未来が見えないのではない。先が見えないのなら、人はまだ足掻こうとする。
未来が見えないのではなく、見えすぎてしまっている。時として誰もがそういう気にさせられてしまう。
正確には、未来は常に不確定であるはずだ。
なのに、惨めな未来が完全に約束されてしまったかのように眼前に立ち塞がっている。そういう感覚が身近に、あるいはマスコミやネットを通じてことあるごとに伝えられる。
これでは、頻繁にネガティブな闇の淵を覗き込んで、逆に闇の底に引き込まれる人間も出てくるだろう。
「加藤の乱」を平成の血盟団事件にしないために――雑種路線でいこう
そうだよなあ…ここで否定しておかないとまずいことになるだろうなあ…。という気持ちは俺にもある。
通り魔をする気持ちなどは俺にも理解不能だが、その一方で刹那的な雇用形態のもとで働いている、特に若い人が抱いているであろう、自分の境遇と将来への焦燥、失望、無気力、絶望、怒りといった感情についてはなんとなく分かる。
「分からない」と言っている人の多くは、そういう環境に身を置いたことが全くないか、生まれながらの血筋やごくたまたまのラッキー全てを自分の”実力”だと勘違いしている幸せな人なんだろう。
確かに、当初は老人らが安易な刃物狩りでお茶を濁そうとしていたのを、日雇い派遣の見直しやらにまで修正させたのはペンの力あってのことかもしれない。
しかし、なんにせよ最初の”きっかけ”を作ったのは、流血によってであった。もし何も起こらなかったなら、老人たちは今でも口をぬぐっていただろう。
犯人の意図がどうであったかなど関係なく、彼らが勝手に過剰反応してしまったのだ。
残念ながら、「臆病」「ヘタレ」「ビビリ」の多い国では、テロは一定の効果を上げることが出来る。
構図としては昭和初期にテロが頻発し、一定の支持を得ていた頃の状況と似ている。
上のタイトルになっている「血盟団事件」というのはそれらのテロのうちの代表的なものだ。
昭和の初期、かつての日本は国としての目標を見失い、閉塞感の中でさまよっていた。
日本は日露戦争の勝利を経て、第一次世界大戦にも勝ち組側に立って参戦したことで戦後に国際連盟の常任理事国入りを果たし、列強に伍する国際的地位を獲得した。
これは、”不平等条約を改正し、世界の一等国になる”という明治維新以来の国家的目標の達成であったが、同時に大日本帝国の全国民を挙げて一致できる国家的な目標の喪失を意味した。その後の戦争特需の揺り戻しとしての金融恐慌、ついで世界恐慌を経て、大日本帝国は国家的目標を喪失したまま、内部では陸海軍の内訌とそれぞれの派閥争いを繰り返し、1930年代に入ると「八紘一宇」「満蒙は日本の生命線」「大東亜共栄圏」という、実体のない空疎な目標を掲げては列強、とくにアメリカとの関係を悪化させ、最終的には戦争へと突入し、惨めな敗北を喫した。
今の日本も、かつての「経済大国」という夢が破れたのちに、それに代わるべき新たな目標をいまだに見出せていないところに、昭和初期との状況の相似がある。
先の首相が「美しい国」などという、これまた実体のない空疎なスローガンを掲げたのは、単なる偶然ではない。
国家的目標が明らかである場合は、そのスローガンも具体的で明らかだ。
「条約改正」「富国強兵」すなわち「列強に伍する」。とても具体的である。戦後の「経済大国」「所得倍増」もこれしかり。
その一方、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」、あるいは「美しい国」…。全然具体的ではない。
このままでは大変なことになる、という予感がある一方、俺は”持てる者”ではないので、まあ別にどうでもいいか、という本音もある。
老人たちが慌てふためく様も見たいしね。
それに、話の出来る老人をいちいち選別するなど、川底の砂金をあさるにも似て、徒労…。
未来が見えないのではなく、見えすぎてしまっている。時として誰もがそういう気にさせられてしまう。
正確には、未来は常に不確定であるはずだ。
なのに、惨めな未来が完全に約束されてしまったかのように眼前に立ち塞がっている。そういう感覚が身近に、あるいはマスコミやネットを通じてことあるごとに伝えられる。
これでは、頻繁にネガティブな闇の淵を覗き込んで、逆に闇の底に引き込まれる人間も出てくるだろう。
「加藤の乱」を平成の血盟団事件にしないために――雑種路線でいこう
そうだよなあ…ここで否定しておかないとまずいことになるだろうなあ…。という気持ちは俺にもある。
通り魔をする気持ちなどは俺にも理解不能だが、その一方で刹那的な雇用形態のもとで働いている、特に若い人が抱いているであろう、自分の境遇と将来への焦燥、失望、無気力、絶望、怒りといった感情についてはなんとなく分かる。
「分からない」と言っている人の多くは、そういう環境に身を置いたことが全くないか、生まれながらの血筋やごくたまたまのラッキー全てを自分の”実力”だと勘違いしている幸せな人なんだろう。
確かに、当初は老人らが安易な刃物狩りでお茶を濁そうとしていたのを、日雇い派遣の見直しやらにまで修正させたのはペンの力あってのことかもしれない。
しかし、なんにせよ最初の”きっかけ”を作ったのは、流血によってであった。もし何も起こらなかったなら、老人たちは今でも口をぬぐっていただろう。
犯人の意図がどうであったかなど関係なく、彼らが勝手に過剰反応してしまったのだ。
残念ながら、「臆病」「ヘタレ」「ビビリ」の多い国では、テロは一定の効果を上げることが出来る。
構図としては昭和初期にテロが頻発し、一定の支持を得ていた頃の状況と似ている。
上のタイトルになっている「血盟団事件」というのはそれらのテロのうちの代表的なものだ。
昭和の初期、かつての日本は国としての目標を見失い、閉塞感の中でさまよっていた。
日本は日露戦争の勝利を経て、第一次世界大戦にも勝ち組側に立って参戦したことで戦後に国際連盟の常任理事国入りを果たし、列強に伍する国際的地位を獲得した。
これは、”不平等条約を改正し、世界の一等国になる”という明治維新以来の国家的目標の達成であったが、同時に大日本帝国の全国民を挙げて一致できる国家的な目標の喪失を意味した。その後の戦争特需の揺り戻しとしての金融恐慌、ついで世界恐慌を経て、大日本帝国は国家的目標を喪失したまま、内部では陸海軍の内訌とそれぞれの派閥争いを繰り返し、1930年代に入ると「八紘一宇」「満蒙は日本の生命線」「大東亜共栄圏」という、実体のない空疎な目標を掲げては列強、とくにアメリカとの関係を悪化させ、最終的には戦争へと突入し、惨めな敗北を喫した。
今の日本も、かつての「経済大国」という夢が破れたのちに、それに代わるべき新たな目標をいまだに見出せていないところに、昭和初期との状況の相似がある。
先の首相が「美しい国」などという、これまた実体のない空疎なスローガンを掲げたのは、単なる偶然ではない。
国家的目標が明らかである場合は、そのスローガンも具体的で明らかだ。
「条約改正」「富国強兵」すなわち「列強に伍する」。とても具体的である。戦後の「経済大国」「所得倍増」もこれしかり。
その一方、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」、あるいは「美しい国」…。全然具体的ではない。
このままでは大変なことになる、という予感がある一方、俺は”持てる者”ではないので、まあ別にどうでもいいか、という本音もある。
老人たちが慌てふためく様も見たいしね。
それに、話の出来る老人をいちいち選別するなど、川底の砂金をあさるにも似て、徒労…。