教会は荒廃し、私は主の再臨を予期しました
私は16歳の時、主の信仰を始めました。当時、私は教会に足を運ぶ度に心がとても穏やかになりました。特に、神を称賛する讃美歌を耳にした時は喜びを感じ、主の愛情にしばしば感動させられていました。これ故に、私は両親からどのように妨げされても教会に通い続けたのです。聖書を読んでいると、神は人類を救うためにたくさんの働きをなされ、更に、神は私たちを罪から贖うために、自ら十字架に釘付けにされて罪の捧げものになられたということを、私は少しずつ理解していきました。そして、主イエス様は終わりの日に再臨されて私たちを天国に引き上げてくださるとお約束されたのです。従って、私の信仰はさらに厚くなり、私は神に必ずついて行こうと決心しました。
私は大人になった後、熱意をもって真理を追い求め、積極的に教会の事務業務を担い、さまざまな教会の活動をまとめ、積極的に兄弟姉妹たちに仕えました。私は毎日仕事を終えて、夜になると教会に行き、しばらく聖書を読んでから家に帰っていました。なぜなら、私は聖書のみが私の生活の備えであり、真理の全てが聖書に書かれており、そして、その御言葉は私の足元のランプであり、私の道を照らす光であると、固く信じていたからです。これ故に、私は聖書を読み、祈り、仕えるということを貫き、心の中ではとても平安で豊かな気持ちがしていました。
知らぬうちに、教会の状態は日に日に悪化していきました。兄弟姉妹の多くは消極的になり、薄弱していき、集会に参加しなくなる人たちまでいました。牧師たちも毎回聖書の節を文字通りの意味で繰り返し宣教しているだけでした。さらに、彼らは兄弟姉妹たちの抱える困難を解決することもできませんでした。また、私は備えを得ることができず、魂が干からびてしまい、主の御前で感じる喜びと平安も感じなくなりました。次第に、主を礼拝するための集会も単なる儀式と化してしまいました。当時、私は頻繁に主に祈り、信仰と力を与えてくださるよう請いました。しかし、私はどのように祈りを捧げても、以前のように主を切望し、探求する気力を奮い起こすことはできませんでした。私は主が早く来てくださり、主がおられないこの悲観的で意思薄弱な生活から私が抜け出せるようにしてくださることを、ただ期待するだけでした。
自分の観念に固執した私は終わりの日の全能神の働きを拒否してしまいました
2017年6月、私と友人は用事があって外に出かけた時、主のある信者と出会いました。共通の話題を持っていた私たちはとてもいい会話ができました。教会の荒廃について話し合った時、彼はこう言いました、「それは神が既に恵みの時代の教会を去っておられるからですよ。今は全能神として受肉されています。全能神は人間の中にお戻りになり、真理を語られ、人類を裁き清める終わりの日の働きをされており、聖霊の働きも全てこの段階の働きに移行しているんですよ。律法の時代末期に主イエス様が新たな働きをされたのと同じです。聖霊は神殿を去り、神殿は荒廃しました。当時、主イエス様に従った者たちだけが聖霊の働きを受けることができました。今も同様に、私たちは終わりの日の全能神の働きについてのみ聖霊の働きを受けて、いのちの備えを得ることができるのです。反対に、終わりの日の全能神の働きを拒否する者たちは闇に沈んで行くのです。これは聖書に書かれたこの預言を正確に成就しています、『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。』」 (アモス書 4:7)。彼の言葉は全て聖書の内容に沿っており、私の心は即座に啓発された気分になりました。私は絶えず切望し、心底待ちわびていた主が既にお戻りになっておられるとは思ってもいませんでした。私は興奮が込み上げてくるのを感じ、全能神の働きが何を意味しているのかを彼に聞きたくなりました。その時、彼はカバンからある書籍を取り出して、私にそれを手渡しました。彼はその書籍に書かれた御言葉は神が終わりに日に語られた真理だと言いました。そして、それらは私の混乱を全て解消してくださったのです。彼は全能神の働きを調査することを私たちに勧めました。
私は『小羊が開いた巻物』と題された書籍を手にしました。私は思わず驚いて、心の中でこう思いました。「こんな書籍は見たことがないわ。ヨハネの黙示録には終わりの日にある巻き物が開かれるという預言がされているけれど、この書籍に書かれた言葉が神の御言葉だなんてことがあり得るのかしら?神の御言葉は聖書にしか記録されていないのに、聖書以外に神の御言葉を記録したものが存在し得るの?主の御言葉は全て聖書の中にあって、聖書から逸脱している、またはその範囲を超えているものは主の道から外れていて、異端であると、牧師たちはよく口にしているのに。」その時、私は、終わりの日にはありとあらゆる形の異端が生まれ、それらから自分たちを守る最適な方法は他の宣教に目をやらず、耳を傾けず、それと接触しないことだと牧師たちがいつも言っていたのを突然思い出しました。こう考えた私は無意識のうちに心の中で葛藤し、この兄弟を警戒して、これ以上彼の言うことを聞きたくなくなってしまったのです。しかし、私の友人は彼の話しと証言はとても良いと思い、彼からもらった書籍を読むことにした上に、全能神教会に行って調査する気にまでなっていました。私は彼女の反応を見て驚き、こう思いました:「どうしてそんな簡単に彼に同意できるの?聖書以外には神の御言葉は存在しないということを忘れてしまったのかしら?」私は彼女が調査するのを止めようとしました。しかし、失敗に終わったどころか、彼女は私に調査するよう説得しようとしたのです。彼女は20年以上も主を信仰してきて、聖書をよく理解し、信仰において自分自身の考えを持った上で調査することを決意したんだと私は考え、もうそれ以上は何も言いませんでした。結局、誰にでも選択の自由があるのです。
それ以降、私の友人は終わりの日の全能神の働きを調査し始めました。時に、彼女は私にあの書籍から得た光について話し、その書籍を読むよう勧めてきました。しかし、私は、神の御言葉は聖書の中にあり、それ以外に神の御言葉は存在しないと牧師たちが何度も口にしていたことを思い出したとたんに、「もう勧めてこないでください。あなたはあなたの全能神を信仰して、私は私の主イエス様を信仰します」、と頑なに彼女に言っていました。このように、私は頑固に自分の態度を変えず、依然として主の道を支持していると勘違いしていたのです。
自らを解き放し、虚心に探求しました
この後すぐのある日、私は以前一緒に働いていた同僚とバスの中で偶然出会いました。私たちは良い友人でした。彼女は私を見たとたん、興奮してこう言ったのです、「いい知らせがあるのよ!聖霊の働きが宿った教会を見つけたの。そこの宣教は素晴らしいのよ。彼らの説教を聞いたら、長年信仰しながら抱いていた困惑が解決して、たくさんの真理と奥義を理解することができたの。あなたに時間のある時があれば、私たちの教会に連れていってあげるわ。」彼女の言葉を聞いた私はそれを軽く受け止めてこう考えました。「今ほとんどの教会は同じ状況にあるというのに。牧師たちは宣教することが何もないし、信者も魂が薄弱になっているような状態よ。その教会が素晴らしいと言っても、一体どれだけ素晴らしいと言うのかしら?」しかし、エネルギーと活気であふれそうになっている彼女を見ていると、彼女がどの教会に行っているのかを知りたくならずにはいられませんでした。私は自宅に戻った後も、これについてじっくりと考えました。私は彼女の信仰は私のとは確実に違うと思いました。そして、私はどの教会に行っているのかと聞かずにはいられなくなって彼女にメッセージを送ると、彼女はこう返事したのです、「全能神教会ですよ。」私はびっくりして、こう思いました:「全能神教会には本当に真理があるということなの?どうして私の友達はこんなに大勢が全能神を信仰しているのかしら?これは神が私に終わりの日の全能神の働きを調査するように促しているってことなの?私が固持している考えは間違っているの?一体何が起こっているのかしら?」そしてすぐに、私は主に祈りを捧げ、主の応答を待ちました。
その後、私の友人はまた全能神教会の話をしてくれました。当時彼女は全能神教会の御言葉を読んで、教会が荒廃する根源、偽羊飼いとは何か、宗教団体の詐欺師とは何か、終わりの日の全能神の働きがどのようにしてヨハネの黙示録に書かれた預言を成就させ、成し遂げるのか等、真理の奥義を幾つか理解することができたと言いました。私たちは終わりの日の神の働きを体験し、神の御言葉による裁きと刑罰を受け入れてのみ、自分たちの堕落した性質から少しずつ解放され、心から神を恐れ、神に従う人となり、そうすることが神とご対面して、神の御約束を受ける資格を得る唯一の方法だとも彼女は言ったのです。彼女の話を聞いた後、私はそれは筋が通っていると考えた上に、全能神を信仰するようになってから沢山の真理を理解できるようになった彼女を羨ましく思いました。なので、私は全能神教会を調査することにしたのです。
地上でより偉大なのは神と聖書のどちらでしょう
その翌日、私の友人は私と交流するために全能神教会の兄弟姉妹を招待してくれました。私たちが顔を合わせた後、チェン兄弟は、「何でも困惑していることがあれば話してください。一緒に探求して交流し合いましょう」、と言ってくれました。
私は言いました、「兄弟、私は聖書に書かれているもの以外に神の御言葉は存在しない、そして神の御言葉は聖書にのみあると思っています。聖書に反する、もしくはその範囲を超えるものは全て異端です。しかし、どうしてあなたはこの書籍に書かれた言葉が神の御言葉だと言うのですか?」
チェン兄弟は辛抱強く私の言い分を聞いてから笑顔でこう言いました、「姉妹、2つ質問をさせてください。神と聖書、どちらが先に来たと思いますか?それと、神と聖書はどちらの方が偉大だと思いますか?」私はこの質問を聞いてとても不思議で奇抜だと感じました。なぜなら、私はこれまでの信仰の中で、牧師や長老がこんな質問をするのを聞いたことがなかったからです。
私は思わず、「もちろん、神が先で、神の方が偉大です」、と言いました。
チェン兄弟はこう言いました、「その通りです。神の御言葉と働きが先で、それから聖書です。聖書に記録されているのは単にかつて神が仰せられた御言葉と神がかつてなされた働きなのです。しかし、私たちは、聖書を神より偉大なものとしてとらえ、神の働きがその範囲を超えることを認めず、神の御言葉はその全てが聖書の中に記されていて、その範囲を超えるものはいずれも異端だと考えているのです。実は、こういった観点は間違っています。主イエス様が働きをしに来られた時も同じでした。主は人々に説教を宣べ伝えられ、彼らが各々の罪を告白して悔い改めることができるようにされ、人々に自分を愛するように他人を愛し、敵を愛し、他人を何度でも許すよう教えられ、そして安息日に人々を癒されました。こういった主イエス様の御言葉と働きは旧約聖書には記されておらず、それらは「目には目を, 歯には歯を」、「罪を犯したら神に罪の捧げものをしなければならない」、そして 「安息日に働いてはならない」 という人類に課された神の律法と戒めに則したものではありませんでした。当時の人々の目には主イエス様の働きも聖書の範囲を超えるものとして映りました。でも、主イエス様の働きが異端であったなどと言えるでしょうか?もちろん、それは不当です。当時、ユダヤ教のパリサイ人たちは主イエス様の御言葉と働きが旧約聖書にあるものでないとみなし、全力で主に抵抗し、主を非難し、最後には主を十字架に釘付けにしてしまいました。実は、神は至高の神であり、神の働きは常に新しいもので、決して古くありません。神は決して聖書の内容に沿って、また聖書の内容を参照にしながら働きをされることはなく、信者たちを導く道を聖書の中で探すなどということはなおさらされません。むしろ、神は新たな働きをされ、人間に聖書を超えた新たな道をお与えくださります。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのです。神は間違いなく聖書を超えて、神御自身のご計画とその時に人類が必要とするものに基づいて新たな働きをする権利をお持ちです。私たちが自分たちの観念と想像に従って神の働きと御言葉を聖書に制限して構わないはずがありません。聖書に記されている以外の御言葉と働きを神が仰せられたり、実行されることは決してないなど、私たちが言えるはずがないのです。」続く…
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