東日本大震災、そして福島第一原発事故から2年が経過した。震災の被害もさることながら、震災に起因して発生した原発事故により、いまだ自宅に帰れず避難生活を余儀なくされている人や、事故で漏れ出した放射性物質に晒されながら不安な生活を送っている人々が大勢居る。
地図を見れば分かる通り、福島第一原発は関東・西日本から見てちょうど被災地域の入り口に居座っているため、支援物質や人員機材の通行を阻害するのではないかと懸念された。しかし、多くの人が危険をものともせずに被災地へ駆けつけた。
原発事故自体はいまだ収束したとは言えないし、事故の原因や細かな経過は検証中の段階であるが、なぜ初期段階で事態の収拾に失敗し、メルトダウン(核燃料棒の溶融落下により圧力容器の底が抜け、核燃料および放射性物質の封じ込めに失敗した)にまで至ったのか、その理由は至極単純だ。
ごく簡単に言えば、あの時必要とされたものは、まず「水」、そして水を大量に炉内に注入するための「ポンプ」、そしてポンプを駆動するための「D/G(発電機)」とその「燃料」であった。まずとにかく水を注水し続けることが求められたのだ。
こんなことは自明の理なのだが、この結論に達したときには、既に注水が不可能な程に炉内の圧力が高くなってしまっていた。
注水に必要な設備を津波ですべて失った後、代替となるべき装備を素早く用意することが出来ず、とりあえず用意できた消防車のポンプでは、圧が高くなりすぎた原子炉への注水は不可能だった。そこで炉内の圧力を逃がすための「ベント(ドライベント)」を行なうことが必要になったのだが、電源を喪失していたため早期のベントにも失敗し、建屋内に漏れ出した水素によって建屋の爆発を招いた。これらは既知の通り。
当初、「チェルノブイリと日本の原発は違う(キリッ」と余裕をこいていた「村人」たちが「逃げ支度」を始めたのは、東電が「消防車で注水中…水は入っていると確信」という発表をした時だったことはここに書き記しておく。
知っている人は知っていることだが、原発に設置されているポンプは「giant」とも「monster」とも形容されるくらいの巨大なものなのだ。とても消防車の2台や3台で代わりが務まるようなものではない。
そんな「消防車」が今なお原発事故時の切り札として期待されている、などという報道を見ていると、原発自体の脆弱性もさることながら、運用側の問題もまた大きいのだなと思う。
今回の事故のような、3基の原子炉圧力容器の底が溶け落ちるという過酷事故にもかかわらず、それでもなお、「このレベル」の被害でおさまっているのは、いくつかの偶然による幸運でしかない。
いわゆるホットスポットを除いては、残留放射性物質や食品から検出される基準値超え放射性物質の報道が下火になり、火急の危機としての原発事故の影が後退する中、原発を運用する彼ら、すなわち政府、電力会社らの間で得た教訓が「原発はメルトダウンしても大したことはないのだ」というものであったなら、それは近い将来のさらなる危機を招来するものであると断じてよい。
以前書いたことの繰り返しになるが、福島第一はこれでも「運が良かった」のだ。
もし溶融燃料が落下したとき、容器の底にはまだ水があって水蒸気爆発を起こしていたら?
もしベントや放射性物質の放出時に、すべて陸地に向かって風が吹いていたら?
もし使用済み核燃料一時保管プールの水が干上がって燃料が溶融していたら?
もし余震で津波が再度来襲していたら?
もし余震で建屋が崩壊していたら?
幸運にも、これらは現実のものにはならなかった。
しかし、今後もまだ燃料プールに残っている燃料棒の取り出しや、さらにどこにどのような形で溶け落ちているかも分からない核燃料の捜索と回収という、気の遠くなる作業が待っている。
我々は今や戦争を行なっているにも等しい。相手は原発。しかもこれは勝っても何も得られない戦争なのだ。
福島原発事故を、太平洋戦争中の一大転換点となったミッドウェー海戦と比較する意見は多い。
開戦以来、それまでの連戦連勝に傲り高ぶっていた日本海軍が、この戦いで主力だった4隻の空母と航空戦力を一挙に失い、その後一気に劣勢となったことなどの類似点があるからだ。
原発は、その脆弱性および国策への重要性、権力者による強い「こだわり」等、大戦時の空母に相当するものとして考えることができる。
3.11以前を顧みれば、日本の原子力関係者らはミッドウェー海戦前の海軍と同様、我が世の春を謳歌しており、原発のさらなる増設や、二酸化炭素排出削減の切り札としての「エコな原発」を輸出する方針が打ち出されるなど、その前途は洋々たるものに見えた。それが福島原発事故によって一変した。
しかし、事故をきっかけに一旦は原発の稼働は止められたものの、原発をやめるという結論には至らず、現政権ははっきりと原発の再稼働を打ち出している。
今や、原発事故で大損害を受けながらも、関係者の間で「原発事故って大したことないんだ」「メルトダウン、メルトスルーでもこの程度で済むのか」という空気が広がり始めていること、事実はたまたま運が良かったためにこの程度の被害で済んでいること、後から考えて貴重な教訓を学ぶ機会であった好機だったことなどから、福島原発事故は、ミッドウェー海戦よりも、その直前に行なわれた珊瑚海海戦に近い性格のものとして見るのが適当ではないかと思う。
珊瑚海海戦は史上初の空母機動部隊同士の戦いであった。双方の艦隊は直接相手の艦艇を視認せず、お互いの艦に向けて一発の砲弾も撃たず、すべて航空機からの攻撃によって帰趨が決するという、史上かつてなかった戦闘であった。
この戦いは戦術的には日本側の勝利とされるが、Wikipediaにも「日本軍の戦術的勝利・アメリカ軍の戦略的勝利」とあるように、連合軍が初めて日本軍の侵攻を阻止した戦いとなった。
珊瑚海海戦は一般的な知名度は低く、そのマイナーさ故にほとんど顧みられることはないが、この海戦はのちの戦いに重要な影響を与えているだけでなく、多くの戦訓を見いだすことができる。
珊瑚海海戦では、とにかく日米双方に誤認、ミス、混乱が続出し、双方とくに航空戦力に大きな損害を出して継戦能力を喪失して艦隊を後退させるという形で幕引きとなった。
この海戦に参加した日本空母3隻のうち、小型空母の「祥鳳」は輸送船団の直衛という無茶な任務を与えられた(「輸送船団から見えるところで守って安心させてやってくれ」という「情緒」は、「あきらめたわけではない」ことを内外に示すためのヘリコプターでの「注水」を想起させる)ため米軍機の集中攻撃を受けて沈没、大型空母の「瑞鶴」「翔鶴」のうち翔鶴は米軍急降下爆撃機隊の爆撃を受けて大破し、また航空隊も大損害を受けたため、この2艦は続くミッドウェー海戦に参加しなかった。
この海戦で翔鶴が沈まなかったのは、当時最新鋭の大型空母で設計に余裕があったことと、全力攻撃中で格納庫に艦載機が無かったため艦載機や爆弾の誘爆を避けられたこと、爆弾の当たり所が致命部分を外れていたことなど、単に運が良かったからにすぎない。
このことを日本海軍は正しく教訓とできず、ミッドウェー海戦では格納庫での兵装準備中という最悪のタイミングで先制攻撃を受けたため、各艦でことごとく爆発と大火災が発生し、ついに4空母を喪失するに至った。
両海戦から得られる教訓はいろいろあるが、原発事故対応も戦争と同じく、即断即決の「即応性」が要求される性格のものである。
テレビ会議などで時間をかけて「海水注水」という答えを出したら、別の問題「原子炉内圧上昇」が発生していて注水できず、今度は別の対処「ドライベント」が必要になり…という具合に事態も刻々と移り変わるという、「ルーチン通りに物事が進まないとパニックを起こすタイプのある種の人間」には全く不向きな性格をもつものだと言える。
福島原発事故を経てなお、大した対策もせず消防車などを大切にしている他の原発は、ミッドウェー海戦直前の異常な楽観論が蔓延していた南雲艦隊を思わせる。珊瑚海海戦における五航戦(瑞鶴、翔鶴)の苦戦を、「あいつらは素人だから…」と教訓としなかったこと(「チェルノブイリとは違う(キッ」に相当)、1920年代に建造され、何度も改装を繰り返した老朽艦の赤城、加賀が相変わらず主力空母として使用され続けていたことは、被弾後の消火活動に悪影響を及ぼしていないとは言えない。福島原発事故当時、関係者を悩ませたのは、増改築を繰り返した施設の図面が手に入らないことだった。
改装を繰り返した古い施設を使い続けるということは、非常時の初動対応が困難になるというリスクにつながるのだ。
他にも、日本人の優柔不断や先送りという不決断・遅決断、精神主義、形式主義、脅威への優先順位付けの放棄、劣勢になった時のパニックと、さらに絶望的になった時の自暴自棄という特徴は、同海戦における日本側指揮官にも観察される。
また、事故直後から現在に至るまでよく見られる、「誤った記述を発見した際の重箱の隅つつきへの没頭と全体観察の放棄」といった特徴は、原発オタだけでなく、軍オタ、銃オタ、刀剣オタなどに共通して見られる傾向である。
なぜこれらの「武器兵器オタク」達がそういう傾向を示すのか、私は既に一定の結論を得ている。
「ミッドウェーでは南雲と彼の参謀達には30分程度しか時間的な猶予が与えられなかったが、日本人は3.11からの数年間、一体何をしていたのだ?」と悪罵されるような事態にならないことを願う。
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地図を見れば分かる通り、福島第一原発は関東・西日本から見てちょうど被災地域の入り口に居座っているため、支援物質や人員機材の通行を阻害するのではないかと懸念された。しかし、多くの人が危険をものともせずに被災地へ駆けつけた。
原発事故自体はいまだ収束したとは言えないし、事故の原因や細かな経過は検証中の段階であるが、なぜ初期段階で事態の収拾に失敗し、メルトダウン(核燃料棒の溶融落下により圧力容器の底が抜け、核燃料および放射性物質の封じ込めに失敗した)にまで至ったのか、その理由は至極単純だ。
ごく簡単に言えば、あの時必要とされたものは、まず「水」、そして水を大量に炉内に注入するための「ポンプ」、そしてポンプを駆動するための「D/G(発電機)」とその「燃料」であった。まずとにかく水を注水し続けることが求められたのだ。
こんなことは自明の理なのだが、この結論に達したときには、既に注水が不可能な程に炉内の圧力が高くなってしまっていた。
注水に必要な設備を津波ですべて失った後、代替となるべき装備を素早く用意することが出来ず、とりあえず用意できた消防車のポンプでは、圧が高くなりすぎた原子炉への注水は不可能だった。そこで炉内の圧力を逃がすための「ベント(ドライベント)」を行なうことが必要になったのだが、電源を喪失していたため早期のベントにも失敗し、建屋内に漏れ出した水素によって建屋の爆発を招いた。これらは既知の通り。
当初、「チェルノブイリと日本の原発は違う(キリッ」と余裕をこいていた「村人」たちが「逃げ支度」を始めたのは、東電が「消防車で注水中…水は入っていると確信」という発表をした時だったことはここに書き記しておく。
知っている人は知っていることだが、原発に設置されているポンプは「giant」とも「monster」とも形容されるくらいの巨大なものなのだ。とても消防車の2台や3台で代わりが務まるようなものではない。
そんな「消防車」が今なお原発事故時の切り札として期待されている、などという報道を見ていると、原発自体の脆弱性もさることながら、運用側の問題もまた大きいのだなと思う。
今回の事故のような、3基の原子炉圧力容器の底が溶け落ちるという過酷事故にもかかわらず、それでもなお、「このレベル」の被害でおさまっているのは、いくつかの偶然による幸運でしかない。
いわゆるホットスポットを除いては、残留放射性物質や食品から検出される基準値超え放射性物質の報道が下火になり、火急の危機としての原発事故の影が後退する中、原発を運用する彼ら、すなわち政府、電力会社らの間で得た教訓が「原発はメルトダウンしても大したことはないのだ」というものであったなら、それは近い将来のさらなる危機を招来するものであると断じてよい。
以前書いたことの繰り返しになるが、福島第一はこれでも「運が良かった」のだ。
もし溶融燃料が落下したとき、容器の底にはまだ水があって水蒸気爆発を起こしていたら?
もしベントや放射性物質の放出時に、すべて陸地に向かって風が吹いていたら?
もし使用済み核燃料一時保管プールの水が干上がって燃料が溶融していたら?
もし余震で津波が再度来襲していたら?
もし余震で建屋が崩壊していたら?
幸運にも、これらは現実のものにはならなかった。
しかし、今後もまだ燃料プールに残っている燃料棒の取り出しや、さらにどこにどのような形で溶け落ちているかも分からない核燃料の捜索と回収という、気の遠くなる作業が待っている。
我々は今や戦争を行なっているにも等しい。相手は原発。しかもこれは勝っても何も得られない戦争なのだ。
福島原発事故を、太平洋戦争中の一大転換点となったミッドウェー海戦と比較する意見は多い。
開戦以来、それまでの連戦連勝に傲り高ぶっていた日本海軍が、この戦いで主力だった4隻の空母と航空戦力を一挙に失い、その後一気に劣勢となったことなどの類似点があるからだ。
原発は、その脆弱性および国策への重要性、権力者による強い「こだわり」等、大戦時の空母に相当するものとして考えることができる。
3.11以前を顧みれば、日本の原子力関係者らはミッドウェー海戦前の海軍と同様、我が世の春を謳歌しており、原発のさらなる増設や、二酸化炭素排出削減の切り札としての「エコな原発」を輸出する方針が打ち出されるなど、その前途は洋々たるものに見えた。それが福島原発事故によって一変した。
しかし、事故をきっかけに一旦は原発の稼働は止められたものの、原発をやめるという結論には至らず、現政権ははっきりと原発の再稼働を打ち出している。
今や、原発事故で大損害を受けながらも、関係者の間で「原発事故って大したことないんだ」「メルトダウン、メルトスルーでもこの程度で済むのか」という空気が広がり始めていること、事実はたまたま運が良かったためにこの程度の被害で済んでいること、後から考えて貴重な教訓を学ぶ機会であった好機だったことなどから、福島原発事故は、ミッドウェー海戦よりも、その直前に行なわれた珊瑚海海戦に近い性格のものとして見るのが適当ではないかと思う。
珊瑚海海戦は史上初の空母機動部隊同士の戦いであった。双方の艦隊は直接相手の艦艇を視認せず、お互いの艦に向けて一発の砲弾も撃たず、すべて航空機からの攻撃によって帰趨が決するという、史上かつてなかった戦闘であった。
この戦いは戦術的には日本側の勝利とされるが、Wikipediaにも「日本軍の戦術的勝利・アメリカ軍の戦略的勝利」とあるように、連合軍が初めて日本軍の侵攻を阻止した戦いとなった。
珊瑚海海戦は一般的な知名度は低く、そのマイナーさ故にほとんど顧みられることはないが、この海戦はのちの戦いに重要な影響を与えているだけでなく、多くの戦訓を見いだすことができる。
珊瑚海海戦では、とにかく日米双方に誤認、ミス、混乱が続出し、双方とくに航空戦力に大きな損害を出して継戦能力を喪失して艦隊を後退させるという形で幕引きとなった。
この海戦に参加した日本空母3隻のうち、小型空母の「祥鳳」は輸送船団の直衛という無茶な任務を与えられた(「輸送船団から見えるところで守って安心させてやってくれ」という「情緒」は、「あきらめたわけではない」ことを内外に示すためのヘリコプターでの「注水」を想起させる)ため米軍機の集中攻撃を受けて沈没、大型空母の「瑞鶴」「翔鶴」のうち翔鶴は米軍急降下爆撃機隊の爆撃を受けて大破し、また航空隊も大損害を受けたため、この2艦は続くミッドウェー海戦に参加しなかった。
この海戦で翔鶴が沈まなかったのは、当時最新鋭の大型空母で設計に余裕があったことと、全力攻撃中で格納庫に艦載機が無かったため艦載機や爆弾の誘爆を避けられたこと、爆弾の当たり所が致命部分を外れていたことなど、単に運が良かったからにすぎない。
このことを日本海軍は正しく教訓とできず、ミッドウェー海戦では格納庫での兵装準備中という最悪のタイミングで先制攻撃を受けたため、各艦でことごとく爆発と大火災が発生し、ついに4空母を喪失するに至った。
両海戦から得られる教訓はいろいろあるが、原発事故対応も戦争と同じく、即断即決の「即応性」が要求される性格のものである。
テレビ会議などで時間をかけて「海水注水」という答えを出したら、別の問題「原子炉内圧上昇」が発生していて注水できず、今度は別の対処「ドライベント」が必要になり…という具合に事態も刻々と移り変わるという、「ルーチン通りに物事が進まないとパニックを起こすタイプのある種の人間」には全く不向きな性格をもつものだと言える。
福島原発事故を経てなお、大した対策もせず消防車などを大切にしている他の原発は、ミッドウェー海戦直前の異常な楽観論が蔓延していた南雲艦隊を思わせる。珊瑚海海戦における五航戦(瑞鶴、翔鶴)の苦戦を、「あいつらは素人だから…」と教訓としなかったこと(「チェルノブイリとは違う(キッ」に相当)、1920年代に建造され、何度も改装を繰り返した老朽艦の赤城、加賀が相変わらず主力空母として使用され続けていたことは、被弾後の消火活動に悪影響を及ぼしていないとは言えない。福島原発事故当時、関係者を悩ませたのは、増改築を繰り返した施設の図面が手に入らないことだった。
改装を繰り返した古い施設を使い続けるということは、非常時の初動対応が困難になるというリスクにつながるのだ。
他にも、日本人の優柔不断や先送りという不決断・遅決断、精神主義、形式主義、脅威への優先順位付けの放棄、劣勢になった時のパニックと、さらに絶望的になった時の自暴自棄という特徴は、同海戦における日本側指揮官にも観察される。
また、事故直後から現在に至るまでよく見られる、「誤った記述を発見した際の重箱の隅つつきへの没頭と全体観察の放棄」といった特徴は、原発オタだけでなく、軍オタ、銃オタ、刀剣オタなどに共通して見られる傾向である。
なぜこれらの「武器兵器オタク」達がそういう傾向を示すのか、私は既に一定の結論を得ている。
「ミッドウェーでは南雲と彼の参謀達には30分程度しか時間的な猶予が与えられなかったが、日本人は3.11からの数年間、一体何をしていたのだ?」と悪罵されるような事態にならないことを願う。
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