愛する兄弟姉妹の皆様を
2018年「秋田巡礼」へお招きいたします。
聖ピオ十世会日本は十二回目の公式秋田巡礼をシュテーリン神父様の指導の下で5月3日から6日まで行います。黙示録12章には天に壮大なしるしが現れたことが記されています。「太陽に包まれた婦人」は、その頭に12の星の冠を戴いていました。この婦人は、カトリック教会のことであり、またその典型である聖母のことです。私たちのこの12回目の巡礼が聖母の頭を飾るものとなりますように!
さて、秋田の聖母のメッセージを読むと、教皇、司教、司祭のための祈りが強調されていることに気が付きます。
第一のメッセージ 1973年7月6日(初金曜日)
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。」
第3のメッセージ 1973年10月13日(土曜日)
「ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。」
「祭壇が荒らされる」という表現さえもあります。祭壇が荒らされるとは、祭壇の至聖なる秘蹟であるイエズス・キリストの御聖体への尊敬が踏みにじられることでなくて何でしょうか。
ファチマの天使のことを思い出します。ポルトガルの守護の天使は、跪きさらに額づいて深々と御聖体を礼拝した後、子供たちにこう言っているからです。
「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい。」
2018年、日本の教会に目を向けると、カトリック信心の基礎であり中心であり重要な栄光である御聖体の神秘への崇敬はどうなっているでしょうか?「御聖体は教会の霊魂 velut anima Ecclesiae」(レオ十三世教皇 回勅 Mirae Caritatis 1902年5月28日 No 15)ですが、司祭たちの御聖体への愛はどうなっているでしょうか?
「聖変化」というのは、私たちの感覚には感じられませんが、天地を創造するのと同等の奇跡です。パンを御聖体に全実体変化させるのは、童貞女の御胎内に天主の御一人子が肉体を取って宿られたことと同等の奇跡です。叙階の秘跡を受けた司祭だけにはこの特別の力が与えられました。ちょうどキリストの「御手」がお触れになるとライ病が治ったように、道具として奇跡を起こす力が与えられました。Conversio panis et vini in corpus et sanguinem Christi est opus non minus miraculosum quam creatio rerum, vel etiam formatio corporis Christi in utero virginali, quae quidem nulla virtute creata fieri potuerunt. (聖トマス・アクィナス IIIa, Qu 78, art 4 ob 2 et ad 2)
カトリック教会の聖伝によると、霊的指導者たちによると、天主からそれほどの宝と権能を受けていながら、その御聖体に対する繊細な愛情や尊敬のない司祭というのは、異常事態だ、と警告を発しています。御聖体という愛の中心を失った司祭は、正しい軌道を外れてしまう、と。私たち司祭は、叙階の秘跡を受ける準備をしながら教えられました。
太陽のような巨大な重力に引き付けられていればこそ惑星は太陽の周りをまわることができます。太陽がもしも失われてしまったとすると、惑星は求心力を失ってすぽっとどこか宇宙のかなたに飛んでしまうことでしょう。もしも、御聖体への優しさも心遣いも愛情もなければ、物凄いスピードで狂った道のりを飛んでいくしかなくなります。
御聖体への冷淡を正当化する口実として、社会活動が必要であると論じられます。それは今に限ったことではありませんでした。イスカリオトのユダも、ベタニアでマリアが高価で純粋なナルドの香油一斤でイエズスのおん足にぬり、自分の髪の毛でそれを拭いたのを見て、マリアをなじったことがあります。「なぜキリストの御体に愛と崇敬を注ぐのか、そんなことよりもそれで貧しい人に施したほうがもっと為になる」と。
これは神学校の恩師が私たち司祭に言ったことですが、御聖体への崇敬と愛情がなければ、司祭職という天使を超える聖職さえもその他の職業のうちの一つに成り下がってしまう、と。御聖体への愛が司祭を生かしている、と。「私はあなたの業を知っている。あなたは生きている者だと思われているが、実は死んでいる。」(黙示録第3:1)
聖変化された御聖体は、生ける天主イエズス・キリスト御自身だからです。生きているお方です。単なる「聖なる物」ではありません。つまり「聖なる物だけれども命のない物質」ではありません。御聖体とは、生きて私たちを愛しておられる至聖なるお方です。この世を創造した天主の御血が脈打っている御体です。
ところで御聖体は、どのように取り扱われているのでしょうか?特に日本では、私たち司祭たちはどのような態度を御聖体に取っているのでしょうか?氷のように冷たい心で?信仰の飛躍も緊密な信頼もなく?
イエズス・キリストの御聖体こそ、贖い主のまさにその聖心の最も緊密なところから湧き出たもっとも天主的な賜物 sanctissimam Eucharistiam, donum divinissimum ex intimo plane Corde prolatum eiusdem Redemptoris (レオ十三世教皇 回勅 Mirae Caritatis)です。
日本はかつて御聖体の聖なる殉教者たちを生み出した国です。島原城主松倉重政が雲仙地獄でカトリック信者たちに残酷な拷問を行い、背教させようとしていたとき、私たちの祖先の日本人カトリック信徒たちは、「デウスのため」に苦しみを捧げ、「いと尊き御聖体は賛美せられさせ給え」と叫んで殉教していきました。それが日本の大和心です。日本人のカトリック信仰です。
私たちの先祖たちは、御聖体への愛のために、全てを犠牲にしました。全ての苦しみを甘受し、信仰と熱烈な愛情を持って全てを苦しもうとし、御聖体の讃美のため、躊躇無く、桜の花が散るように、祭壇のロウソクが燃え尽きるように、殉教していきました。
ドン・ショタールの「使徒職の秘訣」によるとこうあります。
聖なる司祭に、熱心な信者
熱心な司祭に、敬虔な信者
敬虔な司祭に、誠実な信者
誠実な司祭に、不敬な信者。
一般信徒の祖先たちがそれほど御聖体への愛に燃えていたのなら、司祭たちはどれほどの愛熱の炎に燃え立っていたことでしょうか!御聖体の周りにどれほどの聖性と愛と礼拝の雰囲気があったことでしょうか!おそらくその当時の司祭たちは、キリシタンたちに聖パウロの言葉を自分のものとして言うことができたに違いありません。聖ヨハネ・クリゾストモが言うように「パウロの心は、キリストの心、聖霊の書き板、愛徳の巻物」Cor itaque Christi erat cor Pauli tabulaque spiritus sancti atque caritatis volumen (S. Johannes Chrysostomus, Homil. 32)でした。私はなんと遠くにいることでしょうか!
「私がキリストに倣っているように、あなたたちは私に倣え。」(コリント前11:1)
「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりの生贄として天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め。」(エフェゾ5:1)
「たがいにイエズス・キリストの心を心とせよ。かれは、本性として天主であったが、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の姿をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のように見え、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」と言いあらわすためである。」(フィリッピ2章)
祭壇の御聖体といつも親しく一致している司祭はなんと幸せなことでしょうか!「実にこのいと高きいとも尊き秘跡は、霊魂と肉体の健康であり、全ての霊的病の薬」 Est enim hoc altissimum et dignissimum Sacramentum, salus animæ et corporis, medicina omnis spiritualis languoris (キリストに倣いて:コンテムツス・ムンヂ)だからです。
御聖体におけるイエズスがこんなに近くにおられるとは、私たちにとってどれほどのお恵みでしょうか!「イエズス無しにいるのは地獄のどん底なり、イエズスと共にいるのは甘美なる楽園なり」 Esse sine Jesu est gravis infernus, et esse cum Jesu dulcis paradisus (キリストに倣いて)。
イエズス・キリストの愛と憐れみと謙遜の極み!ベトレヘムでは、天主であることが隠されて、弱々しい幼い人間として私たちのもとに来られました。カルワリオでは、天主であることが隠されて、さらに私たちの身代わりに極悪人であるかのように取り扱われました。祭壇の秘蹟においては、人間であるということさえも隠されています。この天主の謙遜を前にして、私たち人間は膝をかがめ、額づくしかできません。特にふすまを開ける時も閉めるときでさえも、膝をついてそうする私たち日本人にとっては、さらにそうです!
イエズス・キリストの愛の秘跡を軽んじるとしたら、イエズスの愛を軽蔑するなら、御聖体の前で跪くことさえも禁止するなら、私たちの主はどれほど嘆かれることでしょうか!イエズスはこう繰り返されることでしょう:「私はあなたが迫害しているイエズスである。」(使徒9:5)
「あなたは私の足に水をそそいでくれなかった、…あなたはくちづけしようとしなかった、…あなたは、私の頭に油をぬらなかった。」(ルカ7:45)
そのようなお叱りの言葉を私たちが、イエズス・キリストから聞くことがないように、ますます主の愛の秘跡を崇敬することができるように乞い求めるものとして、祈りと償いを最も必要とする者として、私は今年も秋田巡礼に参りたいと思います。カトリック教会の司祭として叙階の秘跡を受けたお恵みを感謝するために巡礼に馳せ参じたいと願っています。「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈る」ために、聖母のもとに。
何故なら、「マリアは天主の宝庫だからです。聖母がましますところはどこでも天主の聖心があるからです。天主の御目は常にマリアの上にあるからです。主はご自分の使い女である聖母の御謙遜をご覧になるからです。」(An non thesaurus Dei Maria? Ubicumque illa est, et cor ejus. Oculi ejus super eam; ubique respicit humilitatem ancillae suae. 聖ベルナルド)
まだ秋田に巡礼に行ったことがない方も、何度も行かれた方も、今年初めての方も、どうぞ、巡礼にご参加ください。日本のために、カトリック教会のために、荒らされた祭壇や教会の復興のために、祈りと贖罪の業に励むために、私たちの祈りと犠牲を、この巡礼を通して御捧げいたしましょう。
愛する兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼にお招きいたします。
2018年「秋田巡礼」へお招きいたします。
聖ピオ十世会日本は十二回目の公式秋田巡礼をシュテーリン神父様の指導の下で5月3日から6日まで行います。黙示録12章には天に壮大なしるしが現れたことが記されています。「太陽に包まれた婦人」は、その頭に12の星の冠を戴いていました。この婦人は、カトリック教会のことであり、またその典型である聖母のことです。私たちのこの12回目の巡礼が聖母の頭を飾るものとなりますように!
さて、秋田の聖母のメッセージを読むと、教皇、司教、司祭のための祈りが強調されていることに気が付きます。
第一のメッセージ 1973年7月6日(初金曜日)
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。」
第3のメッセージ 1973年10月13日(土曜日)
「ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。」
「祭壇が荒らされる」という表現さえもあります。祭壇が荒らされるとは、祭壇の至聖なる秘蹟であるイエズス・キリストの御聖体への尊敬が踏みにじられることでなくて何でしょうか。
ファチマの天使のことを思い出します。ポルトガルの守護の天使は、跪きさらに額づいて深々と御聖体を礼拝した後、子供たちにこう言っているからです。
「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい。」
2018年、日本の教会に目を向けると、カトリック信心の基礎であり中心であり重要な栄光である御聖体の神秘への崇敬はどうなっているでしょうか?「御聖体は教会の霊魂 velut anima Ecclesiae」(レオ十三世教皇 回勅 Mirae Caritatis 1902年5月28日 No 15)ですが、司祭たちの御聖体への愛はどうなっているでしょうか?
「聖変化」というのは、私たちの感覚には感じられませんが、天地を創造するのと同等の奇跡です。パンを御聖体に全実体変化させるのは、童貞女の御胎内に天主の御一人子が肉体を取って宿られたことと同等の奇跡です。叙階の秘跡を受けた司祭だけにはこの特別の力が与えられました。ちょうどキリストの「御手」がお触れになるとライ病が治ったように、道具として奇跡を起こす力が与えられました。Conversio panis et vini in corpus et sanguinem Christi est opus non minus miraculosum quam creatio rerum, vel etiam formatio corporis Christi in utero virginali, quae quidem nulla virtute creata fieri potuerunt. (聖トマス・アクィナス IIIa, Qu 78, art 4 ob 2 et ad 2)
カトリック教会の聖伝によると、霊的指導者たちによると、天主からそれほどの宝と権能を受けていながら、その御聖体に対する繊細な愛情や尊敬のない司祭というのは、異常事態だ、と警告を発しています。御聖体という愛の中心を失った司祭は、正しい軌道を外れてしまう、と。私たち司祭は、叙階の秘跡を受ける準備をしながら教えられました。
太陽のような巨大な重力に引き付けられていればこそ惑星は太陽の周りをまわることができます。太陽がもしも失われてしまったとすると、惑星は求心力を失ってすぽっとどこか宇宙のかなたに飛んでしまうことでしょう。もしも、御聖体への優しさも心遣いも愛情もなければ、物凄いスピードで狂った道のりを飛んでいくしかなくなります。
御聖体への冷淡を正当化する口実として、社会活動が必要であると論じられます。それは今に限ったことではありませんでした。イスカリオトのユダも、ベタニアでマリアが高価で純粋なナルドの香油一斤でイエズスのおん足にぬり、自分の髪の毛でそれを拭いたのを見て、マリアをなじったことがあります。「なぜキリストの御体に愛と崇敬を注ぐのか、そんなことよりもそれで貧しい人に施したほうがもっと為になる」と。
これは神学校の恩師が私たち司祭に言ったことですが、御聖体への崇敬と愛情がなければ、司祭職という天使を超える聖職さえもその他の職業のうちの一つに成り下がってしまう、と。御聖体への愛が司祭を生かしている、と。「私はあなたの業を知っている。あなたは生きている者だと思われているが、実は死んでいる。」(黙示録第3:1)
聖変化された御聖体は、生ける天主イエズス・キリスト御自身だからです。生きているお方です。単なる「聖なる物」ではありません。つまり「聖なる物だけれども命のない物質」ではありません。御聖体とは、生きて私たちを愛しておられる至聖なるお方です。この世を創造した天主の御血が脈打っている御体です。
ところで御聖体は、どのように取り扱われているのでしょうか?特に日本では、私たち司祭たちはどのような態度を御聖体に取っているのでしょうか?氷のように冷たい心で?信仰の飛躍も緊密な信頼もなく?
イエズス・キリストの御聖体こそ、贖い主のまさにその聖心の最も緊密なところから湧き出たもっとも天主的な賜物 sanctissimam Eucharistiam, donum divinissimum ex intimo plane Corde prolatum eiusdem Redemptoris (レオ十三世教皇 回勅 Mirae Caritatis)です。
日本はかつて御聖体の聖なる殉教者たちを生み出した国です。島原城主松倉重政が雲仙地獄でカトリック信者たちに残酷な拷問を行い、背教させようとしていたとき、私たちの祖先の日本人カトリック信徒たちは、「デウスのため」に苦しみを捧げ、「いと尊き御聖体は賛美せられさせ給え」と叫んで殉教していきました。それが日本の大和心です。日本人のカトリック信仰です。
私たちの先祖たちは、御聖体への愛のために、全てを犠牲にしました。全ての苦しみを甘受し、信仰と熱烈な愛情を持って全てを苦しもうとし、御聖体の讃美のため、躊躇無く、桜の花が散るように、祭壇のロウソクが燃え尽きるように、殉教していきました。
ドン・ショタールの「使徒職の秘訣」によるとこうあります。
聖なる司祭に、熱心な信者
熱心な司祭に、敬虔な信者
敬虔な司祭に、誠実な信者
誠実な司祭に、不敬な信者。
一般信徒の祖先たちがそれほど御聖体への愛に燃えていたのなら、司祭たちはどれほどの愛熱の炎に燃え立っていたことでしょうか!御聖体の周りにどれほどの聖性と愛と礼拝の雰囲気があったことでしょうか!おそらくその当時の司祭たちは、キリシタンたちに聖パウロの言葉を自分のものとして言うことができたに違いありません。聖ヨハネ・クリゾストモが言うように「パウロの心は、キリストの心、聖霊の書き板、愛徳の巻物」Cor itaque Christi erat cor Pauli tabulaque spiritus sancti atque caritatis volumen (S. Johannes Chrysostomus, Homil. 32)でした。私はなんと遠くにいることでしょうか!
「私がキリストに倣っているように、あなたたちは私に倣え。」(コリント前11:1)
「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりの生贄として天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め。」(エフェゾ5:1)
「たがいにイエズス・キリストの心を心とせよ。かれは、本性として天主であったが、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の姿をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のように見え、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」と言いあらわすためである。」(フィリッピ2章)
祭壇の御聖体といつも親しく一致している司祭はなんと幸せなことでしょうか!「実にこのいと高きいとも尊き秘跡は、霊魂と肉体の健康であり、全ての霊的病の薬」 Est enim hoc altissimum et dignissimum Sacramentum, salus animæ et corporis, medicina omnis spiritualis languoris (キリストに倣いて:コンテムツス・ムンヂ)だからです。
御聖体におけるイエズスがこんなに近くにおられるとは、私たちにとってどれほどのお恵みでしょうか!「イエズス無しにいるのは地獄のどん底なり、イエズスと共にいるのは甘美なる楽園なり」 Esse sine Jesu est gravis infernus, et esse cum Jesu dulcis paradisus (キリストに倣いて)。
イエズス・キリストの愛と憐れみと謙遜の極み!ベトレヘムでは、天主であることが隠されて、弱々しい幼い人間として私たちのもとに来られました。カルワリオでは、天主であることが隠されて、さらに私たちの身代わりに極悪人であるかのように取り扱われました。祭壇の秘蹟においては、人間であるということさえも隠されています。この天主の謙遜を前にして、私たち人間は膝をかがめ、額づくしかできません。特にふすまを開ける時も閉めるときでさえも、膝をついてそうする私たち日本人にとっては、さらにそうです!
イエズス・キリストの愛の秘跡を軽んじるとしたら、イエズスの愛を軽蔑するなら、御聖体の前で跪くことさえも禁止するなら、私たちの主はどれほど嘆かれることでしょうか!イエズスはこう繰り返されることでしょう:「私はあなたが迫害しているイエズスである。」(使徒9:5)
「あなたは私の足に水をそそいでくれなかった、…あなたはくちづけしようとしなかった、…あなたは、私の頭に油をぬらなかった。」(ルカ7:45)
そのようなお叱りの言葉を私たちが、イエズス・キリストから聞くことがないように、ますます主の愛の秘跡を崇敬することができるように乞い求めるものとして、祈りと償いを最も必要とする者として、私は今年も秋田巡礼に参りたいと思います。カトリック教会の司祭として叙階の秘跡を受けたお恵みを感謝するために巡礼に馳せ参じたいと願っています。「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈る」ために、聖母のもとに。
何故なら、「マリアは天主の宝庫だからです。聖母がましますところはどこでも天主の聖心があるからです。天主の御目は常にマリアの上にあるからです。主はご自分の使い女である聖母の御謙遜をご覧になるからです。」(An non thesaurus Dei Maria? Ubicumque illa est, et cor ejus. Oculi ejus super eam; ubique respicit humilitatem ancillae suae. 聖ベルナルド)
まだ秋田に巡礼に行ったことがない方も、何度も行かれた方も、今年初めての方も、どうぞ、巡礼にご参加ください。日本のために、カトリック教会のために、荒らされた祭壇や教会の復興のために、祈りと贖罪の業に励むために、私たちの祈りと犠牲を、この巡礼を通して御捧げいたしましょう。
愛する兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼にお招きいたします。
2018年3月29日 聖木曜日
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)