心は秘密

仏心に住して菩薩のように語るブログ

新型コロナに負けない心

2020-04-27 19:07:19 | 仏教
今回の緊急事態宣言を受けて、我が国の新型コロナの猛威はどこまで防げるのでしょうか。事態の沈静化を祈るばかりです。こんな時、宗教には何ができるでしょうか。


『法華経』の観世音菩薩普門品の冒頭には、「もし百千万億の衆生が、様々な苦悩を受けていても、観世音菩薩の名を聞いて一心に称名すれば、観世音菩薩は直ちにその音声を観じて、彼らすべてを苦悩から解脱させるのだ」というようなことが説かれています。


「様々な苦悩から解脱させる」のですから、新型コロナ禍からの苦悩からも解脱させてくれるはずです。では、どのように苦悩現場から救済してくれるのでしょうか。


経文では、救済の具体例を挙げて「大火に包まれていても、焼かれなくてすむ」とか、「大水に流されていても、浅瀬が得られる」とか、「刀で斬られようとしていても、刀が砕けて救われる」等々、その他様々な苦難の状況を具体的に挙げて、その苦悩から解放されると説いています。


その例示から推理すると、「新型コロナウイルスに感染しても、感染者の身体を冒すことができずに消滅する」というような救われ方でしょうか。


勿論、このような説法は、心が救済される実状を比喩的に語ったものですが、このように無事救済されるという心の実態は、嘘や作り事ではないのですね。


この「観世音菩薩普門品」に先立つ「如来寿量品」に、如来は久遠の昔から成仏していることが説かれています。「この如来の寿命は無限だし、常に存在していて入滅することがない」のですが、観世音菩薩の名を念ずれば救い出してくれるの先が、この如来の体内ということなのです。


この「如来の体」というものは、肉眼や人知では見ることができませんが、どんな人も必ず体内に宿しているものなので、絶体絶命のピンチなどに、観世音菩薩の名を一心に念ずれば、きっと苦悩から解脱できて、安らかな心境を取り戻すことができると思います。


また、もし絶対絶命のピンチに具えて、予め仏道を修めることによって、久遠成仏の仏に開眼したいと思われるなら、釈尊が説かれた仏法を修めて、解脱を完了しておくのが最も確実な道になるでしょう。


菩提達磨の無心論

2020-04-24 12:26:12 | 日記
前回は「盤珪の不生禅」に関して得た情報を語ったけれど、斯く云う「不生」と、禅宗の開祖菩提達磨が提唱した「無心」とは、どこが異なるのかということを検証してみたので、その概略を述べてみたいと思います。


菩提達磨の「無心論」に曰く、「夫れ理は無言なり、言を仮りて理を顕すを要す。大道は無相なり、麁を接する為に形をあらわす」とある。この言葉、つまり無心の解説だけで、既に察するべきであるが、云う所の「無心」は、「心在らず」という意味ではない。もし「心在らず」であれば、「大道は無相なり」とは説けないし、「麁を接する為に形をあらわす」とも説けない。従ってこの無心論は、そのまま「心不生論」と云うべき内容を呈するだろうという予測もつく。


故に曰く「心は内に在るか、外に在るか、また中間に在るか。斯くの如く三所に求むるに、ついに不可得なり。当に知るべし、即ちこれ無心なることを」と。


斯くして証されし道理により、達磨の「無心論」は、その義によって「心不生論」に同ずと知られます。


この結論を以て、「盤珪の不生禅」を再評価すれば、禅の境地として達磨の無心論を超えたのではなく、「無心」という称呼を、より合法的な言葉である「不生」に置き替えたものだと分かるだろう。従って、結論としては、盤珪の不生禅も菩提達磨の無心論から察することのできる禅境とは、共に「如来禅」に組み込まれるものであることも、当然ということになるでしょう。

盤珪永琢の不生禅

2020-04-23 16:41:07 | 日記
直指人心という言葉が示すように、禅僧たちの修行は概して方便少なく、或いは言葉を介さずに、直に仏性(本当の自分)を悟るという遣り方をとっているので、悟った後の言動にも、無心とか無の境地と云われるように、簡明で言葉の少ない姿を印象付けるものがあります。


この故にか、以前「禅宗は仏教だろうか?」という問い掛けもありましたが、仏教と云えば釈迦の教え。釈迦の教えと云えば四聖諦や十二縁起など、理知的な説法を用いた修行法。その一方、禅の本質は不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏と云われていますから、これを仏教と云うなら、「釈迦の教えには含まれていない仏教」ということになるのでしょうかね。


ところで今回は盤珪永琢という禅僧が唱えた「不生禅」のことだけど、この「不生」という言葉は、よく大乗経典で見掛ける「本不生」という語に代表された、「不生不滅・不断不常・不一不異・不去不来」の八不の意味を含んでいるものと認識されます。


だから「不生禅」ということは、「仏性(本当の自己)というものは不生不滅である」ということになり、大乗経典が説く「法身」に通じる言葉遣いになっていることも分かってきます。


その盤珪がこれを大悟したときの言葉が、「一切事は不生でととのうものを、今まで知らずに、さてさて無駄骨を折ったことかな」というものだったと。


また別にも簡明な言葉があって、それは「仏になろうとするよりも、仏でおるが造作なくして近道でござる」というもので、これもまた達磨が伝えた禅の精神「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」を具えていて、見事です。

新型コロナの猛威と対処

2020-04-17 13:09:19 | 仏教
怖いですね、新型コロナの猛威。Yahooニュースで「自宅に3週間こもり続けた女性が新型コロナに感染」だとか。これはアメリカでの話ですけどね。


このウイルスの感染力、我が国でも凄まじい勢いですから、政府も緊急事態宣言の対象を七都府県から全都道府県に拡大しました。これで感染拡大の威力を食い止めることができなければ、大変なことになります。厳しいですが、全国民の一致団結的自覚と実践が必要でしょう。


しかし心を心配事だけに支配されても、陰鬱になってよくありません。そんな時には気休めにもなる瞑想でもしてみませんか。


今紹介する瞑想法は、三解脱門と称されている解脱法の中の一つの、空解脱門を瞑想するものです。


先ずは、この世に現れた森羅万象の在り方を観照すると、生じたもので滅しないものは無いということが分かります。もしも森羅万象は観照し尽くせないと思う場合は、私たち人間の生涯だけを観照してもよいでしょう。この世に生まれ、成長し、やがては老いたり、病を得たり、或いは不慮の事故によって生涯を閉じます。このように観照すると、人間の生涯は夢幻のようですね。なので森羅万象の本性は空無だと認識することができます。


以上のように観照した認識を禅観とし、禅観で認識した私たち現存在者の本性としての空無に心を相応させる行を禅定とします。こうして瞑想していると、心はこの世に生滅する森羅万象への執着から解放された自由空間、つまり不死の境地へと解脱した安らぎを得ることができます。


こうした安らぎの瞑想から、再びコロナ対策の現状に立ち帰るときには、慈悲の観を起こすとよいでしょう。つまり個人的には不死の瞑想で心の安らぎを得ることはできるが、他の人々と共に行ってはじめて叶う肉体の保安のためにも、外出自粛を含む様々な感染予防法の実践に励むのだという信念です。


生死は人生の一大事

2020-04-14 11:00:11 | 仏教
道元を指して「いまだ仏境界に非ず」と批判した鈴木正三。江戸時代初期に出家した禅僧だが、その鈴木正三に死期が迫ったころ、ある僧が「お脈が悪いとのことですが、ご気分はいかがですか」と見舞うと、正三は「わしは三十年前に死んでおいたわい」と答えた。


また曰く「この糞袋を何とも思わず打ち捨てることなり。これを仕習うより他の仏法を知らず」と。


この二句を読むだけでも、正三の悟りの心髄が伝わってくるようです。つまり正三の解脱法に関わる信念ですね。


更に彼の『盲安杖』を読むと、「とりわけ武士の生涯は、生死をしらずば有るべからず」とあり、「侍という字は、生死の二事を知るを以て云うとの説有り」などとも語っていて、そのまま「武士道と言うは、死ぬことと見付けたり」という『葉隠』の言葉なども連想させるような響きもあります。


また『盲安杖』には、「心を滅ぼして心を育てよ。明々たる心を朦々たる心に覆われて苦しむことなかれ。時々に滅ぼせ。古語に曰く『殺生せよ殺生せよ。刹那も殺生せざれば、地獄に入る事矢の如し』」との言葉が見えます。


解説すれば多岐に及びますが、概略すれば「解脱の心に立ってこの世の処し方を育め。悟りの心を迷いの心で覆って苦しむことなかれ。時々に妄心を滅ぼしなさい。古語に曰く『妄心を殺せ、妄心を殺せ、一時だにも妄心を殺さざれば、即座に地獄堕ちするのだから』」というような意味ですね。


彼の言の如く、生死の問題を克服するということは、己に打ち克つということですから、未だ生死の問題に滞りがあれば、大いに彼の言を参考に利したいところですね。