いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

聖霊の働き-わびしい教会のための解決策が見つかりました

2019-10-31 16:24:31 | 賛美の心

 私はもっと分別のある年になった時、自分が人気のない子供であったことに気が付きました。私は幼い頃から残念な経験ばかりしており、歩いているだけでこけてしまうことすらありました。私は自分が本当に運の悪い人だと感じていました。私は、「どうしてなんだ?どうして嫌な目に遭うのはいつも私なんだ?」、「どうして人は生きなきゃいけないんだ?」、と頻繁に考えました。私は大きくなってから、溺れそうになって藁を掴もうとしている者のように観音菩薩、仏陀の他に名前すら知らなかった様々な偶像を沢山崇拝し始めました。人々が不幸から遠ざけてくれるものだと言っている限り、私はそれを崇拝しました。しかし、私の生活においては何も変わりませんでした。

 人生のどん底にいた時、私は主イエス様の福音を説いてくれた長老と知り合いになりました。すぐに、私は彼がくれた住所に足を運び、兄弟姉妹たちと集い始めました。徐々に、私は主イエス様は天と地、そして万物を創造された唯一なる真の神であられ、人は彼によって創造されており、全てが彼によって制御されていることを知りました。1998年8月、私は洗礼を授かりました。最初、私は積極的に集会に参加していましたが、主イエス様に関する真の知識はもっていませんでした。しかも、私は幼い頃、愛情に欠ける生活環境で育ちました。それ故に、私はキリスト教でいつも説かれていた「神が愛で、私たちはお互いを愛すべき」という教義を全く感じることができませんでした。代わりに、私は信仰者たちが頻繁に嫉妬したり、口論をしているのを見ました。教会で、ある姉妹の子供が良い仕事を見つけると、その同僚が嫉妬して、「どうしてあなたの子供は良い仕事が見つかったのに、私のは見つけられないの?」と繰り返し言っていました。神に仕えている者たちですら社会的地位の高い人たちを特に尊敬していました。自分の犯した罪に圧倒されている人が助けを求めてきても、彼は冷たく断られていました。私たちの教会の牧師は本土で比較的有名な方でした。彼は説教を説く中で、主のために、そして主の他の御業のために20年間も苦しんで刑務所に入れられていたことを何度も証言していましたが、神の御業についてはほとんど触れていませんでした。したがい、多くの人々が彼を尊敬し、従っていました。 時折、彼の名声に惹かれた海外の有名な重要人物、または近隣国の信仰者が彼を訪れてきて、彼はそれで得た資産を誇示していました。私は彼は自らを称賛して、自らの証言をしており、神の証言はしていないと思いました。私は彼らの行動に言葉が詰まりました。半年後、私はキリスト教会を去り、自分の人生を生き続けました。。。しかし、偶像たちを崇拝していた頃の生活とは違い、主から離れた後の4年間、私は常に主のことを考えていました。主の御立場は私の心から決して薄れて行かなかったのです。

 2002年12月、私は又しても人生のどん底に落ちました。 私は仕事と恋愛に失敗して落ち込んでいたのです。「人の終わりは神の始まり」であると言われていました。私が解雇される数日前、私は自分の同僚が参加していた中国人のための自宅の集会に参加することに賛成しました。私は以前、彼の招待を何度も断っていましたが、今回はとても参加したく思ったのです。その日の夜、私は自分と似た経験をもつ姉妹と出会いました。彼女は香港出身で、この集会に初めて参加していました。彼女が共有してくれたこと全てが私の心に触れ、私は感動しました。私の心は主に近づいたのです。私はこれが主の御采配であったのだと分かりました。主の元に戻ったことで、私は神が愛であることを心から実感しました。私は神から離れましたが、神は私のことを諦めておられなかったのです。神の元に戻ったことが私の霊的人生の転機となったのです。神様、有難うございました!

 2005年に結婚した後、私は香港での生活に慣れていなかったので中国本土でよく生活していました。私は2012年に娘が生まれるまで香港には定住しませんでした。当時、私はいつくかの教会に通っていました:中国本土のThree-Self教会と地下教会、香港のChristian and Missionary Alliance、Peaceful Gospel教会、Baptist教会、James教会、Pentecostal教会。私はこれらの名前は違ってもそれぞれの状況において共通点が沢山あったことを知りました:牧師と長老たちは人によって尊敬したり、見下したりと、それぞれの好みによって信仰者たちを扱っていました。そして信仰者たちはほとんどの場合、熱心でもなければ、冷めてもいないう状態でした。その多くは名目上でのみ信仰しており、弱弱しいことも頻繁あり、集会も祝福を得るためだけに参加していました。集会の場でも、牧師と長老たちは頻繁に情報の共有をし合っていたので、新しい見解は全くありませんでした。そして、彼らは説教を終える前に何度も祈りを捧げ、何日もかけてその準備をしていました。説教が魅力的であるかどうかは、それにユーモアがあるか、活気があるか、説得力があるかどうかによりました。演壇上の説教が面白くなければ、聴衆は居眠りをするか、早くにその場を後にしていました。大抵の場合、説教師たちはとりなしの祈りですら予め書き出してあり、祈りを捧げる際にそれを読んでいたのです。。。後に、私は、教会で働く牧師と長老の大多数は信仰者たちによって選任されるか、勧誘されていることを知りました。彼らは自分たちの仕事を保持するために信仰者たちの機嫌をとることに全力を尽くしていました。そして、彼らは大胆にも主の教えに逆らう信仰者たちを叱ろうとすらしていなかったのです。中には金の冥銭と銀の冥銭を販売している者までいました(注:「冥銭」は中国人が祭事や内祝の場で火による捧げものとして使用するもので、神には金の冥銭が、先祖と霊には銀の冥銭が捧げられています)。しかし、信仰者たちの機嫌を損ねて自分たちの地位を失うことを恐れた牧師と長老たちはこれに干渉しようとはしませんでした。信仰者の中には無信仰者の旦那がいて、彼女は彼から毎日お香をたいて仏陀を崇拝するよう言われていました。こうして、彼女は牧師と長老にこの偶像を崇拝し続けても良いかどうかを尋ねました。それでもなお、彼らは彼女に無信仰者である家族が求めることをし続けてよいと伝え、この節を例として用いたのです、「どうぞ主がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。すなわち、わたしの主君がリンモンの宮にはいって、そこで礼拝するとき、わたしの手によりかかることがあり、またわたしもリンモンの宮で身をかがめることがありましょう。わたしがリンモンの宮で身をかがめる時、どうぞ主がその事を、しもべにおゆるしくださるように」(列王紀下 5:18)。しかし、私は聖書にこう記してある節があることを思い出しました:「これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、『人間に従うよりは、神に従うべきである。』」(使徒行伝 5:29)。牧師と長老たちは自分たちの関心事を神よりも重要なものとして捉え、神よりも人を畏れていました。私はこう疑問に思いました:「彼らは神の信仰者じゃないのか?彼らは聖書を好きなように解釈しているのではないか?これは明らかに主の教えに反しているのではないだろうか?」 彼らの振る舞い全てが私の状態を増々悪化させていきました。次第に、私は聖書を読んでいても何の光明も見えなくなり、集会への参加や祈りを捧げることに何の喜びも感じない状態に陥ってしまいました。長い間、私は聖書を読む気が起こらず、私の霊的状態は又してもどん底に陥ってしまいました。私は自分の魂を満たしてくれる教会を切望し、それを求めて神に祈りを捧げ続けました。

 私は2016年8月にもう一度神の御恵みを授かりました。私たちの教会の姉妹が私を全能神教会の兄弟姉妹たちに紹介してくれました。私たちは新・旧訳聖書時代における神の御名前と働き、主イエス様の再臨と働きのあり方、主の裁き、善人と悪人そして麦と毒麦を分けられたこと等、多くの側面について聖書を一緒に二週間近くも検索しました。このような話し合いは私に今ままで体験したことがないような喜びを与えてくれました。私は心の中でとても満足しました。一日中語り合った後、私は全くそれが退屈だと思わず、むしろ翌日の集会が待ちきれませんでした。2週間ほど続いた交流の中で、兄弟姉妹たちは全能神の御名前、そして主イエス様が再臨され、恵みの時代になされた贖いの働きを土台とした世の終わりの裁きと清めの働きをなされておられると証言してくれました。当時、私は心の中で思い悩み、自分の無知さが原因で誤った道に進んでしまわないかと心配で、このまま続けて話しを聞いているべきがどうかが分かりませんでした。しかし、当時の調査と会話は聖書から逸脱したものではなく、あらゆる点において十分な根拠に基づいていました。彼らがもし、何の証拠もなしに主が再臨されたと言っていたのなら、それは間違いなく信じられませんが、主の再臨に関する預言、主が再臨される方法、なされる働きだけでなく、主の新しい御名前まで、全てが聖書に基づいた証拠があるのです。こう考えながら、私は調査を続行することにしました。

 集会の終わりに、全能神教会の姉妹が「永遠の福音 – 神の国による御救いが到来した」と題した神の御言葉の書籍を持っていると言いました。彼女は私にそれを読んでみたいかと聞いてきたので、私はまったく躊躇せずに受け取りました。帰宅した後、私は時間があればいつもその本を読みました。私は読めば読むほど、増々止まらなくなり、もっと読みたくてたまらなくなりました。この書籍の御言葉はとても素晴らしいものだったのです!私は人間にはこれらの御言葉を執筆できる人はいないと感じました。人による執筆は大抵の場合が一方的で、不純で、理論的で、個人的な体験が含まれているものですが、この本には人の堕落した本性の御啓示と神の働きにまつわる謎を初めに、神の権威、御力、威厳、御怒りがほのめかされていました。これ故に、私は神御自信を除いて、このような御言葉を執筆できる方は誰もいないと確信しました。

 後に、兄弟姉妹たちはどうして私が以前行った教会の多くは増々わびしい状態になっているのか、どうして兄弟姉妹たちは信仰と愛を失ってしまうのか、どうして説教師たちは途方に暮れて何を説いたらいいのか分からなくなっているのか、どうして宗教団体全体が聖霊の働きを失ってしまうのか等、重要な問題について交流してくれました。姉妹は2つの節を私に読んでくれました、今現在が世の終わりの終末期であることは誰もが知っています。主イエス様はかつてこう預言されました:「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイによる福音書 24:12)。現在、宗教における不正行為はどんどんまん延しています。宗教指導者たちは主の戒律に従っていないのです。代わりに、彼らは人々の持つ習慣に固執し、自己顕著するために聖書に関する知識を説いて自分達の証言をしますが、それは神の証言をするためでも、神を賛美するためでもないのです。彼らは主の道から完全に逸脱してしまっているのです。従って、彼らは神から排斥され、除去されているのです。これが宗教界が聖霊の働きを失った主な原因です。 加えて、主イエス様はまた受肉され、教会を出発点とした裁きの働きを開始されました。全能神は、世の終わりのキリスト様として、世の終わりの神の働きを受け入れる人たち全員を清めるために人類を救うことに関する真理を全てお示しになり、聖霊の働きが神のこの働きに移行されているのです。世の終わりの全能神の裁きの働きを受け入れる人たちは聖霊の働きを授かり、いのちの生ける水を供給され、注がれているのです。神は神の御座の前に戻る人々を克服者とされ、神と心を一つにした者たちとしてくださります。しかし、依然として宗教的な場に留まって世の終わりの神の働きを拒否している者たちは暗くわびしい状態に陥ってしまいました。これが聖書に記されたこの預言を現実化してるのです:「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』と主は言われる。」(アモス書4:7-8)。 ここにある、「この畑は雨をえ」は世の終わりの神の裁きの働きを受け入れて、それに従順な教会のことを指しています。彼らは神の現在の御言葉を受け入れたことで、神の御座から流れるいのちの生ける水の御備えと注ぎを授かったのです。「かの畑は雨をえないで枯れた。」 は主の御言葉を実践することを拒否して主の戒律に背く宗教的な牧師と指導者たちのことを指しています。 彼らが世の終わりの全能神の働きを拒絶し、それに抵抗し、それを非難しているために宗教界は神から排斥され、呪われており、聖霊の働きを完全に失い、生ける水の御備えを全く授かれず、わびしい状態から抜け出せなくなっているのです。これは律法の時代に、かつてはヤ―ウェ神の栄光で満ちていた礼拝堂がわびしくなってしまったのと同じです。ユダヤ人たちは宗教法には固執しませんでした。牧師たちは不適切な犠牲を払いました。礼拝堂は商売の場、そして盗人の巣窟と化してしまいました。どうしてこんなことが起ってしまったのでしょうか?主な理由はユダヤ人の宗教指導者たちはヤ―ウェ神の律法に従わず、心の中で神を畏れていなかったからです。彼らは人々の習慣に従い、神の戒律に背いていました。よって彼らは神の道から完全に逸脱して聖霊の働きを失ってしまったのです。もう1つの理由として、神が恵みの時代に人類の罪を贖う働きをするために受肉されたということがあります。神の働きが変わったのです。主イエス様の贖いの働きを受け入れた者たちは誰もが聖霊の働きを授かり、新たな実践方法を手にしたのですが、主イエス様の働きを排斥し、それに抵抗した者たちは神の働きにより除去されてしまい、暗くわびしい状態に陥ってしまいました。

 「神が宗教界を飢えさせておられる理由は神を心から信仰し、真理を愛している者たちを宗教から抜け出させて神の足跡、聖霊が教会に仰っておられること、そして神の御姿と働きを追求させるためなのです。神の御声に耳を傾け、世の終わりの全能神の裁きの働きを受け入れてそれに従う者たちは賢い処女であり、神の御座へと携挙される人々なのです。これらの人々は子羊の婚宴に参加し、神の御座から流れるいのちの生ける水の御備えを授かり、以前持っていた信仰と愛が回復されたのです。彼らは誰もが真理を悟り実相の中にはいるために神の御言葉を飲食し、神の御言葉を実践、そして体験するための訓練をしています。人々は真理を理解して神の真の知識を得る時、神を畏れて神に従うようになります。そうしたら、彼らは神から新たないのちを授かるのです!全能神の働きを受け入れない宗教団体や個人は聖霊の働きを全く持たない状態で神から見捨てられ、除去されてしまいます。これには何の疑う余地もないのです!この全能神の御言葉を読んでみましょう:「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真理の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(千年神の国は訪れたにより)。

 これらの説明を聞いて、私はやっと宗教界がわびしい状態にある原因を理解しました。主イエス様が働きを開始された時と同様に、神の魂も礼拝堂ではもはや働いていなかったのです。聖霊の働きは主イエス様に従う弟子と信仰者たちに移行されました。宗教指導者たちは神の御心から完全に離れてしまい、彼らの行いも全てが神から忌み嫌われてしまったので、主イエス様は礼拝堂では働かれず、代わりに荒野で説教されたのです。働きの最終段階についても同じです。全能神が地上での働きに着手された時、聖霊は宗教の場での働きはお止めになりました。私が聖霊の働きを受けて、いのちの生かす水の注ぎを得たいのであれば、最も重要なことは世の終わりの全能神の働きを全力で求め、それを調査することなのです。私の霊的暗さは私が神の新たな働きについて行く場合に限って根元から解決されるのです。

 私は全能神が私を取り戻してくださったことに心から感謝いたします。聖書にはこう書かれています:「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 3:22)。実はこれは世の終わりの神の御言葉を言及しています。神は信仰者たちを探すために世の終わりに御言葉を発せられます。私は幸運にもその1人であり、主イエス様によって神の御家に連れ戻していただいたのです。全ての栄光、権威、そして名誉、最高の全能神にあれ!アーメン!


一生懸命に働くことと神の定めに従うことは同じことではありません

2019-10-30 20:50:03 | 賛美の心

 白谷美纪子は窓の前に立ちながら、最近彼女を当惑させている問題について深く考えこんでいました。主イエス様はこう仰せられました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)天なる父の定めに従う者だけが天国に入ることができます。さて、私は全てを捨てて、神のために労力を費やし、毎日一生懸命に働いていますが、私は天なる父の定めに従う人になれているのでしょうか?これが天なる父の定めに従っているということにならないとしたら、私は最後に神から捨てられ、排除されてしまうのでしょうか?

 集会の最中、白谷美纪子は自分の抱える困惑を提起しました。

 

 泓美衣はこう言いました。「白谷姉妹、私たちは福音を伝え、犠牲を払い、労力を費やしながら、熱心に主のために働いています。私たちは天なる父の定めを全うしていると思いませんか?主は来臨される時、間違いなく私たちを天国にお連れくださります。私たちはこのような確信を持たないといけないんですよ!」

 集会にいた他のクリスチャン2人もチンフアの意見に賛成しました。彼らは一生懸命に働くことが天国への道を開くと信じていました。

 彼らの意見を聞いた後、白谷美纪子はこう言いました。「私は幾つか分からないことがあります。でも、それが本当なら、イエス様はどうして主の名によって福音を伝え、悪霊を追い払い、多くの奇跡を起こした人々が邪悪な人々だと言われたのでしょうか?これには探求すべき真理があるはずです。私たちが思っているほど単純なはずがありません。」

 白谷美纪子と同じ考え方をしていた駒欣子は頷きながら白谷美纪子の見方に賛成しました。彼女はこう言いました。「この主題についてですけど、大切なことは神の定めに従うことがどんな意味を持つのかということだと思います。」

 駒欣子が話し終える前に、泓美衣が割り込んでこう言いました。「私はパウロ兄弟がこう言ったのを覚えています。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)

 駒欣子はこう言いました。「しかしですねえ、ヂェン姉妹、イエス様は一生懸命に働くことと神の定めに従うことが同じことだとは仰いませんでした。実際、それは逆だったんですよ。主は、一生懸命に働くけれども主の定めに従わない人々を邪悪な人々と定義されました。これはどう説明すれば良いのでしょう?パウロは義の冠が彼を待っていると言いました。しかし、これは単に彼の個人的な考えだったのです。聖書の中に彼の言葉を立証する証拠はありますか?イエス様は彼の言ったことが正しいと認めておられますか?パウロの言葉は人間の言葉であって、神の御言葉を表しているわけではないのです。私たちは、神の道に従うのであれば、神の御言葉を基準として捉える必要があるのです。」

 説教を聞いて戻ってきた谷後元はこう言いました。「クリスチャンの大多数が『熱心に働くことは神の定めに従うことと同じである』という観点を支持しています。私も、この観点が真理と神の御旨に沿っているのかどうかを頻繁に検討してみました。私はユダヤのパリサイ人たちが福音の伝道をするために陸と海を巡り歩き、頻繁に交差点で祈りを捧げ、断食までしていたことを思い出しました。人間の観点からすると、彼らはたくさん良い行いをし、とても敬虔でありました。しかし、その彼らが最終的には神に断罪され、呪われてしまったのはどうしてなのでしょう?神は人間の心の奥底までお調べになります。パリサイ人たちはたくさんの苦難に耐えたものの、彼らは宗教的儀式を行い、聖書の内容と理論について語っていただけだったのです。彼らは神の御言葉を全く実践していなかっただけでなく、神の戒めに従ってもいなかったのです。彼らが行ったことは全て、各々の地位と生活を維持するためだけでなく、祝福を受けて、報酬を手にすることだけを目的としていたのです。彼らの心は基本的に神を愛しておらず、彼らは神を畏れる心を全く持っていなかったのです。主は働きをしに来られた時、天国の福音を伝えられ、人々に告白して悔い改めるよう仰せられ、たくさんの奇跡を起こされました。イエス様の働きと御言葉には権威と力があったのです。こういったことを語り、行える人は他には存在しません。しかし、イエス様の働きを前にしても、パリサイ人たちは真理を求める心を持ちませんでした。彼らは狂信的にイエス様に抵抗し、罪に定め、ついにはイエス様を十字架に磔さえしてしまいました。これが真理を嫌う彼らの本性、および偽善的な本質を完全に暴露したのです。この事実は、一生懸命に働くことが神の定めに従うこととは根本的に違うということを私たちに知らせてくれています。神の御言葉を実践すること、そして神の戒めに従うことができていなければ、私たちは一生懸命に働いていたとしても、神の称賛を得ることはできないのです。

 「その後、私は神の定めに従うことの意味を理解しようとしました。神の定めに従うことはどのような形で表れ、それを貫くとはどういうことなのか?聖書を調べた時、私はイエス様が仰ったこの言葉を見つけました。『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。』(ヨハネによる福音書14:23–24)『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。』(ヨハネによる福音書8:31)『「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。』(マタイによる福音書22:37-39)神の定めに従うということは、神の道と戒めに従い、神の要求通りに自分たちの本分を尽くすということなのです。主に仕える上で、主の御言葉に応じず、聖書に書かれた人間の言葉に応じていたら、それは天なる父の定めに従っていることにはならないのです。」

 駒欣子はこう言いました。「そうです、主の信仰を始めた後にたくさんの苦難に耐え、大きな犠牲を払い、患難を受けさえしても主から離れなかった人々は大勢います。しかし、彼らの行いは全て祝福を受けて、報酬を手にするためにしたことでした。彼らの目的は天国に入り、義の冠を手にすることだったのです。このように犠牲を払い労力を費やすことは神と取引をしているのと同じことです。それは欺きと個人的な動機および目的に満ちた行為なのです。このような人々は基本的に神を愛しておらず、神に服従してもいません。彼らを神の定めに従う人と呼べるはずがありません。横浜市にいる太田牧師が同じようなことをしています。彼が説教の最中に語ることと、自宅で行っていることは全く異なります。彼は兄弟姉妹たちに寛容な心と耐え忍ぶ心を持つように言いますが、家では妻に暴力を振るいます。神の御言葉を全く実践していません。宣教をする時も、彼はいつも主を讃えて主の証しをする代わりに自分自身の証しをしています。彼はいつも自分が犠牲を払い、主のために労力を費やし、神のために数足の靴をボロボロになるまで履いたなどと言っているのです。これは全て兄弟姉妹たちから崇拝され、尊敬されるためにやっていることなのです。主のために働き労力を費やしているふりをして、決して主を崇めず、主の証しもせず、代わりに他人から尊敬されようと全てにおいて自己顕示するような人が、神の定めに従っていると言えますか?このような懸命な働きは神の御心に沿っていますか?パリサイ人のように悪事を働き、神に抵抗しているのではないでしょうか?」

 チウ・ユーリンがこう言いました。「そう、その通りなんです。説教を聞き行っていた時にある書籍を見つけたんですけど、その内容が素晴らしいんです。その中から皆さんにこの一節を読んで差し上げます。『わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの数々の邪悪な行為への報いである。』(「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より)この節より、神は私たちが神の定めに従っているかどうかによって私たちが善良であるか、邪悪であるかをお決めになることが分かります。神は私たちが真理の現実を生きているかどうかを基に私たちの終着点をお決めになります。こういったことは私たちの外面的な振る舞いによって決まるものではなく、私たちがどれだけ一生懸命に働くかによって決まるものでもありません。これより、神の義を知ることができます。」

 突然、白谷美纪子にとって全てがはっきりとしました。彼女は嬉しそうに言いました。「神に感謝します!私たちは神のために一生懸命働くことができるかもしれませんが、それは全て祝福を受けて、将来的には天国に入るために行っていることで、神への服従と愛を理由で行っているわけではないのです。なので、私たちがやっていることは紛れもなく神の定めに従うということに関連していないのです。外面的に前向きな行動を取っていても、心の中で神に服従せず、神を愛していなければ何の意味もないのです。私たちは神の御言葉に従うことに集中するべきで、神の要求通りに神を信じ、神に従うべきなのです。基本的なこととして、神の戒めに従い、神に背いてはならないということです。」

 駒欣子はこう言いました。「その通りです。私たちは神の道に従わずに、自分たちの想像と観点を頼りにしながら神を信仰しているのです。最終的に、私たちも神を信仰しながら神を知らなかったパリサイ人と全く同じになってしまうでしょう。私たちは主の道から逸脱し、主に抵抗するばかりです。私たちは外面的にたくさんの苦難を経験してはいますが、どれだけ一生懸命に働いても、神に抵抗する人々であるということに変わりはないのです。」

 白谷美纪子はこう言いました。「これで、一生懸命に働くことは神の定めに従うこととは違い、まして天国に入る条件ではないということが理解できました。神の定めに従うということは、神がどのような働きをされても、神が何を仰せられても、神の要求が何であろうとも、神に服従し、神の道に従うことができ、神を満足させて神の証しをするために労力を費やし、完全に神に尽くし、神と取引をしないということを意味しています。そして、このような人のみが天国に入ることができます。そのような人たちとはアブラハムやペテロのような人たちです。彼らは神から何を要求されても、神の御旨を探求し、神に従っていました。彼らは神の御言葉に従い、神を恐れ、悪を遠ざけて生きた人物たちでした。」


クリスチャン映画「福音の使者」 神の福音を伝えることはクリスチャンの責任だ 予告編 日本語吹き替え

2019-10-29 23:51:22 | 賛美の心

 キリスト教徒チェン・イーシンは主を長年信じ、終わりの日の主イエス・全能神をお迎えする幸運に恵まれていた。彼女は全能神の御言葉から、人類を一刻も早く救いたい神の御心と、被造物が果たすべく使命と責任を理解したため、福音を伝えて終わりの日の神の働きを証し始めた。その間、多くの都市や省に渡り、何度も宗教界からの抑圧と拒絶や中共政府による追跡と迫害に見舞われる。多くの苦難に遭う彼女だが、神の御言葉の導きの下、使命を背負い続け、危険を恐れず勇敢に前進する。

 [東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


主が戻られてどこに現れるのか

2019-10-28 17:15:10 | 賛美の心

シャォシィさん、

 昨日、私はリュウ兄弟から地元の教会が今、さらに荒んだ状態にあることを知りました。そして、教会を蘇らせるために、シャォシィさんは頻繁に断食し、祈りを捧げ、20日間も何も食べず、空腹のために気することもあると聞きました。私はこれを知ってとても心配していますので、今すぐにでもあなたとお話しをしたいと思っています。しかし、教会でやるべきことがありますので、まずはリュウ兄弟にこの手紙をあなたのもとへ届けるようお願いしておきます。

 シャオシィさん、教会の荒廃は最近宗教界全体に広まっています。それに、主の再臨のしるしは基本的に既に成就しています。なので、私たちは何もせずにただ座って主の来臨を待っているわけにはいきません。私たちは聖霊の働きが宿る教会を探しに行って、子羊の足跡を辿るべきです。私は以前、頻繁にあなたと一緒に主の再臨について交流したのを覚えています。主は再臨される時にどこに現われるのかという話をした時、私たちはゼカリヤ書14章4節を学びました。「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り……」私たちはこの聖句を読み、それは主が再臨なさる時、主は間違いなくユダヤにあるオリーブ山に来られ、注意深く主を待っていた人たちに、その御姿を現しになると預言しているものと思っていました。これ故に、私たちは長年に渡ってイスラエルに注目してきたのです。特に、4つの血の月が現れた後、私たちは主の再臨の知らせを受けるのが待ち遠しくなり、更にイスラエルに注目するようになりました。その時、私たちに、イエス様は既にお戻りになられ、中国に現われて、働きをされておられると説教する人たちがいました。そして、彼らは主の再臨をお迎えする機会を逃すのを恐れ、私たちに可能な限り早く探求し、調べるよう助言しました。しかし、私たちはこう思いました。「彼らが説いている内容は聖書の預言に沿っていませんし、神が以前になされた二段階の働きは共に、何世代にも及ぶ信者たちが暮らすイスラエルで行われているのに、どうして神が中国に現われて働きをなさるというのでしょう。さらに、歴史を振り返っても、中国は人々が香をたき、仏陀と悪霊を礼拝し、クリスチャンは最も厳しく迫害されるという国です。それは最も遅れていると同時に、最も神を信じたがらない国です。なので、神が中国に現われて働きをなさるなんてことはありえないのです。」従って、当時、私たちはそれを受け入れず、教会にとどまり、主がいつかユダヤのオリーブ山に現れるのを待ち続けました。

 私はここに来た後、ヂャオ兄弟と出会いました。彼の言ったことは私の考えを変えました。彼はこう交流してくれました。「聖書にはこう書かれています。『ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。」』(ローマによる福音書11:33-34)神の知恵は人間が計り知れるものではありません。私たちは神の働きを自分たちの考え方に照らして分析することもできません。さらに、神は決して将来なさる働きを私たち人間と予め話し合われることはなく、なす必要のある働きを直接なさり、私たちは神を神の働きから知り、そして神に従います。これと同様に、終わりの日の主の再臨に関しても、私たちは主の現れを自分たち独自の観念の中で定義するべきではありません。私たちはもっと探求して、もっと主に祈りを捧げるべきです。こうしてのみ、私たちは主の預言を完全に理解して主の来臨をお迎えすることができるのです。」

 ヂャオ兄弟の言葉を聞いていると、私は過去のパリサイ人が頭に浮かびました。イエス様がメシアとは呼ばれておらず、王宮のお生まれでもないと知った彼らは、預言の文字とそれぞれの観念および想像に従ってイエス様に反対し、イエス様を非難しました。最終的に、彼らは主を十字架に釘付けにし、それが神の性質を怒らせる結果となって、彼らは神の怒りの下で滅びていったのです。終わりの日において、主の再臨の預言に関する自分たちの観念と想像に固持していたのでは、私たちも無意識のうちに主に抵抗したパリサイ人の道を歩むことになるでしょう。それは危険なことです。私はこの時初めて、このように待ち続けていたのでは決して主をお迎えできるようにはならないと気が付きました。こうして、私は自分の観念を脇に置き始め、主のお導きを求めて頻繁に主に祈りました。

 私は主に祈りを聞いてくださったことを感謝しました。その後、私はある聖句を見つけました。マラキ書1章11節です。「日の出る所から没する所まで、異邦人のうちにわが名はあがめられている……と、万軍のヤーウェは言われる。」そして、イザヤ書にはこの記録があります。「だれが東から人を起したか。彼はその行く所で勝利をもって迎えられ、もろもろの国を征服し、もろもろの王を足の下に踏みつけ、そのつるぎをもって彼らをちりのようにし、その弓をもって吹き去られる、わらのようにする。彼はこれらの者を追ってその足のまだ踏んだことのない道を、安らかに過ぎて行く。」(イザヤ書41:2-3)マタイによる福音書24章27節です。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」これらの聖句に「異邦人」、「東から人を起こした」や「いなずまが東から」という言及があることから、主が働きをしに戻られる場所は東にあり、異邦人のいる所であることが分かります。そして中国はちょうど世界の東に位置しています。無神論国家である中国は神を礼拝したことが一度もなく、歴史を通してもクリスチャンを迫害してきています。中国人はかつて幾つかのキリスト教国から「異邦犬」と呼ばれていました。中国は正に異邦国の典型的な例なのです。これらの聖句を学んだ後、私は聖書の中に神は終わりの日に中国に現われて働きをなさると預言した記録があることを知りました。私たちが思っていたことは間違いであり、それは間違いなく私たちの観念と想像から生まれていたのです。

 この問題のより明確な理解を得ようと、私はヂャオ兄弟と交流することを求めました。当時、ヂャオ兄弟は私と沢山交流して、私の心を明るくしてくれました。私が最も感心したのは、彼が読んでくれた2つの節の御言葉です。これがそのコピーです。

 「神はイスラエルの民を導きユダヤに生まれたが、また、異邦人の国にも生まれる。神の働きはみな、神が創造した人類全体のためではないのであろうか。神はイスラエルの民を百倍愛し、異邦人を千倍憎んでいるのであろうか。それはあなたたちの観念ではないのか。……もしあなたたちが神はイスラエル人だけの神であるといまだに言い張り、イスラエルのダビデ家が神の誕生の起源であり、イスラエル以外の民族はどれも神を『生む』資格がないどころか、異邦人の民族はヤーウェの働きを直接受けられはしないと信じているのなら──もし、まだこのように考えているのなら、それは、頑固に抵抗していることではないのか。……あなたたちはまた、神がどうして異邦人の国に直接顕現しえるということを考えてみたこともない。神はシナイ山かオリーブ山に下り、イスラエル人に現れるはずではないのか。異邦人(つまり、イスラエルの外の人々)はみな、神の嫌悪の対象ではないのか。どうして神が自らそうした者の間で働くのか。こうしたことはみな、あなたたちが長年の間にもつに至った根深い観念である。今日あなたたちを征服する目的は、あなたたちのそうした観念を打ち砕くことである。だから、あなたたちは神がシナイ山やオリーブ山ではなく、あなたたち、過去に神が導いたことのない民族の間に現れるのを見た。」(「征服の働きの内なる真実(3)」より)

 「わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、わたしが呪った民族をも含む異邦人のすべての民族の神であることをわたしはあらゆる人々に知らしめる。わたしはすべての被造物の神であることをあらゆる人々に知らしめる。これがわたしの最も大きな働き、終わりの日のための働きの計画の目的、終わりの日に成就される唯一の働きである。」(「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」より)

 私はこれを読み終えた後、突然気が付きました。「その通りだ!神はイスラエル人のみの神ではなく、全人類の神でもあるのです!この全世界が神によって創造されているのです。神はどの国にでも現れる権利をお持ちで、いかなる国や民族の私物ではないので、いずれの規則による束縛も受けないのです。」しかし、私たちは神が以前になされた2段階の働きはイスラエルで行われていたことを知った時、心の中で主は再臨なさる時はイスラエルのみに現われて、異邦国には現れて働きをされないという観念を持ちました。私たちは当時、聖句の文字を固持してイエス様に抵抗したパリサイ人のようだったのではないでしょうか?このような観念は私たちの神に対する誤解であり、勝手な定義であることが分かります。そんなものを固持しながらどうやって主に認めていただけるというのでしょう。実際、主がお戻りになり、中国に来て働きをするために受肉されたということには主の知恵と素晴らしさが込められているのです。主が再臨されて、働きをするためにユダヤに降臨され続けていたら、私たちは常に神の存在をイスラエルに限定し、神はイスラエル人のみの神であると主張してしまうでしょう。神の知恵は本当に私たちには計り知れないものなのです。

 私たちは以前、自分たちの観念の中を生きていたため、主が中国に現われたと聞いた時にそれを調べず、ただ単に神がイスラエルのオリーブ山に現われることを待ちました。これはあまりにも理不尽なことです。今、宗教界は荒れはてた状態にあり、災害は増々深刻になっています。これ故に、私たちは自分の観念と想像に固執して神の現れを待ち続けていてはいけないのです。私たちは私たちの国家の持つ観念を打ち破って主の足跡と現れを探すべきなのです。こうしてのみ、教会が荒んだ状態にある問題を解決することができるのです。現在、私は神の現れと中国における働きについて調査しており、彼らの説教には本当に真理があり、それは私たちの抱える問題と困難を解消することができると同時に、私たちに教会が荒んだ状態に陥った理由をとても明確に示していることを知りました。彼らの説教は正に私たちのいのちが必要とするものを備えてくれています。

 シャオシィさん、私はあなたもご自分の観念を捨て、直ちに率先して終わりの日における神の現れの働きを探求、そして調査し、兄弟姉妹たちを荒んだ教会から導き出せることを願っています。良い知らせが聞けることを楽しみにしています!

敬具

リーユー

 

聖書の言葉-すべてのわざには時がある・伝道の書 3章1節

2019-10-27 21:03:03 | 賛美の心

 聖書の言葉

 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

伝道の書 3:1

 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。この言葉は、すべてのものを支配する神の権威を感じさせます!神の権威のゆえに、すべてのものは規則の下で秩序ある方法で交替することができます。神は言われました:「神は、万物を支配する規則の主であり、神は万物の存続を律する規則を支配し、また神は宇宙や万物も、共生できるように支配する。神はそれらの物事が絶滅したり消滅したりしないよう、支配するので、人類は存続することが可能であり、そうした環境で神の主導のもとに生活できる。万物を支配するこれらの規則は神の支配権の下にあるものの、人類はその規則に干渉することも、その規則を変更することも出来ない。これらの規則を知り、管理するのは神自身のみである。木々はいつ芽吹くか、雨はいつ降るか、土がどの程度の水と栄養素を植物に与えるか、葉はどの季節に落ちるか、木々はどの季節に実を結ぶか、日光はどの程度のエネルギーを木々に与えるか、日光から得たエネルギーにより木々は何を排出するか、といった事柄は、全て神が宇宙を造った時に決められていることであり、人間が破ることの出来ない律法である。生物も、人間には生物であるとは見えない物も、神により造られたものは神の掌中にあり、神の支配の下にある。この規則を変えたり違反したり出来る人間は居ない。つまり、神が万物を造った時、神は万物がどうあるべきかを定めた。木は土が無ければ根を下ろすことも、芽吹くことも、成長することも出来ない。木の無い土は、どのようなものとなるであろうか。土は干上がるであろう。そうではないだろうか。(その通りである。)また、木は鳴き鳥の住処であり、風から身を守る場所でもある。木は日光無しでも問題無いであろうか。(それは問題となる。)木に土だけしか無かったとしたら、それは木に不適であろう。こうした事は、すべて人間と人間の生活を継続するためのものである。人間は木から新鮮な空気を受け取り、木が守る土の上で生活する。人間は日光や他の生物が無ければ生活できない。これらの物同士の関係は複雑であるが、神は、万物が相互に関連し、依存して存在することが出来るように、万物を支配する規則を決めているということを、人間は明確に理解する必要がある。神が造った物には、その全てに価値と意味がある。神が意味の無いものを造ったとしたら、神はそれを消滅させるであろう。この点は理解できるであろうか。(理解できる。)これは、神が万物を与える際に用いる方法のひとつである。」(「唯一の神自身 7」より)。私たちは神の言葉から分かることは、神が定めた律法は誰もそれを壊すことができません、人が信じようが信じまいが、神の権威についてどれだけ知っていようかにも関わらず、神はすべてのものの源です。これは誰も否定できないという事実です!!神によって定められた律法のためにすべてのものの時が存在します。人々がすべきことは、このような規則中で神の支配を知ることであり、神の支配と定めに従うことです。

 

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