いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

イエス・キリストの再臨はいつなのか誰も知らないって本当ですか

2020-08-26 22:16:39 | 賛美の心

イエス・キリストの再臨はいつなのか誰も知らないって本当ですか

    朝食後、チェン・ユーハンは聖書を読み始めた時、ドアをノックする音が聞こえました。彼女がドアを開けてみると、そこには同僚のヘ・シングアンと彼の妻シンユーがいました。

    二人は中に入ってきて座りました。そしてシングアンは混乱した様子でこう言いました、「昨日の同僚会議の後、帰宅したら心の中で落ち着かない気分がしたんです。ご存知の通り、今は主が来臨される終わりの日の重大な時期です。沢山の人が主は既に再臨されたと証言していますが、リュウ牧師は主がいつ来られるかは誰も知らないと仰ったんです。それは聖書にこう記されているからだそうです:「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書24:36). 従って、主が再臨されたことを説く証言は全て嘘ということになります。それに、私たちが騙されることがあれば、そのような証言に耳を傾けたり、目を向けたり、その証言をする人たちと連絡を取ってはならないと主は仰りました。私はこの主の御言葉について考えれば考えるほど、増々何かがおかしいような気がするのです。なので、私は主の御言葉を疑っています。主イエスが本当に再臨されているのに、イエスキリストの再臨を証言するいずれの人たちの言うことにも耳を傾けず、目を向けず、その人たちと連絡を取らずにいたら、どうやって主をお迎えできるというのですか?

    ユーハンはじっくり考えてこう言いました、「あなたが言ったことは本当に重大な問題です。主の来臨は慎重に対応するべきです。むやみにリュウ牧師に従ってはいけません。今現在、世界中で災害はどんどん悪化し、より頻繁に発生していますから、イエス・キリストの再臨をうたった預言は基本的に成就されています。今こそ、主が再臨される時なのです。私たちはイエス・キリストの再臨を切望しています。それが起れば、私たちは神との宴に参加して天国の祝福を授かるのです。今、私は沢山の人々がイエス・キリストの再臨を証言しているのを耳にしました。しかし、私が理解できないのは、」そして彼女は聖書を開き、続けてこう言いました、「主イエス様は明確にこう仰っておられるんです:「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書24:36)。人の子ですらいつ再臨するか知らないのに、彼らはどうやってこれを知り得たというのでしょう?しかしながら、主がいつ再臨されるかを誰も知らないとしたら、私たちはどうやって主の救いを受ければいいのでしょう?そうしたら、主が再臨される目的は一体何なのでしょう?私はそれについても混乱しています。」


    シングアンは頷いてこう言いました、「これは本当に問題ですね。昨日の会議の後、私は帰宅してから主に祈りを捧げてこの節を理解しようとしてみました。今朝もう一回読んでみたら、突然理解できたんです。「その日、その時は、だれも知らない。」という節は、主がいつ再臨されるかは誰もしらないという意味ではありません。それは主が来られる日とその時間は誰も知らないという意味です。主が再臨された後、誰かが主に気が付くでしょう。そうでなければ、どうやって 「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6) という主イエス様の御言葉が成就されるでしょう?「夜中に呼ぶ声がした」という節は、主が来られる時、誰かがそれを知るということを示しています。」
    シンユーは驚いてこう言いました、「凄い!これは神の御啓示だわ!この節は主イエスが再臨される日とその時間は誰も知らないことを明確にしているし、それは私たちは主が再臨される正確な日を知らないことを意味しているわ。でも主が再臨して人々の中で働きをされる時は、間違いなく主に気が付く人たちがいるってことよ。これは、『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」』(マタイによる福音書25:6) という節を確証しているわ。そう思いませんか?でも、リュウ牧師は聖書を誤解して主がいつ再臨されるかは誰も知らないって仰っていたわ。彼の解釈は人々を誤った方向に導いていませんか?ああ!私たちは本当に無知だわ!この節の内容はとても明らかなのに、どうして以前は分からなかったのかしら?主イエスがいつ再臨されるかを知る人は間違いなく現れるわ。」

    ユーハンはじっと考え込んでいました。彼女はシングアンとシンユーの話しを聞いた時、興奮しながらこう言いました、「主の御慈悲に感謝します。私は今日この交流を通じて、その節は主が再臨される正確な時は誰も知らないけど、主が再臨して働きを開始される時、誰かがそれを知ることになることを意味していると、やっと理解できました。主イエス様が恵みの時代に贖いの働きをするために受肉された時と同じです。預言者はメシアが来ると預言しましたが、何時どのようにして来るかは誰も知りませんでした。主イエス様が働きと説教を開始されたとたん、多くの人々が主イエス様に気が付きました。これと同じで、主が再臨される日とその時間は誰も知らないのです。しかし、主が再臨され、働きを開始されれば、間違いなく誰かが主に気が付くでしょう。そして主に気が付いた人たちはイエス・キリストの再臨を広め、その証言をするでしょう。そうですよね?」

    シンユーは興奮して言いました、「その通りよ!主の御啓示が主の御言葉を理解させてくださったことに感謝します。イエス・キリストの再臨は些細なことではありません。私たち信者は皆、主が来られて私たちを天国にお連れくださると期待しています、そうですよね?」

    ユーハンは嬉しそうに頷きました。そして、彼女はあることに気が付きました。彼女はシングアンを見てこう言いました、「主が再臨される正確な日を知らずにどうやって主の再臨をお迎えしたらいいんだろう?」

    シングアンは少し考えてからこう言いました、「私もそのことを考えているんですよ。私は主に祈りを捧げて答えを探求しました。そして主がかつてこう仰ったことを思い出したんです:『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。』(ヨハネによる福音書10:27)。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』(ヨハネによる福音書16:12-13)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。』(ヨハネの黙示録3:20)。これらの聖句は全て、主は再臨なさる時にまた真理をお話しになることを示しています。賢い乙女は主の御声を聞いてイエス・キリストの再臨をお迎えし、主との宴に参加するのです。私たちは賢い乙女たちと同じように、主の新たな御言葉を探しに行くべきです。私たちは、花婿が来た!と誰かが声を上げるのが聞こえたら外に出て主をお迎えするべきです。神の御声に気が付くことができたら、イエス・キリストの再臨をお迎えして神の足跡を辿りますよね?」

    ユーハンは嬉しそうに言いました、「もちろんです!主に感謝します!今日の交流は正に神から私たちへの御恵みです!これで、主の御声を聞き分けることが主を実際にお迎えするための道であることが分かりました!」

    シンユーは「これで主をお迎えする道が見つかったんだ…」、と感情を込めて言いました。

寄稿家:シア・ハン

 


聖書の言葉ーあなたは終わりの日の教会の荒廃の根源を知っているのか

2020-08-24 19:31:03 | 賛美の心

聖書の言葉ーあなたは終わりの日の教会の荒廃の根源を知っているのか

聖書の言葉
    ヤーウェ神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。」

アモス書8:11

    感得:この聖句は人が霊的飢え渇き、否定的となり弱くなっている状態の中で生き、教会の荒廃の根源の原因になることを言いました。重要なことは、人が神様の言葉と働きを尋ね求めず、さらに神様の言葉を聞かず、神様の言葉の供給を失い、飢饉の中に陥ったのです。当時律法の時代の末期の神殿が荒れ果てる時の光景みたいです。なぜなら、神様がすでに神殿から離れ、つまり主イエスが神殿の外で言葉を語り贖いの働きをなさい、神様の新しい働きが展開したら、聖霊は神殿の中で働かず、主イエスの働きを維持するのです。それら主イエスに付き従う人々は、いのちの生ける水の供給を得られ、霊に満たされ、聖霊の働きの平安と喜びを享受することができました。しかも、それは先祖代々神殿の中で神様に仕えた祭司、律法学者、パリサイ人、またそれらのユダヤ人は、彼らはただ律法に固執し、主イエスの言葉と働きを拒否し、いのちの供給を得られず、聖霊の働きを失って、飢饉の中に生き、神殿は強盗の巣になったのです。彼らは主イエスに従わないだけではなく、主イエスの働きに抵抗し、罪に定め、主イエスを冒涜し、最終的にローマ政府と結託して、贖いの働きをなさる主イエスを生きたまま十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯し、神様に呪われてしまったのです。


    今の宗教界を見てみましょう。ある牧師と長老、説教者は集会の時に、聖書の知識、神学理論を少し解説して、自己顕示し、自分を証し、人々に自分を崇拝させます。しかし、主の道を守らず、主の御言葉を言い伝えず、少しも主を証し、崇めることがなく、兄弟姉妹が聖書の働きと言葉を尋ね求めることをも導かないため、兄弟姉妹がいのちの生ける水の供給を得られなくなり、皆否定的となり弱くなっている状態の中に生き、信仰と愛が冷め、多くの人は世界の邪悪な流れに従い、金銭や名利、肉の享受を追い求め、罪のはかない歓楽にふけ、罪の中に生きていて抜け出すことができず、罪の深い淵に落ち、当時の神殿の荒廃の光景が再現しています。私たちは思わずこう考えます。今主の再来の預言はすでに実現され、主の再来を迎える肝心な時ですが、私たちは聖霊の働きを失って主の臨在がなくなり、これは本当に容易に主に見捨てられるでしょう。それでは、私たちはどのようにして主の足跡に付き従い、聖霊の働きを得られ、いのちの生ける水の供給を得ることができるのでしょうか。主イエスの言葉を思い出しました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14:6)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)主の言葉から私たちは、キリストは真理、道、いのちであり、神様の羊は神様の声を聞くことがわかりました。私たちは神様の足跡に付き従い、神様の出現を迎えたいなら、パリサイ人の信仰を失敗した教訓をくみ取り、終わりの日の主の再来の言葉と働きに対して、私たちは神様を畏れ敬う心を持って尋ね求め考察し、神様の声を心に留めれば、主の再来を迎える機会を得られ、いのちの生ける水の供給と注ぎを得られるのです。まさに神様が言われた通りです。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」断食と祈りでは教会の荒廃を解決できない理由

 

 


終末預言は既に実現され、主は既に新しい名前に変えて戻られた

2020-08-23 22:15:00 | 賛美の心

終末預言は既に実現され、主は既に新しい名前に変えて戻られた

    二千年前、主イエスは預言されました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書24:7~8)またヨハネの黙示録にはこう預言されました。「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり……」(ヨハネの黙示録6:12)この二節の聖句は主が再来する時の兆しは、さまざまな災害が頻発し、また血の月の兆しが現れると明確に私たちに教えました。しかし、血の月は既に2011年と2013年に現れました。2014年4月から2015年9月までに連続の四つの血の月が現れ、太陽が暗くなってめったにない天象が伴っていました。近年、各国の情勢が混乱の中にあり、時々テロ攻撃が発生し、干ばつ、地震、洪水、火災も発生し続けています。しかも、2020年の災害はさらに大きく、新型コロナウイルス肺炎は世界中に広がり、至るところが不安に襲われています。オーストラリアの大火災は何ヶ月も燃え続け、数億匹の動物が死亡し、全世界に深刻な汚染をもたらしました。米国でインフルエンザの猛威が続き、致命的なインフルエンザウイルスが全米国で蔓延しています。カナダのニューファンドランド・ラブラドール州では前例のない暴風雪に見舞われ、都市全体が雪に埋められました。東アフリカも25年以来最も深刻な蝗害に遭遇し、数千万人が食糧危機に直面しています。プエルトリコでは102年以来最も強い地震に遭遇しました。フィリピンのマニラは火山噴火に遭遇し、巨大な火山灰が全都市を覆い、地震も起こりました。また北アメリカのカリブ諸島で7.7震度の地震が起こるなど、災害が頻発し、四つの血の月が現れ、主の再来の預言が既に実現されたことを示し、多くの主を信じる人々は皆今は終わりの日であり、主イエスが再来される時であると感じています。


    現在多くの人は皆主イエスが戻られて、新しい名前に変え、新しい働きをさなると証ししていますが、ある兄弟姉妹は聖書に書かれている「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)によって、主イエスの御名は永遠に変わらず、主イエスだけが救い主であり、主イエスの御名によって救われ、ほかの新しい名前を受け入れるのは主イエスを裏切ることになると思っています。このような考えはいったい正しいでしょうか。次に一緒に神様の名前についての真理を交流しましょう。

神様の名前は変わるのか
    私たちは神様の名前はイエスと呼ばれ、永遠に変わらないと思っていますが、事実は本当にこのようですか。神様の名前は決して変わらないのですか。一緒に二節の聖句を見てみましょう。聖書にはこう書かれています。「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。」(イザヤ書43:11)「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」(出エジプト記3:15)

    聖書の記載から分かるのは、律法の時代の神様はヤーウェと呼ばれ、ヤーウェ以外に救い主がいなく、ヤーウェの名前は永遠に続くのです。しかし、恵みの時代になると、なぜ人々は主イエスを救い主として受け入れたのですか。なぜまた主イエスの御名を守るのですか。しかも、聖書には「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)と書かれています。もし、私たちの思う通りに神様の名前が変わらないなら、神様の名前はなぜヤーウェからイエスに変わったのですか。「ヤーウェ」と「イエス」この二つの名前はいったいどれが神様の唯一の名前でしょうか。

    実は、「世々」とは神様がその時代での名前が永遠に変わらなく、つまりその時代で神様の働きが終了しない限り、私たちは神様のその時代の名前を守るべき、こうしてこそ神様の称賛を得られるのです。しかし、神様が新しい時代の働きをなさる時、私たちは神様の新しい名前を受け入れるべきです。こうしてこそ子羊の足跡に従い、聖霊の働きを得られるのです。律法の時代で神様がヤーウェという名前を取って、その時代の人々は「ヤーウェ」という名前を守り続け、永遠に変えられません。神様が受肉して「イエス」という名前で贖いの働きをなさる時、律法の時代の働きが完了し、もし人はヤーウェの名前を固執し、主イエスの名前を受け入れないなら、聖霊の働きに捨てられ、排除され、暗闇に落ちるのです。ペテロ、ヨハネなどの弟子たちのように主イエスの新しい名前を受け入れるだけ、聖霊の働きを得られ、主の救いを得られるのです。ここから分かるのは、神様の名前は決して変わらないのではなく、神様が新しい時代の働きによって変わりますが、神様の名前がどう変わっても、依然として同じ神様であり、ただ呼び名が異なるのです。しかも、聖書には「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)と書かれているのをどう理解しますか。実は、神様の本質、神様の性質が永遠に変わらないと指しているのです。神様の名前が永遠に変わらないのではありません。一段落の言葉ははっきりと説明しています。「神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。神の働きは常に同じだと言うのなら、神はその六千年の経営(救いの)計画を終えることはできるであろうか。あなたは神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代まで連れてくることができたであろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜであろうか。……『神は不変である』という言葉は神が本来持っているもの、そして神の在り方に関してである。いずれにせよ、六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するように単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはいられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても働くことができ、これはいかに神の働きが常に前進しているかという象徴である。」(『神の働きのビジョン(3)』より)ここから分かるのは、神様の本質、神様の性質は決して変わらないが、神様の名前が変わるのです。つまり神様が違う時代でなさった異なる働き、異なる名前を取り、神様の名前は「ヤーウェ」と呼ばれても、「イエス」と呼ばれても、神様の本質が変わらず、いつでも一人の神様が働きをなさるのです。もし、主が再来されて新しい名前に変え、私たちは受け入れるなら、これは主イエスを裏切ることではなく、子羊の足跡に従うのです。当時ユダヤ教のパリサイ人は、神様の名前が時代によって変わるのを知らなかったため、彼らはメシアだけが彼らの神様であり、彼らの救い主であると思い、結局、神様の名前を「イエス」に変えて、贖いの働きをなさって来られる時、彼らは気が狂って主イエスを罪に定め、主イエスに抵抗し、最終的に、主イエスを十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯してしまい、神様の懲罰を受けたのです。私たちはこのことを今後の戒めとすべきです。自分の観念と想像によって神様の名前が永遠に変わらないと決めつけることができず、さらに終わりの日の神様の名前はまた主イエスと呼ばれると言うこともできず、さもないと神様を決めつけることになるのです。

神様が違う時代で異なる名前を取る意義
    神様はなぜ違う時代で異なる名前を取るのですか。神様が異なる名前を取る意義は何でしょうか。一緒に一段落の言葉を見てみましょう。「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。」(『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より)この段落の言葉は神様が各時代で異なる名前を取る意義を教えてくださり、神様が律法の時代でヤーウェと呼ばれ、神様が律法の時代で行われた働きを表し、神様が律法の時代で発表された威厳、怒り、呪い、憐れみの性質を表しています。ヤーウェ神は律法と戒めを発布され、人々に罪と何か、地上でどのように生きていき神様を礼拝するか、律法と戒めを守る人が神様の祝福を得られ、律法に背く人は神様に呪われ、懲罰されるのを分からせました。したがって、律法の下でのイスラエル人は皆律法を守り、ヤーウェの名を聖いものとし、何千年ものあいだヤーウェ神の導きの下で生活していました。律法の時代の末期になって、人類の堕落はますます深くなり、律法や戒めを守れず、捧げるものもなく、律法違反によって死刑を宣告される危険な状態にありました。神様は人類を救うために、恵みの時代を開き、イエスという名前を取って、人類を贖う働きをなさいました。言い換えれば、「イエス」という名前は神様が恵みの時代でなさった働きを表し、神様が恵みの時代で発表された憐れみ、慈しみの性質を表し、主イエスが人に憐れみを与えられ、人に悔い改めの道を賜り、最後に人類を贖うために十字架に釘付けにされ、人類はもはや律法によって罪に定めることがなくなり、神様の前に来て祈り、主の恵みと祝福を得られるようになりました。ここから分かるのは、各時代で神様が固有の名前があるが、どの名前も神様の全体を表すことができず、そのため、神様の働きの新しい段階はそれぞれの時代の意義を反映する特定の名前を取って、神様のその時代での働き及び発表された性質を表すのです。同時に、私たちは、神様は常に新しく、決して古くならない神様であり、神様が新しい時代の働きを開く時、再び古い名前を使わず、私たちはただ神様の新しい時代での名前を受け入れてこそ、聖霊の働きを得られ、神様の称賛を得られることが分かりました。

神様の終わりの日の新しい名前を通して主の再来を迎える
    それでは、主が再来される時に新しい名前に変えるのですか。実は、聖書はずっと前に、私たちに主が再来される時に新しい名前があると教えてくださいました。例えば、「利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録3:12)「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである。」(ヨハネの黙示録1:8)「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。』」(ヨハネの黙示録19:6)「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』。」(ヨハネの黙示録4:8)「そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、『今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。』」(ヨハネの黙示録11:16-17)聖書に神様の新しい名前について言及されていることから、私たちは主が再来される時に必ずイエスと呼ばないことを確定できます。しかも、ここには多くの箇所に神様の名前は「全能者」と呼ばれることに言及し、このいくつかの聖句以外に、ほかの聖句にも記載されています。例えば、「ヨハネの黙示録」の15章3節、16章7節、14節、21章22節などです。これらの聖句には「全能者」と言及しています。これらの聖句に基づき、私たちに分かるのは、主が戻られて新しい働きをなさる時に、主の名前は「全能者」に変わることです。しかも神様は「全能者」という名前を用いて新しい時代を開き、恵みの時代を終わらせ、人々に神様のすべての性質を認識させ、皆「全能者」を大いなる名前と崇めるのです。私たちは神様の終わりの日の新しい名前を受け入れるのは、主イエスの再来を迎えていることです。

    今「東方閃電」の人が主イエスが既に戻られ、全能神と呼ばれることを証ししています。「全能神」という名前はまさにヨハネの黙示録の預言の成就です。しかも、彼らは全能神が既に多くの真理を語り、一段階の人を裁き清める働きをなさり、人々をそれぞれの種類に応じて分類され、毒麦と麦を分けられ、神様の言葉の裁きを受け入れ、清められる人は災いの前に、神様に勝利者に完全にされて神様の国に入り、神様の言葉の裁きを拒絶する人は災いの中に落ちるのです。全能神がなさった言葉の裁きの働きはまさに聖書の預言の成就です。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)「収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう。」(マタイによる福音書13:30)聖書の預言の成就から見れば、おそらく全能神が主イエスの再来でしょう。私たちは主を迎えることにおいて、謙虚に尋ね求め考察すべきです。こうしてこそ主の再来を迎える機会を容易に逃すことはありません。


聖書のヨハネの黙示録の主イエスの再臨の六つの預言は既に実現された

2020-08-22 21:24:48 | 賛美の心

聖書のヨハネの黙示録の主イエスの再臨の六つの預言は既に実現された

    2000年前、主イエスは「見よ、わたしはすぐに来る」(ヨハネの黙示録 22:12)と約束されました。今、主の再臨の兆候がありとあらゆる形で表れており、主の日が近づいていることを多くの兄弟姉妹が予感しています。主はすでに再臨されたのでしょうか?主を迎えるために私たちができることは何でしょうか?ここでは、聖書に書かれた預言を掘り下げ、考察していきます。

主の再臨
目次

●主の再臨の第一の兆候:地震、飢饉、伝染病、戦争

●主の再臨の第二の兆候:天変の出現

●主の再臨の第三の兆候:教会は寂れ、信者の愛は冷える

●主の再臨の第四の兆候:偽キリストの登場

● 主の再臨の第五の兆候:イスラエルの復興

●主の再臨の第六の兆候:地の果てに至る福音の流布

●私たちはどのように主の再臨を迎えるべきなのか

 

主の再臨の第一の兆候:地震、飢饉、伝染病、戦争
    マタイによる福音書24:6-8には、「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」とあります。近年、アフガニスタンのタリバン政権の崩壊、インドとパキスタンの紛争、米国によるイラク侵攻、激化の一途をたどるイスラエルとパレスチナの間の戦争など、戦火が頻繁に勃発しています。また、伝染病、大規模火災、洪水、地震もあらゆるところで見られます。特に2019年に中国の武漢で発生した新型コロナウィルスは世界中に広がっています。2019年9月にはオーストラリアで甚大な森林火災が発生しましたが、地球の反対側の東アフリカではバッタが大量発生し、多く音国が飢餓に直面しています。2020年1月にはインドネシアで洪水が発生し、カナダのニューファンドランドは百年に一度の猛吹雪に襲われました。地震は、トルコのエラズーやカリブ海キューバ南部など各地で発生しています。これらの兆候から、この預言は成就したと見ることができます。

主の再臨の第二の兆候:天変の出現

    示録6:12には、「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり」と書かれています。ヨエル書2:30~2:31には、「わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」とあります。近年、月が血のような赤色になるという現象が数多くありました。たとえば、「ブラッドムーン」は2014年から2015年の二年間で4回発生し、2018年1月31日には、150年に一回しか現れない「スーパーブルー・ブラッドムーン」が観測されました。そして、2019年1月には「スーパーブラッド・ウルフムーン」が現れました。太陽が黒くなるという預言された現象も発生し、実際に2019年12月26日にはシンガポールで、同年7月2日にはチリでなど、数多くの日食が発生したのです。こうした現象から、この預言が成就していることは明らかです。

主再來的迹象三:教會荒凉 信徒愛心冷淡
    マタイによる福音書24:12には、「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。」とあります。宗教界は全体的に荒廃が拡大しています。牧師や年長者の説教は使い古された決まり文句となってしまい、信者に応えることができていません。地位を追い求めて徒党を組んで教会内に派閥を形成する牧師もいますし、中には工場を設立して事業を起こし、信者を世俗の道へと導いている牧師までいます。一方、信者は全般的に確信が弱く、この世界に別れを告げることに躊躇しており、うんざりするような揉め事に巻き込まれながら暮らしています。一部の教会は、一見、混み合って活気が あ るように見えるのですが、多くの人は商売の場所として教会を利用しており、単に人脈を広げて商品を売るために来ている過ぎません。今日の教会は、律法の時代末期に向かう頃の寺院とどこが違うのでしょうか?以上から、主の再臨に関する預言が成就していることは明らかです。

主の再臨の第四の兆候:偽キリストの登場
    マタイによる福音書24:4-5には、「そこでイエスは答えて言われた、『人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。』」とあります。主の預言によれば、主が再臨する際には偽キリストが出現して人々を騙すことがわかります。中国、韓国、日本などの国では近年、偽キリストが現れて人々を騙しています。こうした偽キリストはキリストの本質を有しておらず、また、真理を宣べ伝えることもできないにもかかわらずキリストを名乗っています。ここに、この預言が成就していることがはっきり示されています。

主の再臨の第五の兆候:イスラエルの復興
    マタイによる福音書24:32-33には、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」と書かれています。主を信じる者の多くは、いちじくの木の柔らかい枝と葉がイスラエルの復興を指していることを知っています。イスラエルが復興すると主の日が近くなりますが、イスラエルの復興は1948年5月14日でした。明らかに、この主の再臨に関する預言は完全に成就しています。

主の再臨の第六の兆候:地の果てに至る福音の流布
    マタイによる福音書24:14には、「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」と記録されています。マルコによる福音書16:15によると、主イエスは復活後、弟子たちに向かって、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われました。イエスの復活・昇天後、聖霊は、主イエスを証しすべく主イエスの信者を導き始めました。今日、キリスト教徒は世界中に広まっており、多くの民主主義国家がキリスト教を国家宗教に指定しています。政権政党が無神論主義の中国においてさえ、何千人もの人々が主イエスの福音を受け入れていることからも、主イエスを通した人類の贖いの福音が世界中に広まっていると言えるでしょう。以上より、主の再臨の預言が成就していることは明らかです。

私たちはどのように主の再臨を迎えるべきなのか
    上記に列挙した事実から、主の再臨について六つの兆候がすでに現れていることがわかります。今こそ、来るべく主を迎える決定的な時です。主の再臨を迎えられるようになる前に私たちがすべきことは何でしょうか?主イエスはずっと前にこの質問に対して答えられています。

    ヨハネによる福音書16:12~13において、主イエスは、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」と言われました。黙示録3:20には、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」とあります。また、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」など、黙示録の第二章と第三章には数多くの預言も示されています。これらの節からわかるように、主は再臨に際し言葉を発して教会に語りかけ、それまで私たちが理解していなかった真理のすべてを教えてくださいます。神の御言葉を耳にし神の声を認識したことがあり、神を受け入れて服する人々は、主を迎えて子羊の祝宴に参加することができます。一方、神の声を認識しない人々は確実に神の羊ではなく、神によって暴露され、排除されます。このことから、私たちが主の再臨を待つ間、教会に向けられた聖霊の言葉を見い出し、神の声に耳を傾けることを学ぶことが、決定的に重要だということは明らかです。全能神も、「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある」と語っています。(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より)

    これを聞くと、「では、神の声を見つけ出すためにはどこに行けばよいのか」と尋ねる人々がいます。マタイによる福音書25:6において、主イエスは、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」と言われました。主は発話と御言葉を介して羊を召します。ですから、主の声を最初に耳にして子羊の足跡を辿り、「花婿が来た」とあらゆる場所で叫んで主の再臨の報と言葉を拡散し、たくさんの人が神の声を聞く機会を得られるようにする、そんな人々が確実に出てくるでしょう。したがって、私たちが子羊の足跡に追いついていけるかどうかは、神を探し求めることを切望する心を持っているかどうか、神の声を認識できるかどうかにかかっていると言われています。これはちょうど、主イエスが最初に現れて働きを開始したときに、ペテロやマリアなどが主イエスの働きと言葉からメシアであることに気づき、主イエスについていって福音の証しを始めたのと同じです。主イエスの働きと御言葉を聞いて神の声を認識できるのは賢明な乙女たちですが、その一方で、真理を愛することがなかった祭司、律法学者、パリサイ人たちは、主イエスの言葉の権威と力を耳にしましたが、それを調査することをしませんでした。その代わりに彼らは頑固に自分たちの概念とイメージに固執し、「メシアと呼ばれない者は神ではない」と考えながら、メシアが自分たちの前に現れるのを待ちました。それだけでなく、彼らは主イエスの働きを非難、冒涜までし、そして最終的には神の救いを失ったのです。また、パリサイ人に追従し、主イエスの働きと言葉の内にある神の声に気づかなかったユダヤ教信者もいました。彼らは祭司、律法学者、パリサイ人に盲目的に耳を傾け、主の救いを拒否したのです。このような人々は主から見捨てられる愚かな乙女たちになるのです。「ではどうやって神の声に気づくことができるのか」と尋ねる人もいるかもしれませんが、実はこれは難しいことではありません。神の発話と御言葉は、人間には語ることが不可能なものでなければなりません。格別な権威と力に満ちていなければなりません。神の国の奥義を明らかにしたり、人間の腐敗をさらけ出したりするものです。こうした言葉はすべて真理であり、すべて人間の生活にもなり得ます。神の言葉を耳にしたとき、心と霊を持つ人なら誰でもそれを感じますし、創造主が私たち人間に語りかけ発話していることを、心で確認するでしょう。神の羊は神の声に耳を傾けます。聞こえる言葉が神の声だと確信するならば、それが私たちの概念とどれだけかけ離れていたとしても、それを受け止めて従うべきです。これが、私たちが主の再臨を迎えることができる唯一の手段です。

    今日世界において、主―受肉した全能神―がすでに再臨したことを証ししているのは全能神教会だけです。全能神はすでに何百万語にものぼる言葉を発していますが、世界各国、各方面の人々がその言葉を精査できるようインターネットで公開されています。真理を求めてやまない多くの人々が、それぞれの国から一人ずつ、神の声を聞き主を迎えたいという思いで訪れます。聖書に「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」とある通りです。それが神の声かどうかを判別するために耳を傾けつつ、単に全能神が発する言葉をどんどん読んでいけば、主が再臨したかどうかを判断することができるようになります。ヨハネによる福音書10:27の中で主イエスが「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」と語った通りです。 私たちが謙虚な気持ちで探し求める心を持っている限り、神の声に気づき、主の再臨を迎えることができると私は信じています。