<終戦前年に始まった「防空情報放送」>//////////
リポーター
私の手元に、藁半紙で作られました1冊のパンフレットがあります。
『九州の情報放送』という題がついています。昭和十九年に、福岡放送局が発行したものなんですね。
青いインクでタイプ印刷された冊子。もう赤茶けてぼろぼろですが、表紙には赤いインクで『マル秘』のスタンプが押されています。
ここには、終戦の前年の昭和十九年七月八日に、防空情報放送、警報以外に防空情報放送が全国で初めて実施されたといういきさつが書かれています。その中を読んでみます。
「電波は敵機を誘導してしまう。しかし空襲下、防空体制を強化し、戦意を高揚し、流言飛語を防ぎ、民心を安定させるためにはラジオが有効だ」
「議論の末、陸軍の九州地区を統括する西部軍と福岡放送局は、防空情報放送を始めた」と、このように書いてあります。
つまり、それまでは、警戒警報、空襲警報を出したあとは、電波を停めてラジオは沈黙を守っていました。それをあらためて、随時、敵機の情報を出していくことにしたというのです。
ナレーション
戦時下のラジオは、様々な制約のもととで放送を続けていた。それまでの逓信省の検閲に加えて、軍部も放送の内容に介入するようになっていた。
戦意高揚に反する番組や、被災情報は、差し止められていた。
ナレーション
ところが、昭和十九年七月、福岡の西部軍は、空襲警報などの『警報放送」に加え、『防空情報放送』の開始を許可。やがて、東京の東部軍、大阪の中部軍、札幌の北部軍でも実施。さらに、仙台の東北軍、名古屋の東海軍、広島の中国軍でも『防空情報放送』が始まり、昭和二十年には全国の軍管区で実施されるようになっていた。
リポーター
取材を進めるうちに、NHK名古屋放送の資料室に、当時の『東海軍情報』の録音が残っていることがわかりました。
戦時中の防空情報で今でも残っているのは、わずか1分ほどのこの録音だけです。もともと録音盤に記録されていたものです。
録音素材
(東海軍管区、名古屋局=大竹アナ保存)
「(ブザー) 情報。志摩半島南岸を西南進したP38、8機は、11時35分、尾鷲南方海上を西南進中であります。
静岡県・警戒警報解除。静岡県・警戒警報解除。愛知県沿岸地区、三重県沿岸地区・警戒警報解除。愛知県沿岸地区、三重県沿岸地区・警戒警報解除。
これで、今回の東海防空放送を終了いたします。時刻はただいま、11時39分になります。以上」
リポーター
ブザーが鳴ったあと、米軍機の機種、数。何時何分現在の情報なのか、という内容です。
「志摩半島の南岸を西南の方向に進んでいるP38、8機は、11時35分現在、尾鷲の南方海上をさらに西南の方向に進んでいる」。こういう表現はシンプルですけれども的確な情報です。しかも、現在の時刻も放送することで、情報が入ってから現在までの4分間にさらに敵機は遠ざかっているだろうということを、きちんと伝えているんですね。
単なる、警報の発令や解除だけでない、これが、いわゆる『防空情報放送』の基本形です。
ナレーション
防空情報放送は、はじめは、軍司令部から専用電話で送られてくる原稿を、放送員、つまりアナウンサーが、放送局のスタジオで読み上げていた。
しかし、昭和二十年に入り、毎晩頻繁に空襲が行なわれるようになると、放送員と技術員が、軍司令部に出向いて待機するようになった。
リポーター
西部軍司令部の建物は、福岡市の大濠公園のそば、お城の石垣の上の高台に今も残っています。現在は裁判所の倉庫になっています。
1.5mほどもある分厚いコンクリートの白い壁。二階建ての頑丈な造りです。
今回の取材で、建物の平面図や写真を、私たちは入手しました。
これを見ますと、当時の西部軍の内部の様子がわかってきます。
効果音
・電話交換室のようなノイズB.G.
司令部一階の部屋には、電話交換機や無線機がずらりと並んでいます。
ここには、九州各地の監視哨=肉眼で米軍機の行方を追う監視哨からの情報や、電波警戒機の基地からの情報が、絶えず入ってきます。
何十人という若い女性通信員たちが、灰色に近い国防色のスラックス、そして白い開襟シャツといういでたちで働いています。
彼女たちがテキパキとジャックをつなぎ換えては、レシーバーで連絡を受けてゆき、情報の内容通りに操作盤のキーをカチッと倒しますと、隣の作戦室の大きな地図、4m×5mはある大きな九州地図の所定の位置に赤いランプがつく仕組みになっています。
効果音
・モールス信号の音 B.G.
リポーター
西部軍の作戦室は、四十畳敷きほどの広さで、丁度、大学の階段教室に似ています。
床は、雛壇のように三段になっているんです。
そして一番前の低い段に置かれた長机には、海軍や航空隊などへ連絡する将校が控えています。真ん中の段の長机には、米軍機の航跡=飛行機の跡を地図に記録していく将校や下士官が並んでいます。
そして、一番後ろの高い段には、青みがかったカーキ色の軍服、胸に金モールをさげた当番の参謀が座っています。その横で、参謀の補佐をする将校が、九州の地図、そこに点滅する赤ランプの動きを見て、どの地区に敵機が向かっているかを判断し、参謀に地区ごとの警報や防空情報の発令を諮ります。参謀がよしと判断するとメモが作成されて、そのメモが、すぐ隣の部屋の放送室に待機する放送員に手渡されます。
これが、防空情報放送が出る仕組みです。
ナレーション
監視哨の情報が入ってくると、3分から5分で参謀が判断して、放送員のもとにメモが手渡される。
敵機の大編隊が次々にやって来る場合、情報はひっきりなしに出された。
およそ1分間の防空情報放送が、一晩の空襲で200回も出されたことがあるという。
ナレーション
福岡放送局では、6人の放送員が交代で、技術員とともに絶えず司令部に詰めていた。電話ボックスのような放送室は、一人が入るのが精一杯の狭さで、夏には30度を超える暑さに達した。
放送員は夜間空襲の時には、ほぼ徹夜で、情報メモを伝え続けた。
リポーター
これまで市民に知らせなかった情報を、少しづつ伝え始めた裏には、軍部や政府のどんな意図があったのか?
昭和史、特に軍部の仕組みに詳しい拓殖大学教授の秦郁彦(はた・いくひこ)さんは、こう話しています。
秦郁彦教授 解説
戦時下の日本は、政府と軍部による徹底した情報管制というものが行われておりまして、防空情報についても、その例外ではありません。
軍部が考えてましたのは、もうその10年以上前からのいわば伝統なんですけれども、市民のバケツリレーで火を消していくと。こういうかなり原始的な方法なんですね。で、その体制のままB29の空襲を迎えたわけですけれども、こういう防空消火法が全く役に立たないということがわかってまいります。
つまり、国民のサイドがクチコミなどによって、とにかく逃げるのが第一であるという観念で対応していくと。それに対して、生産第一という政府や軍部の立場との矛盾ですね。これでやっぱり妥協せざるを得ないという格好で、なし崩し的に、軍部の防空情報担当者が、いわば若干で歩み寄るというかたちで、防空情報の中身を変えていったということだと思いますね。
それから、もちろん、情報を与えることによって、国民の不安を鎮めるということもあったと思います。
➡️ ④
放送室からの悲痛な叫びにつづく
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ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743
①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894
②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74
③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e
④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60
⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110
⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269