住田功一のブログ

メディアについて考えること、ゼミ生と考えること……などをつづります

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』⑥ エピローグ〜最後の「防空情報放送」

2023-08-07 17:00:00 | メディア関連
<最後の「防空情報放送」>///////////////////////////

リポーター
退避放送はわずかの差で間に合いませんでした。
プルトニウム爆弾の一瞬の閃光にさらされた人々。長崎の原爆資料保存委員会の調査によりますと、亡くなった人7万4000人、重軽傷者7万5000人にのぼりました。

8月9日当日、参謀のもとで防空情報を担当していた将校・毎田一郎さんは、私たちの取材に対して、最後に、こう話してくれました。

毎田一郎さんの証言
「あれはねえ、爆弾が落ちて炸裂した後、ラジオを聞いておるものがおったかどう知りませんけど、30分ぐらいそういう情報を流してましたなあ。退避せよ、退避せよという情報を流してました。それは手遅れであったなあと」
「私たちの立場からすれば、いわゆる空襲警報を出すということはですね、それだけ国内の生産がストップするわけですよね。そういうことがやっぱり、なかなか空襲警報を出すのは慎重でなきゃならんという考えに結びついてましたから」
「まあ、考えてみれば3日前に広島にあれが落とされとるということが教訓になって、もっと頭に染み込んでおればね、もっと警戒したでしょうけれどもね」

リポーター
なぜ、広島の教訓を生かせないまま、長崎は8月9日を迎えたのか。
そして防空情報放送は一体どういう役割を果たし得たのか。
拓殖大学教授・秦郁彦さんに聞きました。

秦郁彦教授 解説
「広島のあとなのに、なぜ長崎市民の退避ということが間に合わなかったのか。今考えて見ると、非常に残念な気がしますね」
「ひとつにはですね、やはり陸軍中央部の誤った判断も影響していたと思います。これは8月9日の終戦を決めた御前会議の席上で阿南陸軍大臣が『アメリカが持っている原爆は一発しかないはずだ』と。これはぜんぜん根拠のないことなんですけど、もうこの段階になりますとね、根拠がなくてもなんとかして楽観的な見通しにすがりつこうと。そして、本土決戦に持ち込みたいという、そういう頑妄が、この発言に集約されていると思うんですね。それを議論している席上に、2発目が長崎に落ちたという情報が入りまして、これが終戦決定の非常に大きなきっかけになるわけですね」
「戦争中の日本人は徹底的な情報封鎖の中で暮らしておりましてね、この防空情報というのはその中で唯一の“明かり窓”のようなものでありまして、でもちろんそこから流れてくる情報だけでは十分じゃない。しかし、まあ、国民それぞれですね、自分の判断力、口コミで伝わって来た情報。そういうものを総合してですね、対処していったと」


録音素材
.玉音放送 F.I..
「爾(なんじ)臣民ノ衷情󠄁モ朕󠄁善ク之ヲ知ル 然レトモ朕󠄁ハ時運󠄁ノ趨ク所󠄁 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍󠄁ヒ難キヲ忍󠄁ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平󠄁ヲ開カムト欲ス 朕󠄁ハ茲ニ…」→B.G

ナレーション
昭和二十年八月十五日正午、ラジオは全国民に決定的な情報を伝え始めた。

ナレーション
天皇の玉音放送によって、戦争は終結した。
これが、いわば、防空情報放送の最後であった。

効果音
・玉音放送
「…世界ノ進󠄁運󠄁ニ後レサラムコトヲ期󠄁スヘシ 爾臣民其レ克ク朕󠄁カ意󠄁ヲ體セヨ」


<クレジット>///////////////////////////

エンド音楽 → B.G.

アナウンス
『特集・長崎市民は退避せよ〜防空情報は何を伝えたか』

取材協力
秦郁彦(はた・いくひこ)
荒木正人(あらき・まさと)
泉洋二郎(いずみ・ようじろう)
斉藤聰(さいとう・さとし)
島津矩通(しまず・のりみち)
杉原宏子(すぎはら・ひろこ)
高松貞雄(たかまつ・さだお)
永田 収(ながた・おさむ)
半沢和郎(はんざわ・かずお)
広内信夫(ひろうち・のぶお)
松野秀雄(まつの・ひでお)
松本憲夫(まつもと・のりお)
偕行社(かいこうしゃ)

語り:長谷川勝彦(ナレーション)
報告:住田功一(リポーター)
取材:恩蔵憲一
技術:岩崎延雄
音響効果:川崎清
制作:渡辺俊雄、佐野剛平

『特集・長崎市民は退避せよ〜防空情報は何を伝えたか』を終わります。

エンド音楽 B. G. → F. O.



----【目次】---------------------------------------------------------------------

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269


雲仙・普賢岳大火砕流と取材の安全 ゼミ合宿で考えたこと

2022-12-24 23:59:59 | ゼミ関連
12月21日から24日の日程で、
新型コロナの感染拡大で延期になっていた
雲仙ゼミ合宿を行いました。

いまから31年前の1991年6月3日午後4時過ぎ、
長崎県島原市の雲仙・普賢岳で発生した大火砕流で、
警戒中の消防団員と警察官、報道関係者、火山学者ら
43人が死亡するという大惨事となりました。

 詳しくは2021-02-07 09:24:44のブログ
 「『定点』を被災遺構に 雲仙・普賢岳の大火砕流から30年」
 https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ac08173b9079ea4586e223fac04fd7be
 をお読みください

雲仙・島原という場所を選んだのは、
将来、放送局や制作会社で働こうと志しているゼミ生たちにとって、
雲仙・普賢岳でのできごとは
心に刻んでおくべきことではないかと考えたからです。


(写真:ゼミ合宿で訪れた、雲仙岳災害記念館「がまだすドーム」)

雲仙岳災害記念館「がまだすドーム」では、
科学的な展示に火砕流の威力をまざまざと感じるとともに、
亡くなったカメラマンや記者たちの遺品ともいうべき、
焼けたカメラや三脚を前に、
取材の安全とは何かを考えました。


(写真:「がまだすドーム」に展示されているNHKのカメラ=左=と、日本テレビの三脚=右=。カメラは熱で壊れ、三脚は高温で脚部が崩壊している)

また、がまだすドーム館長の杉本伸一さんに案内いただき、
災害遺構として昨年整備された「定点」を訪ねました。
毎日新聞の取材車や、報道関係者がチャーターしたタクシーは
火砕流の熱に触れ、長年、風雨にさらされたため
車体は歪み、赤茶色に錆びています。


(写真:2021年の現地整備で、定点遺構に保存展示された毎日新聞の取材車)

「定点」遺構が整備されるまで、
なぜ、30年という月日が必要だったのか。
それでもなお、この遺構を残し、教訓を伝えたいという
人々の思いにも触れた合宿でした。

いろいろコーディネイトしていただいた杉本伸一さん、
そして7月に行ったトークセッション
「カメラマンだった兄の最期をみつめて」にご協力いただいた
デザイン学科の石津勝先生に
あらためて感謝申し上げます。

(写真下:7月に行ったトークセッション「カメラマンだった兄の最期をみつめて」のポスター)


夏ゼミを開催 富田林市きらめきファクトリーで考えたこと

2022-08-08 23:59:59 | ゼミ関連
新型コロナが再び感染拡大の様相です。
このため、長崎の雲仙で行う予定だった3年生のゼミ合宿を延期し、
8月8日(月)11時から、
とんだばやし観光交流施設「きらめきファクトリー」(富田林市本町)で、
「夏ゼミ」を行いました。


(写真:近鉄富田林駅前にある「きらめきファクトリー」)

前半は昨年の広島・平和記念式典での、
菅首相(当時)の「あいさつ読み飛ばし」について考えました。
メディアはこの突発事案をどう報じ、
ネットメディアがどのように指摘し、
政府はどう対応したかを
さまざまな報道記事を読みながら検証しました。
とりわけ、誤った情報が拡散することで
情報操作が行われかねないネット社会について考えました。


(写真:1979年米映画『チャイナ・シンドローム』/ ジェームズ・ブリッジス監督、122分カラー作品)

後半は、米映画『チャイナ・シンドローム』を見ての合評を行いました。

『チャイナ・シンドローム』は、
1979年のアメリカのサスペンス映画です。
原発の企画を取材中に事故を目撃したテレビクルーが、
事故をやりすごそうとする発電所の経営者と、
原因を告発しようとする技術者、
そして局の上層部との間に立って、
どのように事実を伝えるか模索する姿を描いています。

とりわけ、技術者の告発シーンは、
テレビで中継するという
緊迫感あふれるタッチで描かれ、
エンタメ作品ですが、テレビ局の報道現場も
よく取材して制作されたことがうかがえます。

「チャイナ・シンドローム」とは炉心溶融のことで、
この映画では計器メーターの故障から誤って冷却水を放出し、
あわや炉心溶融が起きそうになるシーンが描かれています。
アメリカ本国で公開されたのは1979年3月16日でしたが、
12日後にはペンシルべニア州で
実際にスリーマイル島原子力発電所事故が発生し、
この作品が注目されました。

1986年にはソ連(現ウクライナ)の
チェルノブイリ原子力発電所で、
そして2011年には福島第一原子力発電所で、
この映画で描かれたシーンを思わせる
重大な原発事故が発生しました。

それまで、科学の進歩や、フェイルセーフの設計から
安全が強調されていた原発でしたが、
人間の操作ミスや、設計の限界が
大きな事故を引き起こすということが
現実のものとなりました。

そこに、どうジャーナリズムが向き合うのかも
問われる時代になっています。

夏ゼミでは
1970年代という
テレビジャーナリズムの転換点で
ENGが果たした役割や、
そこで日本製のカメラが活躍したことも
知りました。

なおゼミ合宿はコロナが落ち着き次第実施する予定です。

(写真下:お昼休みは、富田林の寺内町を散策しました)


震災30年の3年前 真山仁・著 『それでも、陽は昇る』を手に取る

2022-01-24 14:29:48 | 日記
1月17日の震災の日が終わって、
手に取った本があります。
去年、震災26年に刊行された
真山仁さんの『それでも、陽は昇る』です。


(カバンに入れて持ち歩いていたので、少し擦れています)

作家の真山さんといえば
『ハゲタカ』シリーズなど
経済、政治もののハードな小説で知られますが、
実は阪神・淡路大震災と東日本大震災に
題材を求めたシリーズもあります。

 『そして、星の輝く夜がくる』(2014年)、
 その続編ともいえる、
 『海は見えるか』(2016年)。
 東日本大震災の被災地取材の記者たちの葛藤を描いた
 『雨に泣いている』(2015年)も含めて、
 真山作品群の中で「震災」というテーマは
 太い柱となりつつある…。

と、私はえらそうに
『海は見えるか』の幻冬舎文庫版に
あとがきを書かせていただいたのですが、
『それでも、陽は昇る』は
祥伝社によると「震災三部作」の完結編と
位置付けられています。

三部作は、
小学校の教師、小野寺徹平を通して描かれます。
阪神・淡路大震災で娘と妻を亡くした小野寺。
応援教師として東北の小学校へ赴任し、
東北では、「まいどっ」と子どもたちに声をかけ、
地域のコミュニティーと向き合うようになる。
ネイティブな関西弁が、ときにユーモラスな
熱血タイプのおっさんとして描かれていきます。

その後、神戸で震災を語り継ぐNPO法人で活動している小野寺。
完結編『それでも、陽は昇る』では、
東北で出会った青年や子どもたちや、神戸の教え子たちは
復興の最前線で活躍したり
社会経済の真ん中で活動したりしています。

そこで起きる、
トラブルや摩擦、衝突。
被災地の人々の、復興の暮らしの中での
出来事が綴られます。
東日本大震災から10年たった
2021年の断面が見えてきます。

いずれもフィクションですが
読売新聞記者出身だけあって
真山さんは実に多くの関係者に取材していて、
一人一人の登場人物にはリアリティーがあります。

フィクションだけれど、
エピソードの一つ一つに
真実が埋め込まれている。
これが、作家・真山仁のスタイルだと
あらためて感じさせられます。


今年は、阪神・淡路大震災から27年、ではない。
私は、震災30年の3年前と考えています。
30年という月日は、1つの世代。
小学生は社会の中枢で働く30代、40代に、
20前後の青年は社会をリードする世代に。
そしてあの時、最前線で復興に向き合った人々は
社会の第一線から退いていく。

神戸のNPOを引っ張ってきた人たちは
次々に引退し、亡くなる人も多い。
いま、あのときの体験を受け継がなければ
時間切れになってしまう。

阪神・淡路の軌跡に
東日本の人々は何を見つけるのか。
そして、「未災地」とよばれる
これから被災する可能性のある地域の人々は
何に備えるのか。

『それでも、陽は昇る』のページをめくりながら、
あらためて思いを巡らせました。

▼祥伝社サイト(試し読みも可)
https://www.shodensha.co.jp/mayama/
文庫版『そして、星の輝く夜がくる』(本体680円+税)
文庫版『海は見えるか』(本体640円+税)
単行本『それでも、陽は昇る』(本体1500円+税)

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阪神・淡路大震災から27年

2022-01-18 14:09:09 | 神戸関連
阪神・淡路大震災から27年を迎えた、神戸。
中央区三宮の東遊園地に行きました。

震災の日の前夜23時ごろ、訪れると、
テントも並んで、翌朝の追悼の集いの
準備ができていました。
「1.17」の形の竹灯籠とともに、
「忘」の形に並んだ紙灯籠にも明かりが灯されていました。
忘れない、忘れたい、忘れてはいけない…
「忘」の文字にはいろいろな思いが込められています。




朝、5時過ぎには、多くの市民も訪れ、
発災時刻の5時46分の時報に合わせて
みんなで手を合わせました。
今年は、少し寒さの緩んだ1.17でした。




昼前には、母校の大学の
慰霊碑前を訪ねました。
去年は、直前に「緊急事態宣言」が出て
訪れるご遺族も少なかったのですが、
今年はオミクロン株の流行の兆しはあるものの
前年より多い、7組のご遺族、
亡くなった学生の同級生や、先輩・後輩の姿もありました。




希望を感じたのは、
応援団の団長と、農学部の学生2人。
現役の学生の姿が今年もあったこと。
コロナが明けたら、
また多くの学生が慰霊碑にやってくることを
期待したいと思います。


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