神の御言葉による答え:
祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段であり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊の無い死んだ者であると言える。それは、彼らには神によって心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りが無ければ、彼らは正常な霊的生活を実現できず、まして、聖霊の働きに従うことなどできない。祈りが無ければ、彼らは神との関係を絶ち切り、神の承認を得ることが出来ない。神を信じる者として、あなたが祈れば祈るほど、神によって触れられることも多くなる。このような人々にはより強い決意があり、神から最新の啓きをもっと受けることができる。その結果このような人々だけが、最も早く聖霊によって完全にされ得るのだ。
「祈りの実践について」より
わたしは言葉を話し終えたというのに、人々はまだ充分理解していない。これは彼らが資質に欠けているからである。この問題は教会生活とお互いの交わりによって解決することができる。
「実践(1)」より
神がいつも語っているのを見て、神の言葉に飽き、言葉を読んでも読まなくても結果は同じだと考える人がいる。それは正常な状態ではない。そうした人の心は現実に入ることを渇望しておらず、そうした人は完全にされることを渇望せず、重要視もしない。自分が神の言葉に渇いていないことに気づくときはいつでも、あなたの状態が正常でないことを表している。…だから、どのような状態でも、忙しかろうと、そうでなかろうと、困難な状況にあろうと、そうでなかろうと、試練を受けていようといまいと、神の言葉を飲み食いしなければならない。結局のところ、神の言葉が人間存在の基なのだ。誰一人、神の言葉から離れることはできない。神の言葉を一日三度の食事のようにとらなければいけない。神に完全にしてもらい、神のものとされることは、そんなに単純なことなのだろうか。今あなたが理解しているか、あるいは、神の働きについて悟っているかどうかにかかわらず、神の言葉をもっと飲み食いしなければいけない。これが積極的に成長するということだ。神の言葉を読んだ後で、成長できることを急いで実践しなさい。そして、できないことはそのままにしておきなさい。…神の言葉を疎かにし、神の言葉に対していつも別の姿勢、つまり不注意で、神の言葉を読むかどうかは大差はないと信じている者は、現実を得ていない。聖霊の働きも、神による啓きも、そういう人たちの内には見ることができない。そうした人たちは、ただなりゆきにまかせているだけで、荘子の寓話に登場する[a]南郭氏のように、本物の資格もないのに、そのふりをしているだけだ。
……
神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければいけない。それだけが神を信じるということなのだ。神を信じると言いながら、神の言葉について何も話せず、実践できないのなら、その人は、神を信じているとは見なされない。それは「飢えを満たすためにパンを求め」ているのだ。つまらない証しや無益な事がら、表面的な事がらだけを話して、現実的には何も得ていないならば、それは神への信仰ではない。そのようであるなら、[b]あなたは神を信じる正しい道を理解していない。なぜ神の言葉をもっと飲み食いしなければいけないのか。神の言葉を飲み食いすることなく天に昇ることだけを求めるのは、信じていると言えるだろうか。神を信じる者の第一歩は何か。神はどのような道を経て人間を完全にするのか。神の言葉を飲み食いすることなく完全にされるものだろうか。神の言葉を現実として持っていない者が、神の国の民とみなされるだろうか。神を信じるとは、正確にはどういうことなのか。神を信じる者は、少なくとも外に対しては、よい行いをしなければいけないが、最も大事なことは、神の言葉を自分のものとしているということだ。どんな事情があろうと、決して神の言葉を離れることはできない。神についての認識と、神の心の成就はすべて、神の言葉によって成し遂げられる。すべての国家、分派、宗派、領域は、将来、言葉によって征服されるだろう。神が直接話をし、すべての人は神の言葉をその手につかむ。それによって、人々は完全にされる。神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人々は神の言葉を内に抱き、神の言葉を語り、神の言葉のままに実践する。内面も外面も、人々は神の言葉に満たされ、そして人間は完全なものとされる。神の心を実践し、神の証人になれる者たちは神の言葉を現実のものとして得ている者たちである。
言葉の時代、つまり、千年神の国の時代に入ることが、今達成されつつある働きである。今からは、神の言葉についての交流を行いなさい。神の言葉を飲み食いし、実践することによってのみ、あなたは神の言葉を示すことができる。経験からくる言葉によってだけ、他の人々はあなたの言うことを信じるようになる。神の言葉をもたないのなら、誰も信じさせることはできない。神に用いられる者は、神の言葉を語れる。できないのなら、それは、聖霊があなたの内に働いておらず、あなたはまだ完全にされていないということだ。これが神の言葉の重要性である。あなたの心には、神の言葉への渇きがあるだろうか。神の言葉への渇きを覚える者は、真理に渇き、そうした人々だけが、神の祝福を受ける。将来、神はあらゆる宗派・教派にもっと多くを語るだろう。神はまず、あなたがたの間で言葉を述べて、あなたがたを完全にする。その後で、異邦人たちに語り、彼らを征服する。言葉により、すべての人は心から完全に確信する。神の言葉と啓示とにより、人間の堕落した性質は消えていく。みな人間の姿になり、人間の反抗的な性質もまた減じる。言葉は権威をもって人間に働き、神の光の中で人間を征服する。神がこの時代になす働きは、神の働きの転機同様、すべて神の言葉の中にある。神の言葉を読まないなら、あなたは何も理解しない。自ら神の言葉を飲み食いし、兄弟姉妹との交わり、実際の体験を通じて、神の言葉についての認識は包括的なものとなる。そのようにしてはじめて、実際に神の言葉を生きることができる。
「神の国の時代は言葉の時代」より
人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な薬であり、糧であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。…したがって、あなたは、真理を携えてどこへでも行けるが、自分の内に一つの真理もないなら、宗教的人間はおろか、あなたの家族を説得しようなどと思ってはならない。真理無しでは、あなたはひらひらと舞う雪のようであるが、真理があれば、幸福で自由になることができ、あなたを攻撃できる者は一人もいない。理論がいかに強力でも、それは真理に打ち勝つことができない。真理があれば、世界そのものを揺るがし、山や海をも動かすことができるが、一方真理の無いところには、うじ虫による腐敗がもたらされる。それは事実にほかならない。
「真理を理解したらそれを実行せよ」より
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