理系に限ったことではありませんが、世の中には何らかの専門分野において、卓越した実績や知識を有しているにもかかわらず、他者、特に「自分の専門以外の研究者や、一般人に対する説明がものすごく下手な人」というのが大勢います。
口頭での説明において、一般人が理解できない、しかもポイントのずれた説明を延々と続けて、相手が理解できていないのに気づかない、あるいは文章で解説する場面において、日本語として成り立っていないような酷い文章を書いてしまう…。そういう「専門家」がとても多い。
もともと彼らは頭が悪いわけではないのに、なぜこういうことが起きるのか。
それは、彼らが「聞き手(読み手)のことを意識していない」ことによる場合が多いのです。
なぜそうなってしまうのか。それは、ふだん彼らの説明を聞いたり、レポートや論文を読むのは、彼らと専門を同じくする同僚や指導教官など、自分と同じ程度かそれ以上に知識のある相手が中心なので、相手の知識レベルを考慮する必要がないからです。
「説明の分かりにくい専門家(とくに理系の)」によくあるパターンとして、ある物質の特性について説明するのに、「化学式は……で、常温では個体、融点は…℃、沸点は…℃、地球上に…%の割合で存在、近い物質に○○と○○……、といった具合に、事典を見ればわかりそうなことを最初から延々と説明してしまう、という光景があります。
でも、もしかしたら聞き手が知りたがっていることはそんなことではなく、その物質は人体に有害なのか、毒性はどの程度なのかということを手っ取り早く教えて欲しいということだったのかもしれません。これは、3.11後にもよく見られた光景です。
さらに、よくある例としては、「ある専門用語を説明するために、別の専門用語や略称を使ってしまう」というものがあります。
これも、相手の知識レベルを考慮していない故に起こる現象です。
彼らはもともと「頭が悪いから説明が下手」なのではなく、「相手の知識レベルやニーズ、つまり相手が何を知りたいのかということを意識しないでただ一方的に説明(記述)してしまう」から、その説明が一般人に理解してもらえず、「分かりにくい」「話が冗長」と受け取られてしまうのです。
ここで、「その程度のレベルのことさえ知らない一般人が悪い!」とキレるのは簡単ですが、しかしテレビに出たり本を書いたりネットで説明したりと、要するに一般人向けの商売をするならば、それではもはや絶望的ですから、そういう人には「二度と声がかからない」ということになります。そして、自分よりもはるかに学問的業績や知識という面では劣っているものの、「一般人向けに分かりやすく説明ができる人」が、マスコミ等から重宝されて「有名」になっていくのをただ見ているだけということになります。
それに、これからの時代、自分の学問の「必要性」を、その分野の研究予算の生殺与奪を握っている人々(たいていは非専門家)に対してうまく訴えて理解させることも、専門家の重要な資質の一つになります。
文章や解説の仕方というのは、何やら難しく考えたり、あるいは「文系」的な、センスの問題と捉えて最初から諦めている人もいますが、何かを解説する文章というものは、言わば数式や化学式と一緒であって、優れた文章は数式と同じようにブロックに分解することができます。
言葉や文章は数式と同じように組み立てることができる――。このことを一旦認識すると、彼らの説明力(文章力)は飛躍的に向上します。それこそ、回路がつながったみたいにです。
他にも、実験等においても、凡庸な人はただのんべんだらりと実験して、ただ結果を記録するだけですが、できる人というものは常に事前に結果を予測して、実験はその予測が正しかったか、どの程度外れていたかを確認するということを常に意識しています。
このように、「相手(聞き手・読み手)」の存在と、次を「予測」するということを意識すると、それまで「日本語でおk…」と言われそうなレベルの文章を書いていた人でも、突如「覚醒」してしまうことは決して珍しくないのです。
にほんブログ村
口頭での説明において、一般人が理解できない、しかもポイントのずれた説明を延々と続けて、相手が理解できていないのに気づかない、あるいは文章で解説する場面において、日本語として成り立っていないような酷い文章を書いてしまう…。そういう「専門家」がとても多い。
もともと彼らは頭が悪いわけではないのに、なぜこういうことが起きるのか。
それは、彼らが「聞き手(読み手)のことを意識していない」ことによる場合が多いのです。
なぜそうなってしまうのか。それは、ふだん彼らの説明を聞いたり、レポートや論文を読むのは、彼らと専門を同じくする同僚や指導教官など、自分と同じ程度かそれ以上に知識のある相手が中心なので、相手の知識レベルを考慮する必要がないからです。
「説明の分かりにくい専門家(とくに理系の)」によくあるパターンとして、ある物質の特性について説明するのに、「化学式は……で、常温では個体、融点は…℃、沸点は…℃、地球上に…%の割合で存在、近い物質に○○と○○……、といった具合に、事典を見ればわかりそうなことを最初から延々と説明してしまう、という光景があります。
でも、もしかしたら聞き手が知りたがっていることはそんなことではなく、その物質は人体に有害なのか、毒性はどの程度なのかということを手っ取り早く教えて欲しいということだったのかもしれません。これは、3.11後にもよく見られた光景です。
さらに、よくある例としては、「ある専門用語を説明するために、別の専門用語や略称を使ってしまう」というものがあります。
これも、相手の知識レベルを考慮していない故に起こる現象です。
彼らはもともと「頭が悪いから説明が下手」なのではなく、「相手の知識レベルやニーズ、つまり相手が何を知りたいのかということを意識しないでただ一方的に説明(記述)してしまう」から、その説明が一般人に理解してもらえず、「分かりにくい」「話が冗長」と受け取られてしまうのです。
ここで、「その程度のレベルのことさえ知らない一般人が悪い!」とキレるのは簡単ですが、しかしテレビに出たり本を書いたりネットで説明したりと、要するに一般人向けの商売をするならば、それではもはや絶望的ですから、そういう人には「二度と声がかからない」ということになります。そして、自分よりもはるかに学問的業績や知識という面では劣っているものの、「一般人向けに分かりやすく説明ができる人」が、マスコミ等から重宝されて「有名」になっていくのをただ見ているだけということになります。
それに、これからの時代、自分の学問の「必要性」を、その分野の研究予算の生殺与奪を握っている人々(たいていは非専門家)に対してうまく訴えて理解させることも、専門家の重要な資質の一つになります。
文章や解説の仕方というのは、何やら難しく考えたり、あるいは「文系」的な、センスの問題と捉えて最初から諦めている人もいますが、何かを解説する文章というものは、言わば数式や化学式と一緒であって、優れた文章は数式と同じようにブロックに分解することができます。
言葉や文章は数式と同じように組み立てることができる――。このことを一旦認識すると、彼らの説明力(文章力)は飛躍的に向上します。それこそ、回路がつながったみたいにです。
他にも、実験等においても、凡庸な人はただのんべんだらりと実験して、ただ結果を記録するだけですが、できる人というものは常に事前に結果を予測して、実験はその予測が正しかったか、どの程度外れていたかを確認するということを常に意識しています。
このように、「相手(聞き手・読み手)」の存在と、次を「予測」するということを意識すると、それまで「日本語でおk…」と言われそうなレベルの文章を書いていた人でも、突如「覚醒」してしまうことは決して珍しくないのです。
にほんブログ村