いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

キリスト教にはどうしてそんなに沢山の宗派があるのでしょうか?

2020-04-30 22:08:13 | 賛美の心

 主イエス様が働きをするために自ら地上に来られた時、主を信じた人々は皆、主の御名に服しました。使徒たちはあちこちで福音を伝道し、主イエス様の救いを受け入れて主の御名に服した兄弟姉妹全員を集め、キリストのうちで1つにしました。信者はその当時、イエス・キリストにのみ従っていました。それはこの聖句にも記されています、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。」(エペソ人への手紙 4:5-6)。従って、使徒たちの生きた時代には異なる宗派は現れませんでした。
 

 終わりの日が到来しました。主の信者たちは皆、同じ神を信仰し、同じ聖書を読み、誰もが主の教えについて語ります。しかし、主の信者たちの間で、2000以上の異なる宗派が誕生しています。さらに、そのぞれぞれが、「我々の宗派が世界で最も正統である」、という教義を固執しています。従い、各宗派が「最上の存在」になり、派閥を組み、それぞれの考えを貫こうとするといった状況が出来上がっているように思えます。これは敬虔な主の信者の多くを困惑させています:「主イエス様の御名に服する者たちは皆、主が十字架の上でなさった救いの御業を尊敬し、バプテスマ、パンをさくこと、謙遜な姿勢、辛抱強さ、寛容な心、そして愛を実践し、主が開いてくださる道を歩んでいます。ならば、どうしてそんなに多くの宗派が誕生するのでしょうか?原因は一体何なのでしょう?
 

キリスト教,沢山の宗派
 

 この疑問について、私は一度、教会で多くの説教師や牧師たち、ならびに神学の博士号を持つ学者たちにも尋ねたことがありました。しかし、その説明ができる人は誰1人としていませんでした。その後、長年に渡って宣教をしている私の友人の1人が私にある啓蒙書を渡してくれて、私はその中に答えを見つけたのです、「人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。」(「聖書について(1)」より)。この言葉を熟考し、私はこう理解しました:「私たち堕落した人間は傲慢な本質をしているために、賜物と知識に頼って仕事をしてしまいます。人によっては聖書に記録された事実から様々な神学理論を学び、自分の考えと想像にまかせながら聖書の文脈を考慮せずに宣教してしまっていることがあります。人はそれぞれが異なる形で聖書を理解してしまったため、異なる意見が生まれています。その後、彼らは独自の世界を築き上げるための団体を組織して、それぞれのやり方で指揮を取り、信者たちを自分たちのもとに導き、その指導者たちによる説教の内容に従って神を信仰させ、神に従わせているのです。このようにして、指導者たちは知らぬうちに神を名目的な存在と変えてしまい、それが原因で異なる宗派が形成されているのです。」
 

 例えば、聖書には、五旬節の日に聖霊が降臨された時、主の弟子たちは異言を語り、様々な賜物を授かったと記してあります。これ故に、私たちの中には聖霊の賜物を重要視して、人は五旬節の日に聖霊が人に下った時のように、バプテスマを受けるとたんに間違いなく異言を語ると信じている人たちがあります。さらに、聖書にはこの記述があります、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙 10:9-10). この節によると、信仰によって義とされるという説を最も重要視する人たちがいます。彼らの意見は、私たちは心で神を信じ、口で告白する限り、救われて天国に入ることができるというものです。他の例を挙げてみましょう:聖書の中で、主イエス様がニコデモと新しく生まれることについて話していた時、主はこう仰りました、「あなたがたは新しく生れなければならないと⋯」(ヨハネによる福音書 3:7)。これを基に、主を信仰するには新しく生まれて、罪を告白し、悔い改めることが必要とされていると信じている人たちもいます。各宗派はそれぞれの神学理論と教義で人々を導いています。結果として、異なる理解が異なる宗派を生み出し、『信仰による義教会』、『ボーン・アゲイン団体』、『新生派』等が存在しています。更に、多くの人々は自分たちの理解が最上のものであり、神に関する知識も遥かに一番純粋であると思い込んでいます。同じ宗派の悔い改め中でもお互いの理解を受け入れられないため、攻撃、口論、そして排斥が起り、宗派は更に分裂していきます。
 

 実は、こういった各宗派の意見は全て彼らの想像と観念に他ならず、聖書の文脈を無視した知識に過ぎないのです。それらは個々の宗派の中でのみ通用するものであり、キリスト教全体を完全に納得させることはできません。これこそが、聖書、神、組織体、または信仰が1つしか存在しない理由なのですが、宗派の数は何千にも及んでいるようです。
 

 兄弟姉妹の多くが、「この状況はこのまま続くのでしょうか?」と言って困惑しています。全ての兄弟姉妹が同じ神を信仰する今、私たちはどうすれば心を1つにして神の前に立ち返ることができるのでしょうか?これについて、私はたくさんの同労者と祈り、主の御啓示を求め、聖書を一緒に研究しました。そして、私たちは聖書に記されたこの御言葉を見つけたのです、「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。」(エペソ人への手紙 1:10)。私たちは主イエス様のこの御言葉も読みました、「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。」(ヨハネによる福音書 10:16)。「終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき」(イザヤ書 2:2)。私の友人がくれた書籍にもこのようにはっきりと説明されています:「世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。」(「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)。この御言葉より、堕落した人類はこの問題を解決できないことが分かります。なぜなら、宗教界の会長や指導者たちは皆、人間であり、創造物だからです。神は創造主であります。各宗派の各分派に属する人々は神の権威に服するのです。私たちは世の終わりに、「すべて国はこれに流れてき」という状況が見られるということも分かります。神御自身のみがこの働きを実行することがおできになり、それができる能力を持つ者は誰一人として存在しません。従い、神が来臨される時に初めて、神の真の信者たちは全宗派から立ち返り、神の御名に服すようになるのです。誰もが1つの真の神を讃え、その時に存在する羊飼いは御一方のみとなるでしょう。
 


迷える羊の喩え

2020-04-29 20:29:50 | 賛美の心

迷える羊の喩え

   「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」(マタイによる福音書 18:12-14)

 

 

   これは喩えであるが、この聖句についてどのような印象を受けるであろうか。この喩えでは、人間の言葉による修辞技法が用いられており、人間の知識の範囲内のものである。もし律法の時代に神がこのようなことを述べていたとしたら、人間はその言葉が神の存在と一致しないと感じていたであろう。しかし、恵みの時代に人の子がこの言葉を述べた時、その言葉は慰めとなり、暖かく、人間と懇意なものと感じられる。神が受肉した時、神が人間の姿となった時、神は極めて適切な比喩を用いて、人となった神の心の声を述べた。この言葉は、神自身の言葉と神がその時代に遂行することを望んでいた業を示していた。またこの言葉は、恵みの時代における神の人間に対する姿勢を示している。神の人間に対する姿勢という観点から、神は人間ひとりひとりを羊に喩えた。一匹の羊が迷い出た場合、神はあらゆる手を尽くしてその羊を探すであろう。これは、この時代に、受肉して人間の中にあった神の業の原則を示している。神はこの喩えにより、その業に対する神の決意と態度を説明した。これが、神が受肉したことの利点であった。つまり、神は人間の知識を利用し、人間の言葉で人間と会話して神の旨を表現することが可能であった。神は、人間が人間の言葉により、理解しようと苦戦していた神の深遠な神性の言葉を、人間に対し、人間のやり方で説明ないし「解釈を与え」た。このことは、人間が神の旨を理解し、神が遂行したいと考えていた業を知る上で役立った。また、神は人間の立場から、人間の言葉を使って人々と話をし、人々が理解できる方法で意思疎通を行うことが可能であった。神は、人々が神の優しさと親しみを人間が感じ、また神の心を理解できるように、人間の言葉と知識を用いて言葉を述べ、業を行うことさえ可能であった。このことから何が分かるであろうか。それは、神の言葉や業を妨げるものが存在しないことであろうか。神が人間の知識や言葉、話し方を用いて自身の話したいこと、実行したいと望む業や自身の旨に関して表現することは不可能であるという人間の考え方は、誤りであるということである。神は、神の現実性や誠実さを感じることができるように、またこの時期における神の人間に対する態度を理解できるように、こうした喩えを用いた。この喩えにより、長年にわたり律法に従って生活していた人間は夢から覚め、さらにこの喩えは、恵みの時代に生活してきた何世代にもわたる人々に励ましを与えた。人間は、この喩えの聖句を読むことにより、人間を救う神の誠実さや、神の心における人間の重要性を理解する。

   次に、この聖句の最終文「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」を再度検討する。これは主イエス自身の言葉であろうか、それとも天にいる父の言葉であろうか。表面的には、話をしているのは主イエスであるように思われるが、イエスの旨は、神自身の旨を示している。そこで主は「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」と述べたのである。当時の人々は、天の父のみを神として認識していたので、こうした人々の目の前に居た人すなわちイエスは、神が遣わしたものにすぎず、したがってイエスは天の父を現すことが出来なかった。この理由のため、主イエスは、人間に対する神の旨を人間が真に感じ、イエスの述べたことが真正かつ正確であると人間が感じることが出来るよう、このことも述べる必要があったのである。イエスの述べたことはシンプルではあるが、イエスがそれを述べたということは大いに思いやりのあるものであり、イエスの謙遜と慎ましやかさを示すものであった。神が受肉して行ったか、霊的な領域で業を行ったかを問わず、神は人間の心を最も良く理解しており、また人間に必要とされていた物事を最も良く知り、人間が憂う事柄、人間を困惑させる事柄について知っていたので、神はこの一行の文を付け加えた。この文では、人間の隠された問題に注目している。すなわち、人間は、人の子が述べる事柄に懐疑的であったこと、つまり、主イエスが話をしている時、主は「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」と付け加える必要があった。この前提があって初めて、イエスの言葉は実を実らせることができ、イエスは自身の言葉が正確であることを人々に信じさせ、その信ぴょう性を増すことができた。このことは、神が普通の人の子となった時、神と人間の間には極めて不自然な関係があったこと、また人の子の状況は、極めて恥ずかしいものであったことを示している。またこのことは、当時、人間の中で主イエスの地位がどれほど低かったかも示している。イエスがこの言葉を述べた時、それは実際には、人々に対して「これはわたし自身の心にある言葉ではなく、あなたがたの心にいる神の旨であるから、安心してよい」と伝える言葉であった。人間にとって、これは皮肉なことではなかろうか。受肉して業を行う神には、神の本来の姿にはない多くの利点がある一方で、神は人間の疑念と拒絶や、人間の愚鈍さに耐えなければならなかった。人の子の業の過程は、人間からの拒絶を経験する過程、およびイエスと争う人間を経験する過程でもあった、と言えるであろう。それにもまして、この過程は、神の中にある物事や神の存在、そして神自身の本質により、人間の信頼を継続的に得て、人間を征服するよう努める過程であった。この過程は、受肉した神が地上でサタンを相手に戦っていた、というよりも、神は普通の人間になり、神に従う者たちと戦い、その戦いの中で、人の子が、自身の謙遜と自身の中にある物事や自身の存在、そして愛と知恵によりその業を遂行した、といったものであった。神は、神が求めていた人々を獲得し、神に相応しい身分と地位を獲得し、神の玉座に戻った。

 

更に多くの内容を読むには、聖書のウェブサイトへどうぞ


恋しい人よ、あなたはどこにいるでしょうか

2020-04-28 15:55:40 | 賛美の心

  長年主を信じた兄弟姉妹はみなこんな体験があります。聖霊の働きを持ち、神と正常な関係がある時、どんなことをしても神の導きを感じられます。それはある詩歌の歌詞のとおりです。「恋しい人はわたしを奥の部屋に導き入れる。わたしたちが打ち明け話をし始めるときりがなくなる。わたしたちの愛情は死に打ち勝つことができるほど強く、大水によっても覆うことができない」。

   以前、わたしと主の関係は非常に親密でしたが、いつごろからか、わたしは祈りの中で神の臨在を感じられなくなり、聖書を読む時に啓き、光がなく、無味乾燥だと感じるようになりました。集会に参加しても享受がなく、いつも新鮮味のない話をしました。困難の中にある時、主が助け、支え、供給してくださることなど問題外です。わたしは助けがないと感じ、恐れ慌てました。主を信じる以上、主に頼らなければならないから、主との関係がなくなったら、主を信じることにおいて行き詰まるのではありませんか。主の来られる日に突然主の臨在を失ったので、わたしは荒野に捨てられた子供のように恐れ慌てました。

   主との関係を回復するために、わたしは祈りに励み、しかも断食して祈ることさえし、積極的にさまざまな聖書の勉強会に参加し、集いに励み、またあちこち訪ねて、聖霊の働きのある教会を探しました。ところが、わたしはどの宗派も荒廃し、干からびているのを見ました。ある教会は表面的にはにぎやかで、信徒たちが会食したり旅行したりし、彼らの建てた教会堂も非常に立派です。でも牧師は道を説く時、やはり新鮮味のない話をします。牧師は聖書の物語を語らなければ、霊的な教理、或いはだれも分からない神学理論を語ります。信徒たちが聞いた後、彼らの霊の中は依然として干からびていて、主の臨在がありません。ある信徒たちは世界の潮流に従い始めて、物質的なもの、肉体的な享受を追い求めるようになり、「不信派」になってしまいました。ある人たちはただ宗教的儀式を守り、毎週一回、教会堂へ礼拝に行き、めったに聖書を読みません。全収入の十分の一をささげるのは、主から平安、落ち着きを得るためにほかなりません。ある人たちは嫉妬し、論争し、主の言葉を実行できません。兄弟姉妹の信仰、愛が次第に失われました。

   困惑して、苦しく感じる時、わたしは何度も主の前に出て祈りました。「愛する救い主イエスよ! あなたはわたしの避難所、わたしの足のともしび、わたしの通り道の光です。主よ、今わたしは非常に弱く、非常に困惑します。わたしを救ってください。わたしがどうすれば、もう一度あなたの懐に帰り、あなたとの関係を回復することができるでしょうか。主よ、暗やみにいるわたしを救い、わたしに力を加え、わたしがこれから先の道を歩むのを導いてください。……」と。

   ある日、長年会っていなかった昔の同級生は突然わたしを訪問しました。そしてわたしたちは、なぜ世の終わりに教会が荒廃したかについて討議しました。討議する時、わたしたちはマタイによる福音書第24章12節に「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と書かれているのを見ました。この箇所を読んだ後、わたしは「不法がはびこる」の「不法」が具体的に何を指すかを知らなかったのです。昔の同級生はこのようにわたしに話しました。「『不法がはびこる』の『不法』が具体的に何を指すかを知りたいなら、わたしたちは律法の時代の末期を顧みなければならない。当時、ユダヤ教の祭司長、律法学者は神殿の中で神に仕えていたけれど、神の意志に背いて、勝手なやり方で行ない、神殿を、牛や羊や鳩を売る『強盗の巣』に変えた。彼らは神の戒めを守らず、神に劣ったいけにえをささげていた。地位、生活の道のために、彼らは聖書の知識をもって説教し、教理を語り、宗教的儀式を行なって信徒を惑わし、束縛し、自分の道へそれて行き、神に敵対していた。これらの不法なことはみな人が見られる事実だ。だから、主イエスは恵みの時期の救いの仕事を展開された時、次のように彼らを暴露し、叱責された。『律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている』(マタ23:27-28)。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」。更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」』(マコ7:6-9)

   主イエスがパリサイ人の『七重の災い』のゆえに彼らを罪定めされたことから、偽善的なパリサイ人のすることなすことはみな神に逆らい、神に敵対するものだと分かった。彼らはうわべでは祖先の言い伝え、律法を宣べ伝えるけれど、神の律法、戒めに背き、陰でやもめの家を食い物にし、預言者と義人を殺すのだった。彼らは神の言葉、神の道を証しせず、ただ祖先の言い伝えを守り、人が自分を重く見、仰ぎ見るようにし、人をみな自分の前にもたらした。特に主イエスが現れて働かれた時、彼らは主イエスの発表された真理に不服を唱え、地位、生活の道を守るために信徒を籠絡し、コントロールし、狂おしげに主イエスに逆らい、主イエスを罪定めしていた。これは、彼らの奉仕が神に逆らい、神の意志に逆らうものであることを十分に証明している。ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人が神に逆らい、神と敵対していたので、聖霊は神殿の中で働かなくなり、神殿は荒廃してしまった」。

   律法の時代の末期、ユダヤ教が暗やみの中に落ち込んだのは、ユダヤ教のリーダたちが神の戒めを守らず、神に逆らい神と敵対して、聖霊の働きを失ったからだという、昔の同級生の言葉によって、わたしは今日の宗教界が暗やみの中に落ち込んだ原因は、律法の時代の末期の宗教界が暗やみの中に落ち込んだ原因と同じであるかもしれないと知りました。

   昔の同級生は続けて話しました。「神殿が荒廃したもう一つの原因は、主イエスが受肉して地上に来て、さらに新しい、さらに高まる仕事を展開されたことだ。わたしたちが知っているように、主イエスは来て働かれた時、天の国の福音を宣べ伝えるだけでなく、また多くのしるしや奇跡を行なわれた。例えば、五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させたとか、ラザロを死人の中から復活させたなどだ。これらは神の権威と力を完全に明らかにした。真心をもって真理を求めるすべての人は、主イエスが一般の人と違うと分かり、主の言葉と働きを通して、主イエスが来たるべきメシヤだと知った。例えば、当時主イエスにつき従った弟子たちは主の声を聞き、主の働きを調べることによって、神の働きの歩調についていけた。……」。昔の同級生の言葉を聞いているうちに、こういう場面がわたしの目に浮かんできました。夕方のガリラヤの海のほとりで、ペテロは釣りざおを手にして、さびしそうに座ていました。こうした時、主イエスは彼のそばに来て、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)と言われました。それ以後、ペテロは主イエスにつき従いました。主イエスと付き合っている中で、彼は主イエスの言うことなすこと、そして聖霊の啓きを通して、主イエスが、生ける神の子だと認識しました。彼はまたシカルという町で、サマリヤの女が主イエスの説いた道を聞いた後、自分の水がめを置いたまま町に行き、主イエスの名を証ししたことを見ました。さらに、彼はヨハネ、マタイ、ピリポ、ナタナエルなど、多くの人が主イエスの行なったこと、主イエスの説いた道を聞いたので、次々に律法の下から出てきて、主イエスの働きの歩調についていけたことを見ました。「だが、ユダヤ教のリーダたちは自分が主の働きを調べないのに、かえってさまざまなデマをまき散らして信徒を惑わし、ローマ政府と結託して主イエスを迫害し、最終的に主イエスを十字架につけてしまった」という古い同級生の言葉で、わたしの考えが現実に戻りました。そのとおりですね。当時のユダヤ教は神の働きの歩調についていけないので、聖霊の働きによって淘汰されて、神の贖いを失いました! 今はすでに世の終わりの末期ですから、わたしたちはいつでも主の再来を見ることができます。神の働きを認識していなくて、聖霊の働きの歩調についていけないなら、わたしたちはユダヤ教と同じ結末を得るのではありませんか。

   ここまで考えてきて、わたしはすぐ昔の同級生に心の中の心配事を話しました。すると、昔の同級生はアモス書の次の二箇所を見せてくれました。「また、刈り入れにはまだ三月もあったのに、わたしはお前たちに雨を拒んだ。ある町には雨を降らせ、ほかの町には雨を降らせなかった。ある畑には雨が降ったが、雨のない畑は枯れてしまった。二つ三つの町が水を飲むために、一つの町によろめいて行ったが、渇きはいやされなかった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」(アモ4:7-8)。「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモ8:11)。昔の同級生は「ここの『ある町』は聖霊の働きのある教会を指し、『ほかの町』は聖霊の働きのない教会を指す。神が大地に飢えを送るのは、真心をもって神を信じ、真理を愛する人に雨のない畑を離れて雨のある町を探すように強いるためだ」と言いました。「今、どの宗派も荒廃している。聖霊の働きのある教会、雨のある町はどこにあるのか」とわたしは言いました。昔の同級生は続けて言いました、「七年間の飢饉に遭う時、ヨセフのところにだけ、食べるものがあるのだった。飢饉の災いを逃れるために、人はみなやむを得ず真理の道を探した。神は生ける水の泉で、人の享受できる、涸れることのない泉がある。神は『わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう』(黙21:6)と言われた。聖霊の働きのある教会、雨のある町には、きっと生ける命の水の供給、聖霊の働き、神の言葉、神の導きがある。このような教会に聖霊の働きがあるので、信徒たちの信仰と愛は回復され、彼らは祈る時に聖霊の啓き、照らし、神の臨在があり、神の言葉を読む時に光があり、神の働きを経験することによって、神、および人自身の腐敗した本性に対してますます認識を持つようになる。それゆえ、彼らは次第に自分の野蛮さと不従順を恨み始めるようになり、神に帰服して、本当の、神に従う心、神を畏れる心、神を愛し礼拝する心を持つようになります。だから、わたしたちが『雨のある町』を探したいなら、どの教会が聖霊の働きを持ち、神の新しい働きを証しし、神の現在の言葉と働きを経験するか、彼らが真理を証ししているか、命において成長したか、彼らの性質が変わったかなどを見なければならない。このいくつかの面を確かめることができれば、聖霊の働きのある教会を見つけることができる。聖霊の働きのある教会を見つけたら、神の現れを見つけたことになる」。

   主に感謝します!これらの聖書の言葉を調べ、昔の同級生の言葉を聞くことによって、わたしは律法の時代のユダヤ教が聖霊の働きを失った根本原因を知りました。その原因は二つあります。第一の原因は、神殿の中で不法がはびこって、ユダヤ教のリーダーたちが神の意志に背いて勝手なやり方で行ない、神の戒めを守らず、聖書を間違って解釈し、人を籠絡し、コントロールし、惑わし、人を聖書の知識の中に導き入れ、神からますます遠く離れ、神殿を、宗教的儀式を行なう場所に変えてしまい、その結果神殿の中で、神に逆らう偽善的なことがますます多くなる、ということです。第二の原因は、神がすでに人の必要に基づいて仕事を発展させ、主イエスがすでに神殿の外で贖いの仕事をしたので、主イエスの働きの歩調についていける人たちがもう一度聖霊の働きを得て、光の中に生きて、主に再会するようになり、観念、想像をかたくなに守って、主イエスをメシヤとして受け入れない人たちが暗やみの中に落ち込んで、神の救いを失ってしまった、ということです。

   律法の時代の末期の神殿が荒廃した原因を知った後、わたしはヨハネの黙示録の一言、「この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く」(黙14:4)を思い出しました。これは、主がわたしたちが聖霊の働きのある教会を探すのを導く言葉だろう、とわたしは思います。


私と傲慢な課長の間の「堅氷」が溶けた

2020-04-27 03:24:15 | 賛美の心

上司に困らされたら、どうすればいいですか。三年来、課長はいつも彼を困らせ、彼もずっと課長と張り合い、落ち込んで苦しく生きています。最後に彼はどのように苦痛の中から抜け出して、解放されて自由に生きているのか。どうぞ一名のクリスチャンの変化の経験を見てみましょう。

 

   快速ナビ

私は課長との張り合いが始まった

怒る根源を見つけた

神様の意図を理解した

再び困らされることに直面する時

課長との「堅氷」が溶けた

 

私は課長との張り合いが始まった

   私は電気溶接の作業員です。見事な深みのある技術を持っているから、今の会社に引き抜かれました。会社に来たばかりの頃、私が担当していた作業は一件の不良品があって、課長はわざわざ検査部門が私のために、検討会議を開き、私に不良品報告表を作らせました。私は、すべての人は皆不良品を作ったことがあるが、課長はあまり報告しないのに、なぜ今回はわざわざ検索部門が私に検討会議を開かせるのかと思いました。しかし、私はまたこう思います。今回は確かに私の間違いで、間違ったら、認めればいいです。それから私はこの事についてあまり考えないです。しかし、それから、課長はきりがなく依然として私を叱り、そして私に皮肉を言いました。「あなたはどうしてしでかすのか。」課長のこの態度を見て、私は自分のメンツと尊厳が大いに傷つけられたと感じ、思わず怒りを出しそうになり、「私はどうして間違ってはいけないのか、もう間違ったから、あなたはどうするつもりか。」と心に思います。これによって、私は課長と張り合い始めました。

   それから、課長はあらゆる面で私を困らせ、よく命令の口調で私にあれこれをするように指示し、またよく他人の仕事を私にやらせ、そして側で私をじっと見つめていました。これは課長がわざと私を狙い撃ちをし、私の粗捜しをするのを知って、私も人に負けないようにし、どんなに頑張っても仕事が終わらないとき、私は思い切ってもう進度を追わず、ゆっくりやります。しばらくしたら、お手洗いに行ったり、水を飲みに行ったりし、わざと課長の前を行ったり来たりし、故意に彼を怒らせます。課長は私の様子を見て、目をじっと見つめて私に大声で叫びました。「急いでいるのを、君は知らないのか。」「知っているよ。」「知っているのに、君はなぜ仕事を終わらせないのか。」「私の力はこれだけです。最初に仕事をする時もこのスピード、今も同じではないか。」課長が私の言葉を聞いて、タバコをもみ消し、ぷんぷん怒って去りました。私が仕事をする間にこのような事がよく発生し、毎回言い争った後、課長はどうしようもありません。しかし、私の心にはとても苦しくて辛いです。このような生活はいつまで終わるかを知りませんでした。

 ある日、課長はまたたくさんの仕事を私にやらせ、全くやりきれないので、私は不平と不満がいっぱいになり、どうしたら課長に私が甘くないことを知らせるのかをじっくり考えています。それで、翌日出社する前に、私は理由をつけて会社に休みを取りました。課長は私のやり方を見て、全くお手上げになり、やむなく仕事を急いでいるから、彼は進んで私に連絡しました。私にやらせた仕事を一部他人に分けたので、翌日出社するようにと言いました。これによって、課長は私に対してどうしようもないのを見て、しばらく平穏になって、もう私を困らせません。しかし、しばらくしないうちに、課長は会社の仕事がそんなに忙しくないのを見て、また私を困らせ始めました。私の工具が使いにくい事を彼に言いましたが、彼は私を我慢させました。私の作業着は時間が経ったから、焼損したので、彼に新しい作業着を申し込んだのに、彼は申し込んでくれませんでした。要するに、私の提出したすべての要求に対して、彼はほとんど私を満足させることなく、私たちの会話はいつも激しい敵意に満ちていました。私たちはこのように互いに張り合う状態の中で三年間を過ごしました。この三年間の中に、私は毎日重苦しく過ごしていて、ここから離れて辞めることさえ考えました。しかし、日本で何年間も努力してきたのに、安定した仕事がなかなか見つかりません。しかも、私は会社に引き抜かれたので、もしこのまま課長にいじめられて会社をやめたら、不本意です。自分のために頑張りたいから、私は苦痛を耐え忍んで勤め続けるしかありませんでした。

 

怒る根源を見つけた

   2018年、幸いに私は全能神の終わりの日の働きを受け入れました。時間があったら、私は兄弟姉妹と一緒に集会し、神様の言葉を読んでいました。集会を通して、私は自分がよく他人と張り合い、争い合うのは、サタンの堕落した性質によるものであり、神様が嫌悪することであるのを知りました。これを理解した後、私は生活の中で自分を反省し認識することを重視し始めました。

   ある日、まもなく終業する時に、課長はまた私に向かって命令の口調で私に言いました。「君、明日残業して、この前受けた新しい仕事を終わらせて。」私は何も言わずに、うなずいて応答しました。続いて課長は私に聞きました。「明日はこの新しい仕事を終わらせるのか。」新しい仕事なので、図表も見る必要があるし、具体的にどんな困難があるか、どのぐらい時間かかるか私ははっきり分からないので、私は「ほぼできる」と返事しました。課長がタバコをくわえて私を見ながら言いました。「ほぼできる?君は一日で終わらないだろう?」彼の傲慢な様子を見て、私の心にはとても反感を感じ、怒りが抑えられなさそうになっていました。続いて課長はまた挑発する口調で言いました。「俺なら半日で終わる。君は1日でも終わらない。試してごらん。」課長の軽蔑する目つきを見て、私は心に思いました。「あなたはずっと私を眼中に置くことなく、私と腕比べをしているか。私がここでぶらぶらして日を過ごしていると思うのか。明日一番短い時間でこれらの仕事を完成させ、実力であなたの口を塞ぎます。」ここまで考え、私も硬い口調でずけずけと彼に言いました。「明日やって見るわ。どのくらい時間かかるか、課長とどれくらい差があるかを見てみよう。」私の話を聞いて、課長はずるい笑顔を現しました。私は心に思います。「あなたが笑われないように、明日8時間でこれらの仕事を完成させるように勝ち取ろう。」

   帰り道で、私は腹いっばいの怒りを我慢して、会社にいるこの三年間に、課長はよく私を貶し、困らせ、本当に人を腹立たせます。今度私はこの仕事を終わらせてから、彼に軽べつされないように、必ず彼と言い争わなければなりません。歩いている途中、私はちょこっと携帯を見て、無意識のうちに兄弟姉妹のアイコンの写真が目に入って、私はすっと今自分が神様を信じる人であると思い出して、先ほど自分が堕落した性質を現していることに気づきました。しかし、私は家に帰った後、心がなかなか穏やかにならず、ずっとこのことのために悲しくなっています。それで、私は神様の前に来て祈ります。「神様よ、今日私は堕落した性質を現しました。サタンの前に証しに立つことができませんでした。神様よ、あなたは私の霊的背丈が小さいのを知っておられ、私は何も分からないので、自分の堕落したサタン的な性質を認識し、堕落した性質から抜き出す道を見つけるように、どうか私を導いてくださるように。お願いいたします。」

   その後、私は集会の時に、兄弟姉妹が私に交わった二段落の神様の言葉を思い出しました。神様は言われます。「人間が他人の前で怒るか、あるいは陰で怒るかを問わず、人間には皆様々な意図と目的がある。このような人間達は、自分自身の信望を構築している場合や、自らの利益を守ろうとしている場合、自分の外聞や面目を保とうとしている場合などがあるであろう。自分の怒りをある程度抑えるよう努める者も居れば、全く抑えようとする様子が無く、好きなときに心ゆくまで怒りを露わにする者も居る。つまり、人間の怒りは、自分自身の腐敗した性質から生まれている。その目的が何であれ、怒りは人間の肉欲や本性に関連するものであって、正義や不正義とは無関係である。なぜなら、人間の本性や本質には、真理に相当するものが皆無だからである。」「人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い腐敗した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、腐敗した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は汚れや謀略に満ちている。人間の腐敗と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。」

   神様の言葉を思い巡らして私は次のことが分かりました。人が怒り出したり腹を立てるのは、皆自分の意図や目的を持ち、あるいは自分のメンツやイメージを維持するため、或いは自分の威信を打ち立てるためです。要するに、理由が如何に適切であったとしても、怒り出すのは皆傲慢な本性から出たものであり、肉と血によるものであり、その中には個人的な野心や欲望に満ち、邪悪で、真理と一致しないものです。今日自分が課長に怒り出したのを反省し、それは主に自分のメンツと尊厳を維持するためでした。いつも私は「人はひと息のために戦い、仏は一本の線香のために争う」「人はメンツのために生き、木は皮のために生きる」これらのサタンの毒素によって生き、すべてのことにおいて自分のメンツと尊厳を維持し、私をいたたまれない思いをさせる人がいたら、私はすぐに怒り出しそうになり、傲慢な性質が現れ、普通の人間の理知を失ってしまいます。この何年間を思い返し、課長がいつもそっけない態度で私を扱うのを見て、或いは八方手を尽くして私をいじめる時、私は彼が私を何とも思わず、私を見下げて貶していると思い、自分のメンツと尊厳のために、いつも傲慢な性質によって課長と戦い、方法を考えて私と妥協するようにしています。今自分がなぜ自分のメンツを取り戻し、課長の尊重を得たいのかを考えて、自分が会社に引き抜かれてきた人材で、技術も、特長もあり、尊重を得るのは当たり前と思っているからです。実際に、私はどんな技術や特長があっても、私は塵や一人の被造物であり、どこに行っても他人からの尊重を求め、他人が言葉や行為において自分のメンツに気を配ることを求める資格がありません。これは理知のない要求であり、傲慢で高ぶっている表現です。ここまで考えて、私は自分の行為に恥ずかしさを感じます。

 

神様の意図を理解した

   私はまた一段落の御言葉を読みました。「もし、あなたが神によって完全にされることを望むなら、あらゆる事柄を経験することを学び、直面するいかなる事柄においても、神の啓きを与えられなくてはならない。何かに向き合うときは常に、良いことであれ悪いことであれ、あなたにとって得るものがなければならない。あなたが消極的になることがあってはならない。何が起ころうと、あなたは、神の側に立ってそれを考えることが求められるのであって、人の観点から分析あるいは検討してはいけない(これは、あなたの経験における逸脱である)。」

   神様の言葉を思い巡らして私は分かりました。私は昔から私たちの仲が悪い原因は、課長が傲慢すぎて、いつも他人を見下げているためだと思っていました。今私はついに自分のこの考え方が間違っていることに気づきました。このような環境に臨むのは、神様が許可されているから、私は再び反抗してはいけなく、教訓を学ぶことに重視すべきです。もし、私はずっと角突き合い、真理を尋ね求めず、他人の過ちだと思うなら、私は自分自身に存在する問題を認識することができなくなり、最終的に、何の真理も得ることができません。この時、私は自分が課長と角突き合う時、課長の過ちもあるが、自分も汚れて堕落しており、私はいつも自分の尊厳を維持するため課長と角突き合い、生きてきたのは少しの人間性や理性もなく、神様が私にこのような人間や出来事、物事を配置してくださるのは、私の堕落した性質を明らかにされ、私がこの環境の中で自分の堕落した真相を見極め、自分に対する正しい認識に達し、最終的に一人の正常な人間性を行動で示して神様に栄光を帰すためであることに気づきました。そのため、私は神様の前にきて祈りを捧げ、自分がメンツや尊厳などこれらの無価値のものを脇に置き、神様の言葉によって生きるように神様に求めました。

 

再び困らされることに直面する時

   翌日出社してから、私は昨日の仕事を終わらせて新しい仕事を始めています。しかし、あまり時間が経っておらず、課長が私を呼びました。彼に呼ばれたらきっといいことがないと心には思います。このように思う時に、自分のこの状態がよくなく、周りの環境は皆神様が配置しておられるから、私は神様から出たものであると受け入れるべきだと気づきました。そのため、私は心で黙って神様に祈りを捧げ、私の心を守って、神様の前に静まることができるように神様に求めました。その後、私は課長に向かいました。彼は定規を持って、私の完成品を測りながら言いました。「あなたの完成品は不合格だ。溶接ビードは5ミリメートル長かった、直して。この角度も違う、底板が不均一、全部やり直して。」彼が言っているのは皆許容誤差範囲内なのに、彼がわざと私を困らせていることが分かりました。彼と道理をわきまえようとする時、突然私はこのことを思い出しました。課長がこのように私を扱うのは、サタンからの誘惑であり、私の肉と血を挑発しようとし、私を課長に敵対する状態の中に置かれるのです。実は、課長がこのように私を扱うのも神様に許可され、神様が私の傲慢な性質を変化させ、私が人間性と理性を生き出させるように配置してくださった環境です。私は神様から出たものとして受け入れ、サタンの笑いぐさにならないようにまず従順になるべきです。ここまで考えて、私の心が静まってきて、初めて穏やかな口調で課長に言いました。「課長、ご安心ください。これを終わってから、一つずつ確認します。不合格の完成品を直しますので、必ず課長を満足させます。」私の言葉を聞いて、課長はキョトンとして、何も言わずにくるっと体の向きを変え離れてゆき、疑う表情で頭を振り返って私をちらっと見ました。課長が離れた後、私は体の向きを変え、思わず涙を流しました。長い間、このようなことに臨む時、私は初めて怒りを爆発させず、初めて心には不快な気持ちがありません。神様の言葉によって私はサタンの束縛から解放されて、私の心に言い表せない感動をもたらしました。

 

課長との「堅氷」が溶けた

   これから私は全力を仕事に投じ、午後四時半ごろ、私はこの新しい仕事を完成しました。その後、私は完成品を全部確認してから、課長の前に送って言いました。「課長、全部終わったので、どうぞご確認ください。もし不合格ものがあったら、私は直します。」課長が私の言葉を聞いて、不思議な顔をして私を見てキョトンとして言いました。「君は今日うっとうしい思いをしなかったのか。」私はこれを聞いてにっこりと笑って、正面から答えなかったが、心には黙って言いました。「私のこの時の喜びはあなたには分からないです。」仕事が終わった後、課長が私に今日の完成品が全部合格で、大きな問題がないと言いました。私は嬉しくなって帰りました。

   翌日仕事が始まった後、思いもよらないのは、課長が進んで私に挨拶しました。これは以前になかったことです。課長が離れた姿を見て、私は心にはこう言いました。「神様に感謝します。私はこんなに傲慢で自分自身を認識できない人で、神様があなたを通して私を明らかにされ、自分の傲慢な本性を認識させ、自分の学ぶべき事を学ばせるのです。」

   その時から、私は再び傲慢な性質で課長を扱わず、課長が私に対する態度もよくなりました。ある日、私の電気溶接機が使いにくくなって、彼に報告したら、すぐに替えてくれました。先日、私の作業着が焼損されて、彼が気づいて、自発的に私のサイズを聞いて、新しいのを申し込んでくれました。課長のこれらの変化を見て、私の心には暖かく感じ、私たちの三年間の仲が悪い関係がとうとうよくなり、私はこれは皆神様の言葉が私のうちに達成した効果だとわかります。神様に感謝します。今後私もより多く神様の働きを経験し、徹底的に自分の堕落した性質を変え、一人の正常な人間性を行動で示して神様に満足させるように頑張ります。

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聖書の名言-「クリスマス」に関する21つの聖句

2020-04-26 14:23:06 | 賛美の心

聖書の名言-「クリスマス」に関する21つの聖句

 

ルカによる福音書 2:11

きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。

 

ルカによる福音書 2:14

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。

ヨハネによる福音書 3:16

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

イザヤ書 43:4

あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。

 

イザヤ書 42:3

また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。

 

コリント人への第一の手紙 13:13

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

 

ピリピ人への手紙 3:13-14

すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

 

ルカによる福音書 19:9

きょう、救がこの家にきた。

 

ヨハネの第一の手紙 1:9

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

 

エレミヤ書 31:3

わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。

 

マタイによる福音書 5:4

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

 

マタイによる福音書 5:8

心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

 

マタイによる福音書 1:23

「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。

 

テサロニケ人への第一の手紙 5:16-18

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

 

詩篇 121:1-2

わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。

 

ローマ人への手紙 8:28

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

 

イザヤ書 9:6

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

 

ミカ書 5:2

しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。

 

ローマ人への手紙 5:5

そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

 

マタイによる福音書 6:30

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。

 

コリント人への第一の手紙 13:4-8

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。