星学館ブログ

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文楽を愛した天文学者-石田五郎

2021-02-20 13:07:36 | エッセイ

<初出:「大阪人」1994年>


 昨年,文楽界では新たに吉田文雀と吉田簑助のお二人が人間国宝と認定され,めでたいことであった.

 人間国宝では先輩の吉田玉男師匠を文楽劇場にお尋ねした折のことである.「いや,天文の先生でね,いろいろ面白いものを見せてくれる人がいる.この前もアフリカの・・・」という話をされた.二年半ほど前,プラネタリウムで曽根崎心中のさわりを紹介したいと思ってお邪魔した時のことで,「それは石田先生ですか?」と尋ねると案の定そうだった.それにしても石田先生が玉男師匠らと親しくお話をされているとは,驚きであった.それから三ケ月後,石田先生は病没された.まだ七〇前であった.

 故石田五郎氏は一九二四年東京に生れ,東京帝国大学天文学科を卒業後,東京天文台に入って岡山天体物理観測所の所長として活躍された.岡山観測所は一九六〇年,日本最大の望遠鏡を有する観測所として開設され(そして今でも日本最大),石田先生は三〇代なかばにしてその現地責任者となった.岡山では言いたくないことも言わなければならない立場で,いきおい顔つきも厳しくなったのだろうと思う.

 そんな激職の合間をぬって文楽がかかるたびに大阪まで足を運んでいたようで,そんなこととは知らずに先生が大阪の地理に明るいのを奇妙に感じたことがあった.1974年だったか、講演会をお願いしたら場所の説明は不要だとおっしゃる.後で聞いたら,朝日座にせっせと通っておられて大阪の地理を知悉されていたのだ.二〇年も前のことで,私などは文楽にはまったく縁がなく,失礼なことに大の大人が(先生は本当に大柄だった)似合わぬことを,マア好きだなア,という程度の認識しかなかったのだが,先生は本当に熱烈な文楽ファンだったし,それがストレス解消剤だったのだろうと思う.

 東大退官後は東洋大学の教壇にも立たれ,「私の講義はなかなか人気があるんだよ」と所長時代とはうってかわってにこやかに話していた.三年ほど前,奥様と二人でふらりと科学館にお出でになった時,私は星が登場する近松の曽根崎心中の一場面をプラネタリウムでとりあげようと決めた.そして,その公開直後,星の文楽を作るんだと楽しそうに語っていた自称二世天文屋は天界に旅立って行った.

<追記> 最初に石田先生にお出で戴いてから暫くして筆者も文楽、歌舞伎を楽しむようになった。そして近松の曽根崎心中に登場する星々についてちょっとした考証を行ったところ、読売新聞に取り上げて戴き、思わぬ反響を得たが、紙面に石田先生のコメントが併載されていて、嬉しかった。ここでの曽根崎心中は国立文楽劇場が開館した秋の第2回目公演のもので、「この世のなごり,夜もなごり・・・」で始まる有名な道行きの場面で、心中の決意を固めたお初と徳兵衛が梅田の露天神社へ向っていく途中,蜆川に北斗が映り,上空には織姫と彦星の女夫星が輝いているのを見て、自分たちは織姫と彦星のようにあの世で夫婦になるのだと語り、流れる星にあれはわれらが魂かとお初が涙するというクライマック・シーンがある。時は今の6月、確かに明け方近くになればその通りの星空だった。近松は実際に観察したか、知っていたか、誰かに聞いたか、それは分からないが、実に正確な表現だった。先生もあの場面が気になっていたようで、そんなコメントを寄せて戴いた。狭い天文学の世界で、こうした江戸文化を楽しんでいた風流人は石田先生をおいて知らない。がっした体躯に立派な髭を蓄えていた石田先生は観測所では誠に怖い所長だっただけに、その乖離が面白かった。 2021.2.20.


後藤秀機著「天才と異才の日本科学史」

2021-02-15 16:59:07 | エッセイ

 久しぶりに面白い本に巡り合った。発行直後に買い求めたが、8年を経て今回ようやく、という次第。ベスト・エッセー賞だったか、そんな名前の賞が授与されたのもうなづける良著。

2013年、ミネルヴァ書房発行。著者は応物、原子核工学を経て、神経生理学を専攻した。その幅広い経歴の中で出会った人々にまつわる話が並び、考えさせられる素材が目白押しである。内容については、あちこちに紹介やら書評があるので、そちらを参照して戴き、ここでは筆者の思い出を紹介したい。筆者は恒星の物理に関心があるため、原子や原子核とはそれなりに縁があり、本書で紹介された湯川、朝永はじめ関係の方々の仕事内容やエピソードには多少馴染んでいる。そうした方々と多少の縁もあり、本書は実に面白かった。と同時に、いつくか思い出すことがあった。

1970年代の終わり頃だったと思うが、京都大学の基礎物理学研究所で林忠四郎先生の天体核の研究会の折に佐藤勝彦氏のインフレーション理論の話と益川さんの話があった。インフレーション理論の方は何となくそういうことかとおぼろげに了解できたが、それは素人に分かりやすい解説だったからだ。一方、益川さんは6個のクオークがあれば対称性が破れるという例の話だったと思うが、これはさっぱり! あの益川節でまくし立てた上に内容が内容だけに門外漢にはチンプンカンプンだった。話が終わると進行役の佐藤文隆氏がやおら立ち上がって「今日、初めて益川さんの話がわかった」と感心したように言った。どうやら今日は普段と違って、分かりやすく話してくれたらしいことがわかった。

南部陽一郎先生とは、2005年の秋、ここでも紹介している日下周一に関するシンポジウムに来ていただくことになっていたが、生憎、飛行機が欠航になり、1日遅れで間に合わなかった。しかし、その後も、大阪市立科学館の斎藤さんが連絡をとってくれて、何度か、科学館にお越しいただき、多少、話を交わす機会があったので、下世話な質問だと我ながら思いつつ、聞いてみた。「先生は、計算はどのようにされるんですか?」 すると「全部暗算です。最後の結果は書きますが」ということであった。また、マスコミ各社が今年こそノーベル賞を、と躍起になっていたこともあったので、その話を差し向けてみたら、「昔はそう思っていたけど、今はもうどうでもという感じだ」との趣旨のことを仰った。これまた本書にもあるが、プリンストン高等研究所には世界の天才が集まり、それが角を突き合わせて成果を競っていた。南部先生は「それには全く馴染めず、毎日、苦しい思いをしていた」と語ってくれた。不躾な愚問にもいやな顔をされず、真摯に対応して戴き、大いに恐縮してしまった。本書にもあるように、先生はもの静かで、控えめで、実に人当たりが柔らかく、筆者は素直に本当の偉人とはこういう方を言うのだろうと思った。ノーベル賞の授賞式に欠席されたが、その理由は奥様の看病であった。本当にそうなのかも知れないが、斎藤さんは「面倒臭かったんじゃないか」と言う。既に達観されていて先生がそういく思いを抱いたとしてもおかしくない。しかし、筆者は別の見方をしている。授賞式に代理で出席し、講演したのはイタリアのヨナ=ラシニオ氏であった(本書に登場)。自発的対称性の破れについての共同研究者であり、彼に華を持たせたかったのではないか、ノーベル賞を分かち合おうとしたのではないか、というのが筆者の見方である。南部先生ならそうした配慮をしたとしてもおかしくないと思った。どうでも良い話を思い出した。南部先生が赴任された新生の大阪市立大学は開学間なしで学生がいなかったので京都大学に足しげく通っていたこと、また梅田駅の近くだったことからしばしば洋画劇場に入り、社交ダンスを習っていたと仰っていた。後者は来るべき留学に備えてであったという。南部先生の助手だった中野先生のことは最後に書いてある。

本書には住田健二先生の名前が何度か登場している。原子力安全委員会委員長代理だった時にJCOの事故が起こり、それを住田先生が陣頭指揮を執り、何とか最小限の被爆で抑えたという我が国で初めての放射線事故の顛末が紹介されている。先生には科学館の理事をお願いしていた関係があり、筆者は住田先生としばしばお話をさせて戴いたし、原子力安全委員会のオフィスやご自宅にも伺ったことがある。とても気さくな先生で、クラシック音楽の愛好家を自認して憚らない根っからのクラシック・ファンで、ご自宅の一室は四方の壁面の床から天井まで一面にCDが並び、圧倒される。愛称は「お茶の水博士」、そう鉄腕アトムのお茶の水博士そっくりの風貌の笑顔が素敵な先生である。そんな普段の姿とは似つかず、JCOの事故では何と毅然として対応されたことか、仕事には誠に厳しい先生である。住田先生だからこそ前代未聞の大事故に的確な対応ができたのだろうと思う。

残念ながら湯川先生とは接する機会がなかった。と言うより、良い意味でどうしても「敬して遠ざける」ことになってしまった。湯川先生はやはり神様だった。奥様やご子息に接する機会は先生の没後のことであった。病気をおしてパグウォッシュ会議を京都で開催された時のお姿には鬼気迫るものがあった。

中間子論が書かれたのは大阪・中之島の大阪帝国大学理学部であった。今、そこには大阪市立科学館が建ち、往時の阪大物理教室のエピソードが語り継がれている。八木先生から湯川先生が叱責されたこと、誰も言わないが皆知っていたこと、夜の理学部長を自認していた奥田毅先生(大阪市立大学、岡山理科大学)、その薫陶を受けたと仰っていた中野董夫先生は南部先生の研究室の助手で、西島和彦先生と一緒に中野・西島・ゲルマンの法則を打ち建て、南部先生や西島先生が去った後、大阪市立大学の物理教室を牽引された。退官後は大阪市立科学館の館長を引き受けて戴いたので、親しくお話をさせて戴く機会があった。何度か出張でご一緒したが、新幹線に乗ると必ずアイスクリームを買う筆者が面白かったらしく、いつぞや奥様がどっさりアイスクリームを差し入れて下さった。いやはや、冷や汗ものだった。中野先生はダンディーで、いつも身だしなみに凝っておられたが、全部、奥様が揃えられているとのことであった。奥様曰く、「昔、タタ研究所(インド)から帰ってきたら、髪はぼうぼうで真っ黒け」だったとのことで、これで中野先生にも不得意な分野があることが分かった。また、先生はその紳士然とした風貌からは想像つかないほどの酒豪で、いつも「お酒は一合」と仰っていた。その一合とはウィスキーのストレートの一合で、サントリーのホワイトをこよなく愛しておられた。ウィスキーを片手に岩波の数学書を読むのを無上の喜びとされていた。学生とのコンパでは、全員を酔い潰してから帰ってくる、とは奥様の弁。しかし、誠に綺麗な飲みっぷりで、酔った雰囲気を全く感じさせなかった。南部先生とはずっと交流があり、南部先生が秋になるとシカゴから帰って来られるので集まっておられたようだ。この中野先生のルートで小田稔先生や伏見康治先生などとお会いできたのは幸せなことだった。また、先生は小さい頃は天文少年だったと仰っておられた。いつだったか、姫路市の星の子館を会場に会議を開催したことがあり、中野先生とご一緒したが、そこに偶然、東京天文台天体捜索部におられた冨田弘一郎氏が居合わせた。この時は既に東京天文台を退官し、つくばの光学会社の顧問のようなことをされていて、星の子館には望遠鏡の件で訪問されていた。この両先生、実は因縁浅からぬ間柄で、中野先生は東京の青山学院で冨田先生の後輩にあたり、我々に「昔、天体望遠鏡を売りつけられて・・・」と話していた当の相手が実は冨田先生だったことが披歴された。両先生は実に50年ぶりの再会であったし、天体観測の名手と代名詞で呼んでいた人が冨田先生だったとは、実に妙な縁であった。冨田先生には我々の科学館の仕事もお願いしていたから、その前に何度か来訪されていたのだが、その時は中野先生は冨田先生とは具体に仰らなかったので、我々は知らずに応対していたのだった。今では歴史となったかつての話である。

(星学館 2021.2.15.)