いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

クリスチャンの証し-工場に入ってたったの2ヵ月で、私はどうやって工場長になったのか

2020-06-30 22:24:22 | 賛美の心

 社長は次のことを私に丁寧に言いました。「私と夫、息子3人で話し合った結果、あなたにXにある私たちの刺繍分はいらない工場の支配人になってもらおうと考えたの。安心してね。そこの給料はここより絶対いいから」。私は身に余る待遇に驚きながらも、「社長がそれほど私を信頼してくださるなら、自分の良心にかけて、やるべきことをしっかりやります」と真心を込めて言いました。

 自分が工場で働き始めてたったの2ヵ月で、社長から認めてもらったことを考えると、本当に感慨無量でした。この1件は、私が工場に入ったときのことから話さなければなりません。

クリスチャンの証し,工場長,2ヵ月

 工場で働き始めると、古参の従業員からいじめを受けた

 2014年夏、北京のある通りの刺繍工場で縫製工として働き始めました。最初の10日間はすべてが順調でした。11日目の朝、通りにある別の刺繍工場の従業員である小華が私のいる工場に働きに来ました。小華は30歳ぐらいで、北京で7~8年の刺繍経験があります。彼女はこの工場の仕事をすべて終えた後、別の刺繍工場に移り、臨時従業員になったのですが、その後、この工場でまた仕事が発生したので、戻ってきたのでした。このため、この通りの刺繍工場の従業員はみんな彼女のことを知っています。だから小華が刺繍工場の玄関に入ると、十数人の従業員が彼女を見て、笑いながら挨拶をしたのでした。

 しばらくして、小華は服の入ったカゴと木製の腰掛を持って来て、「ガタン」という音とともに、私の隣に座り、服を縫い始めました。彼女の左腕が私の右腕にくっついていたため、私は糸を全く伸ばせませんでした。彼女のふてぶてしい様子を見ると、嫌な気持ちになりました。「この人は人間性に乏しいのではないかしら?まったく思慮が足りない!この座席は工場が決めたものだよ。すべての従業員同士の距離は固定されていて、ちょうど糸を伸ばせるようになっていることを、知らないわけではないでしょう。私のそばに座るなんて、明らかに新人の私が服を縫えないようにして、いじめているのでしょう」。しかし、そのとき、自分は神様を信じる者で、 クリスチャンの見本を表さなければならず、人と争うべきではないと考えました。そして私は自分の腰掛を後ろに移し、身体を傾けて糸を伸ばせるようにしました。私は心の中で「あなたに譲ってあげたのだから、これで問題ないでしょう」と思いました。しかし信じられないことに、私が腰を掛けて服を縫おうとすると、彼女は私の前の上方にあるライトを消したのでした。ライトが消えると、全く仕事になりません。私は腹からこみ上げる怒りに耐えました。「いじわるにもほどがある」。しかし、私は心の中の怒りに耐え、笑いながらこう言いました。「私もあなたみたいに若い頃はライトを付けなくても見えていたのだけど。今はこんなに年を取ってしまってね。ライトを消してしまうと、針と糸がはっきり見えなくて、仕事がしにくいのよ」。私はしゃべりながら、身を起こして蛍光灯を付けました。しかし彼女は信じられないことに、怒って「ガタン」と音を立てて、ライトを消し、私を非難しました。「白昼からどんなライトが必要なのよ?ライトがないほうがまだいいよ!」。

 神の御言葉によって、怒りをしずめる

 彼女のふるまいで、私は怒り心頭でした。心で次のように考えるのを禁じえませんでした。「私は神様を信じているから、こうやって2回も譲歩してあげたのに、まだ付け上がって来るなんて思いもしなかった。本当に分別がない。あなたのふるまいのことで、社長を呼びさえすれば、私のためにきっと正当なことを言ってくれる。私が声を挙げずにいじめられるままだったら、周りの人からどう見られるかしら。笑われでもしたら、とても情けないじゃない!メンツを取り戻さなきゃ。どうあっても、いじめられてはいけない!」。考えれば考えるほど怒りがこみあげて来て、彼女に言い返そうとしました。そのとき、神様の御言葉を思い起こしました。「サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。」神様の御言葉で私は理解しました。神様が最初に創造した人間は神様の話を聞き、神様に従順で、良心を持っていました。しかし、サタンによって人は堕落した後、サタンの毒が私たちの心に入り込み、私たちの命になってしまいました。私たちがこれに従って生きることで良心を失い、自己中心的で、傲慢で、卑しくなりました。何をするにも自分の利益を原則とするようになり、普通の人間関係を失ってしまいました。考えてみれば、小華が最初に私をいじめたとき、忍耐して気にしないようにできました。しかし、もう一度いじめを受け、自分のプライドと、利益が損なわれると、私は許容し忍耐することができなくなり、怒りに任せて彼女に言い返したくなりました。しかし、それでは、神様を信じない人と同じことです。ここまで考えると、すごく恥ずかしくなりました。

 続いて、私は神様の御言葉をまた思い出しました。「人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」今日起こったことは神様が許されたことであり、異邦人の中で神様のために証をするチャンスでもありました。私はクリスチャンとしての模範を表すべきであり、自己中心的な本性によって物事を行うことでも、怒りに任せて小華と争うことでもないのです。私はここまで考え、もうライトをつけるのをやめ、彼女にも言い返すのもやめました。その代わり、自分の腰掛とカゴを玄関口まで運び、日光を借り、服を膝の上に乗せて縫製作業をしました。服を縫いやすくはなかったですが、自分が神様の御言葉を実行し、神様のために証をしているだと考えると、心には癒しがありました。この日は1日、彼女はもう私に構ってくることがなかったので、私はこの件はここで片付いたと思いました。

 サタンの計画に打ち勝ち、しっかりと立ち、証をする

 2日目の朝、私は刺繍工場に来たとき、前日の座席が空いているのを見ました。しかし、小華が今日も仕事に来ることを考え、やはり玄関口辺りで縫製することにしました。彼女はその日遅く来ました。そのときには、前日の場所は他の従業員がもう座っていました。すると彼女は信じられないことに、腰掛を持って、カゴを提げて私の右隣に座ったのです。前日と同じことがまた繰り返されました。彼女の左腕が私の右腕に当たり、糸を引くことができません。私は心の中でこう思いました。「昨日、譲歩してもまだダメだというの。今日もいじめてくるなら、人間性が欠落している。あなたみたいな人は見たことがないよ」。腹から怒りがこみ上げ外に吐き出したくなりました。彼女と口論しようかと思いました。しかし、神様の声が私にはっきりと示しました。「あなたが毎日行うこと、日々出会う人々でさえわたしの手で定められたものである。…」。私は心の中で祈りました。「神様、日々の人や物事はすべてあなたが備えられたもので、私に近づくことを許されました。この人はこのように何度も何度も私をいじめます。ここにあなたの御心があるに違いありません」。神様はこう話されました。「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。…神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある―その背後にはすべて戦いがある。」神様の御言葉で分かりました。外から見ると、彼女が自分を困らせているが、実際は霊的にサタンが悪いことを図っているのです。前日、私は神様の恵みで、真理を実行できました。しかしサタンはそれに不服で、続けて私を試みる状況をセッティングしたのでした。小華は私の隣に座り、私が糸を伸ばせないようにすると、私の稼ぎは少なくなります。しかし、多く稼ぎたいがために、小華と言い争いをしたら、証を失ってしまいます。

 神様の御心が分かった後、サタンの悪い計画を見破り、理性と英知を持って、許しと忍耐を表して、神様の証人とならなければならないことに気づきました。私は椅子を後ろに移し、もっとドアに近づいて、糸を伸ばせるよう、身体を傾けました。小華は私を見ても声を出さず、もう何もしなくなりました。

 真理を実行し、古参の従業員から敬服される

 私が新しいモデルの服を縫製しているとき、偶然にも小華の表目の編み方が違っていることに気づきました。縫った服は必ず不合格になってしまいます。しかし彼女自身はまだ気づいていませんでした。私は「こんな表目の編み方だと、縫ってもやり直しになるに違いない。社長の基準を全くクリアできないだろう」と考えました。案の定、社長が間もなく検品にやってきて、小華が縫った服のポケットを見て、「ダメ。不合格。ポケットの縫目がはっきりと見えてしまっているじゃないか。縫目が見えないようにしないといけないよ」と言いました。小華は糸を抜いてやり直しをするしかありませんでした。社長はまた、私の仕事を見て、笑いながら、「これでいいですよ!」と言いました。私は心の中で喜びました。「あなたはすごいんじゃなかったの?私をいじめるんじゃないの?これで、もう私にかなわないでしょう!やり方は教えてあげないから」。私は引き続き服を縫製していましたが、時折小華を見ていました。彼女はまだ従来の間違った表目の縫い方をしていました。彼女は針を抜いては入れ、抜いては入れを繰り返し、何度も見ていましたが、どうやって縫っていいのか分からず、服を持って社長に聞きに行きましたが、彼女を叱る社長の声だけが聞こえました。「ダメ。糸を抜いてもう一度やり直しなさい。どうしたことかね?(私を指して)あの子を見なさい。新人でもよくできているじゃないか。どうやって縫うのか彼女を見てみなさい!」。小華は頭を垂れて、落ち込んだ様子で、私のそばに来ました。もう前のような高慢さはありませんでした。私はそれとなく喜んでいました。「どんなもんだい。社長から見ると、あなたは私にかなわないのではないか?よくも私をいじめ、辱めてくれたね。きょうはあなたの番だよ」。小華は仕方なく、糸を抜いて縫い直し始めましたが、やはり縫い方が間違っています。しかし、彼女はどうしていいのか分からず、顔は苦しさ で赤くなっていました。このポケットはすでに2度も糸を抜いており、もう一度失敗すれば、縫うのはもっと難しくなります。その時、私は良心の呵責を感じ始めました。「この服は今日入ったばかりの新しい服で、彼女は正確に縫えないが、私は縫える。私が彼女に教えるべきでしょう。どうして自分は彼女に教えず笑っているの。もし違う人だったら、最初に間違いを見ると絶対に教えるのに。よくよく考えてみよう。彼女に教えないのは私をいじめていたからか?」。

 私は生命に入る交わり を思い出しました。「現在、すべての人の人間関係は異常です。 その主な理由は、人々がサタンによって非常に深く堕落させられているからです。 人々は自分自身と自分の肉のために生きています。他の人のことを思いやることがまったくなく、人間として持っているべき愛情さえありません。人々は互いに争い合い、画策し合い、しかもそれをおおっぴらに公然と行うのです。正常なやり方で人類が互い仲良くやっていくことはありません。人間が持っているはずの良心と理性は、地球上から消えてしまいました。人類の間に協力の精神はありません。僅かばかりの忍耐さえないのなら、人々はお互いに敵対するでしょう。人間の心は、悪、対立、敵意、そして不和でいっぱいです。 それはまるで、人には人間の似姿がないかのようです。人は完全にサタンによって所有されており、人の心の中はサタンの哲学で満たされています。」この交わりについて考えたとき、自分の汚い性質を自覚しました。以前、彼女が私をいじめていたとき、彼女と争わず、寛容と忍耐を表したと思っていました。しかし今、彼女が助けを必要としているとき、愛の手を差し伸べるどころか、彼女の不幸を楽しみ、自分のプライドのため喜んでいました。それでは、以前、私は自分の嘘の姿を表していたのでしょうか?私が表したのはサタンの汚れた性質でした。まったく愛がなく、普通の人としての良心を持っていなかったのです。私はこのことを知り、本当に自責の念にかられました。自分は神様が求める人としての基準にほど遠かったのです。神様は今日、私を人の群れの中に入れています。私は人の中で神様の証人となり、神様の栄光を表さなければなりません!

 そこで、私は進んで笑いながら小華に近づきました。「小華さん。表目の縫い方が間違っているよ。これでは縫っても縫い直さないといけないよ」。そう言って、彼女に縫うコツを教えてあげました。彼女は試してみると、すぐにポケットを縫い終わりました。縫い終わった後、私に見せ、尋ねました。「このように縫ったけど大丈夫?」。「これでいいよ!」。彼女はとても喜んで、また縫い始めました。このシーンを見たとき、真理を行うことで人が利益を得ることで、自分もそれを味わい楽しめるということを心から感じました。昼食のとき、小華は私を見ると別人のように、急いで魚と豆腐の煮物をボウルから取り分けてくれました。そして笑顔で私にこう言いました。「お姉さん、多く食べてね」。それ以降、彼女は毎日、工場の玄関に入って私を見ると、ニコニコして「袁姉さん、もう来ていたの!」と声を出します。彼女ははっきりと私に謝っていません。しかし私は彼女の態度はすでに変わっていることを知っています。私は心の中で本当にうれしく思いました。その後、数日もたたないうちに、彼女は前の工場で仕事が発生したため、そこに戻っていきました。この時、私の座席の斜め前の年配の女性が私に次のように言いました。「ねえ、私はあなたに味方したいけど、彼女はあなたにひどく当たっているのに、どうして彼女を助けるの?もし私だったら、彼女に遠慮しないのに!」。私は笑いながら言いました。「私たちはみんな外に働きに来ていて、一緒に働けるのも縁でしょう。だから、ちょっと譲歩するぐらい何でもないですよ!」。私は心の中ではっきり分かっていました。自分の人間性、寛容、愛する心を表せるのは、神様の御言葉が私の内で働くからです。私自身は決して良い者ではありません。

 社長は、私と小華の間の出来事をすべて知っていました。ある日、彼女は私にこう言いました。「袁さん。あなたは優しくて、人柄が立派だね。優しい人はどこに行ってもウケがいいものだよ」。それ以降、社長は、稼げる仕事を私に回してくれるようになりました。その上、他の従業員の縫製に間違いがないかどうかチェックするよう、私に頻繁に言いつけるようになりました。そして工場の従業員たちは私のことを「先生」と呼び始めました。この当時の経験について考えると、真理を実行し人の模範になる上では、プライドが傷つき、悔しい思いをすることもあるが、後になって、そんなことよりずっと大きいものが得られるのだということを本当に体験したのでした。神様の実際的な導きにより、私たちはどのように善で悪に報いるべきか知り、人の見本としてどのようにふるまうべきなのか知るのです。


生と死の戦い

2020-06-29 23:13:10 | 賛美の心

河南省鄭州市 常黙仰

 全能神の御言葉にこうあります。「あなたが肉体に反抗する時、あなたの中では必然的に戦いが生じる。サタンはあなたを肉体に従わせようとし、肉体の観念に従い、肉体の利益を維持させようとする――しかし、神の言葉はあなたの目を開き、心の中に光を当てる。この時、神に従うか、サタンに従うかはあなた次第である。神は人々に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の問題に焦点を当て、神の心に従っていない考えや観念を取り扱うためである。聖霊は人々の心の内部に触れ、彼らの心の中で神の働きを実行するので、起こることすべての背後には戦いがある。人々が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体と折り合いを付けているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らの心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり――この激し戦いの後、膨大な量の熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)この神様の御言葉を読むたびに、次のように考えたものです。「真理を実践することは本当にそんなに難しいものだろうか。人々が真理を理解していない時は、それを実践することはできない。一度理解したら、神様の御心に則して行動するだけで十分ではないのか。本当に『心の奥底では生死を分ける闘いが起こる』と言うほど深刻なものだろうか。」後に実際に体験するまで、真理を実践することが簡単ではないということを実感できませんでした。神様が言われたことは、事実に完全に則しています。誇張は少しもありません。

 

 少し前のことですが、私は一緒に働いている教会の姉妹が傲慢で、私を見下していると感じ、自分自身が正しくない状態に陥るのを止めることができませんでした。彼女のせいで、あれこれと自分を束縛するようになり、働きにおいてもそれを払拭することができませんでした。何かを言うときにはおとなしくし、何かをするときは慎重にし、しばらくすると、私の言動への彼女の反応を見ずにはいられなくなるほどで、もはや私は自分の働きを担っておらず、完全に暗闇の中で生きていたのです。自分の状態が危険なものであると知りつつも、そこから抜け出すことができないでいました。苦しみの最中、神様に何度も祈り、そのうち私の中に神様の照らしと導きを得ました。それは、「その姉妹と心を割って話し、光の道を見つけなさい」というものでした。しかし、姉妹の部屋の前まで行くと、別の考えが浮かびました。「私の話を聞いて、彼女は何と思うだろうか。私がつまらないことをあれこれ考える人間で、やっかいで、扱いにくい人間だと言うだろうか。」そう思った途端、彼女の何とも言えない目つき、軽蔑したような態度が目に浮かびました。その瞬間に私の勇気は失せて力が抜け、まるで全身が締め付けられたようになってしまいました。神様の言葉によって、再び次のように啓かれました。「話し合えないような私的な問題を沢山抱えているのであれば、暗闇から抜け出すのは困難です。このままの状態を続けたいのですか。」私は静かに自分を奮い立たせました。「勇気を出して、難しく考えず、ありのままを話せばいい。真理を実践することは恥ずべきことでも何でもないのだから。」けれども同時に、別の思いも浮かびました。「何も言わないほうがいい。彼女以外の人達は恐らく私は問題ないと考えている。敢えて話せば、他の人達も私があれこれと考える人間だと考えて、嫌われてしまう。ああ!それなら何も言わない方がきっと良い。」私の心が再び揺らぐと、神様は再び私を導いてくださいました。「誠実な人間であるなら、恥ずかしがったり、恐れたりしていてはなりません。」神様のこの啓示に私は奮い立たされましたが、驚いたことに、僅かばかりの力を得た途端、サタンの考えが再び浮かんだのです。「そんな話をすれば、他の人達もあなたの本性を知ることになり、惨めになるだけだ。」私の心は瞬時に握りつぶされたようになってしまいました。このように、私の心は肯定と否定、白と黒の間で揺れ続けました。私には、はっきりと分かっていました。自分のメンツを守りたいという虚栄心から、話したくないのだ、と。かと言って今のままでは自分の状態は変わらず、自分の働きにも何の益ももたらしません。話してこの問題を解決することのみが私の働きにとって益となり、神様の御心にかないます。けれども彼女が私の気持ちを知った途端に私をもっと見下すようになるかもしれないという考えが浮かんだ瞬間、私は真理を実践する勇気を失ってしまいました。私が自身の醜さについて話したら、もう生きていられない!一瞬、私はひどく動揺し、まるで火に焼かれているかのように心に強い痛みを感じました。これは、まるで生か死かの選択に直面しているかのように難しく、気付かないうちに涙が溢れてきて、できることといえば心の中で神様に助けを叫び求める以外にありませんでした。そして、まさにその瞬間に、神様の言葉が再び私の心に浮かびました。「真理を失うことなく、あるいは偽善や不義を隠すことなく、……若者は暗闇の力の圧迫に屈服することなく、自らの存在の意味を変える勇気を持つべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「若者と老人に向けた言葉」より)。神様の言葉により、ようやく動揺する心を落ち着かせることができました。「何があろうと、私はこれ以上、サタンの嘲りの対象ではいられない。これ以上、神様に反抗することはできない。自分自身を捨て、真理を実践しなければならない。」私が勇気を奮い起こし、彼女に会い、心を割って話すと、結果は期待した以上でした。姉妹は私を見下さなかっただけでなく、彼女自身の堕落を告白し、欠点を反省して認め、私に謝ってくれました。そして、これからは問題に遭遇したなら真理について話し合い、互いに理解し合い、真理に従うことを自分たちの原則として、互いの強さから学びあい、弱さを補い合い、ともに教会の仕事をしていこう、と言ってくれたのです。このようにして武器なき闘いが終わりました。問題が解決し、私の心も軽くなりました。あの時の心の中の激しい葛藤と、生か死かの闘いのような苦しみを味わったことを思い返すと、初めて自分のメンツを保つという無意味な問題がいかに深刻だったかが分かりました。私は闇の中を生き、神様に幾度となく呼びかけられていたにも関わらず、自分をそこから解放することができないほど、この問題は私の生き方に染みついていたのです。真理を理解しながらも実践することができませんでした。私は本当に、あまりにも深くサタンにより堕落させられていました。また、真理を実践し誠実な人でいることは簡単ではないことを身をもって体験しました。

 この経験があって初めて、神様の次の御言葉を理解することができました。「真理を実践し、神を愛することを実践する度……心の奥深くで生死を分ける闘いが起こる。」この言葉が人類の堕落した本性について言及しているのは、人間のサタン的な本性が肉体にあまりに深く根付いているからです。人間はその本性にがんじがらめになってしまっており、それが私たちのいのちになってしまっています。私たちが真理を実践する時、そして肉の生活を捨てる時、そのプロセスは生まれ変わるのと同じであり、一度死んで復活するのと同じなのです。それは本当に生か死かの闘いであり、辛い痛みを伴うプロセスなのです。自分自身の本性をよく知らず、苦しんだり対価を払ったりする意志がない時、私たちは決して真理を実践することはできません。かつて私は、真理を実践するのは簡単だと考えていました。それは、自分の堕落した本性について理解しておらず、自分がいかに深く堕落しているかを知らなかったためです。今後、経験を通じてさらに自分自身を深く知り、あらゆることにおいて真理を実践し、自らを捨てていきたいと思います。


クリスチャンは仕事上でどのように効果的に従業員を管理するのか

2020-06-27 22:50:35 | 賛美の心

寄稿家:ルフ(マレーシア)

 「上司」という言葉から「厳格な」とか「多くを要求する」といった単語を連想する人はかなりの数に上ると思います。私も上司は部下に厳しくあるべきであり、上司の言葉は法律であるべきだと考えていました。それがスタッフを適切に管理する唯一の方法だと思っていたのです。しかし現実と向き合ったとき、それは決して優れた方法でないとわかりました!

 私の厳格な管理方法によって疎外されたスタッフ

 社会に出てから六ヶ月後、私は会社の人材室長に昇進しました。そして自分自身の管理能力を証明すべくチームの業績を向上させようと、部下達に効率的かつスピーディーに仕事をするよう求めました。それができないと、理由がどうあれ、私は彼らに説教をします。スタッフが提出する日報も、誤りは一つも許されませんでした。私の基準に届いていなければ、その人物を叱責するだけでなく、私が満足するまで書き直させるのです。

 あるとき、従業員の一人が報告書をきちんと書けないということがありました。私は彼女にどう書き直すべきか指示したのですが、それでも彼女は正しく書き直せませんでした。しまいに私はノートを放り投げ、こう言いました。「もういい、忘れてくれ。他の誰かにやらせよう。私は君のために待ち続けるほど辛抱強くないんだ」彼女は私の振る舞いに恐怖で震えていましたが、私は気にすることなく、彼女は単に怠け者で、精神力を費やしたくないのだろうと考えました。また別の従業員が私に質問するということがありましたが、それがあまりに簡単なものだったので、私は心底怒って彼女を叱りつけました。「私は君に何回言った?疑問に思ったら自分で考え、答えを見つけるんだ。なぜこんな簡単なことを私に質問するんだ」彼女はうなだれ、「ああ」とだけ言ってその場を離れました。その直後、化粧室から彼女の泣く声が聞こえました。私はほんの少し良心が痛み、自分の管理方法が厳しすぎるのではと感じたのですが、やがてこう考えました。私が彼らに厳しくしなければ、彼らはどのように仕事をうまく成し遂げるのか。だから私はそれを気にとめませんでした。

クリスチャンは仕事上でどのように効果的に従業員を管理するのか

 それからしばらく経ち、私の厳格な管理方法は社内でよく知られるようになりました。そして新しいスタッフが雇われるたび、誰もが私の部門に配属しないよう支配人に求める有様でした。しかし私の部門は能率的に仕事をしていたため、支配人は私の下に従業員を送り続けました。私の部門に加わった人間はみな不安に満ち、仕事に恐れを感じ、失敗したら私に叱責されると心配していました。彼らは聞こえないほどの小声で話し合い、私が来るのを見るとすぐ自分の席に戻るのです。私はこうした状態を見ていささかお手上げに感じました。私のスタッフは徐々に私の近くを避けるようになり、仕事上必要でない限り私に話しかけようとしませんでした。私は孤独を感じ始め、彼らを不安にさせているのは自分の管理方法のせいだと自覚しましたが、チームをうまく管理するには他に方法がないと考えました。

 相次ぐ退職に私は考え直した

 2015年4月、私はスーパーマーケット業界に移り、新しい店舗の店長となって店の業務をすべて担うことになりました。ここでもまた、優秀なチームをまとめて自分自身の指導力を見せつけるべく、私はスタッフに対して商品の補充を素早く行なうだけでなく、秩序正しく、また見た目にも美しく陳列するよう求めました。動きが緩慢だったり私の指示を理解していなかったりすれば、私はこう叱責したものです。「君には脳みそがないのか。どうしたら商品をこのように並べられるんだ。君は自分が何をしているのかわかってないし、誰かに尋ねようともしない。その口は何のためについているんだ」しかし思いもよらぬことに、その店舗で同じ管理方法を用いた結果、業務の効率が向上しなかっただけでなく、平均して月に一人か二人の割合で多数の従業員が退職し始めたのです。六ヶ月以上働き続ける従業員はほとんどいませんでした。

 この管理方法がよい結果を生み出さなかっただけでなく、従業員の相次ぐ退職へとつながっていることに気づいた私は、この問題に対して無力感と孤独を覚えていました。その時点で私はこう考えざるを得ませんでした。私は一生懸命管理しているのに、なぜこんな結果になってしまったのか。私はすっかり途方に暮れてしまい、何をすべきかわかりませんでした。

 従業員への怒りの背後にある問題

 その後、私は神様の言葉を読みました。「人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い堕落した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、堕落した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は陰謀や詭計に満ちている。人間の堕落と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。」神の言葉を読んだあと、私が怒りを感じたときに必ずかっとなるのは、サタンの傲慢な性質に支配されているからだということ、それは単に自分自身の地位と名誉を守るためだということを、私はようやく理解しました。店長になったあと、自分が有能であることを証明し、社内でよいイメージを築こうと努力する中で、私は仕事のあらゆる面で従業員に厳しい要求を行ない、彼らがそれを満たせなければ、指導者としての立場から彼らに説教し、腹を立て、勝手気ままに彼らを叱責していたことに私は気づきました。私が腹を立てていたのは単に、従業員が基準に満たない仕事をした場合、自分が優秀な管理者であることを証明できず、社内で面目を失ってしまうからではなかったでしょうか。最初はその管理方法のおかげでいくつかのよい結果を残せましたが、それはまた私のスタッフを大いに締めつけ、彼らとの関係もすっかり冷え込んでしまいました。それは単に上司と部下の関係に過ぎず、私の部門で誰も働きたがらない事態に至ってしまったのです。そしてスーパーマーケットを運営するために同じ方法を用いたところ、従業員の大量離職につながってしまいました。スタッフを管理するために自分の堕落した性質に頼ることで、私の行なったことはすべてスタッフを傷つけ締めつけることになり、またスーパーマーケットの利益も損なうことになりました。私はキリスト教徒として、自分の行動は神を賛美し神の証しをするべきだと考え、自分の立場と利益だけを考えるべきではないと思いました。特に、自分の堕落した性質に頼って腹を立てたり他人を叱責してはならなかったのです。そして私は神に祈り、自分の個人的な野心と欲望を満たすのをやめ、自分のサタンの性質のためにスタッフを気まぐれに叱らない決意をしました。

 そのとき以来、従業員が何かを理解できなかったとき、私は辛抱強くそれを説明するよう努め、彼らの仕事に問題が発生したときは助言や手助けをするようにしました。ときには仕事ぶりがよくないのを自覚させることもまだありましたが、もはやそれについて叱ることはせず、間違いの結果を理解するようはっきり説明するだけにしたのです。いったんそれを理解すれば、彼らは喜んで改善を行ないます。しばらくそれを実行したところ、私とスタッフの関係はもはや緊張したものでなくなり、私は心がより自由になるのを感じました。

 他人を公平に扱う方法を学ぶ

 程なくして、私はもう一つの状況に見舞われました。新しい人物が店に雇われたのですが、彼女はさほど優れた能力の持ち主ではありませんでした。私が割り当てた仕事をうまくこなすことができず、何度も訓練を重ねたあとも、彼女は理解できなかっただけでなく、どうするべきか他の人達に訊こうとしなかったのです。私は苛立ちを覚え、こう考えました。「あんな様子で、彼女はどうして仕事を立派にこなせるようになるだろうか。彼女には辞めてもらったほうがいい。そうすれば面倒事が少なくなる」そうした考えが浮かんだとき、私は心から不安を覚えました。そこで神の御前に行って祈りました。「ああ、神様! 私はこの従業員にどうしても我慢できません。辞めてほしいと思っていますが、心から不安を感じています。どうすればよいかわかりません。どうかお導きください」

 後に私は教会の中で、自分の状態について妹に話しました。すると彼女は神の言葉の一節を読んでくれました。また別の言葉も読みました。その後、私は神様の言葉を読みました。「大きいものから小さいもの、そして微小なものまで、創造されたあらゆる生物には、d権威と力により造られなかったものは存在せず、それぞれの生物に固有の、生來の必要性と価値がある。あらゆる生物は、その形狀や構造の相違に関係なく、創造主の権威に従って存在するよう、創造主により造られている。」また「いのちの供給ための説教集」も読みました。「正しく他人と接することができるようになりなさい。つまり、他人を見上げても、また見下してもいけません。他の人が愚かだろうと賢かろうと、素質が優れていようと劣っていようと、金持ちだろうと貧乏だろうと、偏見を抱いて感情に頼ってはいけません。自分の好みを他人に押しつけてはいけませんし、ましてや自分の嫌いなことを他人に強いてはいけません。これは、誰かがしたくないことをその人に押しつけるということではありません。物事を行なうときは、自分に目を向けるだけではいけません。他の人にも目を向け、自分がどう配慮すれば他人のためになるかをもっと学ばなければなりません」。

 それから彼女は次の言葉をみんなと分かち合いました。「神様によって作られたすべてのものには、存在する必要性があります。誰もが自分の長所と固有の価値を持っています。私達一人一人は異なる環境で育ち、異なる能力を有していますが、私達はしかるべき方法で他人を扱い、その人の長所が何かを見いだすためにより多くのことを行ない、その長所を土台として彼らにふさわしい位置を見つける必要があります。丸い穴に四角い釘を打ち込もうとしてはいけません。私達自身の個人的な基準を土台として常に他人を扱ったり、物事を要求したりするのは公平ではなく、それは傲慢な性質から来ています。だから私達は、他人の欠点や短所により同情的で寛容になる必要があるのです。私達は愛の場所から他人を助けるべきです。それが私達の付き合いの中で公平さを達成する唯一の方法なのです」

 私は妹のこの言葉を聞いたあと、神は一人一人を異なるようにお造りになったこと、そして私達がみなそれぞれの長所を持っていることを理解しました。私は他人を見下してはならず、特に自分の要求を押しつけ、彼らにできない仕事を無理強いしてはならないのです。その代わりに、彼らの能力を土台としてふさわしい準備を行ないつつ、他人を尊敬し理解する方法をも学ばなければなりません。さらに彼らを助けるべく、自分にできることは何でもする必要があります。そして私は、あの従業員がまだその立場に長くおらず、それほどなじんでいなかったという事実を考えました。うまく仕事をこなせないのは無理もないことで、それを理解し、彼女にふさわしい仕事を用意すべきであり、あまりに多くのことを要求してはいけないのです。

 その後、私は実際の状況に従って、彼女に単純な仕事を与えました。しばらくそうしたあと、彼女は正直で素直なだけでなく、実に勤勉な働き手であることがわかりました。私が割り当てたことを残らず完了させるため、自分にできることは何でも行ない、ときには自分の仕事を終わらせたあとも、他人を助けようと手を差し伸べるのです。彼女の性格におけるこうした側面は、私自身が持っていないものでした。はじめは自分の傲慢な性質のために、私の基準に届いていないという理由で彼女の解雇を考えたことを思い出しましたが、私はそのせいで彼女が輝く場所を見ることができず、店は本当に素晴らしいスタッフを失っていたことでしょう。私は神の導きに感謝を捧げました!

 神の言葉に従って行なうとき、仕事はスムーズに進む

 それからというもの、私はもはや自分の傲慢な性質に頼らず、自分自身の基準を土台として従業員に厳しい要求をしないようになりました。そしてより多くの助言を行ない、どのように自分の仕事を進めるべきか教え始めました。時には従業員が仕事を完璧にこなせないこともありますが、努力を行ないベストを尽くす限り、私は彼らに同情的でいられました。私とスタッフの関係は徐々によくなり、ときにはジョークを交わしたりおしゃべりしたりしています。全員の間にこうした溝はなく、協力して仕事を進める中でより多くの暗黙の理解があるのです。

 数ヶ月後にマレーシアの主要な休日があり、私達は店に大量の商品を受け入れ始めました。私も業務の準備に忙しくなりました。しかし業務の進み具合が緩慢であることがわかり、このままだと在庫が積み上がってしまうのではないか、倉庫が満杯になってしまうのではないかと心配になりました。そうなれば深刻な問題です。私は不安を感じ始め、より素早く働くよう彼らを駆り立てるために、再び自分の堕落した性質に頼る衝動に駆られました。しかし同時に、自分のスタッフが息苦しさを覚えることも心配しました。そこで私は神に祈り、私の心を静めてくださるようお願いした上で、ふさわしい行動を探し求めました。いったん心が静まると、みんながそれぞれの個人的な長所を持っていることを思い出し、彼らが自分の役割をもっともよく果たせるよう、一人一人に最適な場所を用意した上で、適切な助言を与えるべきだと考えました。それを実行したところ、全員が自分の役割をよく果たし、在庫の処理も新しい商品の入荷に間に合ったのです。すべてのことがスムーズに進み、全員が自分の仕事により大きな自信を得ました。私も大いに安心しました。

 この経験を通じ、スタッフとの付き合いにおいて自分の堕落した性質に頼るなら、全員を締めつけるだけでなく、スーパーマーケットの利益も害することがわかりました。私が神の言葉を実行に移したところ、スタッフとの関係が改善しただけでなく、仕事も極めてスムーズに進んだのです。私はこのことから、神の言葉は自分がいかによい人であるべきかの基準であることに気づき、また神の言葉を実行に移すことで私の堕落した性質を変え、正しい人間らしさを生きられると知ったのです。さらに、神の言葉を実行に移すことで神の祝福と導きを得られ、内なる平和と喜びがもたらされることもわかりました。将来、私はさらに真理を追い求め、神の言葉を実行に移すでしょう!


家庭教育-クリスチャンはどのように子供の教育をするべきでしょう

2020-06-25 21:16:08 | 賛美の心

 子供の教育のことになると、どの親も自分の子どもが真の人生を送り、立派な人になることを期待するものです。しかし、私たちはクリスチャンとして、子供たちが人間の生活における真の道を歩むには、どのような教育をするべきなのでしょう?この問題について、一緒に真理に入れるよう探求しましょう。

 1.子供たちが神を信じ、神を礼拝するよう指導することは、避けられない親の責任である。

 私たちクリスチャンは誰もが神は存在する、神がこの世を創造なされた、そしてすべてのものは神の主権の下で生存すると信じています。全ての人の将来と運命も神によって制御されており、人々は最終決定権を持てません。私たちは、神を信じ、神を礼拝するよう子供たちを指導するのか、それとも、子供たちが評判、地位、そして世界の将来を追い求めることを許可するかということを、神の信者としてどのように選択するべきなのでしょうか?私たちの選択は、私たちが神を信仰する中でどのような道を歩んでいるのかを明らかにするだけでなく、私たちの子どもたちの将来と運命にも関係します。今は既に終わりの日である故に、暗く古い時代はすぐに幕を閉じ、神を心から信じ、真理を追い求めている者たちのみが生き残ります。私たちはこれをはっきりと知っておかなければなりません。私たちは、神を信仰する中で、子供たちを神の前に導くことに焦点を置かず、子供たちが立派な人に成長することを期待しているとしたら、それは神の御心に沿っているでしょうか?私たちがそうすることは、愛でしょうか、それとも彼らを傷つけているのでしょうか?

 神はこう仰っておられます:「あなたは自分の肩にある荷の重さ、使命、責任などを理解しているだろうか … 神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。」

 神の御言葉から、神の御心が分かります。私たちは神の前に来たが故に、この世の堕落と悪をはっきりと目にしています。しかし、暗闇でもがく人々は依然として数えきれないほど存在しており、私たちの子どもたちも例外ではありません。この世のトレンドに誘惑され、騙されている子供たちはネットカフェで時間を全て費やし、若くして恋に落ち、自己顕示等をしているのです。彼らはサタンによる策略と堕落の中を生きていながら、全くそれに気付いていません。従って、私たちは、神の働きの証言をして、神は天と地と万物の支配者であること、神が万物と人類を創造なさったこと、サタンがどのようにして人類を堕落させ、神がどのようにして人間をお救いになるかを彼らに知らせる責任があります。こうすると、彼らは肯定的な事と否定的な事が分かるようになり、世の邪悪なトレンドを識別し、それぞれの人生で正しい方向性を築き上げることができるようになるのです。

 ノアが箱舟を建てた時のことを思い出します。彼は神のお召しと任務を受け入れて神の御心に従いそれを建てただけでなく、自分の子供たちを一緒にやるよう導き、彼らを神の前に導く努力もしました。ついに、ノアの8人家族は箱舟の中に入り、洪水を生き延びました。ノアは父の本分を果たしたので下。私たちは、神を心から信じるクリスチャンとしてノアの例に倣い、私たちの子供たちを神の前に導くべきであります。私たちは神を信仰する道を歩んでいながら、子供たちがサタンの道を歩み、世の邪悪なトレンドを追いかけることを許していたとしたら、子供たちが神を信仰し、神の御救いを受ける機会を台無しにしてしまい、最終的には自分たちの責任を果たせなかったことを一生後悔することになるでしょう。

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 2.神の御言葉と真理をもって人生の正しい道を歩むよう子供たちに指導しましょう

 実際、両親の多くは、自分の子供たちが神を信じ、礼拝し、人生の正しい道を歩むように指導したいと思っています。しかし、彼らは真理をほとんど知らないため、神を信じることの意味や人類がサタンに堕落させられているという真理を十分に語ることができず、子供たちを完全に確信させることができません。これ故に、彼らは自分の子供たちを神に導くことができないのです。

 初めに、私たちは神を信じ、神に従いました。それは、私たちは神の御言葉には権威と力があり、それは誰も表すことができないものであると知った時、神に征服されたからでした。従って、子供たちに神の前に行くように教育するには、私たちは神の御言葉をもっと読むよう子供たちを指導し、真理を用いて彼らの心に触れるべきなのです。そして、私たちは、神は人類を征服し、救ってくださるという事実を子供たちが完全に確信できるようにしてあげるべきなのです。

 これは主イエス様に従ったペテロの経験と同じです。彼は主イエス様の御言葉の権威と力を耳にし、その御言葉は普通の人間が話せるものではないと感じ、そして主の起こされた奇跡は人間が起こせるものではないと知りました。こうして、彼は何の躊躇もせず、全てを捨てて主イエス様に従いました。これ故に、私たちは子供たちにもっと神の御言葉を読み、神を信仰するのは良いことだと単に言葉で伝えるのではなく、神の働きの証言をするべきなのです。それに加え、私たちは実体験をもって神の御業の証言をすることもできます。私たちは、それぞれが神を信仰する生活の中で神の御気遣いと御加護を体験しています。災害の中で神に驚くような形で守っていただき、神の全能さと人間に対する愛を知った人がいれば、神の御言葉による御啓示と御導きの下で自分の堕落した本質を知り、誤まった道から立ち返り、神を信仰する正しい道を歩んだ人などもいます。これら全てが私たちの子供たちを神の前に導く教育および指導方法であります。

 3.子供たちが真理を理解し人生の正しい道を歩むために、実際の知識を学ぶことを教えましょう

 今は科学とテクノロジーが急速に発展する時代です。誰もが知識を深めることで社会で生きていくための足掛かりをつかむことを望み、両親はそれぞれの子供たちが成功を収め、目覚ましい功績を立て、家族に名声をもたらすことを期待します。しかし、私たちは神の信者として、知識を深めることや人の上を行くことは真の人生ではなく、真理を得ることが最も大切なことであると知っています。それは聖書にこう記されています:「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。」(箴言9:10)「知恵を求めて得る人、悟りを得る人はさいわいである。知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、その利益は精金よりも良いからである。知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物も、これと比べるに足りない。」 (箴言3:13-15)。 上述の聖句の中で触れている智恵と理解は明らかに、私たち神の信者は神を知ることになり、神の称賛と祝福を授かることを意味しています。神を喜ばせ、かつ神に祝福されることは、神の御言葉を読み、真理を理解するために実際の知識を学ぶこと、持つエネルギーの一部を神の証言をすること、そして神の福音を伝導することに打ち込むこと、そしてキリストに従って人生の正しい道を歩むことです。

 主イエス様の弟子であったペテロは文化に関する深い知識は持っておらず、他人の上に行こうともしませんでした。代わりに、彼は人生を通して真理を追い求め、主の道に従い、主のために労力を費やしました。彼は世俗的な富を手にすることはありませんでしたが、主イエス様から好意的に評価されたことで天からの栄光を授かり、主は彼に天国への鍵を与えたのでした。これに反し、世の中で名声と地位を得るために他人の上を行き、先祖に名誉をもたらし、盲目に知識を深めるよう子供たちを教育してしまったら、私たちはとんでもない愚か者になるのです。神はこう仰っておられます:「人間は、神を知り、真理を備えいる場合のみ、光の中で生きる。また人間は、自分の世界観と人生観が変わった場合のみ、その者は根本的に変化する。その者に人生の目標があり、真理に従って行動し、神に対して完全に服従して神の御言葉に従って生活し、確信し、照らされていることを霊の深遠で感じ、自分の心に闇が無く、神の御前で完全に自由に、かつ制限されること無く生きて初めて、その者は真の人間の生活を送り⋯」

 私たちは、真理を理解し、真理を修得し、真理に従って振る舞う時、初めて真の人生を手にできるということが分かります。地位がどれだけ高くても、知識がどれだけ豊富にあっても、それは私たちに真の人生をもたらすことはできないのです。神が終わりの日にこの邪悪で堕落した世の中を終わらせる時、お金、名声、富、地位、そしてその他いずれの世俗的な物も災害の中で価値の無いものと化すでしょう。これ故に、私たちクリスチャンは、自分たちの子供が成功を収めるという夢が叶ったとしても、その結末は中身の無いものであるということをはっきりと知っておかなければなりません。私たちは子供たちが神を信仰し、真理を追い求める人生の正しい道を歩み、そして神の称賛と祝福を得られるように、実際の知識を学ぶことを教えるべきであり、それこそが真の、そして永遠の栄光なのです。

 上述したことを実践する3つのアプローチについて交流することで、私たち全員が人生の正しい道を歩むことの理解と、それを子供たちに教える方法を修得することができると思います。この交流を用意してくださった神に感謝します。

 


聖書の中の災いの前に携挙されるとは何を指しているでしょうか

2020-06-24 19:53:29 | 賛美の心

 信仰ステーションの兄弟姉妹:

 私たちはいま終わりの日の最終段階にいますが、あらゆる種類の災害がますます大規模になっているという報道を目にしました。災いの前に自分が携挙されるかどうか、災いの前に自分が勝利者にされるかどうかは、私にとって鍵を握る問題です。何があろうとも主の御名を守り、主のために一生懸命働き、いかなる艱難に遭っても後戻りしない限り私たちは勝利者になれるというのが、これら二つの問題に対する私の意見です。そうすれば災いが訪れたとき、私たちは空中に引き上げられて主にお会いし、主のお約束を享受できるのです。しかし中には私の意見に疑問を投げかける人がいて、あんなことやこんなことをいまや成し遂げた人がいるとか、さらには、災いは大規模になりつつあって多種多様な災害がすでに降りかかっているけれど、いまだに誰一人として空中に携挙されるのを目撃されていない、などと言っています。携挙されるというのは、本当に空中へと携挙されることを意味しているのでしょうか。それに勝利者にされるというのは、これらのことを成し遂げるだけでいいほど単純なものなのでしょうか。私にはそれがまったくわからず、あなたの意見を伺いたいと思います。お返事お待ちしています。

 ショウギョウ

聖書の中の災いの前に携挙されるとは何を指しているでしょうか

 ショウギョウ姉妹:

 自分が完全には理解していない問題について追求したり話し合ったりできることは、神様の御心にかなっています。主に感謝いたします。

 災いの前に携挙されるかどうか、災いの前に勝利者にされるかどうかは、私たちが天国に入れるかどうかに直接関係しています。しかし、最後に勝利者につくられ、天国へ携挙されることを望むなら、まずは携挙されることが一体どういうことなのか、勝利者につくられるとはどういうことなのかを理解しなくてはなりません。それを話し合うため、この二つの問題を以下のように分けました。神様が私たちを導いてくださいますように。

 1.「災いの前に携挙される」ことは何を意味するのか

 災いの前に携挙されることが何を意味するのかを理解したければ、まずは携挙されることが何を意味するのかを知らなければなりません。携挙されるというのは、主がお戻りになるとき、私たちを空中に引き上げて主に会わせてくださることだと考える人がいます。それは(テサロニケ人への第一の手紙第4章17節)でパウロがこう述べたからです。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」しかしこれは主が意図なされたことでしょうか。この言葉はパウロ自身が言ったに過ぎず、主イエスがそうおっしゃったのでもなければ、聖霊がそのような証しをしたわけでもないので、主の意図を表わしていることはありえません。私たち全員が知っているとおり、はじめに神様は土を使って地上に人類をお作りになり、ご自身が地上にお作りになったすべてのものを管理させるとともに、ご自身を崇拝して讃えるようお命じになりました。さらに神様ははるか昔、自分は地上に神の国を築いて人間とともに地上にとどまり、世の国々はすべてキリストによって統治される国になるとはっきり告げられました。それは黙示録で次のように預言されているとおりです。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして…」(ヨハネの黙示録21:3)「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(ヨハネの黙示録11:15)したがって主はお戻りになるとき、人々を空中に引き上げて主に会わせてくださるのではなく、地上に御国をお築きになるのです。神様が私たちに用意してくださった終着点は地上にあるからです。さらに、もし私たちが空中に引き上げられたとしても、そこで生き延びることはできないはずです。ゆえに、携挙されるとは天に携挙されることだという考えは、真理とも神様の働きの事実とも合致していません。それは私たちの観念と想像の産物に過ぎず、行きすぎた願望なのです。

 では、携挙されるとは何を意味するのでしょうか。ここで神様の御言葉の一節を読みましょう。そうすれば理解できます。それは次の一節です。「引き上げられる」とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。「引き上げられる」とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に携挙されるだろう。」

 この一節から、引き上げられるとは低い場所から高い場所へと引き上げられることを意味するのではなく、むしろ神様によって予め定められ、選ばれた人を指していることがはっきりとわかります。予め定められるとは、時代に先立ち救いを獲得するよう神様によって予定された人を指し、選ばれるとは、神様の足跡に従い、神様の御前に出てその新しい働きを受け入れられるよう予定されている人を指しています。それが引き上げられることの意味です。私たちがよく知っているとおり、律法の時代の末期、主イエスは新段階の働きをなさるべく来られました。当時、ペテロ、ヨハネ、マタイ、ヤコブなどはみな主イエスの宣べ伝える説教を聞いたので、律法を捨てて主に従い、かくして神様の御前に引き上げられました。同じく主イエスは、自分は終わりの日に戻り、人間のあいだに来て彼らを救うべく言葉を話し働きを行なうとおっしゃいました。それは主イエスがこうおっしゃったとおりです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16:12~13)「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書12:48)「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」(ヨハネの黙示録20:12)以上の御言葉から、主イエスは終わりの日にお戻りになるとき、私たちにおっしゃるべきことがまだたくさんあり、ご自身の御言葉を表現して裁きの働きをなさることがはっきりわかります。私たちは神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れることでのみ、本当に神様の御前へと携挙されることができるのです。

 したがって、その言葉が暗示するとおり、災いの前に携挙されるとは、大いなる災いの前に神様が人の姿をとって再びこの世界へ来られ、行なうべき働きをなさること、そしてそのときに主のお戻りを喜んでお迎えすることでのみ、私たちは災いの前に携挙されるということを意味しています。
ここまで、災いの前に携挙されることが何を意味するのかを話し合いました。次は災いの前に勝利者にされることが何を意味するのかを話し合いましょう。

 2.「災いの前に勝利者にされる」とは何を意味するのか

 災いの前に勝利者にされることが何を意味するのかを理解する前に、まずは勝利者とは何かを理解する必要があります。それは文字どおり、勝利する人たちの集団です。神様を信じる人全員が知っているとおり、サタンは神様の敵であり、ゆえに私たちは勝利しなければなりませんが、そのことは間違いなく、私たちがサタンに勝利しなければならないことを意味しています。したがって、勝利者とはサタンに勝利する人たちの集団を指しています。しかしサタンに勝利するとは何を意味するのでしょうか。私たちの祖先アダムとエバがサタンに誘惑されて以来、人類はずっと罪の中で生き、傲慢、うぬぼれ、利己心、卑劣、不正、欺瞞といったありとあらゆる堕落した性質で満たされてきました。私たち一人ひとりは残らずそれらに束縛され、そのような害毒に頼って生きていると言えます。したがって、サタンに勝利するとはサタンの束縛や足かせを振り払い、私たちをむしばむサタン的な害毒を完全に取り除き、もはやそれらによって生きることがなく、その代わりに神様の御言葉を聞いてそれによって生きることができるという意味です。そのようにして私たちは勝利者と呼ばれることができ、私たちの罪が真に清められるとともに、光の中で生きて神様のお恵みにふさわしくなれるのです。それは黙示録に記されているとおりです。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(ヨハネの黙示録7:14)「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(ヨハネの黙示録22:14)「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない」(ヨハネの黙示録3:12)「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(ヨハネの黙示録21:7)「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」(ヨハネの黙示録14:4~5)また神様の御言葉は次のように述べられています。「災害の前に完全にされる者たちは神に従順である。彼らはキリストに拠り頼んで生活し、キリストを証しし、キリストを崇める。彼らは勝利した男児たちであり、キリストの良き兵士たちである。」

 これらの御言葉から、勝利者とは大いなる艱難を乗り越える人だということがわかります。そのような人たちは神様の御言葉の裁きを経験し、自分の堕落した性質がすっかり清められ、神様への服従という現実を自分のものにしており、神様の国に入って神様のお約束を享受します。言い換えると、勝利者になることは主への信仰において苦しんだり、代償を払ったり、主の御名を守ったりできることでも、艱難が生じたときに後戻りしないことでもありません。そうではなく、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れ、自分の罪を清めていただくことを意味しているのです。しかし私たちの現在の汚れと堕落のうち、どのくらいが清められたでしょう。私たちはいまだに傲慢、うぬぼれ、利己心、卑劣、不正、欺瞞といった、自分の堕落した性質をまったく取り除いていません。神様が祝福してくださるときは神様に服従できますが、好ましくないことが起きると思わず神様を責めかねません。自分よりも見事に説教を行なえる人を見ると、その人に対する嫉妬と憎悪が自分の中に生じます。自分の利益に関する出来事があると、不正に走り正直でなくなることがあります。これらはいくつかの例に過ぎません。したがって、災いの前に携挙され、勝利者にされることを望むなら、災いが訪れる前に神様による終わりの日の働きを受け入れ、神様の御言葉の裁きと刑罰を経験し、サタンの堕落した性質を残らず振り払い、神様の御言葉によって生き、キリストを讃え、万事においてキリストの証しをし、神様に従い神様を崇拝しなければなりません。そうして初めて、神様によって勝利者にされたと考えられるとともに、神様のお約束を受け継いで神様の国に入る資格を得るのです。

 ショウギョウ姉妹、「災いの前に携挙される」「災いの前に勝利者にされる」とはどういう意味かについて、ここまで交わって、あなたは少し理解できたでしょう。しかし、本当に災いの前に神様によって勝利者にされたいなら、より多くの真理を理解することが必要です。例えば、いったいどのように主イエスの再来を迎えれば、災いの前に携挙されるか、どのように神様の終わりの働きを経験すれば、神様によって勝利者にされるかなどです。もしあなたはさらに尋ね求めて理解したいなら、私たちに連絡して一緒に探求し交流することができ、或いは私たちとオンラインで交流することもできます。

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