いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

2. 全能神は再臨した主イエスである

2020-10-01 20:20:27 | 賛美の心

2. 全能神は再臨した主イエスである

    関連する神の言葉

    ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。それは律法の時代を神が終わらせた後の新しい時代のための働きであった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救い)全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の経営(救い)を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神の働きの新しい段階はそれぞれいつも新しい始まりと新しい時代をもたらす。そこで神の性質、神の働き方、神の働く場所、神の名前にもそれに付随した変化がある。したがって、人にとっては、新しい時代の神の働きを受け入れるのが難しいのは無理もない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

    イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

    わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

    神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

    現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。彼は慈愛と憐れみの働きを行うことができ、同様に義である裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。結局、彼は世界を破壊し、不道徳な人々を罰する働きを行うことができる。彼はこのすべてを自分自身で行うのではないのだろうか。これは神の全能性ではないのだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」より

    第二の受肉の働きは、人々には最初のものとはまるで違って見える。あまりに違うので、二つには何の共通点もないように見える。最初の働きのようなことは、今回は何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものとは異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、肉の体で行われる働きの性質によるのであって、外形によるのではない。三段階の働きの間に神は二度受肉し、いずれのときも受肉した神は新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うのである。人間の目では、二つの肉の体が同じ源から来ていると見極めることは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や心の能力を超えている。しかし、両者の本質は同じである。二人の働きは同じ霊に発しているからである。受肉した二つの体が同じ源から発しているかどうかを判断できるのは、二人の生まれた時代と場所やそのような他の要素によるのではなく、二人の表す神性の働きによるのである。第二の受肉による体はイエスの行った働きは何も行わない。神の働きに慣習的な決まりはなく、それぞれが新たな道を開くからである。第二の受肉は最初の肉に関する人々の心にある印象を深めも固めもしないが、それを補い、完成させ、神についての人間の認識を深め、人々の心にある、あらゆる規則を破り、人々の心にある神についての誤った姿を消し去る。神自身の働きのどの段階も個別には、人間に神についての完全な認識を与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのである。神はその性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。まして、神の働きの一段階だけで、どれほど完全に神を表せるだろうか。神は普通の人間性の陰に隠れて肉において働く。そして、その神性が現れてはじめて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見てのことではない。神はさまざまな働きを通して人間が神を知ることができるように受肉するのだが、働きの二段階は同じではない。このようにしてはじめて、人間は肉における神の働きについて、一つの面だけでなく、完全な認識をもてる。受肉しての二度の働きは別々のものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、どちらも二つの異なった段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に来るということである。いずれにしろ、受肉した神の肉は同じ本質と由来をもつ。これは誰も否定できない真理である。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より


聖書の名言ー19節の罪に関する聖書の聖句・罪から抜け出す道を見つける

2020-09-30 21:47:37 | 賛美の心

聖書の名言ー19節の罪に関する聖書の聖句・罪から抜け出す道を見つける

    私たちは主を信じて罪が赦されたが、否定できないのは、私たちはまたしばしば主の教えに背き、肉の欲に従って罪を犯し、例えば、嘘をつき、ずる賢く、欺くなど、逃げる道のない罪と告白のサイクルに生きながら捕われ、終始罪の束縛と抑制から抜け出すことができません。神様は義であり聖い神様なので、神様は常に罪を犯している人が天国に入ることを許すのか。主イエスは言われました。「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書8:34−35)罪を犯す人は神様の国に入ることができず、それでは、どのようにして罪の束縛から抜け出し、清くなって天国に入ることができるでしょうか。このテーマの聖句を閲読し、罪を犯す根源を認識し、そして罪から抜き出す道を見つけるように。

一、主を信じて罪が赦されたが、なぜまた罪を犯すのか
    ローマ人への手紙7:23
    1、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

    ヤコブの手紙1:15
    2、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。

    ローマ人への手紙5:12
    3、このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

    関連する真理:
    「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。……人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……」

二、罪を犯す結果
    ローマ人への手紙 6:23
    4、罪の支払う報酬は死である。

    イザヤ書1:28
    5、しかし、そむく者と罪びととは共に滅ぼされ、主を捨てる者は滅びうせる。

    ヨハネの黙示録21:8
    6、しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。

    エゼキエル書18:20
    7、罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。

    ヨハネによる福音書8:34‐35
    8、イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」

    ヘブル人への手紙10:26‐27
    9、もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。

    ペテロの第二の手紙 2:14
    10、その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は貪欲に慣れ、のろいの子となっている。

    ヨハネの黙示録 21:27
    11、しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。

   関連する真理:
    「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。」

    「今こそ、わたしは一人一人のために終わりを決めるときであり、人に働きかける段階ではない。わたしの手帳にひとりひとりの言葉や行動、わたしに従った道、本来の属性や最後の行いなどを書き留める。こうすることで、どのような人であってもわたしの手から逃れることはなく、あらゆる人たちはわたしが定めるように同類の人たちと共にいることになるだろう。わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの数々の邪悪な行為への報いである。」

三、どのように罪の問題を解決するのか
    ヘブル人への手紙12:14
    12、すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。  

    ヨハネによる福音書16:12‐13
    13、わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

    ヨハネの黙示録2:7
    14、『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。

    ヨハネによる福音書12:47‐48
    15、たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。

    ペテロの第一の手紙 4:17
    16、さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。

    ゼカリヤ書13:8‐9
    17、「主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。

    ダニエル書12:9‐10
    18、彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。 多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。

    ヨハネによる福音書17:17
    19、真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。

   関連する真理:
   「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」

    「裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。」

    「神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。一部の人々は理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う。彼らは「神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうやって完全になれるのであろうか」と言う。神の働きを理解しない人々はそう話すのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく、少しの気遣いもなく、人の内にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の内にある本質を顕わにするが、神はその裁きを通じて人に肉体の本質についての深遠な認識を授け、それにより人は神の前に従順を示すのである。人の肉は罪から成り、サタンによるものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である──であるから、人に自分を理解させるためには、神の裁きの言葉が人にもたらされねばならず、あらゆる精錬が行われねばならない。それにより初めて神の働きは成果を生むのである。」

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一度救われたら、永遠に救われるというのは本当か


聖書の言葉-すべてを捨てて主に従います・マタイによる福音書4:22

2020-09-29 23:23:02 | 賛美の心

聖書の言葉-すべてを捨てて主に従います・マタイによる福音書4:22

聖書の言葉
すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。

マタイによる福音書4:22

    この聖句に「おいて」に触れたが、私たちが知っている通り、当時ペテロが魚に行ったが、何の穫物もなく、主イエスが彼を再度魚に行かれて、穫物がいっぱいありました。同時に主イエスが彼に従うようにペテロたちに呼びかけて、つまり主の弟子となり、この時彼たちは舟をおいて、網を捨て、しかも父親から離れられて、主イエスに従いました。ここから私は聖書にある言葉を思い出しました。「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」(ルカによる福音書14:33)

    主イエスは私たちにこの世の追求よりも彼を愛するように求められています。それでは、私たちはどのようにして神様を愛する人になれるのでしょうか。神様の言葉はこう言われました。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、委託、責任などを認識しているだろうか。あなたには歴史における自分の使命感がどこかにあるだろうか。あなたは次の時代の良き主人としてどのように奉仕するだろうか。あなたには主人としての強い意識があるだろうか。全ての物の主人についてどのように説明するだろうか。それはまことに世界の全ての生き物と全ての物質の主人であるのだろうか。次の段階の働きの進展のために、あなたはどのような計画を持っているのだろうか。何人の人たちがあなたに羊飼いとなってもらいたいと待っているのだろうか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。『道はどこにあるのか』と。……神は心でどれほど深く悲しみ、心配しているかを、あなたは考えたことがあるだろうか。神は自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。結局、人類は毒された不運な者たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者によって長い間毒されてきたといったい誰が思っただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神へのあなたの愛で、生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の肉と血のように人類を愛する神に報いるために全力で努力したいと思わないだろうか。神に用いられて並外れた人生を生きることを、あなたはどのように理解しているのだろうか。あなたには『敬虔で神に仕える人』の意義深い人生を送るための決意と自信を本当に持っているだろうか。」この中から、人類を救いたいという神様の強い願いを見ました。神様の働きには人間が協力することが求められ、私たちが呼びかけに直面し、選択に迫られた時、もし私たちは自分の利益を優先に考えたら、誰が神様の福音を広めるのでしょうか。これは私たちが深く考えるに値します。


聖書を信じることは神を信じることと同じでしょうか

2020-09-28 20:57:00 | 賛美の心

聖書を信じることは神を信じることと同じでしょうか

    私はクリスチャンの家庭に生まれました。私の家族は貧乏だったので、父はよく出稼ぎに行って、帰ってくることは滅多にありませんでした。そして、母は地元で働いていましたが、毎日朝から晩まで仕事が忙しく私たちの世話をする時間はほとんどありませんでした。なので、私は幼かった頃から家事だけでなく、弟と妹の世話をする必要もありました。私は自分と同年齢の子たちが両親に面倒を見てもらっている様子を見ると、いつも心細くなりました。当時、私は聖書に関してはあまり知りませんでしたが、日曜学校に行くのはとても好きで、人間をとても愛してくださる天の御父がいることを学びました。これ故に、私は幸せな時も、そうでない時も、天の御父に祈りを捧げることができました。次第に、天の御父は私が親密に語りかける存在になりました。

    私は12歳の時、正式にクリスチャンの洗礼を受けました。当時、牧師が私にこう言いました、「主への信仰は聖書の内容に基づいていなければいけません。それは、聖書がキリスト教信仰の基礎だからです。それに、神の働きと御言葉は全て聖書に記されています。聖書の内容を固持してさえいれば、騙されることはありません。聖書以外の信仰は全て異端なのです。」また、彼は説教の最中にはいつもこう言っていました、「私たちは聖書に基づいて信仰するのです。神を信じることは聖書を信じること、聖書を信じることは神を信じることだと言えます。」当時、私は聖書に関する知識をあまりもっていませんでしたが、それに熱中しながら積極的に集会に参加し、兄弟姉妹と集会をしている時は喜びを感じて、主に対し信仰深くいられると感じた故に一度もさぼりませんでした。特に牧師の言葉を聞いた後は、聖書がとても貴重なもので、他の書籍とは異なることを知りました。これ故に、私はいつも聖書を持って移動し、勉強した後は布袋に入れて保管しました。その後、教会の状況がひどく悪化しました。兄弟姉妹の大多数が信仰を失い、中には一般世間に戻って働く人すらいました。教会の同僚たちは意見が合わないといつも喧嘩になり、それが原因で教会を去る兄弟姉妹がいました。教会のこのようなありさまを見た私は魂が弱気になり、消極的になってしまいました。私はそれでも教会に行って集会に参加していましたが、毎回参加しているふりをしているだけでした。しかし、私は変わらず聖書を大切に扱い、いつも通り保護していました。結婚した後、聖書は自分の子供にすら触らせませんでした。

    2017年秋の半ばのある日、私はインターネットでリアン兄弟と知り合い、チャットをしていると彼が説教師であったことを知りました。私は、「彼も主を信仰しているのね、それに彼は説教師だから聖書のことを良く理解しているはずだわ」、と思いました。その後、私は集会グループでいつも彼と聖書の勉強をするようになりました。グループの中でしばらく聖書を探求していると、私は嬉しくなりました。彼らの交流はとても啓発的で、私は以前理解できなかった真理の多くを理解することができました。私の枯れ果てた魂は神の御言葉の注ぎと教養を得たのです。次第に、私は彼らと集会をするのが大好きになり、毎回快く集会に参加する約束を守りました。

    ある日、兄弟姉妹が私にある動画を見せてくれました。その中で私は聖書とは異なる書籍を目にしたのです。その瞬間、私はビックリして心臓が飛び上がりました。私は姉妹にこう聞きました、「あなたは東方閃電の信者なんですか?本当に聖書はもう読んでいないんですか?この動画にはどうして聖書以外の書籍が出ているんですか?あれは何ですか?」彼女は私の質問を聞いた後、優しくこう言いました、「ヨハネの黙示録5:1-5にこう書かれています、『わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』これらの節から、終わりの日には新たな書籍、すなわち、聖書で預言されている神しか開けることのできない巻物が登場することが分かります。」あの日、姉妹は沢山交流してくれましたが、私は彼女の話しを聞けば聞くほど、増々それを受け入れられなくなりました。私はこう思いました:「神の御言葉と働きは全て聖書に記されているのに。聖書以外に新しい書籍があるなんてあり得ない。主を信じることは聖書を信じることなのに。彼らはもう聖書を読まないというなら、それは主への信仰と言えるのかしら?」これ故に、彼らが何を言っても私は、「分かりません」、「理解できないです」、「私には出来ません」などと言って返事をしました。実際、私はもう彼らとは交流したくなくなってしまったのですが、それを断るのは失礼だと思い、最終的には黙っていることにしました。

    集会の後、私はリアン兄弟から沢山メッセージをもらいましたが、その返事はしませんでした。夜になると、私はベッドの中でゴロゴロ寝返りを打ち、眠りにつくことができませんでした。あの夜、私の頭の中は混乱していました。翌朝起きると、私は心が落ち着くことを期待して讃美歌を聞こうと思いました。意外なことに、Facebookを開けてみると、「全能神教会は別名東方閃電。彼らは聖書を読みません」と書かれていたのを目にしたのです。これを読んだ私は落ち着くことができませんでした。私は、「聖書を読まないなんて、彼らは間違って信仰しているわ」、と思いました。これを受けて私はリアン兄弟に「私はもう調査も交流もしたくありません」とメッセージを送りました。彼は直接電話をしてきてこう言いました、「’神の働きと御言葉は全て聖書に記されており、聖書の内容以外には神の働きと御言葉は存在しない、そして聖書から逸脱した信仰は全て異端である’ とった観点は事実に基づいているものではありません。それは神の働きにおける事実に沿っていません。聖書にはこう書かれています、「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書 21:25)。この節から、主イエス様の御言葉と働きは、その全てが新約聖書に記録されていたわけではないことが分かります。実際、聖書を理解する者は誰もが聖書は人間によって執筆され編集されたものであることを知っています。聖書が編集されていた時、編集者の間で生じた意見の食い違いや省略が原因で預言者を通じて伝えられた神の御言葉には聖書に含まれていないものがあるんです。なので、聖書の内容以外には神の御言葉と働きは存在しないなどと言えませんよね?預言者による預言で省略されたものも神の御言葉であると思いませんか?従って、宗教界の牧師と長老たちが言う ‘神の働きと御言葉は全て聖書に記されており、聖書の内容以外には神の働きと御言葉は存在しない’ という意見は現実と一致していないのです。これは彼らが神の働きを知らないが故に生まれた完全に誤まった知識であり、観念に過ぎないのです。さらに言うと、主イエス様は働きに来られた時、旧約聖書の内容に従って働きをされたのではなく、恵みの時代に旧約聖書には記されていない贖いの働きを実行されました。悔い改めの道や磔の働き等、主がなされた働きはその全てが旧約聖書には記されていません。’聖書から逸脱した信仰は全て異端である’ という観念を固持していたら、主イエス様の働きを非難していることになりませんか?」

    私はリアン兄弟の交流は筋が通っていると思いました。私はこの疑問について考えたことがなかったのです。そして、私は集会に参加して調査すると彼に約束しました。しかし、その後、私は彼に約束したものの、依然として吹っ切れずにこう考えました:「何があっても、聖書からは離れてはいけないわ。聖書はキリスト教全体における信仰の土台なんだから。主を信じることは聖書を信じることであるはずよ」こうして私は気を変えてしまったのですが、恥ずかしくてそれを彼に伝えることはできませんでした。なので、その翌日、もしリアン兄弟からまた電話があって集会に誘われた時に断れなくなるのを恐れた私は、わざと携帯電話の電源を切って、見えない場所に隠しました。しかしその日、私は体調が悪く、心臓が激しく鼓動し続けるので、呼吸をするのも、食事をするのも、仕事に集中するのも困難でした。翌日、私は依然として回復していませんでした。リアン兄弟が電話で私に調査に参加するよう誘ってきましたが、私はそれを断りました。調査しなければ私の心臓が落ち着くと思ったのです。しかしその結果は逆でした。後に、私はもっと祈りを捧げ、大好きな讃美歌を聞き、エクササイズをしたり、ピアノを弾いたりして心臓を落ち着かせようとしましたが、効果はありませんでした。私は、「調査することを断っているのに、どうして落ち着けないの?」と思いました。何度も繰り返し考えましたが答えはでませんでした。次第に、私は少し不安になり始めました:「心臓がこんなに激しく鼓動し続けたら何か悪いことでも起こるんじゃないかしら?全能神は本当に主イエス様の再臨だなんてことがあり得るのかしら?私が全能神に抵抗して主に反抗するようなことをしたから、主が私を懲らしめているのかしら?そうじゃないとしたら、どうしてこういった手段を使っても心臓が落ち着かないの?」主に反抗することを恐れた私は全能神教会を調査することにしました。そして、私はリアン兄弟に電話してこう言いました、「私と会ってもらえますか?」驚いたことに、探求して調査する意思を持ったとたんに私の心臓が落ち着いたのです。

    集会で、兄弟姉妹が私に全能神の次の御言葉を読んでくれました:「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。」

  「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で予言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。」

    姉妹はこう言いました、「何年にも渡って、私たちは聖書を神と照らし合わし、私たちの信仰を聖書だけに基礎づけてきました。聖書は主を象徴するもの、神を象徴するものだと、私たちは心の中で信じています。神を信じていると言うよりも、聖書を信じていると言った方が良いのです。宗教界全体が神を信じることは聖書を信じること、そして聖書から逸脱することは神を信じていないことを意味するとまで考えているのです。私たちは誰もが盲目に聖書を信じ崇拝し、聖書に神と同じ格付けをしています。主と神の働きの代わりに聖書を使用する人すらいます。しかし、神を心から知り、神に心から従う人は存在しません。私たちが盲目に聖書を崇拝する理由は、主として私たちは聖書の本質、およびそれと神との関係を知らないからです。ユダヤのパリサイ人が存在した時代のことを思い出してください。彼らは盲目に聖書を固持し、崇拝していましたが、それは聖書を解釈した時に狂信的に主イエス様を非難し、主イエス様に抵抗し、主イエス様を十字架に釘付けにしてしまうほどでした。最終的に、彼らは主イエス様から懲罰を被ったのです。聖書を解釈して聖書の知識を理解できるからといって、それは神を知っているということを意味しているわけではない、聖書の内容を固持することは主の道に従っていることを意味するわけではない、そして聖書を信じることは神を信じることに等しいわけでもないということを証明する十分な事実が存在しているのです。主イエス様はかつてこう仰りました:「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネによる福音書5:39-40). 主イエス様の御言葉から、聖書には何のいのちも宿っていないことが分かります。聖書は単に神に対する証言書であり、神がなさった過去の働きの記録に過ぎないのです。従い、聖書は神を象徴しておらず、私たちは聖書を神と照らし合わせることもできないのです。神のみが働きを通じて人類を救うことができますが、聖書にはできません。神のみが真理を表すことができますが、聖書にはできません。神はいつでも人間に刺激を与え、人間を啓発し、人間を導くことができますが、聖書にはできません。神は生ける水の源でありますが、聖書はいのちを持たぬ文章の集まりに過ぎません。これ故に、聖書は神を全く象徴してはいないのです。聖書が神を象徴するものだと思って聖書を神と同レベルに置いてしまったら、私たちは神を軽く扱い冒涜していることにならないでしょうか?神は神、聖書は聖書です。聖書は神を象徴できないし、まして神の働きを象徴するなどもっての他です。聖書は神の働きの記録に過ぎないのです。

    彼女の話しを聞いた後、私は神と聖書の違いを理解しました。聖書を信じることは神を信じることに等しくはないのです。聖書の内容を固持することは主の道を守っていることを表しているわけではないのです。聖書に固持していたら、私は主の承認を得られないだけでなく、主の非難を被ることにもなるでしょう。私はパリサイ人の足跡を辿って神に抵抗するわけにはいきません。しかし、彼女の交流によると、過去の聖書を読むことは間違っていることになるのでしょうか?これ故に、私はこの疑問について彼女と交流することを求めました。

    そして、彼女は神の御言葉の次の2節を読んでくれました:「わたしがあなたに教えていることは、単に聖書の本質とその内部事情である。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし。また、聖書がまったく無価値だと告げて歩けとも言っていない。ただ、聖書に関して正しい知識と見方をもつべきだというのだ。あまり偏った見方をしないことだ。聖書は人間の書いた歴史書だが、これはまた、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則とともに、近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て、知った事柄であり、この時代に真の道を求める人々に関する参考としては役立てることができる。 … これらの書は時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠ではない。神の働きは常に進展しており、ただパウロやペテロの時代にとどまることはできないし、いつまでもイエスが十字架につけられた恵みの時代にとどまることもできない。だから、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者の必要を満たすものであって、神の国の時代の聖徒のためのものではない。どんなにすぐれたものであっても、それらは過去のものなのだ。」「より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。」

    彼女はこう言いました、「今、神は地上に降臨して働きをなされます。神は決して私たちに聖書を読むなとも、その価値を否定しろとも言われません。代わりに、神は私たちが聖書を正しい形で扱うことを希望しておられます。それは聖書に記録されている神の御言葉はあまりにも限られているからです。聖書に記されているのは神の働きと使徒たちの体験および証言の記録に過ぎないのです。さらに、聖書に記された神の御言葉は、神のいのちを大海と例えるならその1滴にしか過ぎません。それは神の全てを象徴することはできません。神の働きは常に前進しています。私たちは、神が各時代になさる働きに固執していたのでは、保守的で歴史にしがみついていることになってしまいます。これでは私たちは聖霊の働きを授かることも、現実の問題を解決することもできません。それに、聖書には神の現代の働きは記録されていませんし、それが記す内容は神から人間に対する最も現実的な要件でなければ、聖霊の働きの流れでもありません。最近、全能神は裁きと刑罰をもって人間を清め完全にする働きに着手されました。私たちは、神の働きについてゆき、全能神の終わりの日の裁きと刑罰の働きを受け入れてこそ、聖霊の働きを授かり、清められ、完全にしていただけるのです。」

    彼女の交流を聞いた後、私は突然、自分の魂がどんどん枯れていくように感じ、宗教界に対する信頼がどんどん薄くなっていった理由を理解しました。それは、私が聖書を過度に信用して崇拝し、頑固なまでにそれに固執し、その結果として神の最新の働きについて行かず、暗闇に陥っていたことが原因だったのです。私は彼女の交流を聞けば聞くほど、これをどんどん理解することができました。私は心の中が特別明るくなったような気がしました。神の御言葉と姉妹の交流により、私の心の中の混乱は解消されました。 

    私は全能神が主イエス様の顕現であること、そして神は主イエス様のなされた働きを基に新たな段階の働きをされたことを確信しました。神の御慈悲、御導き、そして御啓きがなければ、私は主の再臨をお迎えする機会を逃し、依然として魂が飢え、枯れた状態で暗闇の中を生き、聖書のルールと御言葉を固持し、神を信仰しながらも、神に抵抗し続けていたことでしょう。今、私はやっと聖書の束縛から足を踏み出し、神の前に行き、生ける水の泉の備えを得ることができました。神に感謝いたします!全ての栄光、神にあれ!

 


ワーシップソング「神の足跡を探すなら」歌詞付き

2020-09-27 22:19:55 | 賛美の心

ワーシップソング「神の足跡を探すなら」歌詞付き

神の足跡を探すなら

神の足跡を探すなら
探さねばならない
神の御心、神の御言葉、神の御声
神の新しい御言葉の中
神の御声がある
神の足跡があるところには
神の御業がある
神の印があるところ
そこには神が現れる
神の現れるところには
真理、道、命がある

神の足跡を探す時
神の真理、生きる道、命さえも見失ったら
見つけることはできない
神の足跡
そして神の現れに気づくことはできない
なんとそれは大きな過ちだろう
神は人の思いを遥かに超えて
人の思うようには現れない
神には自身の選択がある
神が働くときに
神には自身の目的がある
神の御業がある
神は誰にも話さない
神は誰にも伝えない
それが神の性質
人は気づかなければ

神の現れを望むなら
そして神の足跡を探すなら
自分を超えて求めてはならない
自分の望みを神を自分の心に閉じ込めないで
自分の世界に閉じ込めないで
神の足跡を探し求め
神の現れを受け止めて
神の新しい御業に従い
それがあるべき道
人はみな誰も真理ではなく
真理を持たず
人は真理ではなく
真理を持たず
だから探し求め、受け入れながら
探し求めて受け入れて
真理に身を委ねる
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より