いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

裁きは光

2020-07-29 09:41:39 | 賛美の心

 趙霞申します。私は一般家庭に生まれました。「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」や、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」などのことわざの影響により、評判や体面は私にとって、非常に重要なものでした。私がするすべてのことは、人々から称賛、賛辞、尊敬を得ることが目的でした。結婚後、私が自分に定めたゴールは次のようなものでした。私は他の人よりももっと豊かな生活をする。私の年配者への対応や、私の態度や行為について誰にも批判的なことは言わせない。子供を有名大学に入れ、将来有望にすることで、私の体面にさらに輝きを加える。そのため、私は義理の家族とは一切喧嘩をしたことがありませんでした。時に、彼らが私に厳しいことを言い、悲嘆に暮れる時は、私は反抗的な態度を取る代わりに、誰も見ていないところへ行き、泣きました。旧正月やその他の祭日のため、他の人が両親に洋服を買っているのを見ると、私も急いで義理の母親のために洋服、それも最高級の洋服を買いに行きました。親戚が訪ねてきた時は、食糧の買い出しや料理を手伝いました。それを行なうのが少し難しかったり、大変だったりした時も、心から喜んで行ないました。他人よりも裕福ではなくなることを恐れ、私は生後1ヶ月の娘を置いて、職場復帰しました。そのため、娘は母乳を飲むことができず、栄養失調に苦しみ、骨と皮だけになっていまいました。娘の状態は、100回栄養剤を注射しただけで回復しましたが、私は疲労がひどく、毎日背中に痛みを感じていました。状況は難しく、疲れを蓄積させるものでしたが、私は良い評判を得るために、この苦難に耐え、休みなく働きました。数年もすると、私は村で有名な嫁となり、家族は裕福になり、周りの人々に羨ましがられるようになりました。その結果、私の義理の家族、近所の人、親戚、そして友人は全員、私を褒め称えました。周りの人から賞賛や賛辞を受けて、私の虚栄心は大いに満たされました。私は過去数年の苦難は無駄ではなかったと感じ、心の中でほくそ笑みました。しかし、義理の弟が結婚すると、私の穏やかな生活が中断されました。彼の妻はいつも皮肉な調子で私に話し、私が義理の母を大切にするのは、彼女の財産を受け取りたいと言う隠された動機があるからだと言いました。彼女は、義理の母が彼女の家よりも私の家に多くの物を与え、えこひいきしていると年中言うため、私たちはよく口論をしていました。私はひどく悲嘆に暮れ、私の無実を示すため、公衆の面前で彼女と口論したいと思いましたが、それでは私が人々の心に築き上げた良いイメージが壊れていまいます。そのため、私は頑張って自分を抑制し、我慢しきれなくなると、誰も見ていない場所で大泣きしました。その後、義理の妹は調子に乗り、私の家族に分与された土地に住み始めました。これには、私は怒りに震え、何日も飲み食いできなくなりました。彼女とこれについて争いたいとさえ思いました。しかし、そんなことをすれば私の面目を潰し、私の評判に傷がつき、周囲の人が私を蔑むようになると考え、これをすべて飲み込むことにしました。しかし、心の中では、自分を抑えすぎたため、苦悩していました。私は、こんな人生がいつ終わってくれるかも知れず生きていくのはあまりにも辛く、疲れるとこだと感じながら、一日中浮かない顔をし、溜め息ばかりをついていました。

 

 人は苦しんでいる時こそ、神を見出す契機となります。私が苦しみ、無力感を感じていたその時、全能なる神が私に救いの手を差し伸べてくださいました。ある日、近所の人がこう聞いてきました。「神の存在を信じていますか。」私はこう答えました。「信じていない人がいるんですか。私は神の存在を信じています。」そして、この人は次のように続けました。彼女が信じる神は、宇宙と万物を創造した唯一本物の神であり、当初、人類は神を崇拝していたため、神の祝福を受けて暮らしていた。しかし、人がサタンにより腐敗させられると、神を崇拝しなくなったため、神の呪いを受け、痛みの中で生きるようになった。終わりの日の全能なる神は、人々に真理を授け、苦難の深淵から人々を救い出すために現れた、と。加えて、神を信じてきた彼女の経験についても話してくれました。彼女の話を聞き、私は、信頼できる親友を見つけたと感じ、心の痛みをすべて打ち明けずにはいられませんでした。その後、彼女は、私に神の言葉の一節を読んでくれました。「あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。彼はあなたのそばで見守っている、あなたが引き返してくるのを待っている。あなたの記憶が突然回復する日を待っている――すなわち、あなたが神から来たという事実、ともかくもどこかで道を失った、道端で気を失った、それから知らずに一人の「父」ができたことが意識にのぼる日を。そして全能者がそこで待っていたということ、はじめからずっとあなたが返ってくることを待っていたということを、あなたが理解することを。」(『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)神の言葉は、暖かい水の流れのように私の心に流れ込み、苦しく、悲しみに満ちていた心を慰めてくれました。私は涙が流れ落ちるのを止めることができませんでした。その瞬間、母の腕に突如として戻ったように迷子の子供になったように感じました。言いようのない興奮と感情が心の中に湧き上がりました。神が私を神の家に招いてくださったこと、行く場所をなくしていた私に思いやりを示してくださったことに何度も感謝しました。私は心と魂で神に従います!その後、毎日、神の言葉を読み、神に祈り、賛美歌を歌い、神を讃えました。歌は、特にこれは、私の心をリラックスさせました。ミーティングに出席する中で、教会の兄弟姉妹は、血の繋がりはなくとも大家族のようであることを目の当たりにしました。彼らの関係はシンプルかつオープンなもので、理解と寛容、そして忍耐に溢れ、他者に対する焼きもちや対立、悪巧み、建前、そして裏表がありませんでした。裕福なものに愛情を示す一方で、貧しいからと言って差別をするようなこともありませんでした。彼らは、すべての人を誠実かつ平等に扱うことができる人々でした。皆と一緒に神を讃える賛美歌を歌っていると、特に、心が自由になった気がしました。そのため、この愛情に溢れ、暖かく、公正で楽しい教会生活のすっかり虜になってしまいました。私は全能なる神が唯一真実の神であることに確信を持つようになり、最後の日まで神に従う決心をしました。

 神の言葉を読むことで、可能な限り人を救いたいという神の差し迫った願いを理解しました。また、多くの兄弟姉妹ができる限りを尽くして、神の国の福音を伝えようとしているのを見ました。そこで、私も福音を伝える仕事に積極的に参加するようになりました。神の終わりの日の働きは、人を救い、人を変えることが目的です。私を浄化し、変えるため、神は私の腐敗した本性に的を絞り、神の刑罰と審判を行なうと共に、繰り返し、思いやりを示し、救済してくださいました。ある時、私は神の信者になりそうな人の元へ福音を伝えに行きました。彼女がリーダータイプの人だと分かると、神と手を組み、何があろうと彼女を神の前に連れて行こうと決心しました。それは、農繁期でした。彼女は農作業でとても忙しくしていたので、私は彼女の隣で一緒に働きながら、神の終わりの日の働きについての証言を伝えました。3日間連続で彼女の所へ行き、同じように彼女に福音を伝えていると、彼女は神を受け入れるつもりがないばかりか、次のように私に怒鳴りました。「図々しい人だね!信じないって、言っただろう。なのに、説教を止めようとしない。」彼女の言葉が痛いところに突き刺さりました。私は、公衆の面前で何度もひっぱたかれたかのように顔がぼっと熱くなりました。心臓では鈍い痛みが次々に押し寄せています。次のように考えました。善意から、あなたに福音を説くためにここに来て、自分の背中が痛くなるまで自分をすり減らし、あなたの仕事を手伝ってきたのに、あなたは受け入れる代わりに、こんな風に私を扱うなんて、何と心のない人だ!私はひどい屈辱を感じ、もう彼女とは口を利きたくないと思いましたが、それは神の意志にそぐわないと感じ、心の中で静かに祈り、心の痛みを押し殺し、彼女の仕事を手伝いながら、説教を続けました。しかし、どんなに一生懸命彼女に伝えようとしても、彼女の心に訴えることはできませんでした。私は家に帰ると、空気を抜かれたゴムボールのように崩れ落ちました。彼女の言った言葉が何度も頭に浮かびました。それについて考えれば考えるほど、辛くなりました。私はなぜこんなことをしているのだろう。私の善意に対して私が受け取るものと言えば、嘲り、中傷、そして暴言のみ。これは本当にあまりにも不公平だ!こんな風に私を扱った人はいない。福音を伝えることはあまりにも辛く、困難だ!いや。私はもう福音を伝えるために出かけることはできない!このまま説教を続けていたら、私は誰にも顔を合わせることができなくなってしまう。あまりにも不当な扱いを受け、辛すぎるため、もう福音を伝えたくない。そう感じていたその時、神の言葉が私を啓きました。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、使命、責任などを理解しているだろうか。あなたは歴史上での自分の使命感を持っているだろうか。…彼らはみじめで、哀れで、盲目で、途方に暮れ、そして暗闇の中で泣き叫んでいる。「どっちに行ったらいいのか」と。光が流星のように突然降りて来て、長年人々を圧迫してきた暗闇の力をまき散らしてくれることをどれほど彼らが待ち望んでいることか。どんなに切に望み、日夜どんなに思いこがれているか、誰が知ることができるだろうか。深く耐え忍んでいる人たちは暗闇の地下牢に閉じ込められたまま、光がひらめく日でさえも解放される望みはない。彼らが泣かない日がいつ来るだろうか。全く安息を与えられたことのないこれらのもろい霊はまことにそのような不幸をこうむっている。彼らは長い間無情なロープと凍ったままの歴史で封印をされてきた。誰が彼らの叫び声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな顔つきを見たことがあるだろうか。神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。自分の肉と血のように人類を愛する神に恩返しするために全力で取り組みたいと思わないだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「将来の使命にどのように取り組むべきか」より)神の言葉のふしぶしに、無知な人々に対する神の懸念、心を悩ませる悲しみ、そして愛が示されていました。神はご自身の手で創造した人々がサタンにより嘲られたり、傷つけられたりするのを見るのが耐えられません。神はすぐにでも人が神の家に戻り、神が人に授けた偉大なる救済を受けるのを身が切られるような思いで待ちわびているのです。しかし、私が伝導しようとする相手からいくつかの厳しい言葉を浴びせられると、私は不当な扱いを受け、攻撃されたように感じ、この困難や苦しみについて不平を言っていました。私は自分の体面を失ったことから、神にはもう協力したくないとさえ思いました。私の良心と理性はどこへ行ったのでしょうか。終わりの日に私たち腐敗した人々を救うため、神は、繰り返し、政府からは追われ、避難され、宗教団体からは放棄され、非難され、冒涜され、中傷され、神の信者からは誤解され、抵抗されてきたのです。神が苦しんできた痛みと屈辱はあまりにも多く、あまりにも大きいものです!それでも、神は人を救うことを諦めず、静かに人の必要なものを供給し続けてきました。神の愛はあまりにも偉大です!神の本質はあまりにも美しく親切です!私の今日の困難は、神が人を救うために耐えてきた苦しみに比べれば何でもありません!私は、私自身も被害者であり、長年サタンに苦しめられてきた人間であることを思い出しました。神が私に救いの手を差し伸べてくださらなければ、私は未だに暗闇の中で、光や生きる希望を見つけられず、苦しげにもがいていたことでしょう。神の救いを受けた私は、屈辱や痛みに耐え、神と協力し、私の本分を正しく尽くし、未だにサタンに傷つけられている無知な人々を神の前に連れてくるため、最大の努力を尽くす必要があります。これは、世界中のどんな仕事よりも価値と意義があり、どれだけの苦しみに耐えなければならないとしても、やりがいのある仕事です。こう考えた時、私は福音を伝えることを辛いことだと考えなくなりました。代わりに、神の国の福音と連携できるなんて、何と幸運なことだろうと感じました。これは私の名誉であり、神を高めることでもありました。私の心は決まりました。福音の働きでどのような困難に遭遇したとしても、私のすべてを捧げ、神を必要としている、より多くの人を神の前に連れて行き、神の心を安心させよう、と。その後、私は、再び福音の働きに身を投じました。

 研修を一定期間受けた後、私の本分を尽くす中で、私にひどい態度をとったり、辛辣な言葉を投げかけてきたりする伝導相手に遭遇しても、正しい方法でこれに対処できるようになり、愛情を持って協力し続けることができました。このため、私は自分自身の変化を感じ、それほど体面やステータスについて気にならなくなりました。しかし、私が人生で必要としていたものに基づき私をテストしようと、神が別の環境を用意すると、再び、その状況をすべて経験することになりました。ある日、教会のリーダーが私に最近の調子をたずねてから、神の最近の意思と実践方法について私に伝えてきました。会話の中で、彼女が本分を尽くすために別の教会に移動になることが分かり、興奮せずにはいられませんでした。彼女が去った後、私は教会のリーダーになるかもしれない。そうしたら、私は本当に適切に協力できるはずだ!密かに幸せな気分でいると、その姉が、私の村にいる別の妹が明日来ることになっていると言いました。それを聞いて、私の心は激しく揺れ動きました。彼女は何のために来るのだろう。彼女が教会の新しいリーダーになるのだろうか。不安が大きくなるのを止めることができませんでした。彼女は私ほど長い間神を信じていない。しかも、彼女は私と同じ村の出身だ。彼女がリーダーになったら私の体面はどうなるのだろう。兄弟姉妹は私について何を思うだろう。彼らは、私が彼女ほど真理を求めていないと間違えなく言うだろう。私はそう考えずにはいられませんでした。夜には何度も寝返りを打ち、寝付くことができませんでした。次の日のミーティングでは、教会の新しいリーダーに誰が選ばれたかを絶対に聞き逃すまいとして、リーダーの言葉の調子や態度にじっと集中していました。彼女が話しながら私と目が合うと、自分がリーダーになれる希望を感じました。私の顔は喜びに満たされ、彼女が言うすべてのことに相槌を打ち、同意しました。一方、彼女が話しながら別の妹の方を見ると、彼女がリーダーに任命されるという確信を持ち、落ち込み、それにより、苦悩しました。それから数日、体面とステータスについてあまりにも悩んだため、不安になり、物事に集中できなくなりました。食欲がなくなり、まるで時が凍ってしまったかのように、時間が経つのが極めて遅いとさえ感じました。教会のリーダーは、私のこの状況を見て、私に神の言葉の次の一節を読むように言いました。「あなたがたは今や信者であり、この働きの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇に置いていない。あなたがたは自分の地位が高いと、しっかり追求するが、身分が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことを常に考えている。」「あなたがたは現在の段階まで達したが、依然として地位を捨て去れないままであり、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかという強い恐怖を感じて、地位について調べ、観察しようと日々奮闘している。…あなたがたの追求がこのようなものであればあるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。ある人の地位に対する欲望が強ければ強いほど、それだけ深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値過ぎる。このような人は地位に対する欲望を完全に捨て去るため、適切な取り扱いと裁きを受ける必要がある。あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなるであろう。いのちを追求しない者は変化させられることはできない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求と入りにことに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近付くことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変化させることができるだろうか。あなたを神の国へと導くことができるだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」より)神の言葉の1文1文が私の心を打ちました。神は私の後ろにいて、私の言動をすべて見ていると感じました。私は、ここ2日間の私の考えと行動を自省せざるを得ませんでした。私は、神を求めることに対する私の見方が、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」や、「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」などのことわざにあまりにも基づいており、強く影響を受けていることに気が付きました。私は、他人からのさらなる称賛を得るため、常にステータスを求めていました。これにより、体面やステータスに非常に心を悩ますあまり、不安になり、物事に集中できなくなり、食欲を失い、不眠になり、道化師のように馬鹿なことをしていました。このような環境は、私の状況に合わせて神が仕組んだものです。それは、私に示された神の愛でした。今日の神の働きは、私が最終的に救済を得られるよう、私を救うことであり、サタンの暗い影響力から逃れるのを助けることでした。私が真理を求めていた方法は、神の働きや要求にそぐわないものでした。たとえ、最後の日まで神を信じていたとしても、神の承認を得ることはできなかったでしょう。私は何も持たずにいたことでしょう!そこで、私は声に出さず、神に祈りました。「あぁ、神よ!神の働きに従い、神の要求に則して神を信じる正しい道を進みます。また、真理を理解し、私の腐敗した性質を排除できるよう、神の言葉に注力していきます。私がリーダーになろうがなるまいが、真理を求め、神の意思を満たさない私の性質を変えることに関心を向けていきます。」神の意思を理解すると、心が特に穏やかになり、内容に関わらず、それを楽しんで伝えていきました。ミーティングの後、教会のリーダーは、大多数の兄弟姉妹の推薦により、あの妹が教会の新しいリーダーになり、私は彼女の働きと連携することになると告げました。私の心はとても穏やかで、喜んでこれを受け入れ、あの妹と調和を持って働き、本分を尽くしていくことに同意しました。

 今回、神の刑罰と裁きを経験した後、私は体面とステータスにフォーカスするきらいがあることを知り、私の肉を進んで投げ打ち、神を信じ、神の要求に則して本分を尽くしていくことにしました。しかし、サタンの毒は私の中のとても深い場所まで汚染していました。魂の奥底では、サタンの影響によりまだコントロールされていました。サタンの害からさらに私を守るため、神は、再び、私に救いの手を差し伸べてくださいました。ある日、教会のある妹の状態が良くないと伝えられました。そのため、この問題をどのように解決するかについて、私のパートナーであった姉に相談しました。私のパートナーであった姉は気分が優れなかったため、話し合いの後、私は1人で問題を解決することにしました。同日の夜に彼女と話をするため、彼女を探し、問題を素早く解決しました。この時、上層部のリーダーは私が多大なる努力を払ったことに対し私を必ず褒めてくれるだろうと考え、私の心は喜びで輝きました。しかし、私がこの朗報を待っていると、上層部のリーダーがこの妹の状態を理解するための書簡を送ってきました。私は、私への称賛であると考えていたため、喜んで封を開け、書簡を読みました。しかし、書簡は、特に、私のパートナーであった姉に宛てたもので、彼女がどのように問題を取り扱ったかをたずねるものだと分かり、すぐに憤慨しました。問題を解決したのは明らかに私でした。なのに、なぜ、私にそれについてたずねてこないのか。まるで、リーダーの心には私のことなどなく、私は見下されているようだ。私は使い走りに過ぎない。私がどんなに優れた働きをしても、それに注意を向ける人がいないため、私が評価されることはない。それについて考えれば考えるほど、不当な扱いを受けていると感じ、落ち込みました。私は、完全に体面を潰されたように感じました。この時、私のパートナーであった姉が書簡を手にし、ちょうど私に話しかけようとしました。私は自分の感情を抑えることができず、彼女に向かって叫んでしまいました。「上層部のリーダーはこの問題がどのように解決されたかを知りません。ご存知でしょう、私は長年これに精力的に取り組んできたのに、誰も褒めてくれません。そして最後には、あなたがすべての評価を得るのです。皆の目には、私は使い走りにすぎず、補助的な作業をしているだけの人なんです。私がどんなに努力しても、誰も評価してくれません。」そう言うと、私は悲嘆に暮れ、泣き出してしまいました。その時、神の言葉が耳の中に響きました。「3.あなたが大いに努力しているにもかかわらず、わたしがあなたに対して冷淡であったとしたら、曖昧さの中でわたしのために業を行い続けることが出来るであろうか。4.あなたは、何かをわたしのために費やした後に、わたしがあなたの些細な要求を満たさなかったとしたら、わたしに失望し、落胆したり、さらには激怒したり罵声を浴びせたりするであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より)神の非難の言葉に、私の心はゆっくりと落ち着きを取り戻し、同時にかなり多くのことがはっきりと見えてきました。たった今起きたばかりのことは、心の中で、まるで映画のように何度もリプレイされました。神の啓示により、私の本性があまりにもひどく、危険なものであり、私が神を信じる心や本分を尽くすことは、神を満足させるためや、神の承認を得るためではなく、他の人から称賛や賛辞を得るためだったことを自覚しました。私は希望が満たされないと知るや否や、恨み節でいっぱいになり、私の獣のような本性が噴火し、極めて簡単に神を裏切っていまします。この時、私はあまりにも道を踏み外しすぎた、人間性を欠いていることを自覚しました。私が感じた痛みは心をえぐるようでした。私は悔い改め、神に祈りました。「神よ、私は自分が変わり、体面やステータスはもはや重要なものではなくなったと感じていました。あの妹とも仲良くすることができました。しかし、私は、いつも、人々の間で何のステータスもないように感じており、私の努力が他者に賞賛されなかった時は苦しい思いをしてきました。今日、神の啓示により、再び、サタンのような醜さを露呈してしまいました。神よ、サタンは私の奥底まで本当に腐敗させています。ステータスや評判、見栄。これらすべてが私の足かせとなっています。神が私をサタンの影響から再び抜け出せるよう導いてくださるようにお祈りします。」その後、私は、神の次の言葉を見つけました。「あなた方一人ひとりは、群衆の最高の高みに昇りつめた。あなた方は昇りつめて群衆の祖先となった。あなた方は極めて身勝手であり、心穏やかな場所を求めている蛆虫の間で暴れまわっており、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなた方は海底に沈んだ幽霊にも増して心の内に悪意と邪悪を持っている。あなた方は糞の最下層に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して心穏やかにさせないようにし、争い合っているかと思えば静かになっている。あなた方は自分の身分も知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのであろうか。あなた方がわたしに対し真に畏敬の念を持っているならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどんなに高くても、あなたは糞の中にいる臭く取るに足らない蛆虫であることに変わりはないではないか。あなたは、羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか。」(『言葉は肉において現れる』の「落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう」より)神の裁きの一語一語が鋭い剣のように私の心をぐさりと突き刺し、私の霊を覚醒しました。私は神を讃え、神の証を立てるために本分を尽くしてきたのではなく、常に他者に自分自身の優位性を見せびらかし、自分自身の証を立て、他の人々が私を賞賛し、尊敬するよう、彼らの中で高い位置に立つことを夢みてきたことに気が付きました。私の心には神を畏れる気持ちがあったでしょうか。私が求めてきたものは、神を裏切った大天使と全く同じものではなかったでしょうか。私はサタンによりひどく腐敗させられた創造物です。神の前で私はゴミ、ウジ虫のような存在です。私は常に神を崇拝し、神を畏れる気持ちを持って本分を尽くすべきでしたが、誠実な働きに従事せず、本分を尽くすことを人に見せびらかし、自分自身の証を立てることのために利用したいと常に思ってきました。神がこれを嫌い、嫌悪感を抱かないはずがありません。神はとても聖く偉大であり、権威とパワーに満ちているにも関わらず、謙虚かつ控えめで、人に神を尊敬させ、賞賛させるために自身の身分を明かすようなことは決してしません。そうする代わりに、神は持てるすべてを使い、人を黙って助け続けています。自分自身を正当化したり、評価を求めたり、人から何かを求めたりすることは一切ありません。神の謙虚さ、気高さ、そして無私の精神により、私自身の傲慢さ、卑しさ、身勝手さを認識しました。私はサタンによりあまりにも深くまで腐敗させられており、神の裁き、刑罰、試練、精錬による救済を強く必要としていると感じるようになりました。そこで、神の前にひざまずきました。「あぁ、全能なる神よ!神の刑罰と裁きを通して、私は自身の反抗的な態度と、神の気高さ、そして偉大さをよりはっきりと認識しました。これから、私は自分の本分を尽くす時に、神を畏れる心を持ち、正しい人間らしく振る舞い、神の言葉を頼ることにより私のサタンのような性質を排除することだけを望んでいきます。」

 神の刑罰と裁きを繰り返し経験した後、私の真理追求に対する見方は少しずつ変わりましたが、私のいのちにおける性質は本当の意味ではまだ変わっていませんでした。より徹底的に私を浄化し、私がいのちの正しい道を歩けるよう導くため、神は再び私を救ってくださいました。その後、私は教会のリーダーに選出され、別の姉と協力して私たちの本分を尽くしていました。私のこれまでの失敗により、私は、教会の働きを正しく実践するにはこの姉と協力する必要があることと常に自戒していました。最初のうちは、この姉と何についても口論になっていましたが、神のお導きを一緒に求めることにより、働きのあらゆる側面で結果を出してきました。しかし、しばらくすると、私はこの姉が素晴らしい内在する性質を持っており、真理の説明が明確で、光を照らす力があり、彼女の能力が私のよりも高いことに気が付きました。ミーティング中、兄弟姉妹の誰もが彼女の話を聞きたがり、問題がある時は誰もが彼女に相談しました。このような状況を目の当たりにし、私は再びサタンの罠にかかり、サタンに嘲りを受けました。この姉はあらゆる面で私より優れており、彼女がどこへ行こうと兄弟姉妹により賞賛されている。何てことだ!私は何があっても、彼女を超え、兄弟姉妹に私も彼女に劣っていないところを示さなければならない。このため、私は毎日ノンストップで教会の中をバタバタと走り回り、兄弟姉妹のためにミーティングを手配し、誰が問題を抱えていようと、その問題解決を手伝うため、その人の所に走って行きました。・・・外から見れば私は忠実で従順であるように見えたかもしれませんが、私の心の中の野心を神の目が見過ごすはずがありません。私の反抗的な態度は神の怒りに触れ、その結果、闇に落ちてしまいました。神の言葉を読む時、いかなる啓示も受け取らず、祈る時には言うべき言葉が見当たらず、ミーティング中には淡々と話しをし、兄弟姉妹とのミーティングを恐れるようにさえなりました。私は体面とステータスに完全に囚われていました。私は、背中に大きな荷物を背負い、プレッシャーから息ができなくなりながら、毎日を何が何だか分からないままに過ごしていました。いくつかの教会の問題を理解することさえできなくなり、私の仕事効率は著しく低下しました。神からのこのような啓示に直面しても、私は自分自身を知ろうとはせず、兄弟姉妹に私の状態について打ち明けたり、問題を解決するために真理を求めたりしようともしませんでした。彼らが私を見下すのが怖かったのです。その後、神の懲罰と懲らしめが私に下りました。私の胃が突然激しく痛み始め、落ち着いて座っていることも、立っていることもできなくなりました。ステータスを得られないことによる不満足感と病気の苦しみにより、生死を彷徨いました。私の問題を知ることを拒否し、教会の働きに協力できなかったため、教会は私を除免し、霊的な献身と自己反省のため家に帰るように命じるより他ありませんでした。私のステータスを失い、まるで地獄行きを宣告されたかのように感じました。感情的に、私は奈落の底まで落ち、すべての体面を失ったのです。私が聖霊の働きを失い、本分を尽くすことができないでいる時に、兄弟姉妹が全員積極的にそれぞれの本分を尽くしているのを見ると特に、心の中がさらに苦しめられました。苦しみの中で、私は自問せずにはいられませんでした。他の人は神を信じ、より多くの真理を理解しているのに、なぜ私は、体面とステータスのために、繰り返し反抗的な態度を続け、神に抵抗したのだろうか。私は、私がつまずいた根本原因を突き止められるよう導いてくださるよう、神に何度も懇願しました。ある日、私は神の次の言葉を見つけました。「特にパウロを偶像化する人々も居る。そうした者は、講演をすることや外部で業を行うことを好む。そうした者は、集まって話し合う事を好み、人々が自分の話を聞き、崇拝し、自分達のところに集まってくるのを好む。そうした者は、他人の心に自分の信望を築くのを好み、他人が自分の像を尊ぶことに価値を見出す。このような行動から、人間の本性に関して分かることは、何であろうか。この者の本性を分析してみよう。こうした者のように、このような行動を取る人間の本性は、どのような本性であろうか。その本性は概括すると、どのようなものであると言えるであろうか。凡人は、その本性を見抜くことが出来ず、行動のみを見ることが出来る。そうした行動とその者の本性の関係は、どのようなものであろうか。その者の本性は、どのようなものであろうか。あなたがたは、それを確認できないであろう。この者がそのように行動する場合、その行動は、その者が傲慢であり自惚れていることを証明するに十分である。この者は全く神を崇拝しておらず、高い地位を求め、他人に対する権威を掌握すること、他人をわがものにすること、他人の心に自分の信望を築くことを望む。これは典型的なサタンの像である。」(『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より)さらに、このことについては、『いのちに入ることに関する交流と教え)』の中でも、次のように書かれています。「サタンの本質と本性は裏切りである。サタンは始まりの時から神を裏切り、神を裏切った後、神が創造した地球上の人を騙し、嘲り、操り、コントロールすることにより、神と同じ立場に立ち、神の国とは別の国を作ろうとした。… あなたがたにも分かる通り、サタンの本性は、神を裏切ることではないだろうか。サタンが人類にしてきたすべてのことを鑑みると、サタンは正真正銘の神に抵抗する悪魔であり、サタンの本性は神を裏切ることであるのが明確に分かる。これらすべては絶対である」(『いのちに入ることに関する交流と教え その1』内、「あなた自身の腐敗した本質を知る方法)」より)これらの言葉を反芻するうち、神を畏れて、震えを止めることができませんでした。私の生き様はまったくサタンのイメージそのもので、私は正真正銘のサタンの化身であり、傲慢で自惚れており、一切神を崇拝していないことが分かったのです。神は教会で本分を尽くし、神を畏れる心を持って、兄弟姉妹を神の前に連れて行き、彼らの心に神の場所を作り、神を畏れさせ、神に従わせることができるように私を引き上げました。しかし、神による引き上げを受けて、私は、神が私に本分を尽くさせようとした意図を察しておらず、兄弟姉妹がいのちに入ろうとするのを助けるという責任を一切感じていませんでした。その代わりに、私は、常に、人々に私に関心を向け、私の話を聞いてもらいたいと考え、その私自身の欲望により、どこへ行こうと、自分自身の名声を築き上げようとしていました。私は能力が高い人に焼きもちを焼いたり、力ある人に嫉妬したりして、頑固にも他者と優位性を競っていました。外目には私は人と競っていましたが、実際に私が競っていたのは神で、ステータスと権力について神と闘っていたのです。これは神の性質を深刻に背くもので、これは、神による懲罰を受けるべき行為です!しかし、神は私が行なったことに対して、私を取り扱うことはしませんでした。神は、ただ、私を裁き、罰し、懲らしめ、そして鍛えました。そして、私が自省し、悔い改めるよう、私からステータスを剥奪しました。神の私への愛がとても深く、とても大きいことを認識しました!私は、心の中で後悔と自責の念を感じずにはいられませんでした。さらに、私の腐敗がとても深いことが本当に嫌になりました。私は神に従いましたが、真理を求めていませんでした。その代わりに、盲目的に、ステータスと体面のために努力していたのです。神の愛と救済に見合う生き方を本当にしていませんでした。自省すればするほど、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」や、「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」など、私がよすがとしていたことわざは、サタンが人を腐敗させ、傷つけるために利用していた嘘であったことがよりはっきりと見えました。サタンはこれらのものを利用し、人の魂を麻痺させ、人の心を歪め、人にいのちについて誤った見方をさせ、ステータスや名声、財、体面など無意味なものを追求することに躍起にならせ、最終的には神の道から外れ、神を裏切るように仕向け、これにより、人々が誤謬に従い、そのために働き、サタンの意のままに、被害を受け、傷付くようにするためのものであったことを認識しました。私は、サタンの嘘をよすがとし、いのちについて誤った見方をしていた人間の1人で、傲慢で、自惚れており、横柄で、心の中に神の場所はありませんでした。私は腐敗した状態で暮らし、神を敵として扱っていました。現在、私は神の慈悲を受け、二度と神に反抗することはありません。私は完全に自分を修復し、完全にサタンを捨て、私の心をすべて神に捧げ、神の心を安心させるよう、真の人間のようにいのちを全うしていきます。その後、私はこれからの道をどのように進むすべきか、神の心を満たすためにどのように真理を求めるべきかを模索しました。神様、私を再び導いてくださりありがとうございます。その時、神の言葉を見ました。「今日、たとえあなたが働く者ではなくても、あなたは被造物の本分を尽くせなければならず、神の指揮すること全てに従うことを追い求めるべきである。あなたは神の言うことは何であろうと全てに従うべきであり、どんな試練や精錬でも経験し、たとえ自分が弱くても心の中で神を愛せるはずである。自分のいのちに責任を持つ人は、喜んで被造物の本分を尽くす人といえるし、そういう人の追求への見解が正しいのである。神はこのような人を必要とされるのである。…人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)まるで灯台のように、神の言葉が私の取るべき道を示し、私の心を啓きました。神は、ステータスがあるか否かに関わらず、どんな環境にあるかに関わらず、人が真理を求めるために最善を尽くし、神による手配や定めに従い、愛を探し、神を満足させることができることを望んでいます。これは、真理を求める最も正しい方法であり、創造物が歩むべきいのちの正しい道です。そのため、私は神の前で決心しました。あぁ、神よ。いのちの正しい道を示してくださり、ありがとうございます。私の過去のステータスは、神からの引き上げによるものでした。ステータスのない今日も、また、神の義によるものです。私はちっぽけな創造物に過ぎません。これから、私は真理を求め、すべての神の定めに従っていくことのみを望んでいます。

 その後、神の言葉を読み、教会での生活を続ける中で、私の状態は、素早く通常状態に戻りました。教会は再び私に適した働きを割り当てました。また、私は、何かが起きるたび、神の意思を探し、自分自身を知ろうとし、それを解決するのに適した神の言葉を見つけることで、本分を尽くすことの真理を求めることに集中しました。体面やステータスが関係する物事に直面する時は、心にある考えがあっても、祈りと神の言葉を通して、真理を求め、自分自身を捨てることで、徐々に、これらのものにコントロールされないでいられるようになり、平穏な心で本分を尽くすことができるようになりました。私ほど長い間神を信じていない兄弟姉妹が重要な権限を任せられた時は、真理を求めることにより、各個人が尽くすべき本分は神によって運命づけられたものであり、私は神の采配に従う必要があるということを理解できるようになりました。その結果、正しい方法でこれを取り扱うことができました。兄弟姉妹が私の本性や本質を取り扱い、これを指摘する時は、私は体面を失ったと感じても、祈りを通して従順になることができました。これは、神の愛が私に降り注いだためで、私のいのちの性質を変えるのに大きく役に立ちました。過去には、体面にあまりにもフォーカスしすぎたため、私のことを見下すのが怖く、誰にも心を打ち明けることができませんでした。今は、神の要求に従い、正直な人間になるために練習を重ね、問題が起きた時は、兄弟姉妹に打ち明けています。これにより、魂の奥底で特に安心と幸せを感じています。これらの変化を目の当たりにし、私は、神の終わりの日の刑罰と裁きの働きにより私にもたらされた変化に対し、神に感謝し、神を賞賛せずにはいられませんでした。

 全能なる神に従うようになり、数年経ちます。思い返すと、サタンの毒が私の魂を侵食していました。私は、長年に渡り、サタンの支配下で生活しており、サタンによる被害を受け、嘲られていました。いのちの価値や意味について、知りませんでした。光を見ることも、真の幸せや喜びを見つけることもできませんでした。不幸の深淵に沈み込み、そこから自分自身を救い出すことができませんでした。現在、神による繰り返しの刑罰と裁きにより、私はサタンの害を排除することができ、安心感と自由を得ることができました。自分の良心と理性を取り戻し、明るく正しいいのちの道で神に従いながら真理を求めるという正しい目標もあります。神の刑罰と裁きを通して、神の無私かつ誠実な愛を真に経験し、祝福を噛みしめ、世俗の人が経験できないような愛を受け取っています。神だけがサタンの不幸の海から人間を救い出すことができ、神の刑罰と裁きの働きだけが人の内部に入り込んだサタンの毒を浄化し、人に真の人間らしくいのちを全うさせ、正しいいのちの道を歩ませることができます。神の刑罰と裁きは光です。これは、神が人間に授けた最大の恵みで、最高の保護で、最も価値のある宝です。全能なる神の言葉も次のように言っています。「神の刑罰と裁きは人間の最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると考えていた。人間が目ざめて肉とサタンを憎むことが出来るのは、神の刑罰と裁きによるほか無い。人間は、神の厳しい鍛錬により、サタンの影響から解放され、狭い人間の世界から解放され、神のいる光の中で生きることが出来る。刑罰や裁きよりも優れた救いは無い。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)神よ、私を救い、生まれ変わらせるために刑罰と裁きをお与えくださり、ありがとうございます!これからの神を信じる私の道で、真理を追求し、さらなる神の刑罰と裁きを受け、サタンの毒を完全に排除して浄化され、神のことを本当に知り、神のことを正真正銘愛する人となるための努力を惜しみません。すべての栄光は神のものです。アーメン!

山東省 趙霞


ギャンブラーからキリスト教徒への変身

2020-07-27 22:34:06 | 賛美の心

 競馬で賭けを行なうと言うと、それを怖がって疫病のように避ける人もいれば、ヒバリのように大喜びしていくら賭けても物足りないという人もいます。競馬に対する態度は人によって違います。私もかつてはギャンブラーで二十年以上も競馬をしていましたが、苦さと痛みを味わいました。いかにして競馬のギャンブラーから一人のキリスト教徒になったかを振り返ると、どうしても感情がこみ上げるのを感じずにはいられません……

 当時、私の収入は少なく、家族の経済的負担や資金不足もあってより多くの金を稼ごうと知恵を絞りました。ある日のこと、職場の同僚とおしゃべりしていたところ、彼はこう言いました。「『副収入のない人間は決して豊かになれない。夜、干し草に飢えている馬が決して太らないのと一緒だ』君ももっと稼ぎたかったら、競馬をしたりマーク・シックス・ロトを買ってみたらいい。十ドル分を買えば、それが何十ドルにも、何千ドルにも、何万ドルにも、何十万ドルにもなるんだ……」同僚がそう話すのを聞いていると、私の心は欲望にかき立てられ、金持ちになる夢がすぐに叶うような気がしました。

 競馬を始めたとき、私は二十ないし三十ドルしか賭けず、それで数百ドルから千ドル以上を簡単に儲けていました。私はこう考えました。「競馬で稼ぐのは難しくない。だからもっと賭ければもっと儲けられる。これは金持ちになるいい方法だ」そこで競馬新聞を買い、大儲けするにはどの馬に賭ければよいかを調べるようになりました。働いているときも競馬新聞を持ち歩いていました。一度など、新聞を読みながら機械作業をして注意力が散漫になったために、機械に手を挟まれ負傷するということもありました。数針縫う必要があり、仕事を数ヶ月休まざるを得ませんでした。

ギャンブラーからキリスト教徒への変身

 私がギャンブル中毒になったと気づいた妻は強く反対し、そのことで口論することも頻繁にありましたが、妻がなんと言おうと私は決して聞き入れませんでした。競馬でより多くの金を賭けるために、私は生活費を切り詰めました。バスに乗らず歩いて通勤し、時には食事をとらないでロールパンを買うだけにして、そうして節約した金をギャンブルにつぎ込んだのです。当時は金持ちになるという夢の中で暮らしていました。私は疲れ果てて身体を弱らせ、目はぼんやりと命を失ったように見えることがたびたびあり、両目のまわりに黒いくまが現われるようになりました。同僚たちは時々こう尋ねました。「どうして毎日そんなに疲れているんだ?」「ロールパンばかり食べて、ちゃんとした食事をとらないのはどうしてなんだ?人生を楽しめるように働いているんじゃないか?」私は普通に見えるよう努力するしかできず、こう言うのが精一杯でした。「僕はロールパンが好きなんだ。それに疲れているように見えるのは、息子が夜泣きするのでよく眠れていないせいだよ」

 競馬で儲けるたびに私は大喜びし、勝ち馬を見抜ける目を持っているような気がしました。賭ければ賭けるほど勝つチャンスが大きくなり、より多くの金を稼げる、そう考えた私は大金を得るために、儲けた金を再び賭けました。しかし大金を賭けたとき、思いがけずそれを全部失ってしまったのです。頭が真っ白になり、心がひどく痛むのを感じました。私はこう考えました。「他の誰にも負けないほど競馬を勉強し、確率や傾向を研究したのに!どうしてこんな風になってしまったのだろう?二十年以上も競馬を続けたのに金持ちになっておらず、その代わり大金を失ってしまった」一人になって落ち着いたあと、さらに考えました。「どうしてこんなことを悩んでいるんだろう?どうしてこんなつらい、くたびれるような人生を送っているんだろう?」私は徐々に将来への方向性や目標を失い、毎日無意味にぼんやりしていただけでした。

 2008年の終わりごろ、親戚の一人が神の国の福音を私に説いてくれました。しかし私は、名目上は神様を信じ始めただけで、私の人生は相変わらずギャンブルに費やされたままでした。神様を信じるならギャンブルをやめるべきだと心の中でわかってはいても、どうして競馬中毒から抜けられないのかはわかりませんでした。

 ある集会で、神様を信じ始めたあとも競馬を続けていることを兄弟姉妹に打ち明け、語り合いました。すると姉妹の一人が神様の御言葉を私に読んでくれました。「誰も神の足跡や出現を自発的に探し求めないし、誰も神の配慮と守りのもとで存在することを望まない。むしろ、人は、この世と、邪悪な人類が従う生存の法則に適応するために、進んでサタンと悪しき者の腐敗に頼ろうとする」

 私たちがサタンによって堕落させられたあと、私たちの考えや意見はすべてサタンの生命原理に支配されたことを、私は神様の御言葉によって理解しました。こうしたよくない物事が私たちの命となり、そのせいで喜んでサタンに従い、社会の傾向に従い、そして神様の御前に出向いて崇拝するという考えを持たないようになったのです。私は、「副収入のない人間は決して豊かになれない。夜、干し草に飢えている馬が決して太らない」というサタン的な思想や物の見方のせいで害を受けたこと、自分が競馬中毒になり、金持ちになることしか考えず、食事をしたり働いたりすべき時も競馬の研究をしていたこと、そしてせっかく節約した金を競馬に費やしたことを考えました。それなのに、何年もの年月を経ても金持ちになる夢は実現せず、その代わりに金をすべて失ったのです。さらに私のギャンブルのせいで妻と頻繁に口論し、私の家庭はもはや家庭のようではなくなっていました。それよりつらかったのは、私の心が競馬で一杯だったことです。人生に何の目標も持たず、それにも増して私の心は空虚で苦痛に満ちていました。多くの人々が競馬のせいで借金漬けになり、自分たちの家族を経済的な苦境に追いやり、逃れられない苦痛の中で生きていることを私は思い浮かべ、こう考えました。「サタンが私たちにこの害をもたらしたんだ!」そう気づいたとき、私はギャンブルをやめる決心をしました。

 ギャンブルをやめる決心はしたものの、競馬クラブの馬券売り場の前を通りかかり、馬券を手にしながら盛り上がったり、どの馬に賭けるべきか真剣に考えたりしている群衆を見るたび、私の両手はむずむずし、一度だけ賭けをして失った金を取り戻したいと本気で考えました。しかし、神様の前で決意したことを思い出しました。再びギャンブルをすれば、神様を騙していることにならないだろうか?こうしたことを考えながら、私は心の中で罪の意識を感じていました。しかし結局はいまだ自分を抑えられず、再び競馬をしてさらに多くの金を失ってしまうのです……

 その後の集会で、姉妹の一人が神様の御言葉を私に読んでくれました。「人間はサタンの支配下において全生涯を過ごし、自分でサタンの影響から逃れられる者は一人もいない。人間はみなけがれた世界で、堕落と空虚の中、少しの意味も価値もないままに生きている。彼らは、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない」「あなたは、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を見出すべきである。あなたは意味のある人生、価値のある人生を実際に生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない…あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。あなたは、どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきであろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは、何よりもそうした大志と根気を持っていなければならず、骨抜きの弱虫のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたには神を愛する機会がもう一度あるだろうか」

 私はその言葉を慎重に考え、競馬で賭けをすることは人々を騙しそそのかすためにサタンが用いる手段なのだと知りましたが、サタンの誘惑が再び降りかかったとき、私はそれに従うことを余儀なくされ、そしてそれが、「副収入のない人間は決して豊かになれない。夜、干し草に飢えている馬が決して太らない」というサタン的な物の見方の結果だったのです。私は、自分が競馬に夢中になっていたこと、何の目的もなく一日中ぶらぶら歩いていたこと、そして人間らしさを一切持たず普通に働くことも生きることもしていなかったことを考え、こんな風に生き続けていたらますます堕落して神様から離れるだけで、神様の救いを得る機会も失われてしまうとわかりました。とりわけ、「あなたは、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を見出すべきである。あなたは意味のある人生、価値のある人生を実際に生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない」という神様の御言葉を読んだとき、神様が示してくださったご配慮やお考えに感謝するようになりました。神様は、私がサタンの暗い影響から脱け出し、以前の堕落した生き方を完全に捨て去ることをお望みになっていましたが、私は何度も何度も神様を悲しませていたのです。あまりにも麻痺し、反抗的でした。姉妹の一人は私にこうも語ってくれました。「私たちがどれだけつらい環境や困難に見舞われようと、誠実に神様の御前に出向き、神様に祈り、神様に頼り、神様の御手に自分を委ね、神様が私たちを支配し、すべてを整えてくださるのを認めるなら、神様はいつも私たちのために道を開いてくださいます」神様の御言葉を考え、姉妹の言葉を聞きながら、私は自分の行動の指針を持つようになりました。そして正直な心をもって神様の御前に出向き、神様に誓いを立て、神様の御言葉通りに実践し、ギャンブルへの中毒を断ち切ろうと思ったのです。

 しかし程なくして、私のギャンブル中毒が再び醜い頭をもたげました。良心が私をたしなめたものの、私はこう考えました。「ギャンブルをするのはこれが本当に最後だ。今後は絶対にしない。失った金を最後の賭けで全部取り戻したいんだ」競馬クラブに入って馬券の購入用紙を買ったとき、私の心はひどく不安を感じ、両手の震えが止まらなくなるほど激しく鼓動しました。私は購入用紙をじっと見つめましたが、心の中は真っ白でした。どう記入すればいいのかもわからず、不安のあまり頭がふらふらしました。私にできたのはクラブを離れて一息つき、心の落ち着きを取り戻すことだけでした。心が落ち着いたあと、ギャンブルを諦めたくなかったのでクラブに戻りました。そして賭けをしようとしたところ、私の心はまたも真っ白になりました。手はペンを掴んだまま前後に動きます。私は賭け方がわからず、そうする度胸もありませんでした。そのとき、神様の御言葉が心に浮かびました。「わたしが真の神であり、人間の心の奥底を探る神であることを彼が永遠に忘れないようにする。本音と建前があってはならない。わたしにはあなたがすることは全てはっきりと見えている。他の人を欺くことはできても、わたしを欺くことはできない。わたしにはすべてがはっきりと見えている。あなたは何も隠すことができない。すべてはわたしの手の中にある。」そうだ!私はずっと神様の前で誓いを立てたと思っていたのに、まだギャンブルをやめられていない、それにギャンブルをすることで明らかに神様を騙している!神様は人間の心の奥底を吟味なさいます。私がそうしている間も、神様はご覧になっていました。そして私は、競馬で賭けを行なうのがよくないことだと完全にわかっていながら、それでも繰り返し続けたのです。そうと知りつつ悪事を行なうことで、神様が私をさらに憎まれるようにしていたのです!そこで私は競馬クラブを出るとすぐ、急いで神様の御前に赴き、祈りました。「ああ、神様、サタンのそそのかしと誘惑にこれ以上苦しまず、あなたを頼り、あなたの御言葉に注意を払い、そしてギャンブルを完全にやめられるよう、私に信仰と強さをお与えください。アーメン!」そして私は、断固としてクラブをあとにしました。

 私はしばらく時間をかけて自分のギャンブル問題について神様に祈り、私のために道を開いてくださったことに感謝しました。兄弟姉妹とともに集まり、語り合い、本分を尽くすことを通じて、また神様の御言葉に従って働き、生きることを通じて、私の心は徐々に豊かさと平和を感じ始め、もはや競馬をする時間も欲求もなくなりました。時々昔のギャンブル仲間に出会うと、彼らはこう尋ねます。「最近勝ったかい?一緒に競馬に行こうじゃないか」「誰それがシックス・リング・ロトを当ててね……」そうした言葉を聞きながら、いまだに心の中で欲望が盛り上がるのを感じることもありますが、それはサタンの誘惑でありそそのかしであると気づいていました。それだけでなく、神様のために証しをし、これ以上サタンに騙される人間にはならないと、私はすでに神様に誓ったのです。だから私はこう言います。「僕はギャンブルをやめたんだ。もうやらないよ」

 その後、競馬クラブを通りかかって外に座る数多くのギャンブラーを見ても、以前のように両手がむずむずすることはなくなりました。私はギャンブルをやめた経験を思い返しました。自分自身に頼るだけでは、やめる意志も信仰も持たなかった。しかし神様の御言葉によってギャンブルの本質を完全に理解することができ、神様は私に、競馬をやめる力をお与えになった。

 現在、妻と私は神様の御言葉を頻繁に読み、教会で自分たちの本分を尽くしています。私の精神は完全に新しい見方をするようになっていて、どこに行くときも競馬新聞を持ち歩いていた過去の人生は完全に捨て去りました。神様が新しい人生を与えてくださったのは、真に神様のお恵みのおかげです!


神様の名前がヤーウェならば、なぜイエスと呼ばれるのか

2020-07-26 23:22:31 | 賛美の心

 ヤーウェ神は旧約聖書で次のように明言されています。

 「ただわたしのみヤーウェである。わたしのほかに救う者はいない」(イザヤ書43:11)

 「ヤーウェは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である」(出エジプト記3:15)

 ところが新約聖書には次のように書かれています。

 「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)

 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル人への手紙13:8)

 旧約聖書には、神様の名は唯一ヤーウェであり、それは永遠であると書かれています。ところが新約聖書には、イエスの名においてのみ人は救われると書かれています。律法の時代のヤーウェという神様の名が不変であるはずならば、恵みの時代にイエスと呼ばれたのはなぜでしょうか。聖書に書かれている「永遠」という言葉をどう解釈すべきなのでしょうか。神様の名にはどのような真理と奥義が隠されているのでしょうか。さっそくこの問題について交わりましょう。

 

 ヤーウェという名がなぜイエスとなったのか

 

神様の名前,

 

 ヤーウェの名は永遠に世代を越えて続くと聖書は明言しています。けれども主イエスが贖いの働きをするために来られたとき、ヤーウェの名はもはや語られませんでした。誰もが主イエスの名によって祈り、主イエスを呼び求め、イエス様の名を聖別しました。私たちには聖書のこれらの箇所には矛盾が存在するように見えますが、実際はそうではありません。これは、神様の語られた「世々の」「永遠に」という言葉はその時代の働きに関連して語られたからです。その時代における神様の働きが完了していない限り、その時代の神様の名は変わることはなく、神様に従う人々はみなその時代の神様の名を固守しなければならなかったのです。そうすることによってのみ、人は聖霊の働きを得て、神様の配慮と守りのもとで生きることができたのです。けれども神様が新たな時代を始め、新たな働きを始められたとき、それに伴って神様の名もまた変わったのです。そうなると、神様の新しい名を受け入れて新しい名において祈ることによってのみ、人々は神様の承認を受け聖霊の働きを得ることができたのです。例えば律法の時代には神様の名はヤーウェでした。ヤーウェという名を固守し、ヤーウェによって定められた律法と戒めを守ることによって、人々は神様の祝福と憐れみを受けることができたのです。けれども主イエスが働きを行なうために来られたときには、主イエスは恵みの時代を始め、律法の時代を終えられました。もし人々がまだヤーウェの名にすがり、主イエスの名を拒んだならば、聖霊に嫌われ、拒絶され、闇に生きることになりました。ペテロやマタイ、サマリアの女のように、主イエスを救い主として受け入れ、主イエスの名において祈り、その名を呼び求めた人々は聖霊の働きを受け、主の救いを得ました。明らかに、神様の名は不変ではなく、神様の働きが変わるに伴って変わるのです。

 

 「永遠に」とは神様の本質と性質が不変であることを意味し、その名が変わらないことを意味するのではない

 

 おそらくまだ少し混乱したままで、聖書には「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」とあるのに、どうして神様の名が変わることがあるのだろうと思っている人もいることでしょう。今から、聖書に書かれている「永遠に」という言葉をどのように理解するべきかについて話します。実はこの「永遠に」という言葉は、神様の本質と性質が不変であることを意味しています。神様の名が変わらないという意味ではありません。神様はこう仰っています。「神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。…もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代まで連れてくることができたであろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜであろうか。…神は人が想像するように単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはいられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても働くことができ、これはいかに神の働きが常に前進しているかという象徴である。」「神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることはない。神の本質、神がもつものと神であるものは決して変わることはない。しかし神の働きは常に前進しており、常に深くなっている。神は常に新しく決して古くないからである。それぞれの時代に、神は新しい名前を名乗り、それぞれの時代に神は新しい働きを行い、それぞれの時代に神は被造物に神の新しい心と新しい性質を見せる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)

 神様は常に新しく、決して古くはなく、その働きは前進を続け、その名は働きが変わると共に変化します。けれどもどれほど神様の働きや名前が変わろうとも、神様は永遠に神様であり、その性質と本質は変わることがありません。律法の時代の神様の名はヤーウェで、恵みの時代にはイエスでしたが、どれほどその名が変わっても、人類を救うためだけに変わるのです。神様が人類を経営(救い)する目的は変わらず、神様の本質も変わることはありません。常に神様は唯一で、ご自身の働きをされる方です。ところが当時のパリサイ人は、神様の名が時代の推移と神様の働きの変化とともに変わることを理解せず、「ヤーウェのみが神であり、ヤーウェの他に救い主はいない」という主張に固執しました。彼らはヤーウェだけが彼らの神、救い主であると信じていたため、最終的に神様がイエスの名によって贖いの働きをするために来られたときには、主イエスが語られた言葉が真理の表れかどうか、主イエスのなさった働きが神様ご自身の働きかどうかを知ろうとせず、自分たちの傲慢な本性に頼って頑なに観念に固執し、メシアと呼ばれない人が神であるはずなどないと信じました。そして主イエスを激しく非難し主イエスに抵抗し、最後には十字架にまでかけてしまったのです。そのようにして彼らは恐るべき罪を犯し、神様に呪われて罰を受けたのです。パリサイ人の誤りからわかるのは、時代が異なれば神様がその名を変えられることの意義を理解せず、神様が新たな働きをし新しい名を持っているからという理由だけで神の本質を否定し、それらが全て唯一の神様の働きであることを否定するのであれば、私たちは神様を拒絶し神様の性質を侵す行為をしかねないということです。

 

 なぜ神様は異なる時代に異なる名前で呼ばれ、その名前の意義は何なのか

 

 神様の名前は実は人類を救うその働きから生まれるのです。人類を救うことにおいて、神様はその働きの必要と時代に応じて様々な働きをなさり、異なる性質を現わされ、それに伴って神様の名前も変わります。別の言い方をするならば、ひとつの名前はひとつの時代を表わし、それは神様の働きのひとつの段階とその時代に神様が現わされる性質を表します。神様はご自身の名前を用いて時代を変え、現わさせます。これはちょうど神様の言葉にある通りです。「なぜヤーウェとイエスはひとつであるのに、違う時代には異なる名前で呼ばれるのか。それは働きの時代が違うからではないのか。ひとつの名前で神全体を現わすことができるのだろうか。この様に、神は違う時代には異なる名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、ひとつの名前だけで神を完全に表すことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を表すだけで、神の働きを表すためだけに必要である。よって、神は時代全体を表すために、どんな名前であれ神の性質に合う名前を選ぶことができる」「ひとつの特定の言葉あるいは名前では神のすべてを表すにはあまりにも不十分である。では神はひとつの決まった名前を持つことができるだろうか。神はあまりにも偉大で聖であるのに、なぜ神がそれぞれの新しい時代に名前を変えてはいけないのか。それだから、神が自ら働きを行なうそれぞれの時代に、神が行なう働きを要約するその時代に合った名前を用いるのである。神はその時代における神の性質を表すために、その時代の意義を反映する特定の名前を用いる。神は自身の性質を表現するために人間の言葉を用いる。…神は本来どんな名前も持たなかったということを知るべきである。神にはするべき働きがあり、人類を経営しなければならなかったので、一、二の、あるいは多くの名前を持っただけであった。」『神の働きのビジョン(3)』より

 それでは神様の名前がヤーウェである意義を考えてみましょう。次のような御言葉があります。「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人をののしり、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。…ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。…『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。」『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より

 「ヤーウェ」は律法の時代に神様がその働きをされたときに使われた名前であり、その名は神様の威厳があり、怒り満ち、呪いを唱え、憐れみ深い性質を表現しています。当時の人々は神様をどのように礼拝すべきかを知らず、地上での生活をどう送るべきかも知りませんでした。神様から見て邪悪なことを行いましたが、彼らは全くそれを自覚していなかったため、モーセを通して神様は律法と戒めを定めて人類の地上での生活を導きました。神様は律法と戒めを厳重に守ることを人間に求め、どのように神様を礼拝するかを教え、何が善で何が罪かを教えました。人々が律法と戒めを守るならば、ヤーウェからの恵みと祝福を得ることができました。律法と戒めを破ったならば、天からの火により消滅させられるか、石打ちにされて死にました。ヤーウェの導きにより、イスラエルの庶民は律法を守りヤーウェの名を称えました。こうして彼らは何千年もの間、神様に祝福され、導かれたのです。

 恵みの時代に神様の名前はイエスとなりましたが、ここにもまた深い意義があります。次のような御言葉があります。

 「『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、憐れみに満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。…イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である」『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より

 律法の時代の終わりに、人はサタンによってますます堕落させられていました。もはや律法を守ることもせず、彼らの罪を贖うに足りるいけにえはなく、律法によりいつ罪に定められて死の判決を受けてもおかしくない危険に直面してました。人間の罪を赦し、人間を生かし続けるために、神様は人の子としてこの世で肉となり、イエスという名で贖いの働きの段階を実行し、愛と憐れみを強調した性質を現わされたのです。主イエスは人類のために十字架にかかり、それによって人類の罪を背負い、人類のために罪のいけにえとなったのです。私たちが主イエスを救い主として受け入れ、主イエスの名において祈り、罪を告白し悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、私たちの霊は平安に満たされて安らぎ、主によって与えられる恵みと祝福を享受することができます。

 このことから、神様のそれぞれの名前がそれぞれの時代において神様がなさる働きと神様が現わされる性質を表現していることが分かります。神様が人類の必要に応じて新たな働きをされるとき、神様の名前はそれに応じて変わります。神様の新たな名前を受け入れて初めて、私たちは神様の更なる救いを得られるのです。例えば恵みの時代に、もし神様がイエスでなくヤーウェの名で来られたならば、神様の働きは律法の時代に留まったままになっていたでしょう。人々は主イエスの贖いを受け入れることができず、当時のイスラエル人は律法を犯したことで神様によって罰せられ呪われていたでしょう。

 今は終わりの日の最後であり、兄弟姉妹はみな熱心に主イエスの再臨を待っています。主によって引き上げられて天の御国に迎え入れられるのを待っています。主イエスははっきりとこう語られています。

 「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16:12-13)

 そしてヨハネの黙示録の二章と三章には繰り返し、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と預言されています。ペテロの第一の手紙一章五節にはこうあります。

 「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである」

 これらの聖句から、主イエスが終わりの日に戻られるとき、語られることが更にあり、私たちが真理を全て理解し、終わりの日の神様の救いを得ることができるようにして下さることが分かります。ですから、主イエスが終わりの日に働かれるために戻られ現われるとき、その働きは変わりますが、その名も変わるのでしょうか。戻られてもまだイエスと呼ばれるのでしょうか。ヨハネの黙示録にはこう預言されています。

 「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう」(ヨハネの黙示録3:12)

 この聖句では、神様が終わりの日に戻られるときには新しい名があり、新しい名があるということは、もはやイエスとは呼ばれなくなると言っています。これは私たちに神様を畏れる心を持つように求めています。神様が新たな働きをするために来られ、新しい名をもつとき、私たちは心を開いて求め、よく調べ、自分の間違った観念や想像に従って神様の御名を制限しないようにしなければなりません。こうすることによってのみ、私たちは主の再臨を歓迎できるのです。

 神様の啓きと導きに感謝しましょう。神様の出現を待ち望む全ての兄弟姉妹が主と再び会う日が間もなく訪れますように。


四季の美しさー造物主の権威による傑作を記録するもの

2020-07-25 22:42:15 | 賛美の心

 太陽と月が互いに交替し、四季が循環し、海や河川の中の万物、陸地上の万物は流転している。造物主の権威と支配は天地万物のあらゆる細部に表れている。……

 わたしはカレンダーをめくるたびに、「神の権威はあらゆる面に表れている。神の御業は本当に人を感嘆させるのだあ!」と感慨にふける。天地は見渡す限り果てしない。太陽と月は輝いている。何もかも神のすばらしい御業を表現している。滄海変じて桑田となり、桑田変じて滄海となる。万物は一定の法則に従って変化する。歳月がしだいに過ぎ去っていく。四季は神の定めに従って厳格に循環する。四季の中で、わたしたちは曇りと晴れ、寒さと暖かさを体験しており、生命の延長継続を体験している。

聞こう。春のやさしさを

 春雨はぽたぽた落ちていて大地を軽く叩いている。春雨は万物にお祝いの贈り物をもたらし、また万物に生気をもたらした。雨がやんだ後、太陽は笑顔を見せる。暖かい陽光があまねく大地を照らしている。地上の雨の滴は真珠のようであり、陽光の中できらきら輝いていて、五色にきらめく。春風が解氷した湖面に触れると、湖面にさざ波が幾重にもなって浮かんでいる。まるで春風が湖面でバレエを踊っているかのようである。太陽の光が大地を照らしていて、雨露が大地を潤している。小さな草はそよそよと吹いている春風によって呼び覚まされた。その後、そっと地から出てきて、だんだん目を開けて、朝の露の洗礼を享受し、きらきら輝く太陽の光を浴びている。冬眠する動物は春の息吹によって目覚めた。ウーンと背伸びをし、穴から出てきてから、新しい一年の自分の職責を履行し始める。高い山は新しい装いになった。草原が緑のじゅうたんを敷かれているようになった。田野の百合の花は次々に咲き、蝶は花の群の中をひらひらと飛んでいて、さまざまな鳥は枝に止まって小声で話している。天と地の間を漫歩し、田野の中を歩いているわたしはカメラを持ち上げてシャッターチャンスをとらえて、生命が芽生える瞬間を撮った。そして、それを永遠の記念としてアルバムに収めた。

見よう。夏の美しさを

 ジージーとセミが鳴いている。こういう時、春のやさしさが消えて、夏の美しさがやって来る。朝、きらきらして透明な露の玉はまばたきをしていて、草むらの中で、花弁の上で喜んで跳んでいる。まるで舞っている美しい音符のように。勤勉な蜂は花の群の中を飛び交って、花粉を集めており、さまざまな果実を育成するために勤勉に働いている。コオロギは道端の草むらに隠れて、小さな声で歌っている。小鳥は木の枝の間を飛び回っている。利発で腕白な、夏のすすしい風は飛び跳ねていたり、追っていたりし、時には空高く飛び、時には地面を掠めて飛ぶ。それは花や草と共に踊り、葉のために音楽を奏でている。夏の天気は変わりやすい。さっき太陽が燦々と輝いていたかと思うと、一天にわかにかき曇る。しばらくしてから、稲光が大空を裂いて光り、雷が鳴り、大雨がざあざあと降る。もうもうと立ちこめている雨霧は大地の紗衣となる。万物は洗礼を受けており、潤されている。緑に満ちているこの季節には、万物はすくすくと成長する。わたしはカメラを持ち上げて、万物が生気に満ちあふれている時を写真に撮った。そして、それをアルバムに収めて珍蔵した。

味わおう。秋の甘さを

 風が吹いて落ち葉がカサカサと音を立てる。この時、真夏が過ぎて、豊作の季節がやって来る。そよ風が成熟した果実の香りをただよわせて吹いてくる。目を上げて見ると、畑の中のコウリャンが穂を出し、稲が腹を抱えて笑い転がり、トウモロコシの粒が非常によくそろっていて、大豆が銅の鈴を鳴らしながら歌う。葉をかき分けて外を見る真っ赤なリンゴを見ると、ザクロは口をゆがめてほほ笑む。ルビーのようなナツメの実は、枝いっぱいにぶら下がっている。すっかり熟したミカンは黄色の灯篭のようである。みずみずしい葡萄は風の中で軽くぶらんこをこいでいる。灯籠のような山吹色の梨は枝にぶら下がっている。……見渡すかぎり豊作の情景を呈している。農民たちは鎌を持ったり、車を運転したりして田畑の上を頻繁に行き交う。彼らは農作物を刈り取りながら高らかに歌い、豊作の喜びを味わっている。わたしはカメラを持ち上げると、突然背後の子供の明るい笑い声を聞いた。振り返り見ると、何人かの子供が田畑で追いかけっこをして遊んでおり、彼らの幼い顔には笑みが零れた。わたしはシャッターチャンスを捕らえて、一つ一つの無邪気な顔とこの喜ばしい光景をカメラに収めた。

享受しよう。冬野の静かさを

 雪がひらひら舞っている。この時、冬がはなばなしく登場した。北風にのって雪花がひらひらと舞い落ちた。雪花は鵝毛のように風の中で舞っており、また梨花のように目もあやに乱れ散る。それは北国の広大な国土を飾っているものとなった。見わたせば、天と地がとけ合って一色である。道端の電線がすでに銀白色の琴線になり、田野の枯れ枝や雑草が雪にうずもれた。至る所がまっ白に雪化粧している。その美しさは言葉では言い尽くせない。子供たちは雪の上で雪だるまを作ったり、スキーをしたりしている。人々は銀色の海洋の中で、冬の静かさと和やかさを享受している。すべては濾過されている。すべては昇華している。ひとしきりの寒風に吹かれてきた雪片がわたしの顔に落ちた。その雪片がひんやりしていて心地よかった! わたしが思わず手を伸ばして雪片をつかみ取ったが、その雪片はわたしの手の中で次第に解けた。わたしはカメラを持ち出してこの壮麗で真っ白な世界を写真に撮った。そしてその写真をアルバムに収めた。わたしは期待している。来年の春が訪れる時、新しい生命が生まれ、芽生えると。

 冬が去っては春が来る。花が散ったら、必ずまた咲く。わたしのアルバムには、四季の景色の写真がいっぱい貼られている。わたしはアルバムを軽くめくりながら、さまざまな花のある春、鮮やかな果実のある秋、ハスの花のある夏、雪が舞っている冬を楽しんでいる。一枚一枚の写真の中の、自然で調和のとれている景物は造物主の傑作である。四季は造物主の支配と按配のゆえに輪廻している。

 そよ風がわたしの耳のそばをかすめた。わたしが身の回りの緑の葉を見、さっさっという風の音を聞いている。風は芳香を運んできて、歳月の中で新しい四季の循環を醸造する。一枚の緑の葉を取ってアルバムに入れた。そして、扉のページにこう書いた。「四季の美しさは造物主の権威による傑作を記録するもの」と。


パリサイ人が神様に抵抗した本質は何ですか

2020-07-23 15:33:44 | 賛美の心
 律法の時代に、パリサイ人は常に神殿の中で神様に仕え、ヤーウェ神の律法によって人に教え、また海と陸とをめぐり歩んで神様の福音を広め、外見から見れば、彼らは敬虔な人でした。しかし、主イエスが働かれた時、彼らは主イエスの言葉には権威と力があるのを知りつつ、受け入れないところが、ひいては主イエスを非難し、中傷し、罪に定め、主を十字架に釘付けにしました。彼らはなぜ主を十字架に釘付けにしたのですか。彼らが神様に抵抗した本質は何ですか。終わりの日に、私たちはどのようにパリサイ人の失敗した道を避けるのですか。この映画を見終わってから、あなたはその答えを見つけるでしょう。
「足枷を解いて走れ」NO.4 宗教的パリサイ人の縛りから逃れ神の下に帰りなさい
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