感染症状が出ない人もいるのだから注意しないと、自分が感染源になってるとも分からずにばら撒いてることを自覚しないと、感染暴発が起こっても俺は知らんでは困ります。都会は人口密度高いのだから油断したらあかんよ。すぐ自分に返ってくる。
何度も何度も追悼番組があります。こんなに目利きのできる人はおらんように思う。
緊急事態解除されて此の和歌山街道も他府県の車に出会い、追い越されの一日でした。普段の土日が百とすれば十くらいかな。ほぼゼロに近かった先々週では思いもつかない車、単車です。まだ桐の花や栴檀の花はこれからのようです。この季節の若草色が濃い杉や檜の合間に映えているのを見るのが昔から大好きだったので、うれしい季節と言えます。櫛田川にも鮎が放流されて泳いでいるのを見るのも好きです。今年のは大きそう、というのが印象に残っています。
母は十四歳の時、子守ばかりの今が嫌で、帰省していた父親の弟について東京へ、部屋を借りて近くの診療所のお手伝い。資格を取って看護婦。病院で働きました。親の勧めで戦争から帰って来ていた父と結婚。名古屋で新婚生活、私が生まれました。父は軍需工場で働くも米軍の空襲が激しくなり二人の両親のいるところへ疎開、母の実家で生活、煮えたぎった鍋に手を突っ込んでしまい右手をやけど、看護婦の経験を活かし手早く処置できたお陰で生き延び今に至っています。両親の世話をしているとき、お前は親孝行なぞせんでもええよ。と何かあるたび言ってました。たいした親孝行はできませんでしたが両親とも九十歳を過ぎても元気に長生きしてくれました。
早朝の自転車が日課です。走行中前方の雲、あれ地震雲かな?、東西に走る雲に感じました。帰宅してテレビを点ける、しばらくして岩手県の震度がテロップで流れて、やっぱりあれは地震雲だったんだ。筈はないです地震国日本は四六時中どこでも地震が起きてるんですから。