いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

隣人愛-他人を許す方法を学ぶ

2019-08-09 00:36:49 | 賛美の心

  ある日の午後、山本潤が自分の菜園で地面を掘るために鋤を肩にかついでやってきました。彼は畑に到着するやいなや、真っすぐであった溝が三日月のように曲がっているのを目にしました。彼が近づいてこれを見た時、彼は彼の隣人が彼の畑の縁部を占めていることを知り、彼の中には即座に怒りが怒りがこみ上げてきました。彼はこう思いました:「あんたは冗談が過ぎる。どうして私の畑をここまで取ってしまうんだ?これは駄目だ、あんたには道理を説明する必要がある。」彼はこれについてじっくり考えながら、振り返って彼の家に行こうとしました。その瞬間、彼は主が私たち人間に幾度となく他人を許すことを御求めになられたことを思い出し、心の中で主にこう祈りを捧げました:「主なる神様、あなたは私たちに他人を大目に見て、他人に寛大であり、他人を許すようにと教えてくださりました。しかし、幾度に渡って隣の人に自分の畑を使われると、私は心の中で激しく怒りに、寛容さと寛大さを失ってしまいます。主なる神様、私があなたの証言をできるよう、どうか私に寛容さと寛大さを持った心を御与えください。私は主イエス様の聖なる御名前に誓い祈りを捧げます、アーメン!」こう祈りを捧げた後、彼の怒りは少し収まったので、彼は隣人の家には行きませんでした。

  数日後のある午後、山本潤は鋤を肩にかついで水田の水を抜きに行きました。彼が見上げてみると、隣人のガチョウが彼の米を食べているのが見えました。これを見た彼は急いで畑の端部に走ってゆき、腕を振ってガチョウを追い払いました。彼は怒りに満ち溢れてこう思いました:「あんたはひど過ぎる。自分のガチョウをちゃんと見てないじゃないか。なんて心ない人なんだ!わざと俺に嫌がらせをしているのか?あんたみたいな人は見たことがない。もう本当に我慢できない。今回決着を付けに行かなかったら明日はまた更に度を超えたまねをするだろう。」彼は隣人と話しをつけに行くつもりでしたが、外は暗くなりかけていたし、家でやることがあったので、考えた結果、隣人とは翌日話をすることにしました。そして彼は鋤を肩にかついで怒りながら家路につきました。彼が怒っているのを見た彼の妻は彼にこう聞きました:「どうしたの?誰に腹を立ててるの?」彼は憤慨してこう言いました:「他に誰がいるっていうんだよ?俺たちの家の前の人だよ。数日前はうちの菜園の端部を勝手に使ってたよ。今日は彼のガチョウがうちの米を食べてたんだ。ちょっと調子に乗り過ぎたよ。明日は絶対に彼と話をつけに行かなきゃな⋯」

  夕食後、山本潤の妻は椅子をつかみ、彼の隣に座ってこう言いました:「あなたは2週間も集会にいってないわ。一緒に聖書を読みましょう。」そして、彼女は聖書を開いてこう読みました:「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか』。イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい』」マタイによる福音書 18:21-22。 彼女はこう言って交流しました:「主イエス様は幾度に渡ってペテロに自分の兄弟を愛して、敵を愛するように言われたわ。だから、キリスト教徒として、私たちも私たちの敵を愛するべきじゃないの?小さな問題に直面した時に我慢して他人に寛大でいないで、他人と口論しようとばかりしていたら、それは主の御心に沿っていないわ。そんなことをしてたら、私たちのどの部分がキリスト教徒だっていうの?よく考えてから行動に移すべきだわ。主の御名前を弾みで汚してはいけないわ。」彼は彼女の言葉を聞いて、しばらく考えた後にこう言いました:「そうだ、お前の言う通りだよ。私たち主の信者は必ず主の御言葉を実践して他人を許すべきだ。でも、私はどうして主イエス様が幾度となくペテロに自分の兄弟を許すように言われたのが理解できない。そんなこと誰ができるって言うんだ?私は他人を2回許すことすらできないのに。ああ、主はどういった御旨を御持ちなんだろう?私たちはどうしたら主からのこの御要件を満たすことができるのだろう?」

  彼の口調が穏やかになったのを聞いた山本潤の妻はこう続けました:「私たちが幾度となく他人を許し続けるという主からの御要件に関して言うと、それは私たちにとって容易なことではないけれど、主の御言葉は間違いなく重要ですよ。姉妹鈴木の所に行って彼女の交流を聞きましょう。」その後すぐ、彼らは姉妹鈴木の所に行って彼女に自分たちの困惑していることを話しました。姉妹鈴木はこう言いました:「主イエス様は、この隠喩を御使用になって、私たちが他人を許すことを責任として受け止めることを望んでおられるだけでなく、私たちがこの要件を心に抱いてそれを人生の指針とみなし、他人を自身のように愛する心の広い人になることも望んでおられます。しかし、主は私たちが許す回数に焦点を置くことは求めておられません。すなわち、他人を許す回数に焦点を置くと、私たちは規則に従って自制力を働かせていることになるのです。このような許しは長続きしません。この要求を満たすのは私たちにはとても困難なことですが、主イエス様は私たちにこの実例を御与えくださっておられます。主は数えきれないほど私たちを御許しくださっておられます。これより、神のみが私たちに対して最も真なる、実際の愛を御持ちでおられることが分かります。最初、私たちの先祖たちはエデンの園に住み、神は彼らのために動物の皮で服を作ってくださりました。人々が生活の仕方を知らなかった時、神はモーセを通して律法を定められ、彼らがそれを守り、神を礼拝することを学べるようにされました。このように、神は人類を地上で暮らしていけるように御導きくださりました。人々が律法を守れず、律法によって有罪を宣告される、または処刑される危険にさらされながら生きるようになったとき、神は人の姿で受肉され、私たち人間のために罪の捧げものになられました。主イエス様は働きを成さる間、罪人に対して許す心と憐みで満ちておられます。神の本質はとても善良であられます。神のみが私たちを最も愛してくださり、1億回でも私たちを堪忍して許してくださり、私たち1人1人を救うために最善を尽くしてくださるのです。それ故に、神が私たちにこのような御要件を課されるのは、私たちが神の御言葉の内で真理の実相を貫いて神を崇め、神の証言をして、神を讃えることができるように神の有されるものと神そのものを私たちに吹き込むためなのです。

  「それに反し、私たちの先祖であるアダムとイブが堕落させられていたため、私たちも様々なサタンの毒によって満たされ、私たちの心も悪で満ちているのです。カインがアベルを殺害するという最初の殺人が起って以来、私たちは肉の欲求のためにお互いを殺し合い、名誉と利益を求めて争い合ってきています。私たち人間の心は嫌悪、嫉妬、邪悪さ、そして欲で満たされています。これはこのような堕落をもちいて全人類を貪り食おうとするサタンのむなしい試みなのです。神は愛であられますが、神はまた私たちが愛を貫くことも要求なさります。これについて主イエス様はこう仰りました:「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」マタイによる福音書 22:37-40。主イエス様は自分を愛するように神を愛すること、そして他人を愛することを律法の最後に示されました。主イエス様の私たちに対する御要件とサタンの堕落はまさに顕著な対照を成しています。これより、何が肯定的なことで、何が否定的なことで、何が善で何が悪なのかが分かります。私たちはサタンと同じです。私たちの個人的な利益が少しでも害を受けることがあれば、私たちは歯ぎしりをするほどそれを嫌います。これは私たちがとても深刻に堕落しておりサタンの子と化していることを示しており、だからこそ主イエス様は私たちにこのような御要件を課されたのです。これはまさに神から私たちへの愛であり、救いであり、普通の人間性を持つのに必要不可欠なのです。なぜなら、普通の人間性を持つ人間は神を愛し、人間を愛することができるからです。これ故に、主イエス様は私たちに他人を許すよう幾度も求められたのです。これは真理であり、規則ではありません。私たちは主イエス様が私たちに課される要件を心の底から受け入れるべきなのです。」

  そして、姉妹鈴木が彼女の経験をこう話してくれました、「最初、私は他人を許すことを完全に自分の意思で自らを抑制することに頼りながら実践していました。未信者である夫と意見の衝突があった時、最初、自分の意志力に頼って自制し、寛大でいようと試みましたが、2回以上は我慢できませんでした。私は表面的には我慢していましたが、心の中では冷静になれずこう考えました:「夫に対していつも寛大でいたら、夫は間違いなく私には簡単に強気になれると思うわ。夫は話を聞いてくれるかしら?」従って、夫に又しても気分を害された時、私は思わず爆発する爆弾のように夫に怒りを爆発させてしまいました。これにより、私は他人を許す心がなく、心の中に愛がないことも知りました。私はこの主イエス様の御言葉を繰り返し熟考した時、主の御心をこう理解しました:「主は私たちが他人を許すことを私たちの責任、そして守るべき道とし、主の真理を実践する心構えを持って御言葉を実践することを望んでおられます。」従って、私は神の前に行って祈りを捧げ、肉に背いて神を満足させることができるように私を導いてくださるよう請いました。その後、私は神の私への愛はとても偉大であったことも思いだしました。同時に、こうした状況の中で、私は自分自身の堕落を知りました - 私は心に嫌悪をしかなく、神に対してはもちろんのこと、自分の家族に対しても愛をもっていませんでした。こう考えながら、私はもう一度神の前に行ってこう祈りました:’神様、私はこの状況を通して自分がサタンに極めて深刻に堕落させられており、心は嫌悪で満ち、他人にほんの僅かの愛も抱いていないことを知りました。私は本当にあなたの御救いを必要としています。’私が自分は自分の夫同然で、夫と私は共にサタンの堕落を受けた被害者であると気が付いた時、私は適切にこれに取り組むことができ、神の御言葉を実践する力を手にしました。」姉妹鈴木の交流を通じ、山本潤とその妻は幾度となく他人を許すことの真義を理解したのです。これらの主の御言葉は私たちが数字に従って規則を守るためのものではなく、むしろ私たちが許しの実相を貫くためのものなのです。彼らは以前これには全く気が付いていまんでした。

  この結果、山本潤はうなずいてこう言いました:「そうです、神は私たちが他人を何度も許すことを必要とされます。これが私たちキリスト教徒たちが貫くべきことです。数えきれないほどに他人を我慢し、許すことは私たちが貫くべき普通の人間性なのです。この小さな問題に直面するだけで、私は隣人に寛大であったり、我慢することができず、むしろ’目には目を歯には歯を’という姿勢を取って、”土地を隅から隅まで狙って戦い、取れるだけ占有する’や’親切でなければ公正な対応はしない!’といったサタンの毒を指針に生きようとしてしまいます。こういう自分を見て、私は本当に許す心を持っていないことが分かりました。」

  最後に、彼らは一緒に主にこう祈りを捧げました:「主なる神様、あなたの御啓示と御啓蒙に感謝いたします。私たちはあなたの御言葉の真義を理解しました。私たちは神の御言葉を正しく実践してのみ普通の人間性を貫けることが分かりました。今後、私たちはあなたの栄光を讃えるため、他人を許す真理を実践し、真のキリスト教徒らしさを貫くことを追い求めてゆきます。アーメン!」



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