いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

「一度救われたら、永遠に救われることができる」のか

2020-01-26 15:22:02 | 賛美の心

救われる」とは何かについての思考
 真心をもって主を信じるすべての兄弟姉妹はこう思っています。自分は主イエスを信じたので、もう救われました。聖書に「実に、人は心で信じて義うとされ、口で公に言い表して救われるのです」(ロマ10:10) と書かれているからです。こういうわけで、主にある多くの兄弟姉妹は「信じることによって救われる」としたら、永遠に救われることになると思っています。では、このような観点は神の言葉、真理に合うでしょうか。次に、本当に救われるとはどういうことかという面の真理について、わたしたちは一緒に交流しましょう。

 わたしたちはみなこのことを知っています。律法の時期、ヤーウェ神がモーセにイスラエルの民をエジプトから導き出すように命じられる前に、すべてのイスラエルの民はエジプトのファラオの手の下で奴隷になって、苦難をなめ尽くし、自由のない生活を送っていました。その結果、彼らの苦しい叫びがヤーウェ神の耳に達しました。ヤーウェ神はイスラエルの民がファロオに虐待されるのを見るに忍びなくて、イスラエルの民をエジプトからカナンの地に導くようにモーセを召されました。イスラエルの民がファロオの手の中から救い出されて、ファロオの暴政から逃れる時、イスラエルの民は「救われ」ました。しかしこれは、彼らがもはやヤーウェ神の救いを必要としないことを意味するのではありません。だから、イスラエルの民がカナンに入る前に、ヤーウェ神はモーセを通して律法を発布されました。それは、イスラエルの民がどのようにヤーウェ神を畏れるか、どのようにヤーウェ神に仕えるか、どのような行動が義なのか、どうすればヤーウェ神の祝福を得られるか、どのような行動が悪なのか、どうすればヤーウェ神に呪われるか、そして人と人がどのように付き合うべきか、どのように生活すべきかなどを知るためでした。神の律法の時期の働きによって、イスラエルの民の生活が次第に正しい軌道に乗るようになり、混乱した局面がなくなりました。特に律法のゆえに、イスラエルの民は罪を犯すとは何か、どのように神にいけにえをささげれば自分の罪をなくすことができるかを知りました。こうして、イスラエルの民はもう一度「救われ」ました。

一度救われたら、本当に永遠に救われるのか。
 ところが、律法の時代の末期になって、人はみな律法を守れなくなり、神を畏れる心を失ってしまい、その結果盲の動物、足なえの動物をいけにえとしてヤーウェ神の祭壇にささげました。このままでいけば、人はみな、律法によって罪定めされて死刑にされるという危険に直面します。人を死亡の脅威から救うためには、神は受肉して地上に来て贖いの仕事をし、自分を人の罪祭として十字架につけなければなりませんでした。人が主イエスに祈り主に罪を告白し悔い改めさえすれば、罪の赦しを得ることができます。このように、律法の下の罪人はサタンの手の中から贖われ、もはや律法によって罪定めされて死刑にされることがなくなり、主イエスから与えられた恵みの中に生きるようになりました。こうして、律法の下の人はもう一度「救われ」ました。それは聖書に書かれているとおりです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ロマ8:1)。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ロマ10:9)。ここの「罪に定められることはありません」は、律法によって罪に定められないことを指します。ここの「口で公に言い表し、心で信じるなら、あなたは救われる」は、主イエスを信じ、主イエスの十字架の救いを受け入れた後の人は律法を守れなくて律法によって死刑にされることはないことを指します。つまり、わたしたちが主イエスを信じることによって、わたしたちはもはや罪に定められなくなり、神もわたしたちの違犯を覚えなくなり、こうしてわたしたちは救われました。しかしわたしたちはこのことを知るべきです。すなわち、わたしたちの罪が赦されたことは、わたしたちに罪がないことを証明しません。なぜなら、あらゆる信徒は依然として、昼間に罪を犯し、夜に罪を認めるという状態の中で繰り返して生きていて、人の本性の中の根深い罪の根はまだ解決されていないからです。例えば、人の傲慢さ、独りよがり、貪欲、嫉妬、恨み、邪悪、エゴイズムなどのサタン的な毒素は依然として毎日わたしたちに伴っています。そのため、わたしたちは自制できずに罪の中に生きるようになりました。わたしたちは絶えず主に罪を告白しますけれども、わたしたちの罪は減っておらず、かえって絶えず増えています。多数のクリスチャンは家にいる時でさえ、主の栄光を生かし出すことができません。彼らは肉親と一緒にいる時、細かいことにけちけちします。教会の同労者たちの間にも常に嫉妬、論争が生じます。信徒は心がいつもこの世によって引きつけられるので、この世の邪悪な潮流を追求し、肉体の享受を貪り、罪の中に生きています。これらの言動は、人がまだ徹底的に「救われていない」ことを十分に証明します。つまり、わたしたちは主イエスに頼れば、罪の赦ししか得られず、主イエスが当時、人の罪を犯す本性を徹底的に取り除くという仕事をなさらなかったので、わたしたちは本当にきよくなることはできません。

 だから、「一度救われたら永遠に救われる」ということは、人の観念、想像であって、全然真理に合いません。主イエスは、一度救われたら永遠に救われるという言葉を言われたことがありません。主イエスの贖いの仕事はただ、人にどのように忍耐し、へりくだり、悔い改め、罪を告白するかを教えるのです。それはただ人が外側で変わるようにし、人の本性の本質を変化させません。わたしたちの置かれている状態から見れば、わたしたちは本当には「救われてい」ません。

では、わたしたちはどうすれば本当に救われることができるのか。
 これについては、わたしは多くの聖句を調べました。主に感謝します。わたしはやっと聖書の中から答えを見つけました。聖書にこう書かれています。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ペテ一1:5)。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブ9:28)。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(ヨハ12:48)。ヨハネの黙示録にはこう預言されています。「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を引く者たちが竪琴を引いているようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。彼らは女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」(黙14:1-5)。

 以上の聖句からわたしたちが分かりますが、神は世の終わりに一段階の仕事をなさり、しかもこの段階の仕事は主イエスのなさった贖いの仕事と異なります。それが聖書に述べられている裁きの仕事である可能性が非常に大きいです。裁きによって、人の罪はきよめられ、最終的に人は徹底的に罪の縛りから逃れます。それは「……その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」という預言のとおりです。これは、人がきよめられたことのしるしではありませんか。わたしたちは、あの時こそ罪の性質を徹底的に脱ぎ捨てることができるかもしれません! これで分かりますが、わたしたちの罪の性質がきよめられることができるかどうかは、神のなさる仕事と関係があります。ヤーウェ神と主イエスのなさった仕事は、人を罪から解放する仕事ではなく、ただ人に罪を自覚させ、罪を認めさせるものですから、人はどのように実行しても、罪の縛りから逃れることができません。こういうわけで、人は徹底的に「救われる」こともできません。世の終わりに神が人をきよめる仕事をなさる時こそ、人は徹底的に「救われる」機会があります。それは聖書に「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(黙22:14)と預言されているとおりです。主の啓きに感謝します。それによって、わたしは本当に救われるとはどういうことか、そして最終的にきよめられるための道を知りました。

 兄弟姉妹たちよ、わたしたちは今日ここまで交流しましょう。異なった理解やアドバイスがあれば、いつでもわたしたちに連絡してください。すべての栄光、賛美が神にありますように、アーメン!


恵みによって救われれば、天国に入れるのか

2020-01-25 15:00:35 | 賛美の心

 今日、わたしは道を説く時、大災難がもうすぐ起こると言い、兄弟姉妹たちに積極的に集会に参加し、もっと多く聖書を読み、現実生活の中で主の道を行い、目を覚まして主の到来を待つように要求しました。わたしは一部の兄弟姉妹が依然として力を持たず、自分が天の国の中に携え上げられることができるかどうかを疑うのを見て、こう言いました。「兄弟姉妹たち、聖書にこう書かれています。『実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです』(ロマ10:10)。主イエスを信じたわたしたちは心で信じ、口で公に言い表したため、永遠に救われました。主が再来される時、わたしたちはきっと天の国の中に携え上げられることができます!」。兄弟姉妹たちはこの言葉を聞いた後、うれしくなり、また力を持つようになりました。この時、同労者山田さんは立ち上がって言いました。「わたしはそうとは限らないと思います。主イエスは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』(マタ7:21)と言われました。これはわたしたちに、神の御心を行う者だけが天の国に入ることができるとはっきり教えています。今わたしたちは救われましたが、依然として昼間に罪を犯し、夜に罪を告白します。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではありません。わたしはわたしたちが天の国に入ることができないと思います!」。

 兄弟姉妹はさっき少しうれしくなったが、同労者山田さんの一言で彼らの顔から笑顔が消えました。わたしはみなさんを見回して少し考えた後、その言葉を引き取って言いました。「兄弟姉妹たち、パウロ兄弟はガラテヤの信徒への手紙第3章26節で『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです』と言いました。これは、わたしたちはイエスを信じることによって神の子となったことを証明します。わたしたちは神の子ですから、必ず神の国に入ることができます!」。

 同労者山田さんはわたしの言葉を引き取って話しました。「佐藤兄弟、わたしはあなたの言葉に賛成しません! ペテロの手紙一第1章16節で『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあります。へブライ人への手紙第12章14節で『聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません』と書いてあります。聖書のこの二箇所の言葉から、わたしたちは神のきよい性質をはっきり見られます。わたしたちは救われましたけれど、いつも罪を犯し、罪を告白し、まだきよくなっていません。このようなわたしたちは全然主に会う資格がありません。これではどうして天の国に入ることができるでしょうか」。

 この時、佐々木兄弟は立ち上がって、聖書を指しながら厳しく言いました。「兄弟姉妹、使徒パウロはローマの使徒への手紙第8章33節から34節でわたしにはっきり言いました。『だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう』と。わたしたちはもう神に選ばれた人になりました。わたしたちが以前犯した罪も、わたしたちが以後犯す罪も、主イエスに赦されました。主はもうわたしたちを罪人だと思いません。わたしたちはすでに義とされました。だから、わたしたちはきっと天の国に入ることができます。これは疑う余地のないことです! わたしは佐藤兄弟の観点に賛成します」。

 同労者山田さんは断固として言いました。「兄弟姉妹たち、聖書には、聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできないと書かれているし、主イエスも天の父の御心を行う人だけが天の国に入ることができると言われました。これは、わたしたちがきよくなってこそ神の国に入ることができることを証明します。わたしたちは主の言葉を守らなければなりません!」。

 すると、わたしは大声で言いました。「同労者のみなさん、救われるという問題については、パウロはこう言いました。『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です』(エフェ2:8)。『もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります』(ロマ11:6)。パウロの言葉はどんなにはっきりしているのだろう。主の救いは価なしにわたしたちに与えられました。彼は人の行いを問題にしません。もし彼が人の行いを問題にすれば、それは主の恵みだと言えるでしょうか。今日、わたしたちが主の恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます!」。

 佐々木兄弟は手を揚げて言いました。「佐藤兄弟の言うとおりです! パウロはまたテモテへの手紙二でこう言いました。『神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ』(二テサ1:9)。主イエスを信じるわたしたちは恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます。行いによって救われることができる者はだれもいません!」。

 同労者山田さんは感情が少し高ぶって立ち上がって言いました。「兄弟姉妹たち、神を信じるわたしたちが天の国に入ることができるかどうかを決めるのは主イエスですか、それともパウロですか。主イエスの言葉に権威がありますか、それともパウロの言葉に権威がありますか。わたしたちは主イエスが真理、道、命であることを認めますか」。この言葉を聞いた後、みんなは互いに顔を見合せて、「もちろん認めます!」と言いました。

 同労者山田さんのこの言葉はわたしを悟らせました。「そうですね。わたしたちは神を信じる上で主の言葉を基準とすべきです。なぜわたしはいつもパウロの言葉に言及するのですか」とわたしは考えていました。ここまで考えた時、わたしは心を落ち着かせて、続けて山田兄弟の言葉を聞きました。

 同労者山田さんは続けて言いました。「わたしたちは主イエスが真理、道、命だと認めますが、でも今パウロの言葉は主イエスの言葉と矛盾し、対立しています。これは、パウロの言葉が混じり気のあるもの、人の意志によって出たものであって、真理ではないことを証明します。わたしは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』という主イエスの言葉を信じます。これこそ、天の国に入るための唯一の基準です!」。

 この時、佐々木兄弟は立ち上がって、聖書を指しながら厳しく言いました。「兄弟姉妹、使徒パウロはローマの使徒への手紙第8章33節から34節でわたしにはっきり言いました。『だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう』と。わたしたちはもう神に選ばれた人になりました。わたしたちが以前犯した罪も、わたしたちが以後犯す罪も、主イエスに赦されました。主はもうわたしたちを罪人だと思いません。わたしたちはすでに義とされました。だから、わたしたちはきっと天の国に入ることができます。これは疑う余地のないことです! わたしは佐藤兄弟の観点に賛成します」。

 皆さんがうなずいて賛成するのを見て、わたしは「山田兄弟、あなたの言うとおりです。わたしたちは主を信じる上で主イエスの言葉を基準とすべきです。しかし、わたしは救われることと天の国に入ることについてよく分かりません。この面についてあなたはどう考えていますか」と言いました。

 この時、同労者山田さんは落ち着いて言いました。「この面については、ここ数日わたしは聖書を繰り返して調べました。わたしはこの面についてこう思っています。救われるとは、律法の罪定めから解放されること、罪の赦しを得ることです。しかし救われる人は常に罪を犯し、神に逆らい、神に背き、まだきよくなっておらず、まだサタンの権威の下に生きています。天の国に入ることのできる人は天の父の御心を行い、神の言葉を実行する人、神を知り、神に従い、神に味方する人でなければなりません。だから、救われることと天の国に入ることは異なります。主イエスが言われたように、『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない』(マタ22:14)。これは、主を信じて救われる人が多いが、最終的に天の国に入る人が少ないことを証明します。これも神の義なる性質を明らかにしました」。

 この言葉を聞いて、高橋兄弟はこう言いました。「わたしは山田兄弟の観点に賛成します! 主イエスは『天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている』(マタ11:12)と言われました。主の言葉から分かるように、天の国に入るのには基準があるのです。それはわたしたちが想像しているように簡単ではありません。恵みに頼って救われるとしたら天の国に入ることができる、というのではありません。わたしたちは努めて主の道を行わなければなりません。それでこそ天の国に入ることができます」。

 彼らの言っていることはもっともですが、わたしの心の中にやはり疑問があります。そこで、わたしはこう聞きました。「天の国に入るのに、天の父の御心を行わなければなりません。これは間違いのないことです。だが、わたしたちはずっとパウロに倣ってすべてを捨てて主のために働くのではありませんか。多くの兄弟姉妹は自分の一生を主にささげ、一生娶ったり嫁いたりせず、主のために山々を越えて福音を宣べ伝えます。すべてのクリスチャンが天の国に入るために少なからぬ苦しみを受け、多くの代価を払ったと言ってもいい。これは天の父の御心を行うのではありませんか。わたしはわたしたちがずっとこのように実行すれば、きっと天の国に入ることができると信じています!」。

 同労者山田さんは手の中の聖書を下に置いて言いました。「兄弟姉妹たち、わたしたちはまじめに聖書を調べましょう。主イエスは、人がすべてを捨てて、主のために労苦し、働くなら天の国に入ることができると言ったことがありません! 主イエスはただ『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』と言われました。わたしはこう思います。本当に天の父の御心を行う人たちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛する人です。彼らが働き、苦しみを受けるのは、自分の利益と前途のためではなく、完全に神を愛し、神の愛に報いるためです。彼らは何事にも神の願いを顧みることができ、どんなことがあっても罪を犯したり神に逆らったりしません。彼らが神を信じるのは、完全に罪悪を逃れ、自分をきよくするためです。このような、主のために働く人こそが天の国に入る資格があります!」。

 この時、沈思している高橋兄弟はこう言いました。「山田兄弟の言うとおりです! 聖書に『義を行う者は、御子と同じように、正しい人です』と書かれています。ここの『正しい人』は信仰によって義と『された』人ではなく、義を行う人、もはや罪を犯さない人を指します。わたしたちは今、すべてを捨てて主のために働きますが、やはりいつも罪を犯します。わたしたちは真の義人ではなく、神の国に入る資格がありません!」。

 わたしは異議があって反駁しました。「パウロはこう言ったのではなりませんか。『わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。……』(二テモ4:7-8)と。わたしたちが主のために福音を宣べ伝え、労苦し、働き、主の道を守るのは、天の父の御心を行うのではありませんか」。

 同労者山田さんは冷静に言いました。「佐藤兄弟、あなたの観点によれば、海と陸を行き巡って至る所で福音を宣べ伝え、多くの苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っているパリサイ人も天の父の御心を行ったのではありませんか。わたしたちが知っているように、パリサイ人は外側で神のために苦しみを受け、代価を払いましたが、神に逆らい、主イエスを十字架につけました。これで分かりますが、人が外側で苦しみを受け、代価を払い、外側のよい行為を持つことは、人が天の父の御心を行い、神を認識し、神に従うことの証明ではありません! 同様に、わたしたちは今日主のために働き、苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っていますが、やはりいつも罪を犯し、神に逆らいます。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではなく、天の国に入る資格がありません!」。

 これらの言葉を聞いた後、わたしは言うべき言葉がなくなりました。考えてみれば、わたしたちが罪の中に生きていることは事実であり、わたしたちが主のために費やす時、主と取引するという意図、観点、祝福を得ようという欲望があることも事実です。

 この話題について、皆さんはそれぞれ自分の見方と認識を積極的に話しました。集会がもうすぐ終わる時、わたしは皆さんに喜んで言いました。「兄弟姉妹たち、神に感謝します。今日の弁論会によって、わたしたちは救われることは天の国に入れることを意味しないと分かりました。しかも、このような弁論によって、恵みに頼れば救われることができるというわたしの間違った観点も是正されました。以上から分かるように、わたしたちが外側でどのように神を信じても、どのように主のために労苦し、働いても、わたしたちの中の罪が解決されず、わたしたちが本当に神の御心を行うことができないとすれば、わたしたちは神に良しとされることができず、神の国に入ることもできません。この点から、神がきよくて正しい神であるのを知ることができます。だから、わたしたちはいつも自分の観念と想像によって神を信じるわけにはいかず、神がわたしたちに要求する、天の国に入るための基準によって追い求めるべきです。そうしてこそ、神の心を満足させ、神の称賛を得ることができます」。これらの言葉を聞いて、兄弟姉妹たちはみなうなずいて賛成しました……。


私はキリストを見るのにふさわしくない

2020-01-24 14:35:24 | 賛美の心

遼寧省大連市 還報

 全能神を信じるようになって以来、キリスト自身による牧養を受けることができ、自らの耳でキリストの説教を聞くことができる兄弟姉妹のことをずっと羨ましく思いました。心の中では、いつか私も将来キリストの説教を聞くことができたらどれほど素晴らしいかと思っています。もちろん、キリストを見ることはもっと素晴らしいことでしょう。けれど最近キリストの交わりを聞いたことで、私はキリストを見るのにふさわしくないと深く心から感じるようになりました。

 それは『いのちに入ることに関する交わりと説教』第1~3巻が配布されたときのことでした。第1巻を聞いたとき、私は聖霊に使われている人は話がとても上手だと感じました。第2巻で、ある姉妹の話を聞いたとき(これはこれらの交わりがキリストによるものであると誰かが教えてくれる前のことです)、私はこの人は単に聖霊に使われている人より格下のリーダーなんだろうなと想像しました。特に、知識をどのように見るべきかという問題についてこの姉妹が話したとき、兄弟姉妹が熱心に反応するのを聞かなかったので、私の想像は当たっていると確信し、またこの人は聖霊に使われている人ほど話が上手でないと感じたので、注意深く聞いていませんでした。第3巻を聞いた後、聖霊に使われている人の話の後、私は同じ姉妹が「今の兄弟の交わりについて…」と言うのを聞きました。それで私は余計にこの姉妹は聖霊に使われている人より格下のリーダーに違いないと確信したのです。というのも、上司が最初に話し、部下が後で話すのが世間の常だからです。そのため「あとで時間があるときにこれを聞こう」と思いながらスピーカーを切りました。この姉妹が実はキリストであると知った日、私はショックを受け、そしてついに説教の一字一句に真剣に耳を傾けました。

 その後、私は熟考を始めました。私はキリストの交わりを自ら聞きたいと強く願っていたのに、キリストがついに私たちに話しかけたとき、なぜ私は見分けることができなかったのでしょうか。私はこんな状況に関連する神の言葉を飲み食いし始めました。そして、神がこう言っていたのです。「すべての人はイエスの真の顔を見たい、イエスと共にいたいと思っている。イエスを見たいとも、イエスと共にいたいとも思わない兄弟姉妹がいるとはわたしは思わない。イエスを見る前には、つまり、受肉した神を見る前には、たとえばイエスの外観、話し方、生き方などについて、あなたがたはあらゆる考えを抱くことであろう。しかし、ひとたび本当にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わる。なぜか。その理由を知りたいか。人間の考えを見過ごすことはできないというのは本当である。しかしそれ以上に、キリストの本質は人間が変えることを許さない。あなたがたはキリストは神仙であり、あるいは賢人としてとらえており、誰一人としてキリストを神聖な本質をもつ普通の人としてとらえていない。したがって、昼も夜も神に会うことを切望している人の多くが実は神の敵であり、神と相容れないのである。これは人間側の間違いではないだろうか。今でさえ、あなたがたは自分の信心と忠実は十分なので自分はキリストの顔を見るのに相応しいと考えている。しかし、わたしはあなたがたに実際的なものをさらに多く備えるように強く勧告する。これは、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う人の多くが失敗したから、また失敗するからである。彼らは皆パリサイ人の役割を演じる。あなたがたの失敗の理由は何か。それはまさに、あなたがたの観念の中に立派で称賛に値する神がいることである。しかし実際は人間が望むとおりではない。キリストは立派でないだけでなく、特に矮小である。キリストは人間であるというだけではなく、ごく普通の人間である。…そのため、人々はキリストを普通の人間として扱う。人々はキリストと共にいるときにキリストを気軽に扱い、…あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、その言葉を普通の人間の言葉とみなしている。このため、あなたがたはキリストから何も受け取っておらず、代わりに自らの醜さを完全に光にさらけ出しているのである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)神の言葉と比べて、私はキリストの交わりをついに聞いたときに自分の堕落した性質がどのようにはっきり示されたかを考えました。私はキリストの説教と交わりを自分の耳で聞きたいと望んでいたのに、キリストの交わりをついに聞いたときに、気にもとめませんでした。私はキリストをただ普通の人間とみなしていました。これは私がキリストの本質を理解せず、キリストが謙遜し隠していることのすべてを理解せず、キリストについての考えや観念を多くもちすぎていたからです。キリストの交わりはキリストに直接会える兄弟姉妹に限定されていて、他の人々は自らの耳でキリストの交わりを聞くことは許されないに違いないと私は想像していました。キリストの交わりは、キリストが身分を公に発表することを伴うのだろうと私は想像していました。キリストの交わりは、何らかの特別な人のように他の人々とは違う声で、多くの優美な言い回しをもって語られるはずだと私は想像していました。キリストの交わりは兄弟姉妹の興奮した情熱的な歓声に伴われるのだろうと私は想像していました。そして、聖霊に使われている人とキリストが順番に話すのならば、キリストが最初に話し、聖霊に使われている人は最後に話す…私はキリストの働きと言葉を私の想像の境界内に閉じ込めてていました。私はキリストを特別な仕方で想像したからです。事実が私が想像していたことと食い違ったとき、私はキリストを普通の人として、キリストの言葉を普通の人の言葉として扱い、他の人々が交わりから多くを得た一方で、私は何も得られず、傲慢で、思いあがった、真理を軽蔑するサタンのような自らの本性を曝け出し、キリストを拒否し抵抗する者となったのです。

 後になり、私は神の言葉に次のことを見つけました。「あなたがたはキリストを見たいと常に思っているが、自分をそのように高く評価しないことをわたしは勧める。誰でもキリストを見ることができるが、誰もそうするに相応しくない、とわたしは言う。人間の本性は邪悪、傲慢、反抗心に満ちているため、キリストを見た瞬間にあなたの本性はあなたを破壊し、あなたを死に至らせる。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)「真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。…真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より)私があまりにも傲慢で、あまりにも反抗的で、あまりにも俗物で、身分や地位を持っている人たちであればあまりにも容易に傾聴し同意する気になるのに、一方では身分や地位を持たない人々を見下し、そのような人々が真理にしたがって語っても聞こうとしないため、神の声を認識することができないのだと、神の言葉により理解しました。交わりを聞いたとき、私は真理に集中せず、真理を得ることを望まず、その代わりに心は臆測と探求に没頭していました。私は傲慢さと反抗、観念と想像だけを暴露したのです。私のように傲慢で、反抗的で、真理を受け入れない者が、私のように真理の前で敬虔さや渇望をもたない者が、いったいどうして神の声を聞き、知ることができるのでしょうか。どうして私がキリストを見るのにふさわしいでしょうか。

 この明らかにされたことを通して、たとえ私がキリストを見たいと思っても、サタンによる私の堕落があまりに深く、生来私は傲慢で反抗的であり、私には真理がなく真理への愛もなく、キリストの本質を理解せず、ばかげた偏見で判断し、あまりにも多くの観念や考えを持ち、私が信じる神は依然曖昧な神であり、力強く雄弁な姿かたちをしているため、私はキリストを見るにはふさわしくないということをついに理解したのです。そして私が本当にキリストを見ると、私の観念は根を張り、私の傲慢さはいつ芽を出すか知れず、そのため私の反抗的な本性が私を滅ぼすかもしれません。今私は真理を身にまとい、神の言葉において私の堕落した本性とキリストの本質を理解することを求め、キリストを理解し崇拝する人にならなければなりません。


誠実な人になってこそ、天の国に入ることができる

2020-01-23 14:16:59 | 賛美の心

 聖書の中で、主イエスはこう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)。わたしは主イエスのこの言葉を読むことによって、次のことが分かりました。神は誠実な人が好きです。彼はわたしたちが神の前で偽りを言わず、己を偽らず、子供のように無邪気で単純であって、誠実な人になれることを望んでおられます。なぜなら、誠実な人になってこそ、天の国に入ることができるからです。では、わたしたちがどのように実行すれば誠実な人になれますか。この問題については、わたしはいつも真理を求め、考えます。主の導きに感謝します。今、わたしたは誠実な人になるための実行について、いくらかの認識を持つようになりました。次に、わたしは皆さんとわたしの認識を分かち合いましょう。 

 一、祈る上で、誠実な人になるための実行をするべきです。ヨハネによる福音書第4章23節から24節で、主イエスはこう言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。この箇所の言葉を通して、わたしはこのことを知りました。誠実な人になるためには、まず、祈りの中で心からの言葉を神に話すことを訓練し、自分の本当の状態、自分の実際の困難を神に話すことを学ぶべきであり、他人に祈ってみせてはならず、また聞こえのよい言葉、心にもない言葉を言って神を欺いてはなりません。それはルカによる福音書第18章10節から14節で書かれているとおりです。「二人の人が祈るために神殿に上がった。一人はファリサ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。この箇所の言葉の中で、わたしたちはファリサ派の人の祈りと徴税人の祈りが全く違うのを見ました。徴税人は非常に簡単な祈りをして、ただ主に罪人の自分を憐れむことを求めましたが、心からの言葉を言いました。彼は心から自分の間違いを認め、また自分の行いを悔いて、神に彼を憐れむことを求めました。だが、ファリサ派の人は祈る時、ただ聞こえのよい言葉を言って、神の前で手柄話をし、人の前で自分をひけらかすのでした。彼は神に心を開いて、心からの言葉を神に話しませんでした。こういうわけで、ファリサ派の人の祈りはいくら聞こえがよくても、神に良しとされません。主イエスはファリサ派の人を暴露した時にこう言われました。「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(マコ12:40)。だから、現実生活の中で、わたしたちはまず祈る上で神にうそ偽りのない言葉、心からの言葉を話すべきであり、自分の一言一行も神の監視を受けなければなりません。それでこそ、誠実な人になるための道を歩むことができます。

 二、誠実な人になるためには、うそ偽りのない言葉を言い、うそを捨てなければなりません。マタイによる福音書第5章37節で、主イエスはこう言われました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」。主イエスの言葉から分かるように、主はわたしたちがありのままを言い、事実どおりに言い、尾ひれをつけないで、正確に言うことを要求されました。わたしたちがこのように誠実に話すことができなければ、悪を行う人になってしまいます。思い返してみれば、わたしは日常生活の中でいつも自分の利益、メンツ、地位のために、尾ひれの付いた話をし、事実と一致しない言葉を言いました。例えば、ある時、わたしは他人の機嫌を取るために、心にもない言葉を言って他人にこびへつらい、他人をおだてました。またある時、他人がわたしをばかにしないように、事実を隠したり、自分を持ち上げるような言葉を言ったりして他人にいい印象を残しました。しかも、自分の仕事の中で間違いや手抜かりがある時、責任を追及されないために、仕事の報告をする時、わざと問題を小さくしました。これらの、うそをつく言動はわたしたちの日常生活の中でいつも現れます。それは、誠実な人になるための真理を実行するのに解決しなければならない問題です。では、うそをつき、欺くという問題はどのように解決します。まず自分に厳しく要求しなければなりません。わたしたちはどの言葉を言う時も神の監視を受けるべきであり、毎日、自分の言葉を記録して、自分の言葉が事実に合っているかどうかを反省し、自分の言葉に意図があるかどうかを調べるべきです。言葉を言う時、自分の言葉に意図があると気づいたら、祈って自分の意図を裏切るべきです。そうすれば、日常生活の中で人に言ううそがますます少なくなります。

 三、本分を尽くす上で、神をごまかし、欺いてはなりません。マタイによる福音書第22章37節から38節で、主は人にこう要求されました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である」と。主の言葉から分かるように、クリスチャンとしてのわたしたちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、わたしたちの神を愛しなければなりません。だから、本分を尽くす上では、神と取引してはならず、いかなる意図や目的も持たずに自分にできる限りことをし、神のために完全に自分自身を費やすべきであり、神をごまかしてはなりません。思い返してみれば、わたしは自分の利益を犠牲にして苦しみを受け、代価を払わなければならなかった時、自分の肉体を思いやっていて、神を満足させるために心を尽くし、力を尽くして自分の本分を尽くすことができず、神をごまかして、たやすいやり方で本分を尽くし、手間を省くことばかり考えて効果を求めず、また、自分の本分が神の心を満足させたかどうかを考えませんでした。例えば、わたしは新しい信者に真理を注いだ時、新しい信者を集会に参加したくさせるだけで満足し、新しい信者が真理を理解したかどうかを重んじませんでした。兄弟姉妹たちが消極的になり、弱くなるたびに、わたしは兄弟姉妹たちと真理を交流します。彼らが当時消極的にならなくなると、わたしは満足しました。だが、その後、わたしは兄弟姉妹たちの状態に関心を持ち続けず、また、彼らを続けて助け、 支えることをしませんでした。これらは、本分を尽くす上で神をごまかし、欺くことの表れです。だから、本分を尽くす上で神をごまかすという問題を解決したいなら、わたしたちは自分の本分が合格したかどうか、自分が身を入れて本分を尽くしたかどうか、自分が全力を尽くしたかどうか、ごまかそうという考えや、ごまかしの状態があるかどうかを常に反省しなければならず、また、常に神に祈り、神の監視と兄弟姉妹たちの監督を受けなければなりません。一定の期間このように実行すれば、本分を尽くす上での、ごまかしの状態とごまかしの態度は次第に少なくなります。

 四、誠実な人になるためには、本当に心を神に渡さなければなりません。これは誠実な人になるための、最も肝心な実行です。神はこう言われました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。……むなしくわたしをあがめている」(マタ15:8-9)。この言葉から分かるように、神は人の口先だけの信心、礼拝を必要とせず、人が心を完全に神に渡し、祝福されても、災いを受けても、神を信じる心を変えず、神の支配と按配に従い、自分の理由と条件を話さず、また自分の利益と得失のために言い争わず、神のために完全に自分自身を費やすことができると望んでおられます。昔の多くの聖徒は神のこの要求を満たしました。わたしたちは例をいくつかあげましょう。ヨブは試練を受けた時、家産、子女を奪われ、しかも自分の肉体が病気に苦しめられていました。家族と友人が自分を理解してくれないという状況の下で、ヨブはなおも自分の忠誠を堅く保っていて、神を怨んだり、神を誤解したりせず、ただ神の支配を信じ、真心をもって神に従い、不平を言わず、また神に対する信仰を失わず、真心を神に渡しました。アブラハムもそうでした。神はアブラハムが彼の独り子イサクを燔祭としてささげることを要求した時、アブラハムは事の是非を論じず、神を怨まず、自分が百歳に得た最愛の息子を無条件に神に返しました。ペテロは同様に神の心を満足させました。主のためには、彼はさかさまに十字架につけられました。これらの人は真心を神に渡した人です。神の目には、彼らは誠実な人です。しかしわたしは現実生活の中で、ヨブ、ペテロたちのように無条件に神に従い、神を礼拝することができません。わたしは天の国の祝福を得るためだけに代価を払い、費やし、義なる冠を得るためだけに労苦し、働きます。わたしがこのような観点と態度を持つことは、わたしが神を信じるが、心の中に神がなく、心を神に渡せないことの表れです。ひどく言えば、それは神を欺くことの表れでもありす。だから、わたしたちが神に喜ばれる誠実な人になりたいなら、心を神に渡し、あらゆることで神に祈り、神に依り頼み、神の御心を求め、そして神の御心と要求にしたがって行うべきであり、どんなことをしても私利を図らず、神のすべての支配、按配に従うべきです。

 誠実な人になりたいなら、わたしたちは以上の四つの面で訓練し、実行しましょう。まず祈りの中で、神に心からの言葉を言うべきです。何かあったら、うそ偽りのない言葉を言わなければなりません。本分を尽くす上では、責任感を持つべきであり、神をごまかしたり、欺いたりすることなく、真面目に働くべきです。もし試練が臨んだら、わたしたちは祝福を得るか、災いを受けるかをかまわず、神の御心を求め、神の支配と按配に従うべきです。わたしたちがずっとこのように訓練し、実行すれば、神に喜ばれる誠実な人になれます。


毎日の聖書への信仰心:あなたの心の中で神様と神殿はどちらのほうが偉大な存在ですか

2020-01-22 13:29:15 | 賛美の心

 聖書には次のように記載されています:「 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」(マタ12:6-8)。私が神様を信仰し始めた頃にこれらの聖句を読みました。当時、私が分かっていたのは、主イエス様は、律法のもとで生きていた人々に、神様は神殿よりも偉大な存在で、神様は安息日の主であることを思い出させるためにこの言葉を言ったということだけでした。それにより、イエス様はその日に病人を癒すことができました。また、休息日にトウモロコシ畑を通る際に、トウモロコシを引き抜いて食べた弟子達を非難することもありませんでした。昨日、私はこの聖句を再び読みました。イエス様が休息日に働かれたという事実から、私は、律法のもとで生きていた人々に、イエス様は神殿の外で新たな働きを行われたこと、誰もが神殿から離れ、神様の新たな働きを受け入れるべきであることを思い出させていらしたのだと、明確に悟りました。

 しかし、その頃、律法と規則に闇雲に従って生きていたパリサイ人は、神殿を神様よりも偉大な存在とみなしていました。どうやら、彼らは神殿にいる神に仕え、律法について人々に説明するものの、律法や規則、制約についてただ話しているだけのようで、彼ら自身が律法を遵守することは決してありませんでした。さらに悪いことに、彼らは神様の律法を否定し、預言者を殺害し、未亡人の家から金銭を巻き上げていました。従って、神様の御目には、彼らがしていることはすべて、神様の御心や御要件とは一切無関係で、彼らの奉仕は単に犠牲の儀式を行い、偶像を崇拝しているだけと映りました。彼らは神殿、自身のステータス、生活を神様や神様が表された真理よりも評価していたため、彼らの心には神様のための場所はありませんでした。そのため、主イエス様の御説教を聞き、イエス様が表された数々の御印や奇跡を目の当たりにし、イエス様の御力と御権威、そして驚異に満ちた御偉業を認識しても、真理を追求したり、神様の御意図に従うための方法を探したりする心を誰も持ち合わせていませんでした。その上、彼らは、主イエス様を普通の人であると言って、イエス様を裁き、非難し、イエス様が悪魔の王子を使って悪魔を祓ったと冒涜したのです。彼らはローマ政府と手を携え、主イエス様を十字架に磔にすることさえしました。最終的に、彼らは神様の性情に反し、神様の義なる懲罰と呪いを受け、地獄の中で壊滅させられました。

 次に、パリサイ人達に欺かれたユダヤ教信者についてお話します。彼らも“神殿”を神様よりも偉大な存在と見ていました。たとえば、彼らは祭司や律法学者、パリサイ人を神様よりも偉大とみなしてたのです。そのため、祭司に欺かれ、煽られると、理性を失い、神様の信者が持っているべき基盤を失いました。彼らは主の側に立つことができなかったばかりか、盲目的に祭司に従い、主イエス様を十字架に磔にせよと叫んだのです。彼らは祭司や律法学者、パリサイ人の偽善の真実を見破ることができず、神様に仕えるこれらの人々が主よりも自身のステータスや聖書の言葉を偉大とみなしていたことを知りませんでした。彼らは、いわゆる“神の従者”で、“真理の道を守ること”をカモフラージュとして使い、人々を欺くためにさまざまな噂を捏造し、嘘をでっち上げていました。彼らは自身の手中で人々を厳しくコントロールし、神様の御働きを必死になり妨げ、損なわせ、人々を支配しようと神様と競っていました。従って、彼らに従ったユダヤ人も最終的に滅び、壊滅させられました。それでは、どのような人々が神様を偉大として称賛しているでしょうか?私はヨブのことを考えました。彼のすべての子供が死に、全財産が奪われ、深い悲しみに沈んでもなお、神様を冒涜する罪を犯さず、神様の名前を賛美し続けました。ヨブは次のように言いました。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)。ヨブの心には神様のための場所がありました。ヨブにとって、神様は心の中で唯一の存在で、彼の羊も、牛も、財産も、子供たちも神様と比ぶべくもありませんでした。ヨブは心の中で神様を偉大な存在として称賛することができたため、試練を乗り越えた後、神様から素晴らしい御祝福を受けました。別の例ではペテロがいます。ペテロが主イエス様に従っていたとき、主の声に注意深く従い、主の御指示に沿って行動しました。兵士が主イエス様を捕まえようとしている重大な局面では、ペテロは自分の命も顧みず、主イエス様を救うために、走っていき兵士の耳を切り落としました。このことから、ペテロが自分自身よりも主を愛していたことが分かります。このような行為は普通の人にできることではありません。主はペテロの行為に満足されました。そのため、主イエス様は神様の国への鍵をペテロにお預けになり、教会を率いていく重い責任をペテロに委ねられました。

 このことについて考え、私は神様に祈りを捧げると、「私の心の中では、『神殿』と神様とどちらのほうが偉大だろうか?」と自問しました。パリサイ人が神様に抵抗していたという事実は、私に1つの警告を与えました。つまり、もし私が神様を信じながら、心の中では偉大なる存在として称賛せず、受肉したキリスト様を知らず、崇拝せず、またキリスト様に従っていなければ、私がどれほど神様を信じており、神様に従っており、神様のために犠牲を払い、努力したところで、キリスト様の目には私がすべきことすべてが無意味となるでしょう。私はヨブやペテロを見倣うべきです。どのような試練に遭遇しようとも、神様の統治を信じ、神様に真の信仰を持つべきです。神様の御働きや御言葉がどれほど私自身の観念や想像と一致していなかったとしても、自分自身を脇へ置き、神様に従う必要があります。このようにしてのみ、私は真に神様に従い、心の中で神様を称賛する人になれます。兄弟姉妹の皆さん、あらゆることにおいて、心の中で神様を偉大な存在として称賛しましょう。そうすれば、神様の御祝福と愛は確実に私達と共にあるでしょう!