聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

正しい結論は二つに一つ

2017-06-12 06:20:18 | 公開書簡
 この様な途方もないようなルターの復帰を見ると、そこから私たちには一つの結論しか導き出すことが出来ません。つまり、私たちはこの様なことを許した第二バチカン公会議を排斥するか、あるいは、十六世紀以来プロテスタント主義を異端的で離教的だと排斥してきたトリエント公会議と全ての教皇たちを排斥するか、のどちらかに一つです。

 こうした出来事のために今カトリック信者たちがどうしたらよいか分からなくなっているということが、よく分かるのです。しかし、カトリック信者たちが困惑する理由はこのほかにも非常に多くがあります。

 わずか数年でカトリック信者の成人は、幼い子供時代から長く慣れ親しんだ宗教的実践の中心的な事柄が変質されるのを目の当たりにしました。教会の多くでは祭壇が取り壊されました。そして祭壇の変わりにテーブルがおかれました。しかもこのテーブルは移動可能で要らないときには取り除かれるのです。御聖櫃はもはや一番重要な場所を占めていません。ほとんどの場合は隠れたところに、隅の支柱の上に据えられるようになりました。たとえ御聖櫃が中央にとどまったとしても、司祭はミサ中に御聖櫃に背を向けるのです。ミサを捧げるものと平信徒は面と向かい合い対話をしています。誰でも聖なる容器に触れることが出来るようになりました。しかもその聖器もしばしばパンかごや大皿や、陶器のどんぶりに取り替えられています。女性も含めて平信徒が御聖体を授け、しかも御聖体は手に授けられています。キリストの御体は、尊敬もなく取り扱われており、そのことは全実体変化の真実に疑いを投げかけています。

 秘蹟は、ところが変われば別のやり方で授与されています。例として、洗礼と堅振の年齢がまちまちなこと、新郎新婦の祝別式が多様なこと、別の宗教や世俗的な文芸(時としては単に政治的見解を表明するためだけに使われる)などの典礼とは無関係な歌や朗読の導入のことを挙げることが出来ます。

 教会の普遍的言語であるラテン語、およびグレゴリオ聖歌は広く一般になくなってしまいました。全ての聖歌は現代的な歌に取り替えられました。その歌のリズムは娯楽の場でのリズムと同じであることがよくあります。

 カトリック信者は、聖職者の聖職衣が突然消えてしまったことによっても驚かされました。あたかも、司祭や修道者たちが、自分の身分が分かってしまうのが恥ずかしいかのように!

 自分の子どもを公教要理に行かせる親たちは、最も基本的なものである信仰の真理、たとえは、三位一体の玄義、御托身の玄義、原罪や無原罪のおん宿りの玄義などがもはや教えられていないのを発見します。

 ですから、こういったことはもう本当ではなく時代遅れ(perime)、過去のもの(depasse)となってしまったのか?という大変な戸惑いが出てくるのです。キリスト教的諸徳はもはや口にさえされません。謙遜とか、貞潔とか、節制について話す公教要理がどこにあるでしょうか。信徳は流動的な概念となってしまいました。愛徳は普遍的な共同一致の類のものになりました。望徳は、何よりもよりよい世界を希望することになってしまいました。

 人間は、或る状況においてある時新しい状況が起こるために、最初は驚き不確かなまま受けとめますが、その後には慣れてそれと同化するようになることが出来ます。でも以上のような革新は、そういった同化できる革新ではないのです。人間が生きるうちには物事のやり方は変わります。私がもし今でもアフリカで働く宣教師だったら、私はアフリカに船ではなく(たとえ今でも運航している汽船会社があったとしても)飛行機で行くでしょう。この意味においては、人間は自分の時代において生きるべきだということが出来ます。そうせざるを得ないからです。

 しかし、これと同じ理屈で、霊的なかつ超自然的な秩序における革新を押しつけられようとしたカトリック信者たちは、そういうような革新を受け入れることがあってはならないとよく理解しました。ミサの聖なるいけにえも、イエズス・キリストによって制定された秘蹟も変えられません。一度限り決定的に啓示された真理は変わることが出来ません。ドグマを別のものにすり替えることは出来ません。

 あなたはかつての教会が今とは別の姿をしていたのを知っています。以下のページは、あなたが自問する質問に答えようとするものです。

 また以下のページは、公会議以降に生まれた若い人々を照らそうとするものです。この若い人々に、もはやカトリック共同体は、彼らが教会から期待する権利を持っているはずのものを与えようとしないのです。

 最後に、私は宗教に無関心な人々や、不可知論の人々に語りかけたいと思います。ある日、いつかは天主様の聖寵が彼らを動かすでしょう。しかし、彼らはその時、司祭が不在な多くの教会を見、また、彼らの霊魂の必要に応じない教えを受ける危険があるからです。

 それから、皆に関心のある疑問があることは明らかです。一般情報の報道機関が関心を寄せるところから私がそれを判断すると、特にフランスではそうです。ジャーナリストたちも困惑を示しています。例えば適当に記事の見出しを拾ってみると、こんなのがあります。「キリスト教は死滅していくのか?」とか「時がイエズス・キリストの宗教に反していたのか?」とか「西暦二千年にもまだ司祭はいるか?」など。

 これらの質問に答えたいと思います。それは、今度は私が新しい説を打ち立てることによって答えるのではなく、今まで絶え間なく続いてきた聖伝、しかしつい最近ではあまりにも打ち捨てられている聖伝に則って、それに答えたいと思います。しかし、聖伝はあまりにもなおざりにされているので、多くの読者にとっては何か新しいもののように見えるかも知れません。(この項続く)


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