語を、辞書も引かずに妥当な意味で読み取ることは難しいからです。


しかもこの書は、「悟りを得る実践技を易しく説く」ものであって、「仏語の意味を説いて知識を与える」という一般的な学術書には属しないので、そういう書物だと思って読むなら、まったく当て外れになって、「えっ? この書、いったい何を学べるの?」ということにも成りかねないからです。


そこで、この書が「悟りを得る実践技を易しく説く」ために用いた仏語とは、どういうものかということを、簡単にお伝えしましょう。


この書で説く「悟り」は「解脱」に特化されています。解脱こそ悟りの要であり、解脱が無ければ悟りも無に等しいようなものだからです。


解脱は普通「心解脱」と「慧解脱」に分けて説かれています。この書で説くのは「心解脱」です。慧解脱よりも先に体得すべきものだと考えるからであり、解脱後に「よしっ! 解脱したぞ! これで煩悩の繋縛を解き放って無畏自在に成ったのだ! 常楽我浄に達したのだ!」という強い達成感が得られるのも、この解脱法であり、慧解脱の前に習得すべき解脱法だと考えるからです。


勿論「心解脱」を成就すれば、解脱身が見えるようになるので、少し瞑想のコツを覚えれば、程なく「慧解脱」も身に付けることができます。そうすれば真言密教で説く金剛界解脱輪をも成就して、最高の悟りに生きることも夢ではないのです。


という次第で、「悟りを得て仏に成りたい」という読者諸氏の夢を叶えられるような仏教書の作成を夢見つつ、拙著「悟りの杖」は執筆されたのです。



「悟りの杖」への質問に答える(1)

2020-05-27 16:28:08 | 日記
拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、より分かり易く書く技術を身に付けたいとの思いもあって、このテーマで記事を書くことを思い立ちました。それ故、この種の記事をお読みの方からの質問なども頂けると、有り難く思います。


上記「悟りの杖」の読者からの質問の一つに、「極楽浄土は死後の世界と云う。死んだ者には、そこが極楽浄土であっても、そうでは無くても、何も分からないのだから、極楽往生を願うことからして意味がないのでは?」というものがありました。


ご尤もな質問だとは思うけれど、これを分かり易く説明するのは難しい。極楽往生体験者にだって、往生体験の直前までは、想像もつかなかった不思議な問題だからです。それはどういうことかというと、新約聖書の福音書で、イエスが「わたしの名のために命を捨てる者は、死んでも死なず、却って永遠の命を得る」と語っているのと同様のことが起こるからです。


この故に、極楽往生する者は、死んではおらず、死後瞬時の早さで極楽浄土へ生まれ出ているのだと説明しておきましょうか。


仏道の新しい修法

2020-05-25 09:31:40 | 日記
仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。


そこに私の研究成果の出番もあろうか。原始仏典から密教経典までを消化した仏教のエキスを、忙しい現代人向けに、易しく簡素化したものが出来上がったからである。


しかし、この新しい仏道の修法を、何時、どこで、どのような方法で、欲する人の手元に届けたらよいのだろうか。公開が有効に役立つ適切な場を見付けることが難しい。


心の中に魔の声らしきものあり、「止めておけ、通じる相手なんか居やしない」と。この声が、余りにもリアルに心に響く。



色と受想行識は無常ということ

2020-05-24 15:59:24 | 日記
人は何の為に仏教を学んでいるのでしょうか。理想を云えば、悟って仏陀と等しく成るためではないでしょうか、できることならと。もし、そうなら、悟りへの道を確りと着実に歩む必要があるのではないでしょうか。またそれは、遠くて険しい道でもありますが、何はともあれ、先ずは仏道の入り口から確認してみましょうか。


釈尊が語り残してくれた説法の原形に最も近いと云われている原始仏典の漢訳に、大蔵経第二巻に収められている『雑阿含経』がありますが、その全五巻千三百六十二経の冒頭を飾る第一経には、次のように説かれています。


『当に色は無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』


これは五薀の中の色についての解脱を説いた箇所ですが、とても明快に説かれていて、解脱も簡単にできそうですね。もしそう思ったら、即座に解脱を試みるのもよいでしょう。上手く解脱できなければ、どこかに認識不足のところがあると思って、学び直せばよいのですから。


ところで五薀つまり色と受想行識というのは、私たち人間の身心を構成しているパーツを仮に五つに分類したものと理解しておけばよいのですが、この場合の色というのは身と心に分けた身、つまり人間の物体部を指しています。この物体部である色もまた、原始仏教時代には地水火風という四大にパーツ分けされていましたが、この経文では触れられていません。そこでこの経文では未解説の受想行識からの解脱を、続けて次のように説いています。


『色についてと同じように、受想行識についても無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』


ここで受想行識というのは、色が肉体的要素であったのに対し、心的要素を指す名称です。概説すれば、受というのは感官的要素。想というのは表象作用。行というのは得られた表象に基づいて行う是非分別などの能動作用。識というのは意識であり、理性的営みなどが働く段階をも含む名称ということになるでしょう。


この部分も、やはり前段同様にシンプルな説き方ですが、勿論説かれている通りに実践できれば、文句なく心解脱は成るわけですね。そして心解脱が成った者は、経文の最後を締め括る次の経文を、自心に確証するとよいでしょう。


『心解脱の成った者が、もし自証を欲するなら、能く自証することができる。即ち、我が生已に尽き、梵行已に立って、所作已に成し終え、自ら再び此の世に生を受けずと知る、と。』


「我が生已に尽き」というのは、此の世に繋縛された人生は既に終えたという意味ですから、以下は「煩悩に煩わされた迷いの人生を解脱したので、彼の世の仏界、即ち永楽の涅槃の境地に住して、再び迷いの此の世に戻って輪廻することもないのです」という意味になりますね。


このように経文では単純明快に説かれているからといって、よほど機根に恵まれていなければ、仏道初心者がいきなりこの経文を見ただけで、解脱が成就するというものでもないので、幾つもの経文を、何度も何度も繰り返し学び直し、読み直しつつ、実践を繰り返す必要があるのではないかと思います。