正定寺の閑栖  (しょうじょうじのかんせい)

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皿の中なる水こぼさねば、いつも此身は豆蔵じや

2013年03月31日 | 日記
2万石の城下には過ぎたる禅寺と
言われる名刹養賢寺は慶長10年(1605)の創建です。

藩主の菩提寺として多くの名僧を
排出しています。

養賢寺は昭和2年(1927)8月18日に本堂を焼失して
同5年3月22日に再建されました。

このときの老師が小宮洪巌(こみやこうがん)
室号を點蘂軒(てんずいけん)といいました。

老師が養賢寺に入ったのが本堂焼失の半年前です。

老師は佐賀県唐津市の出身で久留米梅林僧堂に掛搭して
東海瞎禅(香夢室)に参禅のち嗣法しました。

洪巌老師は昭和32年に養賢寺を出られて
別府で昭和50年94歳で遷化しました。

写真では大柄でかっぷくの良い老師です。

老師は書画共に卓越していて、
多くの墨跡作品が養賢寺の檀家のあちこちにあります。

ただ、専門道場の師家として妻帯が取りざたされ、
一部の雲水が暴動して、檀家が排斥騒動を起こす事態となり、
やむなく老師が下山した経緯があります。

一連の騒動は寺院による扇動だと
いう噂もあると聞きましたが遠い昔の話しです。

そんな訳でなかなか部内の寺院には、
洪巌老師の墨跡が無いのが現状です。

(鐵心肝:正定寺)



白隠禅師の墨跡画を真似た洪巌老師の書画。
(皿の内なる水こぼさねば、いつも此身は豆蔵じや:個人)



白隠禅師がこちらです。



洪巌老師の後に立花光宗老師が養賢寺に入りました。


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