ついてくるものがあった。
正確にいうなら「わたしにも」ついてくるものがある。
もっと正確にいうと川上弘美さん「真鶴」の冒頭の一行、
「歩いていると、ついてくるものがあった」という文章が
ずっと離れていかない。
「真鶴」を読んでから三浦雅士さんの解説を読み、
ああ、そうだったのかと思った。
単行本ではなく文庫になると解説があるからラッキーだと
誰かが言っていたけれど、今回それを実感した。
「誰だって書いているときには、自分の手によって書かれてゆくその文を
見ている。書かれてしまうと、まるで自分によって書かれたものでは
ないかのように意味ありげにこちらを見つめ返してくる文、それをさらに
見つめ返そうとする自分。ついてくるものは、そのどっちかに決まっている。」
三浦さんは解説のなかでこう書いている。
「書いている自分を見ている自分は幽霊に違いないじゃないか」
「文学とは幽霊を扱うものだったはず」
「私」という現象そのものが幽霊なのだ、という三浦さんの論は、
「書くこと」「自分」「みること」について、
おおくのことを思い出させてくれるものだった。
ああ、そうだったのか、と梶井基次郎の眼差しにまでさかのぼって、
なつかしく思い至った。
「真鶴」をこの解説なしで読んだとしたら、
「ふ~ん」で終わっていたかもしれない。
もうすこしさきへと入ってわかりたいのに、あと一歩のところで
わからないでかえってきていたかもしれない。
「書くこと」の端っこにいたいと思うわたしには、
この解説つきの「真鶴」は貴重な読書体験だった。
ところで、わたしにもついてくるものは、
まあ、幽霊かもしれないが、そこまでかたちを成していない。
ごくごく小さな黒い点、今は。
このことを詳しく正直に言うのは難しい。
(いつだったか息子に・幻視・の話をして気味悪がられたし)
つい先日、古本屋で本の整理をしていたら、近くにあった。
「あ、ついてきたんだね」と思った。
「真鶴」を少し前に読み終えたばかりだったので、
小説世界がそのときまだ、じぶんにとても近かった。
正確にいうなら「わたしにも」ついてくるものがある。
もっと正確にいうと川上弘美さん「真鶴」の冒頭の一行、
「歩いていると、ついてくるものがあった」という文章が
ずっと離れていかない。
「真鶴」を読んでから三浦雅士さんの解説を読み、
ああ、そうだったのかと思った。
単行本ではなく文庫になると解説があるからラッキーだと
誰かが言っていたけれど、今回それを実感した。
「誰だって書いているときには、自分の手によって書かれてゆくその文を
見ている。書かれてしまうと、まるで自分によって書かれたものでは
ないかのように意味ありげにこちらを見つめ返してくる文、それをさらに
見つめ返そうとする自分。ついてくるものは、そのどっちかに決まっている。」
三浦さんは解説のなかでこう書いている。
「書いている自分を見ている自分は幽霊に違いないじゃないか」
「文学とは幽霊を扱うものだったはず」
「私」という現象そのものが幽霊なのだ、という三浦さんの論は、
「書くこと」「自分」「みること」について、
おおくのことを思い出させてくれるものだった。
ああ、そうだったのか、と梶井基次郎の眼差しにまでさかのぼって、
なつかしく思い至った。
「真鶴」をこの解説なしで読んだとしたら、
「ふ~ん」で終わっていたかもしれない。
もうすこしさきへと入ってわかりたいのに、あと一歩のところで
わからないでかえってきていたかもしれない。
「書くこと」の端っこにいたいと思うわたしには、
この解説つきの「真鶴」は貴重な読書体験だった。
ところで、わたしにもついてくるものは、
まあ、幽霊かもしれないが、そこまでかたちを成していない。
ごくごく小さな黒い点、今は。
このことを詳しく正直に言うのは難しい。
(いつだったか息子に・幻視・の話をして気味悪がられたし)
つい先日、古本屋で本の整理をしていたら、近くにあった。
「あ、ついてきたんだね」と思った。
「真鶴」を少し前に読み終えたばかりだったので、
小説世界がそのときまだ、じぶんにとても近かった。