住田功一のブログ

メディアについて考えること、ゼミ生と考えること……などをつづります

広島でゼミ合宿 メディア関係者とも交流

2023-08-31 23:59:59 | ゼミ関連
8月29日から31日にかけて、広島でゼミ合宿を行いました。
ジャーナリズム研究会と合同で実施しました。

今回の合宿は、
被爆の実相を再確認するため
原爆資料館を訪れました。
多くのゼミ生にとって
中学・高校時代の修学旅行以来の訪問となりました。


(写真:原爆慰霊碑で手を合わせる。後ろは原爆資料館の本館。一部画面を加工しています)

きっかけは、
今年5月に開催されたG7広島サミット関連の
中継映像やドキュメンタリーをみて
ディスカッションしたことでした。

岸田文雄首相は広島サミットを前に、記者団に対して
「被爆の実相に触れて頂くことは、核軍縮に向けたあらゆる取り組みの原点だ」
と述べています。

その原点を知ってもらう意味で、
原爆資料館をG7の首脳たちに見てもらうことは
大切なプログラムだったと思います。
しかし、その模様は非公開で、
資料館のガラス外壁を白いフィルムで覆い隠したことには
ゼミ生たちも違和感を感じていました。

   ○    ○

今回は、地元局の
ドキュメンタリー制作者とディスカションする機会に恵まれました。
逆に、制作者から
メディアの報道姿勢やZ世代の平和への関心などについて
問いかけられる場面もあり、
ゼミ生にとっては新鮮な経験だったと思います。

また、広島出身の地元局関係者との懇談では、
自らの肉親の生々しい被爆体験を聞くことができました。

地元新聞社では、広島出身で大阪芸大OBのカメラマンから
被爆直後の同社の報道活動の様子を聞きました。
社屋は全焼し、輪転機や活字などを失い、
社員の3分の1にあたる114人が犠牲となる中で、
取材を続け、新聞発行を再開した経緯を聞くと、
報道に携わる人々の魂を見た思いがあります。

また、G7の取材については、
リサーチの大切さと、ポジションどりをいかに粘るかが
撮影の原点だと、ゼミ生たちは学びました。

また、在広島報道機関の記者とは
ランチタイムに懇談し、
日頃の取材活動についての基本や、
メディアと自治体との距離感などについて学びました。

今回の広島合宿は
いろいろな職種のメディア関係者との交流に時間を取ることができ、
充実した時間を過ごすことができました。

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について

2023-08-07 22:45:00 | メディア関連
1993年(平成5年)8月7日(土)22:15から45分間、NHKラジオ(第1放送)の「ラジオアングル’93」という枠で全国に放送されたラジオドキュメンタリーが、『長崎市民は退避せよ 〜防空情報放送は何を伝えたか〜』です。

戦時中のラジオは、空襲警報や警戒警報を連日伝えていましたが、それに「敵機(米軍機)の数」「進む方向」「予想到達時間」などが加えられるようになりました。
それが「防空情報放送」です。これを全国で初めて実施したのは、西部軍と福岡放送局だったという資料が残っています。

各地の陸軍軍管区司令部の放送室(ブース)の中で当時の日本放送協会のアナウンサー(戦時下では放送員と呼んでいました)が、軍から手渡された情報メモを読み上げ、ラジオを通じて放送していました。

「防空情報放送」は、
東部軍管区の情報は東京・竹橋の司令部の放送室から、
中部軍管区の情報は大阪城公園内の司令部の放送室から、
西部軍管区の情報は福岡・大濠公園にあった司令部の放送室から…
といった具合に、軍管区に合わせたブロック単位で放送されていました。

当初は、「○○上空の敵少数機は東進中なり」というように、敵機の動きだけをおおざっぱに伝えていましたが、空襲が激しくなるにつれ、内容や形態も変貌していきます。

   ○      ○

1993年にNHK『ラジオ深夜便』で情報提供を呼びかけたところ、700通近いお便りが年配のリスナーから寄せられました。

福岡空襲や仙台空襲で。そして、昭和20年8月9日には長崎原爆投下の際に…。
それまでとは異なるメッセージをラジオが呼びかけたというのです。

そうした聴取者からの情報を元に、当時の放送局員や軍関係者を訪ねて取材すると、それまで放送史には残されていなかった事実がわかってきました。

いまから、ちょうど30年前の番組で、取材・制作者の私としても記憶が薄れてくる年月です。

ここでは、放送された内容をそのまま文字に起こしました。

放送史の中でも特異な記録ですが、内容について、新しい情報や、ご不明の点、ご指摘があればお知らせください。

住田功一

----【目次】-------------------------------

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269


ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』① プロローグ〜奇妙な退避放送

2023-08-07 22:00:00 | メディア関連
<プロローグ 奇妙な退避放送>////////////////

効果音
・空襲警報のサイレン

アナ
特集「長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか」

効果音(再現音)
・「東部軍管区情報、東部軍管区情報、房総半島より本土に侵入せる敵B29は、先頭梯団が帝都に侵入しつつあり。後続梯団は伊豆半島上空より⋯」→B.G.

ナレーション
太平洋戦争の末期、日本は、アメリカ軍の空襲にさらされていた。ラジオは、連日のように一般市民に空襲警報や軍管区情報などの「防空情報」を伝えていた。

効果音
・(戦時中の)町のノイズ

ナレーション
昭和二十年八月九日、九州。
朝から、暑い夏の太陽が照りつけていた。
時計の針が11時をさす頃、突然、九州各地でラジオから切迫した男性の声が流れた。

証言インタ
・証言①男性「長崎市民は至急退避せよーってね。ほとんど悲鳴に近いようなね、放送があって、そしてすぐ何秒か後にですね、『長崎地区全員退避せよー!』といって、ぷつっと切れちゃったんです」。

・証言②女性「いままでにない大型爆弾です。みんな早く避難するようにというとっても切迫した男性アナウンサーの声がいたしました。それが立て続けに激しい放送がございました」

効果音
・(閃光と轟音のイメージ音)


リポーター
私たちスタッフが、聴取者の皆さんに、「戦時中の防空情報放送についての思い出をお寄せください」と呼びかけたところ、700通近いお便りをいただきました。中でも一番多かったのが、この長崎に原爆が投下された時の退避放送についてのお便りでした。

リポーター
緊迫した男性の声。「退避せよ!」という非常事態を告げることば。それまでに聞いたことのない放送だったと皆さん言っています。

リポーター
実は、長崎市役所のまとめた「長崎原爆戦災史」という分厚い記録書にも、この『退避放送』についての記述があります。ちょっとそれを読んでみます。

「福岡、佐賀の各地でラジオを聞いた人々の手記や証言によると、『長崎に新型爆弾が投下された模様です』という情報に続いて、『長崎市民は全員退避せよ』と伝え、しばらくして、『市内に火災が発生したので、長崎市民は消火にあたってください』と、繰り返し繰り返し放送したとある。」
「退避から一転して消火へ。異例の呼び掛けの放送であった。長崎放送局の放送機能は原爆の爆発と同時に壊滅していた。この放送がどのようなルートであるのかは明らかではない。」

このように書いてあるんですね。

リポーター
こんな放送がなぜ放送されたのか?退避の命令は間に合ったのか?私たちは取材を始めることにしました。

➡️ ②八月九日、長崎<1>につづく

----【目次】-------------------------------

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』② 八月九日、長崎<1>

2023-08-07 21:00:00 | メディア関連
<八月九日、長崎1>/////////////////////////////

効果音
・セミの声 S.E. (長崎のイメージ音)

ナレーション
昭和二十年八月九日午前、長崎県首脳は、市内諏訪神社の近くの山肌に掘られた大きな防空壕の中にある臨時の知事室に集まり始めていた。
「次は長崎だ」。原爆で壊滅状態になった広島の惨状が次々に伝えられる中、永野知事は、長崎も危ないと感じていた。知事は、長崎市民のうち、老人、子ども、女性を長崎市内から疎開させることを検討していた。
疎開対策会議には、溝越(みぞごし)警察部防空課長、中村特高課長、藤本教学課長らが呼ばれていた。

ナレーション
中学生の一部と小学生を疎開させるために、どのような手続きをすればよいか、混乱なく疎開を進めるにはどのような方法をとればよいか。会議が始まろうとしていた。

効果音
・コチコチと時計の音 F.I.

ナレーション
その時、B29が、長崎上空にさしかかっていた。

効果音
・コチコチと時計の音 止まる

➡️ ③終戦前年に始まった「情報放送」につづく

----【目次】-------------------------------

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』③ 終戦前年に始まった「防空情報放送」

2023-08-07 20:00:00 | メディア関連
<終戦前年に始まった「防空情報放送」>//////////

リポーター
私の手元に、藁半紙で作られました1冊のパンフレットがあります。
『九州の情報放送』という題がついています。昭和十九年に、福岡放送局が発行したものなんですね。
青いインクでタイプ印刷された冊子。もう赤茶けてぼろぼろですが、表紙には赤いインクで『マル秘』のスタンプが押されています。
ここには、終戦の前年の昭和十九年七月八日に、防空情報放送、警報以外に防空情報放送が全国で初めて実施されたといういきさつが書かれています。その中を読んでみます。

「電波は敵機を誘導してしまう。しかし空襲下、防空体制を強化し、戦意を高揚し、流言飛語を防ぎ、民心を安定させるためにはラジオが有効だ」
「議論の末、陸軍の九州地区を統括する西部軍と福岡放送局は、防空情報放送を始めた」と、このように書いてあります。

つまり、それまでは、警戒警報、空襲警報を出したあとは、電波を停めてラジオは沈黙を守っていました。それをあらためて、随時、敵機の情報を出していくことにしたというのです。

ナレーション
戦時下のラジオは、様々な制約のもととで放送を続けていた。それまでの逓信省の検閲に加えて、軍部も放送の内容に介入するようになっていた。
戦意高揚に反する番組や、被災情報は、差し止められていた。

ナレーション
ところが、昭和十九年七月、福岡の西部軍は、空襲警報などの『警報放送」に加え、『防空情報放送』の開始を許可。やがて、東京の東部軍、大阪の中部軍、札幌の北部軍でも実施。さらに、仙台の東北軍、名古屋の東海軍、広島の中国軍でも『防空情報放送』が始まり、昭和二十年には全国の軍管区で実施されるようになっていた。


リポーター
取材を進めるうちに、NHK名古屋放送の資料室に、当時の『東海軍情報』の録音が残っていることがわかりました。
戦時中の防空情報で今でも残っているのは、わずか1分ほどのこの録音だけです。もともと録音盤に記録されていたものです。

録音素材
(東海軍管区、名古屋局=大竹アナ保存)
「(ブザー) 情報。志摩半島南岸を西南進したP38、8機は、11時35分、尾鷲南方海上を西南進中であります。
静岡県・警戒警報解除。静岡県・警戒警報解除。愛知県沿岸地区、三重県沿岸地区・警戒警報解除。愛知県沿岸地区、三重県沿岸地区・警戒警報解除。
これで、今回の東海防空放送を終了いたします。時刻はただいま、11時39分になります。以上」

リポーター
ブザーが鳴ったあと、米軍機の機種、数。何時何分現在の情報なのか、という内容です。
「志摩半島の南岸を西南の方向に進んでいるP38、8機は、11時35分現在、尾鷲の南方海上をさらに西南の方向に進んでいる」。こういう表現はシンプルですけれども的確な情報です。しかも、現在の時刻も放送することで、情報が入ってから現在までの4分間にさらに敵機は遠ざかっているだろうということを、きちんと伝えているんですね。
単なる、警報の発令や解除だけでない、これが、いわゆる『防空情報放送』の基本形です。

ナレーション
防空情報放送は、はじめは、軍司令部から専用電話で送られてくる原稿を、放送員、つまりアナウンサーが、放送局のスタジオで読み上げていた。
しかし、昭和二十年に入り、毎晩頻繁に空襲が行なわれるようになると、放送員と技術員が、軍司令部に出向いて待機するようになった。

リポーター
西部軍司令部の建物は、福岡市の大濠公園のそば、お城の石垣の上の高台に今も残っています。現在は裁判所の倉庫になっています。
1.5mほどもある分厚いコンクリートの白い壁。二階建ての頑丈な造りです。
今回の取材で、建物の平面図や写真を、私たちは入手しました。
これを見ますと、当時の西部軍の内部の様子がわかってきます。

効果音
・電話交換室のようなノイズB.G.

司令部一階の部屋には、電話交換機や無線機がずらりと並んでいます。
ここには、九州各地の監視哨=肉眼で米軍機の行方を追う監視哨からの情報や、電波警戒機の基地からの情報が、絶えず入ってきます。

何十人という若い女性通信員たちが、灰色に近い国防色のスラックス、そして白い開襟シャツといういでたちで働いています。
彼女たちがテキパキとジャックをつなぎ換えては、レシーバーで連絡を受けてゆき、情報の内容通りに操作盤のキーをカチッと倒しますと、隣の作戦室の大きな地図、4m×5mはある大きな九州地図の所定の位置に赤いランプがつく仕組みになっています。

効果音
・モールス信号の音 B.G.

リポーター
西部軍の作戦室は、四十畳敷きほどの広さで、丁度、大学の階段教室に似ています。
床は、雛壇のように三段になっているんです。
そして一番前の低い段に置かれた長机には、海軍や航空隊などへ連絡する将校が控えています。真ん中の段の長机には、米軍機の航跡=飛行機の跡を地図に記録していく将校や下士官が並んでいます。
そして、一番後ろの高い段には、青みがかったカーキ色の軍服、胸に金モールをさげた当番の参謀が座っています。その横で、参謀の補佐をする将校が、九州の地図、そこに点滅する赤ランプの動きを見て、どの地区に敵機が向かっているかを判断し、参謀に地区ごとの警報や防空情報の発令を諮ります。参謀がよしと判断するとメモが作成されて、そのメモが、すぐ隣の部屋の放送室に待機する放送員に手渡されます。
これが、防空情報放送が出る仕組みです。

ナレーション
監視哨の情報が入ってくると、3分から5分で参謀が判断して、放送員のもとにメモが手渡される。
敵機の大編隊が次々にやって来る場合、情報はひっきりなしに出された。
およそ1分間の防空情報放送が、一晩の空襲で200回も出されたことがあるという。

ナレーション
福岡放送局では、6人の放送員が交代で、技術員とともに絶えず司令部に詰めていた。電話ボックスのような放送室は、一人が入るのが精一杯の狭さで、夏には30度を超える暑さに達した。
放送員は夜間空襲の時には、ほぼ徹夜で、情報メモを伝え続けた。


リポーター
これまで市民に知らせなかった情報を、少しづつ伝え始めた裏には、軍部や政府のどんな意図があったのか?
昭和史、特に軍部の仕組みに詳しい拓殖大学教授の秦郁彦(はた・いくひこ)さんは、こう話しています。

秦郁彦教授 解説
戦時下の日本は、政府と軍部による徹底した情報管制というものが行われておりまして、防空情報についても、その例外ではありません。
軍部が考えてましたのは、もうその10年以上前からのいわば伝統なんですけれども、市民のバケツリレーで火を消していくと。こういうかなり原始的な方法なんですね。で、その体制のままB29の空襲を迎えたわけですけれども、こういう防空消火法が全く役に立たないということがわかってまいります。
つまり、国民のサイドがクチコミなどによって、とにかく逃げるのが第一であるという観念で対応していくと。それに対して、生産第一という政府や軍部の立場との矛盾ですね。これでやっぱり妥協せざるを得ないという格好で、なし崩し的に、軍部の防空情報担当者が、いわば若干で歩み寄るというかたちで、防空情報の中身を変えていったということだと思いますね。
それから、もちろん、情報を与えることによって、国民の不安を鎮めるということもあったと思います。

➡️ ④放送室からの悲痛な叫びにつづく

----【目次】-------------------------------


ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269