常陸の国の片隅で…。

鉄の話とか日々のこととか

地下鉄が救った命

2014-03-04 14:38:53 | 日記
あまり書くようなネタも無かったので、この所更新はしていませんでしたが、今回はこのお話。


「日本の旅・鉄道見聞録」http://www.uraken.net/rail/index.html 様から、転載可能の画像を転載

3月4日のNHK連続テレビ小説、「ごちそうさん」で、空襲で逃げ場を失っため似子たちが地下鉄の駅に逃げ込み地下鉄で逃げて助かった…という部分がありますが、物語自体は創作ですが、大阪市交通局などの公的な記録はないものの史実としてホントにあった話。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2#.E5.9C.B0.E4.B8.8B.E9.89.84.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E9.81.BF.E9.9B.A3


実はこの話、全国紙に採り上げられる十年以上前から私は知っていました。

残念ながら現物が今手元にないのですが、1980年代半ばに度々大阪を訪れていた際に必ずと言っていいほど立ち寄っていた、梅田の旭屋書店本店。
目的は東京では入手し難い趣味の鉄道関係の書籍の入手や、当時テナントとして有名な模型店さんがあったからなのですが、鉄道関係の書籍の棚に並んで大阪の郷土史に関するコーナーがあって、たまたまそこで目にしたのが「大阪大空襲の記録」という、体験された方々の絵と体験談による証言集でした。
(出版社などは失念)

個人的な話で恐縮ですが、私の父親はシベリア抑留経験者で母親は第二次大戦中の生まれ。
母方の祖母や大叔母、大叔父などから断片的に戦争体験を聞くことはありましたが、とうとう父親から生きているうちに直接話を聞くことは出来ませんでした。

理屈はともかく、パラパラとページをめくって意識的なのか無意識なのかは今となっては覚えて無いのですが、「この本は読まなくてはならない本だ!」と即断したのでしょう、本来の目的はすっかり忘れて会計を済ませて、その日の宿に向かったのでした。

その本の中に、証言された方ご自身が描いた絵と併せて複数の証言があり、平成に入ってから新聞への投書がきっかけで交通局内部などでも調査が行われてはいるようですが、公的な記録はなく、また空襲に際しての地下鉄駅への避難は防空法で禁止(東京では空襲の際に今の銀座線の銀座駅近くのトンネルに爆弾が落ちた例があります)ということや、緊急避難的な措置として人命を救ったこととは言え職務規程違反にもなってしまうこともあり、なかなか言い出せない状況というのもあったのではなかったのではないかと思われます。


ドラマの中でも、防空法を盾に駅員が最初め似子たち避難してきた人々を阻もうとしますが、ホームに誘導してやってきた電車に

「梅田方面はまだ焼けてないそうなので、そちらに(列車を)出します!」

と避難してきた人々を誘導します。

このシーンこそ、さっきの本の中で私が決して忘れることのない、状況の証言と証言された方ご自身の描いた絵とが一致します。

この他にも、後日の新聞社による聞き取り調査では、心斎橋駅では憲兵に促されて構内に退避した…や、逆方向(天王寺行き?)の電車に乗った…などの証言や、退避した時間が証言された方によって時間帯に幅もあることなどから、組織としての判断ではないでしょうけど、行いうる体制で、かつ、複数の列車が運行されたことは間違いなさそうです。
また、理由はよく解っていませんが、普段は終電車が終わった後に電車を動かすために必要な電力の送電は止めていたらしいのですが、この日は電力は供給され続けていたようで、警戒警報や空襲警報の発令を受けて途中駅で運転を打ち切った電車とその乗務員を活かして…ということなども推察は出来ますが、今となっては解明する事は非常に困難なことかも知れません。


余談ですが、ドラマの中で命を繋いだ地下鉄の電車出てきますが、この電車、セットとかの作りものなんかではなく、正真正銘、昭和8年に大阪に始めて地下鉄が走ったときの言わば一期生、10両のうちの1両で、永年使われているうちに改造が加えられてはいるものの、往年の姿に一番近い姿を保っていたということで残されたそうです。

この電車の詳細は下のリンクをご参照ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E9%9B%BB%E6%B0%97%E5%B1%80100%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A_(%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84)


残念ながら、資料や記録がないのでわかりませんが、大阪大空襲当時45両あった地下鉄電車うちの1両ではあるので、あの夜走った電車の中に含まれるのかも知れません。

あの夜の出来事や、あの夜に走った電車のことなど、体験された方や地元大阪の方が然るべき場所や方法で綴られていると思いますが、ドラマの一シーンを観て、自分の記憶がよみがえり、駄文を書き連ねてしまった次第です。

まとまりの無い長文に、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。




新ネタ妄想中…

2014-02-06 14:00:40 | 模型のはなし
相変わらず体調はままならないですし、外出もできない状況ではありますが。
今、頭の中をリセットして小さな電車たちの物語を構築中です。

とりあえず、国鉄(JR)との接続駅を中心に二方向に路線が延び、工場や車庫、現業関係の一大拠点のことがむくむくと…。



…元々は地形や国鉄の敷設に絡んで熾烈な鉄道忌避運動が展開されたため、地域で一番の栄華を誇っていたとある町をスルーする形で敷設されてしまった国鉄の幹線…。
鉄道の利便性を痛感することで、町の衰退を怖れた有志が立ち上がる…

などという、日本国内なら割とあちこちで聞いたような話。
我が地元、常磐線だけに限ってもいくつも史実としてあるわけで、実際今も走っている路線もあるわけでして…。

当初、軽便鉄道として開業したものの、それほどの量ではないにしても、貨物の積み替えをする手間などのデメリットも噴出するようになり、改軌と電化を決意。
ただし、地勢上の関係や旧市街の街並み縫うように走り、かつ、軽便時代のインフラを最大限活かしてしまったために当時は問題にならなかったものの、急カーブが多い線形となり後々輸送力の増大やスピードアップといったことへの重大な足枷に…。

他方、同じ国鉄駅から山間部や景勝地を経て、港町までの別の私鉄が興され敷設のための免許を得たものの、折からの世界的な経済恐慌のあおりで頓挫したかに思えたが、手頃な基地を求める軍部や工場用地を求める財閥系資本の手はこの地にも及ぶこととなり、二つの私鉄は統合。新線の建設を進めて開通にはこぎ着けたものの、肝心の工場等はごく一部が進出したのみで終戦を迎えることに。
財閥解体や、GHQによる航空活動の禁止などの影響はあったものの、後々の内陸工業地帯化の足掛かりをえることと親会社の支配を支配を離れることに成功して、戦後発展の礎となる…。

などというストーリーをでっち上げ始めています。
どっかで聞いたような話も多々ありますが…(大汗)。

何もしなかった1月

2014-01-30 19:15:52 | 日記


なんだか、何もする気になりません。
初詣どころか、近所の散歩もままならない位でして…。


遅くなりましたが…

2014-01-06 10:53:00 | 日記
新年明けましておめでとうございます。
本年も拙ブログを宜しくお願い致します。

ご多分にもれず正月も寝て過ごす有様で、基本的に芸人垂れ流しのテレビは観ない人なので、久々に時代劇観たりスクリーンで観損ねた映画を観たり、某バス旅番組観ながらその先のルートの予測をしてみたり…なんて具合でした。

今年はもう少し、ブログの更新頻度を上げたいところですが、相変わらずPS3のコントローラーで一字一字拾いながら書いているので、どうにかしたいとこなんですが。
先ずは短文でも頻度は上げないと…とは思っています。

気が付いたら…

2013-12-30 13:10:58 | 日記


画像に別に意味はないですが、次の顔は果たして誰に??


暮れも押し迫り、2013年も残すところ一日半足らず。
気紛れで始めた当ブログでありますが、師走に入ってから私自身の不調により更新が出来ませんでした。更新の頻度と中身の充実は、来年の宿題ですね…。

どれほどの方々にご覧頂いているのか想像は出来ませんが、ご覧頂いたすべての方に深くお礼申し上げまして2013年の締めくくりとしたいと思います。