いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

受肉とは何か。受肉の本質は何か。

2020-01-04 23:50:08 | 賛美の心

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書 1:1)

 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネによる福音書 1:14)

 「わたしは道であり、真理であり、命である。…」(ヨハネによる福音書 14:6)

 「イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。』」

(ヨハネによる福音書 14:9-11)

 「わたしと父とは一つである。」(ヨハネによる福音書 10:30)


関連する神の言葉

 受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、受肉した神の肉だけが、他の誰でもなくこの普通の人間だけが、神の働きを示せるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 普通の人間性をもつキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間的思考をもっている。「顕現」とは神が人間となること、霊が肉となることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性をもつ肉に宿るということで、それによって神性の働きを表す──これが顕現、または受肉の意味である。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。

  『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

 神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。神の受肉した生活と働きは二つの段階に分けられる。第一は職分を始める前の生活。神は普通の人間の家族として暮らし、ごく普通の人間性をもち、人間生活の通常の道徳や法に従い、普通の人間の必要(食物、衣服、住まい、睡眠)をもち、普通の人間の弱さ、普通の人間の感情をもって暮らす。つまり、この最初の段階で、神は神ではなく完全に普通の人間として、あらゆる普通の人間的な活動を行いながら生きる。第二の段階は、職分を果たし始めた後の生活である。神はまだ普通の人間の外形で通常の人間性において暮らし、表向きには超常的なしるしは何も現さない。しかし、神は純粋にその職分のために生き、この期間の普通の人間性は、ひたすら神として普通の働きのために存在する。そのころには、普通の人間性は職分を果たせるほどに成熟していたのだから。そこで、第二の段階では普通の人間性において職分を果たすこととなり、それは通常の人間性と完全な神性を兼ね合わせる生活である。前半生で神がまったく普通の人間的な生活をする理由は、まだその人間性が神性の働きの全体と同等でないから、まだ成熟していないからである。人間性が成熟して、その職分を背負えるようになってはじめて、職分を果たし始めることができるのである。肉体をもつ者として神は成長し、成熟する必要があるので、その生涯の最初の段階は普通の人間のものである。第二段階に入ると、その人間性が働きに着手し、職分を果たせるようになっているので、職分を果たす間の受肉した神の生活は、人間性と完全な神性の二つを併せもつものである。もし受肉した神が生まれた瞬間から本格的に職分を果たし、超自然のしるしや不思議を示し始めたなら、その肉体の本質は何もないであろう。だから、受肉した神の人間性は、肉体的な本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉のなくてはならない性質である。「神が人間になった時、神は完全な神で、まったく人間ではない」と言うのは瀆神行為である。なぜなら、これは受肉の原理に反する、あり得ない立場だからである。神がその職分を始めた後も、その神性は働きを行う人間の外形にまだ宿っている。ただその時、神の人間性は神性が通常の肉の体で働きを行えるようにするという目的だけを果たすのである。だから、働きをする者は、人間性に宿る神性である。働いているのは神の人間性ではなく神性だが、それは人間性の中に隠れた神性である。神の働きは、つまるところ、完全な神性が行うのであって、人間性によるのではない。しかし、働きを実践するのは神の肉である。このような神は、人間でありかつ神であると言えるだろう。神は肉の体で生きる神となり、人間の姿と人間の本質をもつが、また神の本質をも備えているからである。神の本質を備えた人間だから、被造物であるどの人間、神の働きを行うことのできるどの人間よりも上位に位置する。そこで、このような人間の姿をした者たちの中で、人間性をもつすべての者の中で、神だけが受肉した神そのものである。他はみな、被造物である人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるが、被造物である人間には人間性以外には何もない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なことに神性をも備えている。神の人間性は肉の体の外見や毎日の生活に見られる。しかしその神性は感知しにくい。神の神性は人間性があってはじめて現れるのだから、また、人々が想像するほど超自然なものではないから、人々がそれを見るのは極めて難しい。今日でも受肉した神の本質を理解するのは極めて難しい。実際、わたしがこれほど長い間話してきても、あなたがたの大半にとってはいまだに謎であることであろう。これはとても単純なことなのである。神が人間になると、その本質は人間性と神性の合わさったものである。この組み合わせが神そのものと呼ばれる、地上における神そのものなのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 イエスが地上で生きた生活は、肉体をもつ人間の通常の生活であった。イエスはその肉体の正常な人間性において生きた。イエスの権威──彼の働きをし、彼の言葉を話し、病者を癒やし、悪霊を祓うといった、驚くべきことを行うためのもの──は、大方、職分を果たし始めるまでは示されなかった。二十九歳までの生活、教えを説く前は、イエスがただ普通の肉体をもった人間であったことの十分な証拠であった。そのため、そして、イエスがまだ職分を果たし始めていなかったため、人々はイエスに何の神性も見出さなかった。普通の人間、平凡な人間しか見なかった――ちょうど当時の人々がイエスはヨセフの息子だと信じていたように。人々は、イエスは普通の人間の息子だと思い、神の受肉したものであるとは知りようもなかった。職分を果たしながら、多くの奇跡を行ったときでさえも、たいていの人々はあれはヨセフの息子だと言った。イエスは普通の人間の外形をしたキリストだったからである。イエスの普通の人間性とその働きは、神が完全に受肉し、全く普通の人間になるという、最初の受肉の意味を満たすために存在した。働きを始める前のイエスが普通の人間性をもっていたことは、イエスが普通の肉体をもつ人間であった証拠である。そして、その後、イエスが働きをしたことも、通常の人間であることを示していた。イエスは普通の人間性をもつ肉体において、しるしや不思議を行い、病む者を癒やし、悪霊を祓ったのだから。イエスが奇跡を行うことができたのは、その肉に神の権威を帯びており、神の霊が人間の姿をしていたものだからである。イエスにこの権威があったのは、神の霊のためであり、イエスが人間ではなかったということではない。病む者を癒やし、悪霊を祓うことは、イエスがその職分において行う必要のある働きであり、人間性に隠された神性の表明であった。どのようなしるしを示そうと、どのようにその権威を示そうと、イエスはやはり普通の人間性において生き、普通の肉体をもつ人間であった。十字架上で死んで蘇るまで、イエスは普通の肉の中に宿っていた。恵みを与え、病人を癒し、悪霊を祓うことは、その働きの一部であり、すべて普通の人間の体で行われた働きである。イエスは十字架に行く前には、何をしているときであっても、けっして普通の人間の体を離れなかった。イエスは神そのものであり、神の働きをしたが、受肉した神であったため、食物を食べ、衣服を着、普通の人間と同じものを必要とし、普通の人間の理性と普通の人間の心をもっていた。これはみな、イエスが普通の人間であったことの証拠であり、受肉した神の体は普通の人間性をもつ肉体であって、超自然のものではないということを示している。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 受肉した神の人間性は、肉において普通の神性の働きを維持するためにある。神の普通の人間としての考え方が、その普通の人間性とあらゆる普通の身体的活動を維持する。神が普通の人間的思考をするのは、神が肉においてする働きをすべて支えるためなのだと言えるだろう。この肉が普通の人間の心をもたないのなら、神は肉における働きができず、肉においてするべきことを成就できない。受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。だから、受肉した神は普通の人間の心をもたなければいけない。普通の人間性をもたなければいけない。なぜなら、普通の心をもった人間性の内にあって働かなければいけないからである。これが受肉した神の働きの本質、受肉した神の本質そのものである。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

 主イエスが業を行っている間、人々は、神が多くの人間的な表現を持っていることを知った。たとえば、神は踊ったり、婚礼に列席したり、人間と親交したり、人間と会話し、様々な事柄を話し合ったりすることが可能であった。さらに、主イエスは神の神性を示す多くの業を遂行し、当然ながらそうした業はすべて神の性質を表出し、啓示するものであった。この時期においては、神の神性が、人間が見たり触れたりできる通常の身体により具現化された時、人間は神が出現と消滅を繰り返されている存在、人間の近づくことが出来ない存在であるとは感じなくなった。これに対し、人間は、人の子のあらゆる動作や言葉、業により、神の旨や神の神性を理解しようと試みることが出来るようになった。受肉した人の子は、神の人間性により神の神性を表現し、神の旨を人間に伝えた。また、神は、旨と性質を表出することにより、霊的領域では見ることも触れることもできない神を人間に啓示した。人々が見たのは、肉と骨を持ち、姿形のある神自身であった。そうして受肉した人の子により、神の正体、地位、像、性質、神の中にある物事や神の存在が、具体的かつ人間的なものとされた。人の子の外観は、神の像に関してある程度の制約があったものの、人の子の本質と人の子の中にある物事や人の子の存在は、神自身の正体と地位を完全に示すことが可能であり、表出の仕方に僅かな相違があるのみであった。それが人の子の人間性であるか、人の子の神性であるかを問わず、人の子が神自身の正体と地位を示していたことを否定することはできない。しかし、この時期、神は肉により業を行い、肉の見地から言葉を述べ、人の子という正体と地位により人間の前に姿を見せたので、それによって人間の中にある神の真の言葉と業に遭遇し、体験する機会が人々に与えられた。また、それにより神の神性と、謙遜の中にある神の偉大さについて、人間が知見を得ることが可能となり、また神の真正さと実在に関する暫定的な知識と定義を得ることも可能となった。主イエスにより遂行された業や、イエスが業を行う方法、言葉を述べる観点は、霊的領域にある神の真の姿とは異なるものであったが、それでもなお主に関する全てが、それまで人間が見たことのない神自身を真に示しており、またその事実は決して否定できない。すなわち、神がどのような姿であるかによらず、また神がどの観点から言葉を述べるかによらず、あるいは神の人間に対する像がどのようなものであるかによらず、神は他ならぬ神自身を示す。神が人間を示すこと、腐敗した人間を示すことは不可能である。神は神自身であり、それを否定することはできない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 受肉した神の外観は人間と全く同じであり、人間の知識を学び、人間の言葉で話し、時には人間と同じ方法や表現で考えを表現されるものの、人間に対する見方や物事の本質に対する考え方は、受肉した神と腐敗した人間では、決して同じということはない。受肉した神の視点と、その立場の高さは、腐敗した人間が得ることの出来ないものである。なぜなら、神は真理であり、肉となった身体にも神の本質が存在し、その考えや、その人間性で表出されるものもまた真理であるからである。腐敗した人間にとって、彼が肉にあって表出する事柄は、真理といのちの提供である。これらのものは、ひとりだけではなく、人間全体に与えられているものである。腐敗した人間にとって、心の中で自分に関連する人々の数は僅かであり、心にかけて気遣う他の人の数は僅かである。大災害が発生したとき、人間が最初に心配するのは自分の子供、配偶者、両親のことであり、比較的博愛的な者でも、せいぜい親戚や親友だけであり、それ以外の者のことは決して心配しない。人間は、つまるところ人間であって、人間の目線の高さからしか物を見ることが出来ない。しかし、受肉した神は、腐敗した人間とは全く異なる。受肉した神の身体がいかに普通で慎み深いものだったとしても、あるいはいかに多くの人間に見下されたとしても、人間に対する受肉した神の旨と態度は人間が抱くことの出来ないものであり、だれも真似することの出来ないものである。受肉した神は、常に神性の視点で、創造主の立場から人間を見る。受肉した神は神の本質と心によって人間を見る。通常の人間の立場で、腐敗した人間の目線で人間を見ることは決して出来ない。人間が人類について考える時、人間は人間の視点で見て、人間の知恵や規則、理論を基準として用いる。これは人間が人間の目で見ることが出来る物事の範囲内であり、腐敗した人間が成し得る範囲内である。神が人類について考える時、神は神の視点で見、神の本質と神の持っているものとその存在を用いて人間を見る。この範囲には、人々が見ることの出来ないものも含まれているという点が、受肉した神と腐敗した人間では全く異なる。この相違は人間と神の異なる本質により決定され、人間と神の身分や立場、そして物を見る視点を決定するのは、この本質の相違である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

 受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きは人を救い、神の心を行うためのものである。神が肉となったため、キリストは自身の肉において神の本質を実現し、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分になる。神の霊の働きはすべて受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心となるのがキリストの働きである。そこにほかのどの時代の働きが混ざり合うこともない。そして神が肉となるのであるから、神は肉としての働きをする。神は肉の形をとって来るので、自身のなすべき働きを肉となった姿で成し遂げる。神の霊も、キリストも神自身であり、神はしかるべき働きをし、しかるべき職分を果たす。

 神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神から来る権威に完全に服従することができる。霊の働きも、肉の働きも、互いに相反することはない。すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質のある肉も権威を有すが、肉となった神は父なる神の心に沿った働きをすべて行える。こうしたことは人には実現も想像もできない。神自身が権威であるが、神の肉は神の権威に服従することができる。これが「キリストは父なる神の心に服従する」という言葉に秘められた意味である。神は霊であり、救いの働きができるように、受肉した神も救いの働きをなすことができる。いずれにしても、神自身が神自身の働きをする。神は阻止することも、干渉することもせず、まして互いに対立する働きをすることはない。霊と肉は働きの本質が似ているからである。霊も肉も一つの心を行い、同じ働きを管理するために働くからである。両者は性質が異なるが、本質は同じである。どちらも神自身の本質と、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善と、すべての愛の現れである。肉の姿であっても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてでも、神は心底から父なる神に従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た性質を持っている理由は、サタンが人に影響を与え堕落させたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。どんなに働きが困難で、肉が弱くても、キリストは肉のうちに生きながら、神自身の働きを阻止するようなことは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の心を無視するようなことない。キリストは父なる神の心に逆らうくらいなら肉の痛みを受けることを選ぶだろう。イエスが「父よ、もしできることならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と祈ったようにである。人は選択をするが、キリストはそうしない。彼は神自身の身分を持っているが、肉ある神として、なお父なる神の心を求め、父なる神から委ねられた任務を果たす。これは人には不可能なことである。サタンから発生するものが持ち得る本質は神に逆らい、抵抗するものでしかなく、神の本質ではない。その本質は完全に神に服従することができず、ましてや神の心に進んで従うことなどできない。キリスト以外の人間はみな神に反する行いをすることができ、神に委ねられた働きを直接引き受けられる者はひとりもおらず、神の経営を自分自身がなすべき本分と考えられる者もひとりもいない。父なる神の心に服従することはキリストの本質である。そして神への不従順はサタンの特性である。この二つの性質は相いれないものであり、サタンの特質を持つ者はキリストと呼ばれ得ない。人がキリストに代わって神の働きを行えないのは、神の本質がまったく備わっていないからである。人は自己の利益と将来の前途のために神に尽くすが、キリストは父なる神の心を行うために働く。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

 キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉の姿をしているが、その人間性は肉を持った人間とまったく同じものではない。キリストは特有の性格を持っており、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たない。キリストの弱さはキリストの人間性に起因する。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような制限は一定の範囲と時間内のものであり、無限大ではない。キリストが神性による働きをする時が来ると、それはキリストの人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性は完全にその神性の指示を受ける。キリストの人間性による普通の生活の他に、人間性によるほかの行動もすべて、キリストの神性の影響、働きかけ、指示を受ける。キリストは人間性を持っているが、それは神性による働きを邪魔するものではない。キリストの人間性がキリストの神性の指示を受けているからこそである。キリストの人間性は、ほかの人々の前ではその行いにおいて成熟していないが、それはキリストの神性のなす普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性はその神性に直接指示され、普通の人のそれよりも理知が高度であるということである。彼の人間性は働きにおいて神性によって指示されることに最も適している。キリストの人間性は神性による働きを現し、神性による働きに服従する能力が何よりも高い。神が肉の姿で働きをなす時、神は肉を持つ人が果たすべき本分を決して見失わない。彼は天にいる神を真心で礼拝することができる。彼は神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、彼がこの地上に来て、人の外観を持つ被造物となり、かつては持っていなかった人間性を持つようになったことにほかならない。天にいる神を崇拝することができるということだ。これはキリストが神自身であるということで、人にはまねのできないことである。彼の身分は神自身である。彼キリストが神を崇拝するのは、肉の観点からである。ゆえに、「キリストは天にある神を崇拝する」という言葉は間違いではない。彼が人に要求するものはまさに神自身の存在である。彼が人間に要求する事柄は、自身も既に成し遂げている。彼は人間に要求しておきながら自らはそれらから免れるようなことはしない。そのことがすべて彼の存在を成しているからである。彼はどのように働いても、神に敵対するような行為はしない。人に何を要求しても、人がなしえる以上の要求はしない。彼のすることはひたすら神の心を行うことであり、神の経営(救い)のためである。キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえに彼はあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それは彼の身分を決定する。よって彼の人間性がいかに普通であっても、神自身の身分を持っていることは否定できない。彼がどのような観点から語り、どのように神の心に従っても、神自身ではないと言うことはできない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

 神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

 神の霊が纏った肉は、神自身の肉である。神の霊は至高のものであり、神の霊は全能であり、聖であり、義である。それと同様に、神の肉も至高のものであり、全能であり、聖であり、義である。このような肉は、義であり人間に有益な物事、聖なるものであって栄光ある物事、力ある物事しか行うことが出来ず、真理や道義に反する物事を行うことが出来ず、ましてや神の霊を裏切る物事を行うことなど出来ない。神の霊は聖なるものであり、したがって神の肉は、サタンが腐敗させることの出来ないものであり、人間の肉の本質と異なる。なぜなら、サタンにより腐敗させられているのは、人間であって神では無いからである。サタンは神の肉を腐敗させることはできない。したがって、人間とキリストは同じ空間にあるにもかかわらず、サタンにより占有され、利用され、囚われているのは人間だけである。それに対し、キリストはサタンによる腐敗の影響を永久に受けない。なぜなら、サタンは最も高い場所まで昇り、神に近付くことが決して出来ないからである。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

 神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。

   『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より

 今日言及する実践的神自身は、人間性においても神性においても働きを行う。実践的神の出現によって、神が普通の人間として行う働きと生活と同時に、完全に神性となる働きも達成される。人間性と神性は一つに結合され、両方の働きは[a]言葉を通して達成される。人間性であろうと神性であろうと、神は言葉を発する。神が人間性において働く時は、人々が神と交わり理解できるように、人間の言葉を話す。神の言葉は平易で理解しやすいので、すべての人々に供給することができる。知識があろうと、教育が不十分であろうと、彼らは皆神の言葉を受け取ることができる。神性の働きも言葉を通して行われるが、それは溢れるばかりに豊富で、いのちに満ち、人の意志に汚れておらず、人の好みを含まず、人間性の限界に縛られず、普通の人間性の範疇の外に存在する。神性における働きも肉において実行されるが、それは聖霊の直接的な表現である。もし人々が人間性における神の働きを受け入れるだけならば、彼らは一定の範囲に閉じ込められてしまうので、ごくわずかな変化を人々にもたらすだけでも、絶え間のない取り扱い、刈り込み、鍛錬が必要になるだろう。とはいえ、聖霊の働き、あるいは臨在がなければ、人々はいつも古いやり方を繰り返すだけだろう。神性の働きを通してのみ、これらの弊害や欠陥が正される。そして、その時初めて人々は完全にされるのである。絶え間のない取り扱いと剪定に代わって必要なのは、積極的ものの供給であり、人々の全ての欠点を補い、人々のあらゆる状態を露わにし、人々の生活、発言、行動の全てを支配し、その意図と動機を暴露するために言葉を使うことである。これこそが、実践的神の真の働きである。したがって、実践的神に対するあなた方の態度について言えば、あなた方は神の人間性の前におとなしく従い、神を認識し、認め、さらに神性における働きや言葉も受け入れ、それらに従うべきである。神が肉において現れることは、神の霊の働きと言葉のすべてが、神の持つ普通の人間性、および神の受肉を通して行われることを意味する。言い換えれば、神の霊は人間性の働きを指揮し、肉において神性の働きを実行する。そして受肉した神の中にあなたは人間性における神の働きと同時に、完全なる神性の働きも見ることができる。これは実際の神が肉において現れることのさらに実際的な意義である。このことをはっきり見ることができれば、あなたは神の様々な部分を全てつなぐことができ、神性の働きを重要視し過ぎることも、人間性における働きを軽視することもなくなる。また、極端に走ることも、回り道することもなくなるだろう。総括すると、実際神の意義とは、人間性の働きと神性の働きは同じ霊によって支配され、肉体を通して表されるということである。それを通して人々は、神が鮮やかで生きているようであり、現実的で、実在していることを見ることができるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より



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