実は、既にだいぶ以前からこのタイトルで書こうと思っていたのだが、前回の池田信夫氏ブログの記事のコメント欄を読んで、どうやら複数の人が同じ感覚を受けたらしい。
…とか言うと佐藤藍子みたいですが。
ある種の氷河期世代が「遅れて来た軍国少年」だというのは、つまり、いまだに「就職氷河期」のトラウマを引きずって、ことあるごとに自身の不遇の理由として就職氷河期の存在を挙げたり恨み節を口にする人々は、かつての「復員兵」「遅れてやって来た軍国少年」「軍国思想から脱却できない元軍人」に近い存在として見られているのではないか、ということ。
これは、「今どき学歴を振り回している」人々にも同じことが言える。
では、なぜ彼らが「復員兵」の「遅れて来た軍国少年」なのか。
かつて軍国教育を受けて戦地へ赴き、戦後「内地」へと戻った「復員兵」たちも、そのうちの多くの人々は、自らに叩き込まれた軍国思想と、敗戦という現実との間に折り合いをつけて社会生活へと戻っていった。だが、中にはやっぱり戦時下の教育で受けた思想と常識から脱却することが出来ず、戦後十年とかを経てもなお、軍国主義的な思想とか軍隊の論理を持ち続けて、周りから「イタイ人」と思われていたような「遅れて来た軍国元少年のオッサン」というのは存在していたらしい。
だけど、本物の「遅れて来た軍国少年」の場合は、ちょうど時代は高度成長期の入り口だったから、職が全然無いとか、社会で経済的に浮いたり孤立するということは多くはなかったはずだし、その後もオイルショック等はあったものの、時代全体としては平穏な老後は過ごせたと思う。
就職氷河期世代にも、似たような経緯がある。
彼らの多くは、幼少の頃から「いい大学へ行き、いい会社へ入れ」とひたすら尻を叩かれて競争を煽られ、いざ就職戦線という前線に出てみたら、そこは既に焼け野原ならぬ氷河期だったというわけだ。しかも彼らは第二次ベビーブーマー世代とも重なり、数が多い。子供の頃から競争、競争と煽られ、いざ社会に出ようとしたときは、不景気によりただでさえ不足気味だった椅子が足りなくなっていた上に、既得権者としての既に就職していた正社員の地位を保護するために、新卒の採用控えという方法で就職氷河期に一方的に負債を背負わせたのである。この辺りの議論は池田信夫氏の「就職氷河期はなぜ起こったのか」が詳しい。
この就職氷河期世代が、本物の「遅れて来た軍国少年」よりも悲惨なのは、
まず、「学歴があっても就職できない」ことによって、それまで教え込まれた「価値観」を否定されたことに加えて、「”学歴に見合った”仕事が無い」ことにより、他世代と同等の経済的基盤を持つことも出来なかったという点にある。
これは、本物の「遅れて来た軍国少年」では体験しなかった二重の苦しみである。
かつての復員兵には「軍事大国日本」は崩壊しても「経済大国日本」への入り口がすでに見えていたので、現実的な新しい価値観へと適応を図ることは比較的容易であった。
だが、就職氷河期世代には、「いい大学を出て、いい会社に入る」という、彼らが幼少から教え込まれた価値観に代わるべき新しい価値観の提示がなされないまま、特に非正規雇用者等は経済的社会的下位に置かれ続けることによって、人間としての価値をも否定されたような状態のままになっている。
そして、もう一つは、”氷河期”からたった10~15年かそこらで再び「新卒バブル」が戻って来てしまったことで、上下の世代間から完全に浮いた存在になったこと。
「苦しいのはみんな(下の世代も)同じ」…ではなくなってしまったのだ。
マスメディアで「就職氷河期問題」が大きく取り上げられるようになったのと、「新卒バブル」が復活した時期とは重なっている。
しかも、三十路になんなんとしている彼らが、いまごろ難関大学の卒業証書や成績証明書を見せびらかしたところで相手にされないだろう。相手にしてくれるところもあるが、ずっと少ない。
職を転々とした者も、その苦労を評価してもらえるわけではない。
それどころか、”履歴書を汚す”などという表現があるように、保守的な老人にとっては、「履歴書に書かれた会社の数=○ッた男の数」なのだ。
もちろん、こんな思考は老人の引退と死と共に薄れていき、時代の潮流は「新卒処女プロパー信仰」「年功序列終身雇用」から「労働市場流動化」へと確実に向かうだろう。
しかし、今はまだそうした保守思想は生き残っており、言わば「変化のタイムラグ」の最中にある。
「変化のタイムラグ」とは何か。
新卒のときには氷河期で採用控えをされ、第二新卒採用ブームのときには既に三十路近くになっていて対象外。転職・キャリア採用が一般的になってきても、非正規組はそもそもキャリアを築けていない、というように、彼らはいつも「時代の変化のタイムラグ」に落ち込んでいる。
「時間は彼らの味方をしていない」とは、つまりそういうことだ。
「変化のタイムラグ」の狭間から抜け出して、時間を味方に付けるには、いつまでも”時代遅れの軍国少年”でいる場合ではないはずだ。
しかし…、
「労働市場の流動化」や「自由市場化」の実現で真っ先に割を食うはずの下流工程の人が、なぜそのような主張を展開している池田氏等に繰り返し賛意を表するのか?
あるいは、「戦時」には真っ先に動員されたり死亡したり損をする確率の高いフリーターが「希望は、戦争」などと主張するのか?
そのありうる答は、
…死ナバモロトモ。
「希望は、戦争」って、てっきりネタか釣りだと思ってましたが、意外とマジなんじゃないかって気がしてきました。

にほんブログ村
…とか言うと佐藤藍子みたいですが。
ある種の氷河期世代が「遅れて来た軍国少年」だというのは、つまり、いまだに「就職氷河期」のトラウマを引きずって、ことあるごとに自身の不遇の理由として就職氷河期の存在を挙げたり恨み節を口にする人々は、かつての「復員兵」「遅れてやって来た軍国少年」「軍国思想から脱却できない元軍人」に近い存在として見られているのではないか、ということ。
これは、「今どき学歴を振り回している」人々にも同じことが言える。
では、なぜ彼らが「復員兵」の「遅れて来た軍国少年」なのか。
かつて軍国教育を受けて戦地へ赴き、戦後「内地」へと戻った「復員兵」たちも、そのうちの多くの人々は、自らに叩き込まれた軍国思想と、敗戦という現実との間に折り合いをつけて社会生活へと戻っていった。だが、中にはやっぱり戦時下の教育で受けた思想と常識から脱却することが出来ず、戦後十年とかを経てもなお、軍国主義的な思想とか軍隊の論理を持ち続けて、周りから「イタイ人」と思われていたような「遅れて来た軍国元少年のオッサン」というのは存在していたらしい。
だけど、本物の「遅れて来た軍国少年」の場合は、ちょうど時代は高度成長期の入り口だったから、職が全然無いとか、社会で経済的に浮いたり孤立するということは多くはなかったはずだし、その後もオイルショック等はあったものの、時代全体としては平穏な老後は過ごせたと思う。
就職氷河期世代にも、似たような経緯がある。
彼らの多くは、幼少の頃から「いい大学へ行き、いい会社へ入れ」とひたすら尻を叩かれて競争を煽られ、いざ就職戦線という前線に出てみたら、そこは既に焼け野原ならぬ氷河期だったというわけだ。しかも彼らは第二次ベビーブーマー世代とも重なり、数が多い。子供の頃から競争、競争と煽られ、いざ社会に出ようとしたときは、不景気によりただでさえ不足気味だった椅子が足りなくなっていた上に、既得権者としての既に就職していた正社員の地位を保護するために、新卒の採用控えという方法で就職氷河期に一方的に負債を背負わせたのである。この辺りの議論は池田信夫氏の「就職氷河期はなぜ起こったのか」が詳しい。
この就職氷河期世代が、本物の「遅れて来た軍国少年」よりも悲惨なのは、
まず、「学歴があっても就職できない」ことによって、それまで教え込まれた「価値観」を否定されたことに加えて、「”学歴に見合った”仕事が無い」ことにより、他世代と同等の経済的基盤を持つことも出来なかったという点にある。
これは、本物の「遅れて来た軍国少年」では体験しなかった二重の苦しみである。
かつての復員兵には「軍事大国日本」は崩壊しても「経済大国日本」への入り口がすでに見えていたので、現実的な新しい価値観へと適応を図ることは比較的容易であった。
だが、就職氷河期世代には、「いい大学を出て、いい会社に入る」という、彼らが幼少から教え込まれた価値観に代わるべき新しい価値観の提示がなされないまま、特に非正規雇用者等は経済的社会的下位に置かれ続けることによって、人間としての価値をも否定されたような状態のままになっている。
そして、もう一つは、”氷河期”からたった10~15年かそこらで再び「新卒バブル」が戻って来てしまったことで、上下の世代間から完全に浮いた存在になったこと。
「苦しいのはみんな(下の世代も)同じ」…ではなくなってしまったのだ。
マスメディアで「就職氷河期問題」が大きく取り上げられるようになったのと、「新卒バブル」が復活した時期とは重なっている。
しかも、三十路になんなんとしている彼らが、いまごろ難関大学の卒業証書や成績証明書を見せびらかしたところで相手にされないだろう。相手にしてくれるところもあるが、ずっと少ない。
職を転々とした者も、その苦労を評価してもらえるわけではない。
それどころか、”履歴書を汚す”などという表現があるように、保守的な老人にとっては、「履歴書に書かれた会社の数=○ッた男の数」なのだ。
もちろん、こんな思考は老人の引退と死と共に薄れていき、時代の潮流は「新卒処女プロパー信仰」「年功序列終身雇用」から「労働市場流動化」へと確実に向かうだろう。
しかし、今はまだそうした保守思想は生き残っており、言わば「変化のタイムラグ」の最中にある。
「変化のタイムラグ」とは何か。
新卒のときには氷河期で採用控えをされ、第二新卒採用ブームのときには既に三十路近くになっていて対象外。転職・キャリア採用が一般的になってきても、非正規組はそもそもキャリアを築けていない、というように、彼らはいつも「時代の変化のタイムラグ」に落ち込んでいる。
「時間は彼らの味方をしていない」とは、つまりそういうことだ。
「変化のタイムラグ」の狭間から抜け出して、時間を味方に付けるには、いつまでも”時代遅れの軍国少年”でいる場合ではないはずだ。
しかし…、
「労働市場の流動化」や「自由市場化」の実現で真っ先に割を食うはずの下流工程の人が、なぜそのような主張を展開している池田氏等に繰り返し賛意を表するのか?
あるいは、「戦時」には真っ先に動員されたり死亡したり損をする確率の高いフリーターが「希望は、戦争」などと主張するのか?
そのありうる答は、
…死ナバモロトモ。
「希望は、戦争」って、てっきりネタか釣りだと思ってましたが、意外とマジなんじゃないかって気がしてきました。


じゃなくって、戦後変節した卑怯者だろがよ。
周りは皆。
遅れてきた軍国少年じゃなくって
真実をちゃんと見抜く眼力のある人だよ。
アメリカに洗脳されなかったんだよ。