ある日、わたしはこういう物語を読みました。一人の豪商はポスターを貼って、皆さんにこう教えました。だれでも某日午前9時から12時までに彼の会社に来るなら、彼はその者のために借金を完済すると。しかしその日になったら、町の多くの人はやじ馬見物をするが、誰一人彼の会社に入りませんでした。11時頃になってはじめて、ある人は試してみようという気持ちで豪商のオフィスに入りました。彼が自分の借用証書を豪商に渡した後、豪商はすぐ彼の借金の額と同額の小切手を与えました。その後、また二人の人が来ました。彼らはみな借金の額と同額の小切手を得て、債務を償還しました。ほかの人は豪商の言うことが本当だと見た時、借用証書を取りに家に戻ったところで、間に合いません。もう12時過ぎているからです。この時、彼らは非常に後悔したが、もう遅すぎるのです。
この物語を読んだ後、わたしはいろいろ考えました。仮にわたしたちが同じようなことに会ったら、わたしたちはどのように選択するでしょう。機会を逃さずにとらえることができますか。多くの人は「本当にこのようなことに会ったら、わたしたちはきっと機会を逃さない」と言うでしょう。だが事実は本当にそうですか。実は、このようなことが起こったとしても、わたしたちはそれを信じて機会をとらえることができるとは限りません。あの時の主イエスの働きを思い起してください。主イエスが来て働かれた時、多くの人は主イエスが働いていると聞いたのではありませんか。しかも、彼らは主イエスの行われたしるしと奇跡、例えば、五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させること、風と海を静めること、目の見えない者が見えるようにすること、耳の聞こえない者が聞こえるようにすること、死人を復活させることなどを見ました。だが、主イエスの行われたこれらのことを聞いた後、主イエスがメシアであることを本当に信じる人は何人いましたか。当時、主イエスに従いたい人はごく少ないでした。主イエスが働いている間に、多くの人は主イエスに従っていませんでした。それは本当に、理解に苦しむこと、残念なことです。多くの人は「わたしたちはきっと前人の失敗の教訓をくみ取ることができて、同じような間違いを犯しません」と言うかもしれません。だが、だれかが主がすでに戻られたと宣べ伝えるなら、わたしたちは本当に機会をとらえて謙虚に探究し、調べることができますか。このことはわたしたちが考えたことがありますか。多くの人は、主がすでに戻られたと証ししているし、インターネットにも主の再臨についての証しがたくさんあります。けれど、牧師、長老たちはわたしたちにこう言っています。「雲に乗って来るのではないイエスは偽キリストだ」、「主はすでに人の罪を赦された。彼は来られる時、一瞬にして人の姿を変え、人をきよくされる。そして信徒たちを天の国に迎え入れる」と。わたしたちは牧師、長老たちの言葉を固く信じていて、主イエスが雲に乗って来てわたしたちを天の国に迎え入れるのを待っています。福音を宣べ伝える人たちの言葉を聞いたり、真理を求めたりして、主イエスがすでに戻ったかどうか、彼らが主イエスの出現を証ししているかどうかを確認することはしません。
律法の時代の後期を思い起こしてください。当時、人々は世の救い主メシアが彼らを罪悪から救い出すと望んでいました。だが、神は知恵に満ちている全能の神であって、人の観念と想像にしたがって働かれませんでした。彼は「メシア」を神の名とせず、「イエス」を神の名とされました。当時の人は自分の観念、想像を固守していて、「イエスがどんなに大きなしるしや奇跡を行っても、イエスの言葉がどんなに権威、力を持っても、彼が聖書に預言されている名、メシアと呼ばれないなら、わたしたちは彼を信じず、また彼の説く道を受け入れない」と思っていました。そのため、その時代の多くの人は、自分の観念、想像の中に生きているようになり、真理を求めなくなり、最終的に主イエスを十字架につけました。彼らは神の救いを得る機会を失ったばかりでなく、また神に懲罰され、呪われました。こうして、イスラエル人は国の滅亡のつらさを味わい、故郷を破壊され、落ちぶれて流浪の身となりました。ここまで考えた時、わたしは怖くなりました。わたしも観念や想像を捨てて真理を求めなかったのに、盲目的に福音を拒絶しました。これでは、あの時のパリサイ人と同じになってしまうのではありませんか。神が働き、人を救うのには期限があります。機会を取り逃したら、後悔しても遅いです。
主イエスがこう言われました。「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、よいものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタ13:47-50)。わたしは以前この箇所を読んだ時、字句の表面上の意味だけを理解していましたが、この箇所に対する兄弟姉妹たちの認識を聞くことによって、今は新しい理解を持つようになりました。世の終わりに、神は人をおのおのその種類に従わせるという仕事をなさいます。彼は自ら正しい人と悪い者をお分けになります。だれでも、主が戻られたと証しする人の言葉を聞いた後、調べたりして福音を受け入れるなら、その人は主イエスの与えられる、天の国に入る機会を得られます。だれでも、主イエスがもう戻られたと証しする人の言葉を聞いたが、依然として自分の観念、想像を固守していて、調べず、福音を受け入れないなら、その人は天の国に入る機会を拒んでしまいます。神はどの人に対しても公平です。もしわたしたちが真理を求めることを重んじず、やはり自分の観念、想像の中に生きていて、神の与えられる、天の国に入る多くの機会を大切にしないなら、神の世の終わりの救いを得られなくなります。それなら、わたしたちは一生残念に思うのではありませんか。主がかつてわたしたちにこう教えられたのを覚えています。「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタ5:3)。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタ5:8)。これらの言葉によって、わたしは分かりました。神を信じる上で神を畏れる心を抱くことは非常に重要だ、謙虚に真理を求める人こそが失敗した人の二の舞を避けることができる、と。
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