「不立文字」の意味に関する一つのヒントとして。
禅の本質を表す言葉の一つとされている「不立文字」。仮にこの四文字の意味を推考していると、「文字を立てず」は即ち「文字に依らず」であり、文字に依らないということは、取りも直さず「音声にも依らない」ことを意味するのだから、そのまま「何の意味にも依らず」であり、自ずから「無語の故に無音声」にして「能動も無く受動も無し」という「無の境地」に至り着くのではなかろうか。
では、ここで到達されたかに見える「無の境地」は、正当な覚りの境地だろうか、と検討してみると、確かに表面的には「法身は説法せず」と説かれている「如来の定の辺」に等しいかのようにも見える。しかしこの「無の境地」は、最初に提示された「不立文字」という四文字、即ち「文字に依存して考えられた境地」であって「文字から縁起した空想の境地」であるから、当然ながら行者の心には解脱も無いのであって、正当な悟りの境地とは無縁だということも分かる。
従って、この理が分かれば、単に無念無想の状態を自身で工夫したとしても、それで覚りの境地を体得したことにはならないということも分かってくるだろうから、それと同時に、禅が説く「不立文字」の本来の意味というか、秘められた仏心開悟の瞬間というものにも、少しは近付くことができるのではないだろうか。
では、ここで到達されたかに見える「無の境地」は、正当な覚りの境地だろうか、と検討してみると、確かに表面的には「法身は説法せず」と説かれている「如来の定の辺」に等しいかのようにも見える。しかしこの「無の境地」は、最初に提示された「不立文字」という四文字、即ち「文字に依存して考えられた境地」であって「文字から縁起した空想の境地」であるから、当然ながら行者の心には解脱も無いのであって、正当な悟りの境地とは無縁だということも分かる。
従って、この理が分かれば、単に無念無想の状態を自身で工夫したとしても、それで覚りの境地を体得したことにはならないということも分かってくるだろうから、それと同時に、禅が説く「不立文字」の本来の意味というか、秘められた仏心開悟の瞬間というものにも、少しは近付くことができるのではないだろうか。
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