心は秘密

仏心に住して菩薩のように語るブログ

仏道の新しい修法

2020-05-25 09:31:40 | 日記
仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。


そこに私の研究成果の出番もあろうか。原始仏典から密教経典までを消化した仏教のエキスを、忙しい現代人向けに、易しく簡素化したものが出来上がったからである。


しかし、この新しい仏道の修法を、何時、どこで、どのような方法で、欲する人の手元に届けたらよいのだろうか。公開が有効に役立つ適切な場を見付けることが難しい。


心の中に魔の声らしきものあり、「止めておけ、通じる相手なんか居やしない」と。この声が、余りにもリアルに心に響く。



色と受想行識は無常ということ

2020-05-24 15:59:24 | 日記
人は何の為に仏教を学んでいるのでしょうか。理想を云えば、悟って仏陀と等しく成るためではないでしょうか、できることならと。もし、そうなら、悟りへの道を確りと着実に歩む必要があるのではないでしょうか。またそれは、遠くて険しい道でもありますが、何はともあれ、先ずは仏道の入り口から確認してみましょうか。


釈尊が語り残してくれた説法の原形に最も近いと云われている原始仏典の漢訳に、大蔵経第二巻に収められている『雑阿含経』がありますが、その全五巻千三百六十二経の冒頭を飾る第一経には、次のように説かれています。


『当に色は無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』


これは五薀の中の色についての解脱を説いた箇所ですが、とても明快に説かれていて、解脱も簡単にできそうですね。もしそう思ったら、即座に解脱を試みるのもよいでしょう。上手く解脱できなければ、どこかに認識不足のところがあると思って、学び直せばよいのですから。


ところで五薀つまり色と受想行識というのは、私たち人間の身心を構成しているパーツを仮に五つに分類したものと理解しておけばよいのですが、この場合の色というのは身と心に分けた身、つまり人間の物体部を指しています。この物体部である色もまた、原始仏教時代には地水火風という四大にパーツ分けされていましたが、この経文では触れられていません。そこでこの経文では未解説の受想行識からの解脱を、続けて次のように説いています。


『色についてと同じように、受想行識についても無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』


ここで受想行識というのは、色が肉体的要素であったのに対し、心的要素を指す名称です。概説すれば、受というのは感官的要素。想というのは表象作用。行というのは得られた表象に基づいて行う是非分別などの能動作用。識というのは意識であり、理性的営みなどが働く段階をも含む名称ということになるでしょう。


この部分も、やはり前段同様にシンプルな説き方ですが、勿論説かれている通りに実践できれば、文句なく心解脱は成るわけですね。そして心解脱が成った者は、経文の最後を締め括る次の経文を、自心に確証するとよいでしょう。


『心解脱の成った者が、もし自証を欲するなら、能く自証することができる。即ち、我が生已に尽き、梵行已に立って、所作已に成し終え、自ら再び此の世に生を受けずと知る、と。』


「我が生已に尽き」というのは、此の世に繋縛された人生は既に終えたという意味ですから、以下は「煩悩に煩わされた迷いの人生を解脱したので、彼の世の仏界、即ち永楽の涅槃の境地に住して、再び迷いの此の世に戻って輪廻することもないのです」という意味になりますね。


このように経文では単純明快に説かれているからといって、よほど機根に恵まれていなければ、仏道初心者がいきなりこの経文を見ただけで、解脱が成就するというものでもないので、幾つもの経文を、何度も何度も繰り返し学び直し、読み直しつつ、実践を繰り返す必要があるのではないかと思います。


宗教と治病

2020-05-22 14:17:47 | 日記
今般のコロナ禍に因んで、宗教が治病に関わる事柄についても、経典の言葉などを参照しつつ考察してみたいと思います。というのも、ふと聖書にある、イエスによって為された奇跡的治病の話を思い出したからです。


記憶を頼りに仏典を開いていると、法句譬喩経の中から、重病で床に就いた一般庶民の一人を、お釈迦様が見舞ったときの話が目に留まりました。その時お釈迦様は、「身体の悪寒や熱気は医薬を用いて治し、心の治癒は仏の教えや戒めを保って善処しなければならない」と諭しています。これは私たち現代人にとっても、ほぼ違和感のない言い分に聞こえるのではないでしょうか。


しかし「悪寒や熱気は医薬を用い」と云っても、お釈迦様の時代には、この度のコロナ禍のような疾病に効力のある医薬の調達はできなかっただろうし、大勢の感染者や死者が出たりして、大変な騒ぎになったかもしれません。このように適切な医薬が無かった疾病と云えば、例えば眼病で失明した人に視力を取り戻させる治病だとか、難聴の人に聴力を取り戻させる治病等々と、イエスによって為された奇跡的治病に類似した問題に対しても同様ですが、こういう難病に対しても、我が国では宗教的対応策の足跡も見付かります。


一つには密教でお馴染みの加持祈祷に類するもの。或いは神社でも発行されている「無病息災」や「当病平癒」などの御札による心の癒し。或いは寺院の境内などで見掛ける「なで地蔵」のような尊像にまつわる霊験の類。このようなものもまた、やはり生薬類での治癒が望み難い難病や不具合の治癒を願った対処法であったと云えるでしょう。


ここでよく問題になるのは、このような対処法が、願いを叶える効力のない、単なる迷信事に過ぎないのではないかという指摘ですが、これは身体と心の相互作用のことを考えると、一概に迷信事として片付けられない問題のようにも思われます。


ことわざにも「病は気から」と云いますが、「自分の病気は重い」と思っていると、ますます気力も萎えて食欲も落ち、体力も衰える一方ですが、何らかの信頼できる助言を得るなどして、「自分の病気は軽くて、すぐ治る」と思ったときには、途端に気分が良くなったというような経験は、一度と云わず二度三度と、誰にでもあるのではないでしょうか。


この「病は気から」に類する心理作用を有効に生かす目的で、加持祈祷、或いは無病息災を祈願した御札、或いは「なで地蔵」などを発案し、信者の心の不安を取り除いて安心や希望を与え、延いては身体の免疫力を高めることにも貢献していたのだと考えると、宗教と治病の結びつきの中には、「信仰の力」というものが深く関わっていることも、明らかになってくるのではないかとさえ思われるのです。


日本人の宗教観は変なのか

2020-05-20 21:35:28 | 日記
これは特に外国人から見た日本人の特性ということになるようだが、日本人に「あなたの宗教は何?」と問うと、「特に信じている宗教は無い」と答える人が多いことに驚く、と。


この「驚く」の意味は何だろう? 「日本人は、自分が何らかの宗教を信じていると見られることを、まだ非科学的な思考から抜け切れていない人間と見られているようで、恥ずかしいことだとでも思っているのだろうか」などと思って「驚く」のだろうか? いや、どうやらそんなことではなさそうだ。


或る外国人が語るのを耳にしたことがある。「日本人の宗教観は変わっていて、人間は死んだら、みんな極楽往生すると思っている。これ、変でしょう?」と。


この外国人が「変だ」と云うのも、尤もなことだ。キリスト教では、人間の死後は天国行きか地獄行きに分かれる。だからこそ信者は、現世で善い行いをしようと励む意欲も湧いてくるのだ。


だから、日本人が「人間は死んだら、みんな極楽往生する」と思っていると知ったなら、「日本人は善人でも悪人でも極楽往生するのなら、地獄堕ちする人はいないことになる。ということは、極楽のみ有って、地獄というものは無いと云っているのと同じことなのだから、宗教なんか有っても無いのと同じではなかろうか。何故なら修行してもしなくても、或いは善いことをしても悪いことをしても、みんな極楽往生するのだから」と、日本人の宗教観を見通して、「日本人の宗教観は変だ」と「驚く」のではなかろうか。


【追記】
この話に出てくる「日本人の宗教観」というのは、その言い分からも分かるように、浄土宗系の一派に属する信徒の中の一部の見解を指すものと思われますが、本文中にはそれと示す説明が抜けていましたから、無用な誤解を避けるために、ここに追記しておきます。


病死苦からの脱出

2020-05-18 14:01:59 | 日記
今回の新型コロナ禍への、国を挙げての対応の主眼は、主権者の国民が全体的に病死苦からの脱出を目指すことにあったと云えます。この病苦と死苦は、仏教で説く生老病死という四つの苦しみのうちの二つを占めています。生というのは此の世に生まれることで、生まれなければ老いることもなく、病むこともなく、死ぬこともないので、生は苦しみの根本だと認識することができます。


しかし生あれば老病死苦は避けられないとはいえ、生き方の注意次第で、今回のコロナ禍に巻き込まれる確率などは減らすことができます。この病死苦を減らすことができれば、より天寿を全うできる確率は増えます。これが緊急事態宣言が発令された意義でしょうか。また、こうして新たな感染者数を制御しているうちに、より効果的で副作用も少ない治療薬の開発が進み、コロナ禍による病苦と死苦の発生を軽減することもできるでしょう。


そうこうしている間に、最初の予想を上回る成果が出て、39県の緊急事態宣言が解除され、残る8都道府県でも近日中に解除できそうな状況になりました。これも法に従順で善良な日本人の協調性の賜物かもしれません。


然るに、そうは云っても、当分の間はコロナ禍による病苦と死苦をゼロにすることは難しいでしょう。油断は禁物です。また仮にコロナ禍が終息しても、新たなウイルスが発生するなどして、此の世から病苦が無くなることはありません。


しかし、しかしですよ。「此の世から生老病死苦は無くならない」と云うだけでは、余りにも情けない。それ故、仏教のような教えが伝えられているのでしょう。


もし仏教を修めて金剛の身を得れば、生活の苦しみも、老いる苦しみも、病む苦しみも、死ぬ苦しみも、これら一切を「どこ吹く風か」と、平然と見送ることができるようになるのです。この金剛の身を得るための修行法を、「法身如来に基づく病死苦からの脱出法」と云うことができます。