住田功一のブログ

メディアについて考えること、ゼミ生と考えること……などをつづります

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』③ 終戦前年に始まった「防空情報放送」

2023-08-07 20:00:00 | メディア関連
<終戦前年に始まった「防空情報放送」>//////////

リポーター
私の手元に、藁半紙で作られました1冊のパンフレットがあります。
『九州の情報放送』という題がついています。昭和十九年に、福岡放送局が発行したものなんですね。
青いインクでタイプ印刷された冊子。もう赤茶けてぼろぼろですが、表紙には赤いインクで『マル秘』のスタンプが押されています。
ここには、終戦の前年の昭和十九年七月八日に、防空情報放送、警報以外に防空情報放送が全国で初めて実施されたといういきさつが書かれています。その中を読んでみます。

「電波は敵機を誘導してしまう。しかし空襲下、防空体制を強化し、戦意を高揚し、流言飛語を防ぎ、民心を安定させるためにはラジオが有効だ」
「議論の末、陸軍の九州地区を統括する西部軍と福岡放送局は、防空情報放送を始めた」と、このように書いてあります。

つまり、それまでは、警戒警報、空襲警報を出したあとは、電波を停めてラジオは沈黙を守っていました。それをあらためて、随時、敵機の情報を出していくことにしたというのです。

ナレーション
戦時下のラジオは、様々な制約のもととで放送を続けていた。それまでの逓信省の検閲に加えて、軍部も放送の内容に介入するようになっていた。
戦意高揚に反する番組や、被災情報は、差し止められていた。

ナレーション
ところが、昭和十九年七月、福岡の西部軍は、空襲警報などの『警報放送」に加え、『防空情報放送』の開始を許可。やがて、東京の東部軍、大阪の中部軍、札幌の北部軍でも実施。さらに、仙台の東北軍、名古屋の東海軍、広島の中国軍でも『防空情報放送』が始まり、昭和二十年には全国の軍管区で実施されるようになっていた。


リポーター
取材を進めるうちに、NHK名古屋放送の資料室に、当時の『東海軍情報』の録音が残っていることがわかりました。
戦時中の防空情報で今でも残っているのは、わずか1分ほどのこの録音だけです。もともと録音盤に記録されていたものです。

録音素材
(東海軍管区、名古屋局=大竹アナ保存)
「(ブザー) 情報。志摩半島南岸を西南進したP38、8機は、11時35分、尾鷲南方海上を西南進中であります。
静岡県・警戒警報解除。静岡県・警戒警報解除。愛知県沿岸地区、三重県沿岸地区・警戒警報解除。愛知県沿岸地区、三重県沿岸地区・警戒警報解除。
これで、今回の東海防空放送を終了いたします。時刻はただいま、11時39分になります。以上」

リポーター
ブザーが鳴ったあと、米軍機の機種、数。何時何分現在の情報なのか、という内容です。
「志摩半島の南岸を西南の方向に進んでいるP38、8機は、11時35分現在、尾鷲の南方海上をさらに西南の方向に進んでいる」。こういう表現はシンプルですけれども的確な情報です。しかも、現在の時刻も放送することで、情報が入ってから現在までの4分間にさらに敵機は遠ざかっているだろうということを、きちんと伝えているんですね。
単なる、警報の発令や解除だけでない、これが、いわゆる『防空情報放送』の基本形です。

ナレーション
防空情報放送は、はじめは、軍司令部から専用電話で送られてくる原稿を、放送員、つまりアナウンサーが、放送局のスタジオで読み上げていた。
しかし、昭和二十年に入り、毎晩頻繁に空襲が行なわれるようになると、放送員と技術員が、軍司令部に出向いて待機するようになった。

リポーター
西部軍司令部の建物は、福岡市の大濠公園のそば、お城の石垣の上の高台に今も残っています。現在は裁判所の倉庫になっています。
1.5mほどもある分厚いコンクリートの白い壁。二階建ての頑丈な造りです。
今回の取材で、建物の平面図や写真を、私たちは入手しました。
これを見ますと、当時の西部軍の内部の様子がわかってきます。

効果音
・電話交換室のようなノイズB.G.

司令部一階の部屋には、電話交換機や無線機がずらりと並んでいます。
ここには、九州各地の監視哨=肉眼で米軍機の行方を追う監視哨からの情報や、電波警戒機の基地からの情報が、絶えず入ってきます。

何十人という若い女性通信員たちが、灰色に近い国防色のスラックス、そして白い開襟シャツといういでたちで働いています。
彼女たちがテキパキとジャックをつなぎ換えては、レシーバーで連絡を受けてゆき、情報の内容通りに操作盤のキーをカチッと倒しますと、隣の作戦室の大きな地図、4m×5mはある大きな九州地図の所定の位置に赤いランプがつく仕組みになっています。

効果音
・モールス信号の音 B.G.

リポーター
西部軍の作戦室は、四十畳敷きほどの広さで、丁度、大学の階段教室に似ています。
床は、雛壇のように三段になっているんです。
そして一番前の低い段に置かれた長机には、海軍や航空隊などへ連絡する将校が控えています。真ん中の段の長机には、米軍機の航跡=飛行機の跡を地図に記録していく将校や下士官が並んでいます。
そして、一番後ろの高い段には、青みがかったカーキ色の軍服、胸に金モールをさげた当番の参謀が座っています。その横で、参謀の補佐をする将校が、九州の地図、そこに点滅する赤ランプの動きを見て、どの地区に敵機が向かっているかを判断し、参謀に地区ごとの警報や防空情報の発令を諮ります。参謀がよしと判断するとメモが作成されて、そのメモが、すぐ隣の部屋の放送室に待機する放送員に手渡されます。
これが、防空情報放送が出る仕組みです。

ナレーション
監視哨の情報が入ってくると、3分から5分で参謀が判断して、放送員のもとにメモが手渡される。
敵機の大編隊が次々にやって来る場合、情報はひっきりなしに出された。
およそ1分間の防空情報放送が、一晩の空襲で200回も出されたことがあるという。

ナレーション
福岡放送局では、6人の放送員が交代で、技術員とともに絶えず司令部に詰めていた。電話ボックスのような放送室は、一人が入るのが精一杯の狭さで、夏には30度を超える暑さに達した。
放送員は夜間空襲の時には、ほぼ徹夜で、情報メモを伝え続けた。


リポーター
これまで市民に知らせなかった情報を、少しづつ伝え始めた裏には、軍部や政府のどんな意図があったのか?
昭和史、特に軍部の仕組みに詳しい拓殖大学教授の秦郁彦(はた・いくひこ)さんは、こう話しています。

秦郁彦教授 解説
戦時下の日本は、政府と軍部による徹底した情報管制というものが行われておりまして、防空情報についても、その例外ではありません。
軍部が考えてましたのは、もうその10年以上前からのいわば伝統なんですけれども、市民のバケツリレーで火を消していくと。こういうかなり原始的な方法なんですね。で、その体制のままB29の空襲を迎えたわけですけれども、こういう防空消火法が全く役に立たないということがわかってまいります。
つまり、国民のサイドがクチコミなどによって、とにかく逃げるのが第一であるという観念で対応していくと。それに対して、生産第一という政府や軍部の立場との矛盾ですね。これでやっぱり妥協せざるを得ないという格好で、なし崩し的に、軍部の防空情報担当者が、いわば若干で歩み寄るというかたちで、防空情報の中身を変えていったということだと思いますね。
それから、もちろん、情報を与えることによって、国民の不安を鎮めるということもあったと思います。

➡️ ④放送室からの悲痛な叫びにつづく

----【目次】-------------------------------


ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』④ 放送室からの悲痛な叫び

2023-08-07 19:00:00 | メディア関連
<変貌していく内容〜放送室からの悲痛な叫び>////////////

ナレーション
当初、『防空情報放送』は、「甑島(こしきじま)上空の敵少数機は東進中なり」というように、敵機の動きだけをおおざっぱに伝えていたが、空襲が激しくなるにつれ、内容や形態も変貌をとげている。

効果音
・炎のイメージ音

リポーター
燃え盛る炎。夜空が真っ赤に染まる。
熊本が空襲された夜、佐賀市で放送を聞いた岩崎彰代志(あきよし)さんは、ラジオから流れた西部軍情報のその言葉に驚いたといいます。

ラジオを聞いた岩崎彰代志さんの証言
「いつもはだいたい西部軍管区ですか、そこの放送は非常に紋切り型の放送ですけど、その日の放送は非常にこう、実況放送みたいな感じの放送でした。特に、熊本市がいよいよ空襲が始まったと、焼夷弾が落ちたと、燃え始めたと、そして『熊本市民はさかんに防火に敢闘しております』という言葉だったですもんね」

リポーター
いつもの軍管区情報とは違う、呼びかけるような口調。そんな放送は実際にあったのでしょうか?
九州地区の防空情報を担当した、福岡放送局の石田吾郎放送員は、福岡が空襲された夜、手渡された、一枚の原稿についてこう話しています。

福岡放送局の放送員だった石田吾郎さんの証言
「最後の空襲の情報がですね、突然『福岡の皆さん』とこう書いてあるんですね。あれっと思って。それで、目でね、(原稿を)持ってきた人に聞いたわけですよ。目でね、これでいいのかっていったら。かまわないと。それを繰り返せと」
「正しくはないんですけども、『福岡の皆さん。敵機は福岡に大きな損害を与えております。そして、死傷者もかなり多数出ております。しかし、皆さんの意気は軒昂』といったのかな、『高まっていて、少しも挫けたところはありません』と、『みなさん頑張ってください』と、そういう文句なんですよ。さよならとは言わないんですがね」
「情報放送っていうのはね、当時は、戦意高揚っていうんですかね、柔らかい言葉は一切使っちゃいけない。敵機来襲せりとかね。我が方の損害軽微なり。敵に多大な損害を与えとか、決まり文句なんだけども。一枚だけ、『福岡の皆さん』って出てきたからね、びっくりしちゃったんですよこっちもね(笑)。なぜあそこでもって文章が変わっちゃたのかね」


ナレーション
各地の軍司令部と放送局は、早く、しかも混乱なく情報が伝わり、人心安定に役立つように工夫を重ねていく。
大阪・中部軍では、「岡山」と「和歌山」を聞き間違えないように「備前岡山」「紀伊和歌山」と区別した。

ナレーション
福岡空襲の際、次々に上空を通過する敵機におびえる佐賀県民に対し、佐賀地区司令官は、「今夜来襲している敵機は、全部福岡方向に侵入している。目下のところ佐賀県に影響はない」と、佐賀放送局からのローカル放送で、「安心するように」と放送している。

ナレーション
一方、東海軍管区と名古屋放送局は、防空放送を始める際、「文語体」にするか「口語体」にするかで意見が分かれた。結局、東京・東部軍と大阪・中部軍に放送員を派遣して、実態調査にあたらせた。大竹正(おおたけ・ただし)放送員は、文語体で放送していた東部軍に派遣された。

名古屋局の放送員だった大竹正さんの証言
「実際に東部軍管区司令部の放送を聞いてですね、やっぱり私の思っている文語体の方が、緊迫感があっていいじゃないかと。帰ってきて、文語体を主張したけども、聞き入れられなかったということですね。それまで空襲警報は大阪のが入っていたわけです。それが一般の耳には印象が深いわけですよね。それに司令部が、民衆対策というかね、なるべく、軍と民衆とをつけておきたいために、文語体ではいかにも軍がやっているような感じだということで、断固として参謀が口語体にせよと、こういうことだったんですね」

ナレーション
防空情報放送は、様々な表現を模索しながらも、軍側が情報を発表し、その原稿を放送局の放送員が読むという原則には変わりはなかった。

効果音
・空襲警報のサイレン

ナレーション
ところが、空襲が激しくなってきた昭和二十年七月十日未明、仙台放送局は、異常な事態に直面した。

効果音
・ザァーッ(焼夷弾の落下音) さかまく炎の音

ナレーション
空襲警報発令直後から、東北軍管区司令部は、ばらばらと落ちてくる焼夷弾の雨にさらされた。建物周辺が、炎に包まれた。

ナレーション
やがて、軍司令部と仙台放送局との回線が切れ、軍管区情報は沈黙してしまった。東北一円のラジオが、黙ってしまった。

効果音
・(ラジオの無変調音)

ナレーション
しかし、やがてラジオから、やや緊張してうわずった声男性の声が流れ始めた。

ナレーション
当時結婚したばかりだった、山田あきさんは、宮城県北部の登米町(とよままち)で ラジオを聞いていた。

登米町でラジオを聞いた山田あきさんの証言
「『市民の皆さん落ち着いてください。落ち着いてください。頑張ってください。放送局も熱くなってきました。後ろの方が赤くなってきました』ってそういうようなことを言いましたけど。それを何度も繰り返しましたけども、それでもう(聞くのを)やめて、見に出て行きました。うちの中から仙台は見えませんから。川まで行って、川の土手から見ました」
「ぼうーっと夕陽のもっと赤いみたいに地平線が赤くなっていまして、ときおり火事のように、火事のもっと大きな爆発みたいなのが、ばーっ、ばーっと赤く見えますけど、音はなんにも聞こえませんでしたけど」

ナレーション
「『敵機は焼夷弾攻撃を行なひつつあり、仙臺市民は防火に万全を期せよ』ラジオは生々しい聲を叩きつけてきた」
翌日の青森『東奥日報』は、その夜の放送をこう伝えている。

ナレーション
マイクに向かったのは、仙台放送局の庄司寿完(しょうじ・じゅかん)副部長だった。

仙台局の副部長だった庄司寿完さんの証言
「我々は電波法の規定で放送できないんですよと言って反対したんですが、局長があの有名な、名アナウンサーで名を売った松内(則三)さんっていう局長で。松内さんは大変放送の使命感というのか、情熱を持っている人でしてね、そんな常識的なことを言ってどうなるかと、いま仙台がやられているときに放送が機能を持っているのに黙っている手があるかというふうに叱り飛ばされましてね。そして、仙台空襲実況放送をやれと、私はまあ厳命でやらされたっていうのが本当なんですよね。結局、『今我々の仙台市が敵の空襲を受けてやられております』ということを反復して言うしか手はないわけですよね。外にも出られない。出たって真っ暗でわからない。なんだかごうごうという音と、不気味な体に響くようなズシンというような地響きみたいなそういう状態の中で、『みなさん、これにめげずにがんばりましょう』ぐらいのことしか言うことないわけですよね。『仙台がやられております』というような、敵愾心からくる悲痛な叫び声だったんだろうと思いますねぇ」


ナレーション
防空情報放送の目的は、空襲を受けながらも、戦意を高揚し民心を安定させることにあった。
そして、より早く、より解りやすくと工夫が重ねられていった。しかし、その防空情報放送にも、問題点があった。

リポーター
初めは順調に機能していた防空情報放送も、戦争の末期になると後手後手に回ることが多くなったといいます。
中部軍に詰めていた、大阪放送局の酒井裕(ひろし)放送員は、こう話しています。

大阪局の放送員・酒井裕さんの証言
「監視哨と中部軍管区司令部との間は、有線電話連絡だったんです。で、監視哨担当の下士官が司令部の中におりまして、それが監視哨と密接に連絡を取っていたんですけど、なにせ電話のことですからね、放送の方がずっと早いわけですよ。とうとうしまいには、監視哨に対する連絡ですね。これも、両方で会話する必要のない一方的な通話で済むような連絡は、どんどんラジオを使いました。」
「あまりいい例じゃないんですけども、監視哨を叱りつけたりするようなこともあったように覚えていますけどね。『お前のところの情報は遅い!』と、『もっと迅速に情報を送れ』ということをラジオでやったわけです」
「アメリカ軍の方も、電波探知機に対する防御策を講じたらしくて、侵入してくるまでわからなかった。末期などは、たしか岡山、岡山ははっきり覚えていますが、四国も高知だったでしょうか。全く警報なしにいきなり空襲を受けたということも度々ありました」
「監視哨から、『なんか岡山の地方が真っ赤だぞ』っていうんで、だいぶ中部軍管区司令部の人たちもあわてたらしいですね。私はどうせ、放送室に詰めっきりですから、司令部の中の状態はもちろんわからなかったんですけども、見てきた人の話では、かなり狼狽していたという話です。もういきなり空襲警報ですからね。空襲警報出したときにはもう燃えてるんですよ」

リポーター
西部軍で、電波警戒機を担当していたた大石勇少尉も、情報収集の問題点をこう指摘しています。

西部軍少尉だった大石勇さんの証言
「あれはたしか10万ボルトぐらいの衝撃波っていう電波をぶつけて、それが戻ってくるのをブラウン管でつかまえて、方向と高さと大体の数をあれして、送ったわけですね」
「ただ、当時の性能からいって200海里で捕まえろっていうのが案外捕まえられなくて、150キロになっちゃったりね、あるいは100キロになっちゃったり。だから捕まえたころにはもう敵が来てるとか、いうふうなことがあったと思うんですよ。
それでこんど、(陸上に)入っちゃうと、こんどはわかんなくなっちゃって。内地を追跡はできなかったと思うんですよ、この警戒機はね。あとは目で見るか、音で聞くか。対空監視哨がね捕まえる(捕捉する)以外ないと思うんですよ。
あの音は敵機である。あの音は味方だという、まず音の訓練を受けてるでしょ。それから形ね、飛行機の形であれは敵だ味方だと。そういうのを対空監視哨は訓練されてるから…。
今の世の中だったらレーダーでちゃんとね、あれするけど。そのころは雲の中入っちゃったら、おそらくわかんなくなっちゃうんじゃないですか」。

リポーター
この頃になると、日本本土の制空権は米軍の手に落ちていたと、拓殖大学の秦郁彦・教授はいいます。

秦郁彦教授 解説
マリアナ基地からのB29だけではなくて、20年6月に沖縄が陥落しますと、沖縄からも、大型機、中型機、小型機、これが西日本に毎日のようにやってくる。
合間には、アメリカ機動部隊の艦載機もやってくる。こういう三つ巴の状態になりまして、日本中どこかの時間帯にはアメリカの飛行機が飛び回ってるというような、そういう状態になりますと、防空担当者も一般国民もだんだん不感症になってくる。
そういう状態の時に、広島に原爆機が飛んで来た。
で、前の日に、夜に、B29は西日本の宇部とか今治、その他いくつかの地方都市にですね焼夷弾による攻撃を加えておりまして、関係者はもうそれで不眠不休。疲れ果てて、というところへ8月6日の朝を迎えると。

一応、新型爆弾が次に使われることを阻止するということを考慮して、大本営としてはですね、単機または少数機のB29の行動に警戒せよと。
それから要地の上空は戦闘機で哨戒せよという指示を出しています。しかし、すでに日本の戦力は枯渇状態にありましたから、この通りに末端までその指示が徹底していたかどうか、ということは非常に疑問ですね。

➡️ ⑤八月九日、長崎<2>につづく

----【目次】-------------------------------

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
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①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
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④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
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⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
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ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』⑤ 八月九日、長崎<2>

2023-08-07 18:00:00 | メディア関連
<八月九日、長崎2>//////////////////////////////

効果音
・セミの声 F.I.

ナレーション
昭和二十年八月九日。長崎市の山肌に掘られた、県の防空壕の中では、永野知事のもとに、三日前に起きた広島のただならぬ事態が次々に伝えられた。
「長崎も危ない」という意見に、非戦闘員を市街地から疎開させようと、県首脳部は会議を開こうとしていた。

効果音
・B29爆音 B.G.

ナレーション
午前10時すぎ、B29は、小倉上空を旋回したあと進路を南にとった。
しかし、西部軍司令部は、長崎地区の空襲警報を午前8時30分に解除したままだであった。
西部軍の作戦室では、荒木篤敬(あらき・あつよし)准尉が、将校の前の机で、飛行機の航跡を地図に書き込んでいた。

当時西部軍の准尉だった荒木篤敬さんの証言
「空襲警報解除になったから、解除になればみんな勤務員もやれやれいうて、まあ、一安心だなぁいうところですね」
「解除になれば、もう作戦室は、将校、下士官が残って、お偉方は本来の部屋の方におかえりになるわけです。将校の2、3名。下士官の7、8名。そのくらいですね」

効果音
・B29爆音B.G. → UP

ナレーション
当番将校・毎田一郎(まいだ・いちろう)中尉は、事実上、警報発令の判断をする立場にあった。

当時西部軍の中尉だった毎田一郎さんの証言
「まあ、我々の従来の空襲というたら、編隊を組んでですね、爆撃機がたくさん編隊を組んでくるのが空襲だという考え方があったわけですわな。
それといままで、日本の国内の都市が爆撃されたのは、みな夜ですわな。だから昼飛んでくっていうのはまあまあ偵察か、航空写真撮りに来たのかな、という考え方が先行したわけですな」

ナレーション
松尾景盛(まつお・かげもり)見習士官は、B29の航跡を書きながら、作戦室の動きを間近に見ていた。

当時西部軍の見習士官だった松尾景盛さんの証言
「ところが、同じ偵察でも、動きがちょっとおかしいと思ったのは、旋回度が多いんですよ。普通は偵察やったらば、せいぜい2回ぐらい。多くて2回でしょ。それが3回か、4回か回って、そういう一つの、そういう航跡でしたね。で、私の考えでは、こりゃちょっと、えらい丁寧に旋回するなというあれは、よぎりましたけどね。

ナレーション
不審に思った毎田中尉は、長崎要塞司令部との直通電話に手をかけた。

毎田一郎さんの証言
「とりあえずその飛行機は、なんていうたらいいですかなあ、爆弾も落としませんしね。偵察だろうと思っとたのを、もう一度確かめようと思って電話をかけた途端に、『いま光った』とこう言うて」
「これは危ない。広島の原爆が3日前に落ちて、その時まず光ってるんですよね。それですぐあわてて空襲警報出して、それから軍の報道部に早く退避をするように、『長崎市民は早く退避を』という、まあ、放送をしてもらったわけですけどね」

効果音
・航空機の爆音→原爆の爆発音(ドーン)

ナレーション
玉田演平(たまだ・えんぺい)放送員に、原稿が手渡された。

当時福岡放送局の放送員だった玉田演平さんの証言
「またいつものように、『西部軍情報』っていうんで来た原稿を見てですね、『新型爆弾が投下されました。長崎市民は退避してください』っていうのがね、強烈な、私としてはね印象で。何回も何回もそれを繰り返したんですが」
「相当なショックでね。わからないですからね。新型爆弾ってどんなもんだか。だから、恐ろしい爆弾だなっていうことはね、感じ取ったんですがね。ですから、ね。『退避してください』だけがもう精一杯だったです。だから『早く退避してください』っていうような気持ちがこもってたんですがね」

効果音
・(閃光と轟音のイメージ音)

再現アナウンス
「新型爆弾が投下されました、市民は退避してください。長崎に新型爆弾が投下されました。市民は退避してください」(エコー飛ばし)


市民の証言① 熊本放送局内でラジオを聞いた杉原宏子局員
「『いままでにない大型爆弾です。みんな早く避難をするように』という、とっても切迫した男性のアナウンサーの声がいたしました。それが立て続けに、激しい放送がございました」
「あの白いのはなんでしょうか?って指差して、わたしどももみんなバルコニーの方に出て行きました。みるみる大きく…、それがキノコ雲だったんですね」

➡️ ⑥エピローグ〜最後の「情報放送」につづく


----【目次】-------------------------------

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
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①プロローグ〜奇妙な退避放送
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②八月九日、長崎<1>
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③終戦前年に始まった「防空情報放送」
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④放送室からの悲痛な叫び
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⑤八月九日、長崎<2>
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⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
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ラジオ番組『長崎市民は退避せよ』⑥ エピローグ〜最後の「防空情報放送」

2023-08-07 17:00:00 | メディア関連
<最後の「防空情報放送」>///////////////////////////

リポーター
退避放送はわずかの差で間に合いませんでした。
プルトニウム爆弾の一瞬の閃光にさらされた人々。長崎の原爆資料保存委員会の調査によりますと、亡くなった人7万4000人、重軽傷者7万5000人にのぼりました。

8月9日当日、参謀のもとで防空情報を担当していた将校・毎田一郎さんは、私たちの取材に対して、最後に、こう話してくれました。

毎田一郎さんの証言
「あれはねえ、爆弾が落ちて炸裂した後、ラジオを聞いておるものがおったかどう知りませんけど、30分ぐらいそういう情報を流してましたなあ。退避せよ、退避せよという情報を流してました。それは手遅れであったなあと」
「私たちの立場からすれば、いわゆる空襲警報を出すということはですね、それだけ国内の生産がストップするわけですよね。そういうことがやっぱり、なかなか空襲警報を出すのは慎重でなきゃならんという考えに結びついてましたから」
「まあ、考えてみれば3日前に広島にあれが落とされとるということが教訓になって、もっと頭に染み込んでおればね、もっと警戒したでしょうけれどもね」

リポーター
なぜ、広島の教訓を生かせないまま、長崎は8月9日を迎えたのか。
そして防空情報放送は一体どういう役割を果たし得たのか。
拓殖大学教授・秦郁彦さんに聞きました。

秦郁彦教授 解説
「広島のあとなのに、なぜ長崎市民の退避ということが間に合わなかったのか。今考えて見ると、非常に残念な気がしますね」
「ひとつにはですね、やはり陸軍中央部の誤った判断も影響していたと思います。これは8月9日の終戦を決めた御前会議の席上で阿南陸軍大臣が『アメリカが持っている原爆は一発しかないはずだ』と。これはぜんぜん根拠のないことなんですけど、もうこの段階になりますとね、根拠がなくてもなんとかして楽観的な見通しにすがりつこうと。そして、本土決戦に持ち込みたいという、そういう頑妄が、この発言に集約されていると思うんですね。それを議論している席上に、2発目が長崎に落ちたという情報が入りまして、これが終戦決定の非常に大きなきっかけになるわけですね」
「戦争中の日本人は徹底的な情報封鎖の中で暮らしておりましてね、この防空情報というのはその中で唯一の“明かり窓”のようなものでありまして、でもちろんそこから流れてくる情報だけでは十分じゃない。しかし、まあ、国民それぞれですね、自分の判断力、口コミで伝わって来た情報。そういうものを総合してですね、対処していったと」


録音素材
.玉音放送 F.I..
「爾(なんじ)臣民ノ衷情󠄁モ朕󠄁善ク之ヲ知ル 然レトモ朕󠄁ハ時運󠄁ノ趨ク所󠄁 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍󠄁ヒ難キヲ忍󠄁ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平󠄁ヲ開カムト欲ス 朕󠄁ハ茲ニ…」→B.G

ナレーション
昭和二十年八月十五日正午、ラジオは全国民に決定的な情報を伝え始めた。

ナレーション
天皇の玉音放送によって、戦争は終結した。
これが、いわば、防空情報放送の最後であった。

効果音
・玉音放送
「…世界ノ進󠄁運󠄁ニ後レサラムコトヲ期󠄁スヘシ 爾臣民其レ克ク朕󠄁カ意󠄁ヲ體セヨ」


<クレジット>///////////////////////////

エンド音楽 → B.G.

アナウンス
『特集・長崎市民は退避せよ〜防空情報は何を伝えたか』

取材協力
秦郁彦(はた・いくひこ)
荒木正人(あらき・まさと)
泉洋二郎(いずみ・ようじろう)
斉藤聰(さいとう・さとし)
島津矩通(しまず・のりみち)
杉原宏子(すぎはら・ひろこ)
高松貞雄(たかまつ・さだお)
永田 収(ながた・おさむ)
半沢和郎(はんざわ・かずお)
広内信夫(ひろうち・のぶお)
松野秀雄(まつの・ひでお)
松本憲夫(まつもと・のりお)
偕行社(かいこうしゃ)

語り:長谷川勝彦(ナレーション)
報告:住田功一(リポーター)
取材:恩蔵憲一
技術:岩崎延雄
音響効果:川崎清
制作:渡辺俊雄、佐野剛平

『特集・長崎市民は退避せよ〜防空情報は何を伝えたか』を終わります。

エンド音楽 B. G. → F. O.



----【目次】---------------------------------------------------------------------

ラジオ番組『長崎市民は退避せよ〜防空情報放送は何を伝えたか』について
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/afb253570114e98ddc000d5120068743

①プロローグ〜奇妙な退避放送
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/b09ad1a93be448d330325aae4e919894

②八月九日、長崎<1>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e67a9aec6430e55282e5dc78a4353e74

③終戦前年に始まった「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/ca399be29520ddf6bda4ce5046f8f59e

④放送室からの悲痛な叫び
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/90448a443b5fd4d6f043a6031b176f60

⑤八月九日、長崎<2>
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/e704ec92a9161925a03d7f1739179110

⑥エピローグ〜最後の「防空情報放送」
https://blog.goo.ne.jp/sumioctopus/e/dae1cfaf8ec2a0bebee13100e14cb269


「定点」を被災遺構に 雲仙・普賢岳の大火砕流から30年 

2021-02-07 09:24:44 | メディア関連

死者・行方不明者43人を出した1991年6月3日に発生した
長崎県、雲仙・普賢岳の大火砕流から今年で30年になります。

犠牲者が多く出た「定点」をご存知でしょうか?

メディア関係の年配の方は思い出す方もおられるでしょう。
島原半島ジオパーク協議会が2016年に発行した
「島原半島世界ジオパーク 77号」には
次のように解説されています。

「定点」は島原市上木場地区の葉タバコ畑の中にあった県道の一角です。当時、 火砕流という噴火現象は、日本はもちろ ん、世界的にもあまり観測事例がありませんでした。谷を流れる火砕流をほぼ真正面から撮影できたこの場所 は、絶好の撮影場所となり、いつしか「定点」と呼ばれるようになりました。珍しい火砕流の迫力ある映像を収めようと多くの報道関係者が避難勧告区域内に立ち入って撮影を続けたのです。
1991年6月3日は、朝から天気は下り坂でした。梅雨前線の接近に伴い、午後から雨が降り始めました。そんな曇り空の下、午後4時8分に火砕流が発生しました。水無川の本流を流れ下った火砕流の本体は「定点」の手前で止まりました、火砕流と同時に発生した熱風(火砕サージ)は、そのまま「定点」周辺にいた人たちをのみ込んでしまいました。 
現在、「定点」には被害に遭われた人たちを弔う白い三角錐が建てられています。
https://www.city.shimabara.lg.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=3360&sub_id=1&flid=12715

その定点を「被災遺構」として保存整備しようという動きがあります。
2021年1月17日の西日本新聞電子版にこんな記事が出ています。

 消防団員ら43人が犠牲になった1991年6月3日の雲仙・普賢岳(長崎県)の大火砕流から30年となるのを機に、報道陣の取材拠点となっていた同県島原市の「定点」一帯の整備が17日、始まった。定点で亡くなった人たちの慰霊とともに、火山災害の教訓を伝える被災遺構として保存する計画で、同日は住民ら約70人が草刈りをした。3月に完了する予定。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/682404/

毎日新聞(2020年12月26日電子版)は、具体的にこう伝えています。

計画では、草むらに埋もれて現地に放置されている毎日新聞の取材車両と新聞2社がチャーターしたタクシーの計3台を掘り起こして修復。すでに掘り起こしているテレビ長崎(KTN)の車両を含む計4台を並べて、屋外展示する。(https://mainichi.jp/articles/20201226/ddn/041/040/033000c

(引用写真:国土交通省 九州地方整備局 雲仙復興事務所 http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/index.html

あの日のテレビニュースは異様でした。
初報のあとしばらく情報が途絶え、
そのあと、報道関係者が
病院に担ぎ込まれる映像が映し出されました。

最前線の映像取材拠点だった「定点」。
報道関係者16人だけでなく、
報道陣のチャーターしたタクシーの運転手4人、
近くで警戒に当たっていた消防団員12人、
取材陣に退避を伝えようとしていた警察官2人、
火山学者や地元住民らが
熱風に巻き込まれたのでした。

共同通信の取材に
当時、駆け出しの記者兼アナウンサーとして現場近くにいた、
NCC長崎文化放送の中尾仁さんが
次のように答えています。

「自分を含め、あの時は記者魂をはき違えていた。本当は他社に勝ちたかっただけ。巻き込んでしまった人たちには申し訳ないと思う」
「記者は死んだら何も伝えられない。危険地でこそ冷静になり、安全を確保した上で最善を尽くすべきだ」
(2020年11月17日配信「過熱報道で『市民を殺した』悔やむ元記者 雲仙・普賢岳噴火から30年」https://news.yahoo.co.jp/articles/29430bb1e8df3039f4b8e4d1bce449a03ff3c8c5?page=1

この「定点」には、長らく
三角すいの白い標柱が立っているだけでした。
2020年6月15日の長崎新聞はこう報じています。

 遺族の中には、当時の行きすぎた一部報道活動に対し「消防団員が亡くなったのは避難勧告地域の中で取材を続けていたマスコミのせい」との思いがあると指摘される。
 「定点に碑を作りたい」との報道陣の遺族らからの願いもあるが、マスコミに対する住民の複雑な感情も相まって、これまで実現に至っていない。報道関係者の車やタクシーが周辺に野ざらしのまま残されている。
https://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=645274036403307617
 
近年は、この「定点」でも
手を合わせる消防団員の遺族らの姿が見られるようになった、と
西日本新聞や長崎新聞は伝えています。

島原市の安中地区町内会連絡協議会の
阿南達也会長(82)のコメントが、
西日本新聞(2021年1月17日電子版)に掲載されています。

「地元として被災体験の継承と慰霊を続ける責任がある。定点で起きたことを伝え、災害を考えていきたい」

災害・防災研究者や報道関係者の会員が多い
『日本災害情報学会』のニュースレター(No.84  2021年1月)には、
この「定点」を整備するための
寄付を募っているという記事が掲載されています。

 災害から30年、地元安中地区町内会連絡協議会では
 「定点」付近に今も埋もれている車両3台
 (取材車両1台、報道機関がチャーターしたタクシー2台)を
 掘り起こし、保存整備することにした。

と伝え、

 取材や調査などでここに地を訪れたことがある
 何らかの思いを持っているという方は
 支援をしていただければありがたい。

と結んでいます。

振込口座 ゆうちょ銀行
普通 17650ー5966951

または
支店768
口座番号 0596695

安中地区町内会連絡協議会
会長 阿南達也

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報道関係で亡くなった方<当時の報道から>

日本テレビカメラマン 26歳
日本テレビビデオエンジニア(スター照明) 30歳
テレビ長崎カメラマン 37歳
テレビ長崎カメラマン 44歳
KTNソサエティー運転手(テレビ長崎関連会社) 31歳
読売新聞写真部員 53歳
毎日新聞写真部員 33歳
毎日新聞技術員 41歳
毎日新聞運転手 35歳
九州朝日放送カメラマン 23歳
九州朝日放送アルバイト(福岡大商学部2年) 20歳
テレビ朝日記者 27歳
日本経済新聞写真部員 34歳
雑誌「フォーカス」フリーカメラマン 58歳
NHKカメラマン 31歳
NHKライトマン(キーライト) 31歳

みくりやタクシー運転手43(テレビ取材陣がチャーター)
島鉄タクシー運転手44(テレビ記者に同行)
小嵐タクシー運転手29(新聞取材同行)
丸善タクシー運転手48(新聞社貸し切り)

(引用写真:国土交通省 九州地方整備局 雲仙復興事務所 http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/index.html

 

以上