例の「いじめ自殺隠蔽事件」で渦中の人となっていた大津市の教育長が庁舎で襲撃されたそうだ。
60歳で引退しとけばこんなことにはならなかったろうに。だから老人共よ、さっさと引退して席を譲ってただの市井の人となれ。さすれば政治テロの標的となることもあるまい。
席(地位)を譲らない者が座席を譲られるわけがあるまい。それだけのことだな。
はっきり言えば、何の関係もない一人の老人の生き死にになど、実は何の関心も無い。
しかし、今回の件によって、ようやくこの人物は範を示したと言える。
と言うのは、民間人の自衛を禁じる花畑日本においては、個人に対するテロが起きた場合に、被襲撃側がテロリストに対しなんの抵抗も出来ずにただ一方的に殺されるというケースが非常に多かった。
しかしこの教育長は、襲撃者に立ち向かい、抵抗し、制圧し、通報したのだろう?
立派ではないか。
今回は襲撃者側の資質(とくに得物の選択)が劣っていたことにも助けられたものの、殴られたら殴り返し、襲われたら襲い返し、相手を地面に引き倒し、制圧し、通報する。
問答無用の暴力を以て襲い来る相手を眼の前にしては、「法律」も「話し合い」も何の意味も持たない。生き残るためには即座にカウンター暴力を以て応じなければならない。
その明白な真理を、平和憲法だの日教組だのに毒された全国のいじめられっ子たちに身を以て示してくれたのだ。ようやく彼は教育長としてのまともな仕事をしたと言えよう。
「どんな理由があっても暴力はいけません」などと言うのなら、ただ抵抗せずハンマーで殴り殺されておけという理屈にもなる。
現に暴力を振るわれ、殴られ続ける人間を後ろから縛っていたのが、この暴力絶対禁止の思想であった。
決まりもルールも無視して実際に暴力を振るってくる人間の前では、こんな思想は無力どころか有害そのものなのだ。
どちらが正しいかなど、そんなものは目の前の相手を斃してから考えればよい。そして後に正しいとされるのは、おそらく生き残った側だ。
今回のような事件が起こると、決まって
「真相の究明が遠のく」
「暴力では何も解決しない」
などとしたり顔で述べる者も居る。
彼らは思い違いをしている。テロを賞賛する者たちは、真相の究明にも事件の解決にも何の関心も持ってはいない。
事件の真相だと?
そんなもの、どうせ「地位と権力を持つクレーマー気質の厄介な人間」の身内が、周囲の臆病な大人から腫れ物に触るような扱いを受け続けて増長した結果、他人をいじめ殺すほどに成長した。それだけだ。日本では、イナカではよくある光景だ。
なぜなら、日本人の本質とは、「臆病」であり、「常に強い者の味方」であるからだ。
戦前期、1930年代の日本ではテロが頻発したが、不思議だったのは言論の自由のない時代とはいえ、テロの犠牲者への同情的な見方がほとんど皆無だったことだ。そしてかえってテロの実行側である軍や右翼の発言力が増していった。
軍縮を唱える売国政治家、緊縮財政で不景気をもたらした財閥の首魁、左翼運動家、こんな連中は殺されて当然だと思われていたのだ。
あの時代の人たちはこういう感情を抱いていたのだろうなと、今の時代の出来事で納得しつつある。
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60歳で引退しとけばこんなことにはならなかったろうに。だから老人共よ、さっさと引退して席を譲ってただの市井の人となれ。さすれば政治テロの標的となることもあるまい。
席(地位)を譲らない者が座席を譲られるわけがあるまい。それだけのことだな。
はっきり言えば、何の関係もない一人の老人の生き死にになど、実は何の関心も無い。
しかし、今回の件によって、ようやくこの人物は範を示したと言える。
と言うのは、民間人の自衛を禁じる花畑日本においては、個人に対するテロが起きた場合に、被襲撃側がテロリストに対しなんの抵抗も出来ずにただ一方的に殺されるというケースが非常に多かった。
しかしこの教育長は、襲撃者に立ち向かい、抵抗し、制圧し、通報したのだろう?
立派ではないか。
今回は襲撃者側の資質(とくに得物の選択)が劣っていたことにも助けられたものの、殴られたら殴り返し、襲われたら襲い返し、相手を地面に引き倒し、制圧し、通報する。
問答無用の暴力を以て襲い来る相手を眼の前にしては、「法律」も「話し合い」も何の意味も持たない。生き残るためには即座にカウンター暴力を以て応じなければならない。
その明白な真理を、平和憲法だの日教組だのに毒された全国のいじめられっ子たちに身を以て示してくれたのだ。ようやく彼は教育長としてのまともな仕事をしたと言えよう。
「どんな理由があっても暴力はいけません」などと言うのなら、ただ抵抗せずハンマーで殴り殺されておけという理屈にもなる。
現に暴力を振るわれ、殴られ続ける人間を後ろから縛っていたのが、この暴力絶対禁止の思想であった。
決まりもルールも無視して実際に暴力を振るってくる人間の前では、こんな思想は無力どころか有害そのものなのだ。
どちらが正しいかなど、そんなものは目の前の相手を斃してから考えればよい。そして後に正しいとされるのは、おそらく生き残った側だ。
今回のような事件が起こると、決まって
「真相の究明が遠のく」
「暴力では何も解決しない」
などとしたり顔で述べる者も居る。
彼らは思い違いをしている。テロを賞賛する者たちは、真相の究明にも事件の解決にも何の関心も持ってはいない。
事件の真相だと?
そんなもの、どうせ「地位と権力を持つクレーマー気質の厄介な人間」の身内が、周囲の臆病な大人から腫れ物に触るような扱いを受け続けて増長した結果、他人をいじめ殺すほどに成長した。それだけだ。日本では、イナカではよくある光景だ。
なぜなら、日本人の本質とは、「臆病」であり、「常に強い者の味方」であるからだ。
戦前期、1930年代の日本ではテロが頻発したが、不思議だったのは言論の自由のない時代とはいえ、テロの犠牲者への同情的な見方がほとんど皆無だったことだ。そしてかえってテロの実行側である軍や右翼の発言力が増していった。
軍縮を唱える売国政治家、緊縮財政で不景気をもたらした財閥の首魁、左翼運動家、こんな連中は殺されて当然だと思われていたのだ。
あの時代の人たちはこういう感情を抱いていたのだろうなと、今の時代の出来事で納得しつつある。
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