星学館ブログ

星やその周辺分野のもろもろを紹介

幕末の天体観望屋

2022-02-25 11:51:34 | エッセイ

 最近見つけた講談社学術文庫の一冊「続・絵で見る幕末日本」(エメェ・アンベール著、高橋邦太郎訳、2006)。幕末にスイスの特命全権公使として日本にやってきた著者アンベールが通商条約締結の18ヶ月間滞在し、その間に見聞したいもろもろを絵を交えて紹介している。見ていて、実に楽しい。なお、スイスの時計が盛んに輸入されるようになったのは彼らの功績らしい。

 なるほど、幕末にはこのように海外との交渉が盛んになり、それに忙殺されていた幕府役人も多かったことだろう。「幕府を倒せ~!」などと叫んでいる連中とまとも対峙しているわけにはいかなかったに違いない。こうなると守る方は弱い。

 それはさておき、第十三章「江戸の市」では、

 祭礼から祭礼へと、江戸の庶民はあわただしく暮らしているが、その間にも、数多い娯楽や遊びを考え出している。定期的なものもあれば、年中休みなくやっているものもある。

という書き出しで、芸人、相撲、芝居、曲芸、曲馬、力持ち、手品などのの興行から、武士のための馬場、弓技場があったこと、茶屋のこと、寺社仏閣への参詣、大道での物売り、果ては「好奇心の強い連中が立体鏡(覗き眼鏡)で、ヨーロッパの警察では禁じているようなものを見ている」ようなことまで実によく観察し、描写している。幕末から70~80年はこれと同じような光景が見られたように思う。

 山下の大きな広場に近づくにしたがって、群衆の数はふえてゆく。歩道には、竹と葦簾でつくった仮小屋が所狭しと並んでいる、その他、あちらこちらに散らばって、特殊な商人が店を出すが、彼らは群衆にぐるりと取り巻かれて、人垣の中で商売をしている。中でも、庶民的な天文学者とか、社会の出来事を印刷した瓦版や新聞を並べて売る商人などが目につく。天文学者は、彼を囲んだ見物人にすばらしい天体を面白おかしく並べ立て、この長い望遠鏡で眺めると、どんなに神秘的であるかを吹聴し、きわめてわずかの見料さえ払えば、太陽、月、星など見たいと思うものは見られる、と口上をいっている

 欧米でも同じように大道で天体を見せることを業としていた人たちがいたことを何かで読んだことがあるが、江戸末期の江戸ではこんな人がいたのである。実際、商売として成り立っていたのか、心もとないところがあるが、庶民にも望遠鏡が出回るようになっていたことは間違い。1800年頃の文化文政時には全国を巡業する天文家もいたようだから、幕末にこうした人たちがいたとしてもおかしなことではない。

 政治の上では、攘夷だ、いやいや佐幕だ、とやっていたかも知れないが、文化的にはすでに開明されていたわけで、今日まで続く文物、風俗が用意されていた。恐るべし江戸時代なり、だ。

(星学館、2022.2.25.)


会津藩の天文台と日新館

2022-02-25 10:41:19 | エッセイ

 日本天文学会の日本天文遺産にも認定されている福島県会津若松市にある藩校日新館の天文台跡。この種の遺跡としては珍しい存在だ。これは2012年8月に訪れた折の写真である。浅草には幕府天文方の観測施設があったが、それもこうした築山の上にあったことが浮世絵に描かれている。それもこんな感じだったのだろうと思わせる。会津若松市が設置した看板(写真参照)によれば、規模が半分になったとのことだから、往時のままなら確かに観測装置も置けたような気がする。

 ところで、最近、東洋文庫にある「日本教育史1,2」というのを見つけた。そこに会津藩の日新館について載っていた。下記のような内容である。

会津藩日新館は、寛文の初年(*1)、藩祖松平正之(*2)が、稽古堂を建てしに起因し、天明八年(*3)、容頌(かたのぶ)が、大に土木の功を起し、黌舎を改造せしに至りて、始て日新を持って館に名づけたり。

初め正之は、山崎闇斎(*4)、吉川惟足(*5)を聘し、神道及朱学を尊信しければ、一藩之を守りて、終始変ぜず、歌は、二条家の法に遵ひ、神道には、口訣(くけつ)、伝授等の事あり。

また洋学、医学、算術、筆道、礼式、兵学、弓術、馬術、槍術、剣術、砲術、柔術、游泳、居合、薙刀の類ありて、凡そ士族たる者は、十歳に至れば、必ず此に就きて、文武の[学]を兼習せしむ。

其文学の等級には、生徒を四等に分ちて、初て学に就く者を四等生とし、孝経、小学、四書、五経の素読を試みて、三等とし、之に少しく講義を加へて、二等とす。

三等を三百石以下の格とし、二等を三百石以上の格とし、並に其禄を有する者の、必ず修むべきの課とせり。

更に唐本にて素読を試み、且講義を雑(まじ)へて一等とし、始て至善堂に入ることを得。

至善堂は、大学と称し、又講釈所と称し、其生徒を大学生と称す。

其生徒の、此に入るは、通例十六歳なれども、若し其業、既に此度に進める時は、年齢、未だ合格せずと雖も、亦此に入ることを得るなり。

此堂に上る者は、聴講、輪講、賦詩、作文に従事し、弓馬(ゆんば)、槍刀の内にて、必ず其二種を学ばしめ、其余の武芸は、一に各人の志向に任す。而して郊野にて隊を結び、槍刀を角して、衆人をして縦覧せしめ、以て其業を奨励する事あり。

さて其退学の期は、長子は、二十五歳とし、二三男は、二十一歳としたれど、若し文武の芸、未だ合格に至らざれば、退学を許さず。

又其年齢、未だ定格に満たざるも、芸業既に達せる者は、自由に退学することを得るなり。

此藩にては、数年間、学校闕席なき者を賞賜し、其文武の業の、家督を相続すべき度に至らざる者に、小普請入りを命じ、之に禄悦を課し、或は禄税を課し、或は禄秩を減ず。

而して文学の、大学生に昇りたる者は、武術は、未だ合格に至らずとも、此事なく、武術の、数種の免許を得たる者も、文学合格せずとも、股此事なし。

又平民の子弟は、藩立校に入ることを禁じたれども、学業進歩の者には、試験の上に、賞与する事あり。

此藩には、此学校の外に、藩地に南学館ありて、友善社と称し、北学館ありて、青藍社と称す。倶に独礼以下の子弟を教ふる所なり。

(*1)寛文の初年-1661年、将軍は徳川家綱
(*2)松平正之-保科正之(ほしな まさゆき、1611~1672)。会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。将軍の「ご落胤」でもある。正之は養育してくれた保科家への恩義から保科を名乗り、幕府から勧められた松平姓は3代目正容から
(*3)天明八年-1778年。将軍は10代徳川家治、11代徳川家斉
(*4)山崎闇斎(1619-1682)-江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。朱子学者。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。とりわけ、湯武放伐を否定して、暴君紂王に対してでも忠義を貫いた周文王のような態度を肯定した。吉川惟足の吉川神道を発展させて「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。
(*5)吉川惟足(よしかわ これたり、1616~1695)-江戸時代前期の神道家。保科正之の信任を得て、子孫は代々、会津藩から初め50俵、後に30俵の合力米が給付されていた。

 この本は元が明治23年、24年に文部省から発行された佐藤誠実著「日本教育史」とのことである。

 内容的にはおいて市の説明版と大きな齟齬はないと思うが、ただどの程度、天文台として機能していたのだろうか? その辺りは、どうも研究している方々にもよくわからないようで、具体的な内容は紹介されていない。上の文から推定すると、学術面では洋学、医学、算術が挙げられているものの全体の中での比重は小さいようであり、観測データを取得し、解析をするといったところまでやっていたのか、疑問ではある。この洋学や算術の内容がわかればある程度推定できるのだが・・・

 いずれにしろ、他藩にこんなものがあったのか、またこの日新館の天文台が浅草観象台と何か関係があるのか、気になるところではある。

(星学館、2022.2.25.)


ドン・キホーテDon Quijote de la Mancha の星占い

2022-02-24 08:30:28 | エッセイ

 1605年、ミゲル・セルバンテスの書いたドン・キホーテが出版され、以来、400年余、押しも押されぬ名著として君臨してきた。一見、滑稽本のように見えるが、当時の文学作品の批評が入っていたり、詩歌がふんだんにちりばめられていたりと、教養がないと読めない。

 私の本棚にちくま文庫のドンキホーテ4冊中3冊並んでいるが、第1巻がない。購入当初、少し読んだ記憶があるからあったのは間違いないが、その後の転居などにより失われたのだろうと思う。少し時間ができたので図書館から第1巻を拝借して読んでみた。すると、第12章に、

「死んだ男はこの山国にある村に住んでいた、お金のある家柄の良い旦那衆で、かつてはサラマンカで長い年月勉強をしていたが、それが終わると生まれた村へ帰ってきたが、なんでもじつによく知っていて、よく本を読んでいるという評判であった。中でも、世間の噂によると星だの、あの空で太陽や月におこることだのの学問を知っていたということで、その証拠には太陽や月の・・・」

・・・

「『今年は大麦をまけ、小麦はまくな。今年は隠元豆をまいたらいい、大麦はいけない。来年はオリーブ油の豊年だ。つぎの三年はただの一滴もとれまい』などと言うようにあの男が教えてくれるとおりにみんな従ったからなんです」

「そういう学問は占星術というんです」と、ドン・キホーテが教えた。

という一節が見つかった。

 サラマンカ大学は、wikiによれば、「マドリードの西北西に位置する都市サラマンカにある大学。現存するスペイン最古の大学であり、オックスブリッジ、パリ大学、モンペリエ大学、トゥールーズ大学、ボローニャ大学などとともに12〜13世紀頃にヨーロッパで設立された中世大学の1つでもある。「知識を欲する者はサラマンカへ行け」と言わしめた。・・・大航海時代には、天文学などに基づいた航海計画が綿密に練られた場所となった。」とのことで、当時の作法に従い、占星術が教えられていたようである。占星術の背景となる学理=編暦法は「天文学などに基づいた航海計画が綿密に練」るために必要な技法だった。コロンブスがスペイン国王の許可・支援によりスペインから船出したが、それとサラマンカ大学が全く無関係だったとは思えない。

 スペインはがちがちのカトリックの国である。ザビエルもロヨラも出身はスペインだ。かつて占星術はキリスト教とぶつかる(天が人間生活を予言するという占星術は神こそが全知全能とするユダヤ・キリスト教に反する)ことからキリスト世界からは排除されていたが、ルネサンスと共によみがえり、がちがちのカトリック国でも普及していたことが窺える。

 ケプラーの「新天文学」の出版、ガリレオの天体望遠鏡による最初の天体観測がともに1609年で、ドン・キホーテの出版が1605年と、ほぼ同年である。読書が相当普及し、それと共に聖書も一般に行き渡るが、占星術書も普及し、科学書も世に現れるという面白い時代だった。中世ヨーロッパでは消えていた占星術がルネサンス期に復活した。文化・科学が普及したところに迷信が生まれる、という話である。その前のもっと生活の糧を得るのに汲々としていた時代には生活の知恵としての迷信めいた教えあったと思うが、それはこの中世以降の迷信とは性格が異なるように思う。

 昨今のコロナ騒動にも相当に迷信めいた話が飛び交っている。迷信がはびこると犠牲が生まれる。学校を閉鎖すれば不幸な若者が生まれ、仕事を失わざるを得ない親も出てくる。コロナは怖い、人と会うな、在宅勤務だ-そのせいで公共交通機関の値上げが検討されている。それで済めばよいが、これで廃線が促進される。また、故郷の年老いた両親の面倒も見られず、寂しく亡くなる、などという話もあるーこれは「コロナはサリン・ガスよりも恐ろしい、空気中、どこにでもに浮かんでいるから広々とした公園の中でもマスクだ」という迷信の犠牲ではないのか? 現代人は占星術を迷信と笑うことができるのだろうか?

(2022.2.24. 星学館)


金なし、家なし、趣味もなし

2022-02-18 20:26:29 | エッセイ

 これに「特技は昼寝ばかり」と来ては鬼に鉄棒、いやいや、何とも情けない話である。親が生きていれば嘆くまいことか! 自分でも誠に恥じ入るばかりの人生だ。ただ、大した病気をするわけでなし、金も家もなくともそれなりに生きているから、生き物としては立派なものとも思う。それでも「情けない、ふがいない」と感じるからには、単に生き物ではない部分に欠陥があるに違いない。

 今から1900年ほど前、西暦150年頃に活躍したプトレマイオスという学者が「テトラビブロス」という占星術書を書いていて、それによれば、人間が生きる上で大切なものは物質運と品格運だと言う。物質運は生きる上での富のことで、品格運は幸福に直結するものらしい。これは社会的地位や周囲から尊敬を受けることなどの他、仕事や社会的活動、結婚、子ども、友人と敵、そしてなぜか外国への旅行などである。「単に生き物ではない部分」とは、物質運を除いたこの部分で、それが幸福に直結すると言うから、プトレマイオスによれば、私が情けないと感じたのは仕事ではもとより、家人からでさえ尊敬どころか、気に留めてもらったためしもないからのようである。自分としては「そんなはずはない、家族のためには多少は」と抵抗したいが、「あんた、何か尊敬されるようなことをやってきたの?」と正面切って問われると、悲しいかな、ぐーの音も出ない。

 1900年前の占いである。実は少し馬鹿にしていた。が、妙に当たっている。当たっても、ちっとも嬉しくはなかったが。

(2021.12.15.、2022.2.16.、シニアシティーカレッジ)