祈りはクリスチャンが神様と正常な関係を確立する一つの道です。私たちがデボーションするときに祈る必要があるだけではなく、生活中でさらに私たちが神様の前に来て祈ることが必要です。そのため、祈りの実践はクリスチャンにとって極めて重要です。では、どのように祈れば効果を達成できるのでしょうか。
1.主イエスの言葉を理解するためにいつも神に祈らなければならず、また主イエスの言葉の実際の意義を探究し、理解しなければなりません。
ヨハネによる福音書第14章6-7節にこう書かれています。主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。主イエスは彼が道、真理、命だと言われました。わたしたちも主イエスがわたしたちの牧者、また暗やみの中で模索しているわたしたちのともし火、案内者だと信じています。主イエスはすでに彼の言葉を通してわたしたちに道を指し示し、また命をわたしたちに与えられました。今日主イエスにつき従うわたしたちは、主イエスの言葉を通して主イエスの言葉の真意をもっと多く理解すべきであり、また主イエスの言葉を理解するためにいつも祈りをささげて、神の導き、啓きを求めるべきです。
2.祈るのは、主の言葉の中の真理、主の言葉の意図を理解することによって、神に従い、神を礼拝するという効果を収めるためであって、宗教的儀式をやって神を欺くためではありません。
祈ることは、わたしたちが直接神とコミュニケーションする方法です。わたしたちは、祈りの意義が真理を理解して神に従い、神を礼拝することだと知らなければなりません。主イエスはかつてわたしたちにこう教えられました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(マタイによる福音書6:5)。主イエスはまたこのようにパリサイ人をしかられました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(マタ23:14)。神に祈ることは神聖なことであって、宗教的儀式をやってはなりません。決してパリサイ人のように見せかけの祈りをしてはなりません。あのような祈りはうわべでは敬虔なように見えるが、実質的には神をだましているのです。主イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネによる福音書4:24)と言われました。そのため、わたしたちが神に祈る時、敬虔な心を持たなければなりません。
3.祈る時には、わたしたちは実際の生活の中の困難、問題に結びつけて神に祈り求め、祈るべきで、現実から離れて空論や文字の中の教理を説いてはなりません。
主イエスは祈りについてこう言われました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイによる福音書6:7-8)。主イエスの言葉から分かりますが、祈る時にくどくどと無意味な言葉を話すなら、主イエスはそれを異邦人の祈りだと言い、それを喜びません。そのため、わたしたちは実際の生活の中の困難、問題に結びつけて神に祈り、誠実な祈りをするべきです。なぜなら、神はわたしたちに必要なもの、わたしたちの求めるものを知っておられるからです。
4.祈り求め、祈る過程の中で、神を畏れる心と理知を持たなければなりません。祈る中で、神に要求し、無理強いし、神を利用してはならず、また神と取引してはなりません。
旧約聖書の中のヨブの祈りはわたしに最も深い感動を与えました。ヨブが子女と財産を失った後、「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』」(ヨブ記1:20-21)。ヨブは祈る時、神になぜそうするかと詰問せず、また神に彼の子女と財産を返すように要求せず、神がそれを返さなければ、彼が神を信じなくなるとも言いませんでした。このすべては神の手によって支配されているので、被造物としては、造物主に従うべきだと、ヨブはよく知っていたからです。ヨブの祈りには神に対する従順、畏れ敬いがあります。
ゲツセマネの園での主イエスの祈りは新約聖書にこう記されています。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた、『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」(マタイによる福音書26:39)。「更に、二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように』」(マタイによる福音書26:42)。主イエスの祈りからこういうことが分かります。主イエスは天の父の御心を行なうために祈られたのです。主イエスも人性の弱さがありますが、でも彼の祈りには従順さ、理知があります。
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