エピローグ-そしてはじまり [編集]
『鏡』は、父と母がまだ若く、高緯度地方の夏の白夜の夕暮れの中、田園の草のなか寝そべって、これから(の戯れにより)産まれる子は、男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年の作者と妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、(上記の)来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子等を逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、癇の鋭い若い母親もその事を垣間見、予感しているショットが入る。 十字架の前に赦しを請う、他の男(通りすがりの医師)に心を動かした多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母、を捨てて、もはや性の対象ではない安全な老母と、童年時代の美しい記憶に回帰している、という「エディプス・コンプレックス」的解釈もされている。しかし、映画史に残る名場面、宝石を売りに行った家で、ランプの明りに照らされながら、少年アレクセイが鏡を見つめている有名なシーンで、彼は母を許している(彼が許している、というより、鏡に映った自己の姿・深奥を観照するなかに、「神の赦し、彼らの営みを見守る神、が顕現している。」)という、時空の秩序を越えた情景のなかでクライマックスを迎える。
かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸が、枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出会い別れ、そして新しい未来へと進んで行く。
記憶と現在-永遠と鏡像 [編集]
タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。
『鏡』のなかで、父アルセニーの詩を繰り返し朗読するのは、作者タルコフスキーであるが、父と作者は鏡を通じて、互いに像となっている。母マリアと妻ナタリア(同じ俳優が演じている)も鏡像関係にあり、更に作者と息子イグナート(少年時代の作者とイグナートは同じ俳優である)も互いに鏡像となる。
タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、実は彼の映画の思想そのものが魔術的だと言える。遺作となった映画『サクリファイス (原題:Offret/Sacrificatio) 』においては、この「存在の魔術」が、具体的に描かれることになる。
-Whikipedia-
『鏡』は、父と母がまだ若く、高緯度地方の夏の白夜の夕暮れの中、田園の草のなか寝そべって、これから(の戯れにより)産まれる子は、男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年の作者と妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、(上記の)来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子等を逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、癇の鋭い若い母親もその事を垣間見、予感しているショットが入る。 十字架の前に赦しを請う、他の男(通りすがりの医師)に心を動かした多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母、を捨てて、もはや性の対象ではない安全な老母と、童年時代の美しい記憶に回帰している、という「エディプス・コンプレックス」的解釈もされている。しかし、映画史に残る名場面、宝石を売りに行った家で、ランプの明りに照らされながら、少年アレクセイが鏡を見つめている有名なシーンで、彼は母を許している(彼が許している、というより、鏡に映った自己の姿・深奥を観照するなかに、「神の赦し、彼らの営みを見守る神、が顕現している。」)という、時空の秩序を越えた情景のなかでクライマックスを迎える。
かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸が、枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出会い別れ、そして新しい未来へと進んで行く。
記憶と現在-永遠と鏡像 [編集]
タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。
『鏡』のなかで、父アルセニーの詩を繰り返し朗読するのは、作者タルコフスキーであるが、父と作者は鏡を通じて、互いに像となっている。母マリアと妻ナタリア(同じ俳優が演じている)も鏡像関係にあり、更に作者と息子イグナート(少年時代の作者とイグナートは同じ俳優である)も互いに鏡像となる。
タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、実は彼の映画の思想そのものが魔術的だと言える。遺作となった映画『サクリファイス (原題:Offret/Sacrificatio) 』においては、この「存在の魔術」が、具体的に描かれることになる。
-Whikipedia-