いのちの源

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信仰とは何か、どのように信仰を持つようになるか

2019-04-20 12:24:04 | 賛美の心

   信仰とは何でしょうか?主にある多くの兄弟姉妹たちは、神様の御名を認め、根気よく聖書を読み、集会に参加し、祈り、更にはすべてを犠牲にして勤めさえできれば、自分は神様への信仰をもつ信者であると思っています。しかし、これは一面的な解釈です。実際、神様への真の信仰とは、私たちの精神と身体が精錬や逆境の中で大きな苦難に耐えるとき、それでも神様を誤解したり、神様について文句を言ったりせず、その代わりに神様に服従し、たゆまずに神様を信じ、神様に従えることを意味します。

  聖書の記録から私たちは次のことを知ることができます。ヨブがサタンによって誘惑されたとき、ヨブの家畜は盗賊に強奪され、使用人たちは殺され、子供たちは惨事にみまわれ、彼自身は体中に痛い腫物ができ、ヨブの妻は彼をあざ笑い、神様の御名に背くように言いました。これらの突然の災難に直面したとき、彼は心身ともに痛みに耐えました。しかし、ヤーウェ神様が彼から奪われたことについて文句を言わず、ヨブは「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)と言いました。彼は神様に関する強く顕著な証しを立てたので、これがサタンに恥をかかせ、サタンを負かせたのです。ヨブの神様への信仰を見て、神様は二倍にヨブを祝福し、更なる牛や羊と美しい子供たちを彼に授けました。そして最終的にヨブは年老いて死にました。ヨブは信仰の模範であり、主を信じる私たち一人ひとりが見習うに値する人物です。

  ヨブの証しからわかるのは、神様が彼を祝福したとき、ヨブは人の持っているものはすべて神様の祝福によるものであると信じていたので、彼は神様に感謝し、神様を礼拝し、また彼が神様の試練にあったときも、たとえそれを理解できず、心の中で痛みを感じても、彼はまだ神様に服従し、文句を言わなかったことです。これこそが神様への真の信仰であり、神様への人間の誠実な心なのです。「信仰とは何を指すのであろうか。信仰とは、あるものを人間が見たり触れたり出來ない時、神の業が人間の観念と一致しない時、また、それが人間の手に屆かない時に、人間が持つべき真の信念であり、誠実な心である。これこそが、わたしの言う信仰である。人々は、苦難や精錬の時、信仰を必要とする。そして信仰には精錬が伴う。これらは切り離せない。」と神様の御言葉にあるとおりです。

  それでは、私たちはどうしたら神様への真の信仰を育てることができるのでしょうか?このためには、私たちは日々の暮らしの中で神様の御働きを実践的に経験し、その価値を十分に認識することが必要です。私たちの人生のための神様の支配と指揮と采配、また神様の権威と御業を見ることができ、それらを通して神様についての本物の認識をもつことができたとき、どれほど神様の御働きが私たちの観念に沿わなくても、それにもかかわらず私たちは神様への信仰を保つことができます。これはヨブと全く同じです。彼は神様について聞いたことはあっても、神様を見たことはありませんでした。しかし、彼は神様の権威を知り、すべての物事において神様の義を見ることができました。例えば、人間の運や不運、どれほどのお金を人が手に入れるか、生涯で何人の子供ができるか等、これらすべては、人間自身の計画や計算に関わらず、神様の権威の下にあることをヨブは知っていました。誰が邪悪で神様によって罰せられ、誰が心が優しく神様の恵みと祝福を授かるか等を、彼は見ていました。神様に関するこれらの認識があったため、彼は神様への真の信仰を育てたのです。ですからサタンの誘惑にあったとき、惨めではありながらも、彼はその享受していたものすべてが神様から与えられたものであり、彼自身の勤勉な働きにより手に入れたものではなく、また神様がそれらを取り上げられるのであれば、彼は神様について文句を言ったり、神様を誤解したりするべきではなく、神様に服従するべきであることを知っていたのです。ですから彼は神様に対して一切の要求をせず、神様の指揮と采配を受け入れて服従し、サタンの前で神様への顕著な証を立て、神様に受け入れられたのです。もう一つの例はモーセです。彼は四十年間荒野にいました。そこには誰もいなく、友人は昼は羊、夜は星だけでした。しかし神様に頼ることで、このつらい四十年間をモーセはついに乗りきりました。この経験を通して、神様の御手によってすべてが指揮され、神様にできないことは何もないと、彼は本当に実感しました。このような神様についての認識が、神様への真の信仰を育てる助けとなったのです。ですから、神様が彼にイスラエルの民をエジプトから導き出すように言ったとき、彼は神様の御前にひれ伏し、その任務をためらわず受け入れたのです。彼はどうしてエジプトの軍隊を一人で打ち負かすかなど心配せず、ただ単純に服従しました。これはすべての物事が神様の御手の中にあり、神様によって指揮されていると彼は信じていたからです。最終的に、神様への真の信仰に頼ることにより、彼はイスラエルの民をエジプトから導き出すことに成功したのです。

  ですから、もし私たちが神様への真の信仰をヨブとモーセのように育てたいのであれば、私たちの日常生活において神様の御働きを実践的に経験しなければなりません。特に何らかの苦労や悲惨な状況にみまわれたとき、私たちはまず初めに意図的に服従するべきであり、それから神様を仰ぎ、神様に祈り、神様の御旨を求めるべきです。これらを通して神様への真の従順を達成できたとき、私たちは必ず神様の素晴らしい御業を見、神様への真の信仰を育てることでしょう。この時点で、私はある新しい姉妹の経験を思い起こします。彼女が神様の新しい御働きを受け入れて間もなく、彼女は病気になりました。その後、病状はだんだんと悪くなり、顔面神経麻痺になる危険さえありました。そのころ彼女はとても弱く、酷い痛みに悩まされていました。しかし、祈りと神様の御言葉を読むことを通して、彼女はサタンが病気を利用して彼女をかき乱そうとしていることを理解するようになりました。この病気はサタンの誘惑であり、また神様の試みだったのです。神様の御意向を理解した後、彼女は神様に祈り、自分のすべてを神様に委ねて証しを立てる決意があると言いました。その後、彼女は驚くほど速く回復しました。このようにして、彼女はその病気のために神様から離れなかっただけではなく、神様の素晴らしい御業を見たことによって、神様に従う決意をいっそう強めたのです。また、一人の兄弟がいました。彼は最初に神様を信じ始めたとき、とても情熱的でした。しかし、その後彼は神様への信仰のせいで中国共産党に追われたので、家を離れて放浪者のようなホームレスの暮らしを余儀なくされました。これは非常に苦しく、彼は弱ってしまいました。後に、神様の御言葉を読むことを通してのみ、彼は自分の神様への信仰の不純に、その信仰が神様の祝福と恵みを授かるためだけのものであったことに気付いたのです。ですから彼は自分の神様への信仰についての間違った見方を正しました。その後、彼は厳しい状況の中において絶えず神様に頼り、福音を述べ伝えるその本分を尽くしたので、何度も中国共産党の追っ手から逃れることができました。このことを通して、彼は神様の素晴らしい御加護を身をもって体験し、神様の全能性と知恵も見ることができました。そして彼の神様への信仰はますます育ったのです。

  このような実践的な経験は、私たちが実際の状況において神様の導き、支え、助け、または懲らしめや鍛錬をしっかりと経験する限り、神様が私たちの中でなさることはすべて私たちへの神様の愛と救いであると理解できる、と教えています。そうすれば私たちは神様について真の認識を得、その全能性と知恵の偉大さを実感し、神様の義なる御性質が人間によっては不可侵であることをよりよく知ることができます。その時がきたら、私たちは神様を畏れる心を持ち、それによって私たちは神様への真の信仰を育てることでしょう。

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