Sakura
中田さんのYouTube動画はいろいろ為になり、とても楽しいものが多い。
「(西洋)哲学」の第1回目の動画のソクラテスの「欺くこと」に関する問答の内容から考察した事を以下に記す。
ソクラテスは「欺くことは悪いことか ? 」とあるソフィスト(ソフィスティケート=洗練された、という言葉をご存知だろうか。確か、その語源でもあるので、興味が湧いたら、調べてみてね)に訊ねる。
「勿論、悪いことだ」と答える相手に彼は「君の友人が自身を傷つけようとしていて、君がそのナイフを隠したとする。友人はナイフは何処だ ? と尋ねるが、君は、知らない、と友人を欺いたとする。それでも悪いことか ? 」と言を重ねる。
ソフィストはそこで言葉に詰まる(多分、筆者の解釈がかなり入っていて、原文というか訳文とはかなり違ったところもあると推察するが、面白そうだ、と想ったら、プラトンのソクラテスに関する著作などをお読みになってね)。
此処に来て、おらあ、想う。
ナイフを隠したことは「悪」ではなく、最早、それは「愛」なのだ、と。
つまり、あ「く」→あ「い」であり、一字が万事、それだけでまったく違うものとなるのが、この世界である。
わがよを、もす、すんだらよ、そうすぎだどがはがなんがはいらねじゃ !
それよりよ、狼だどが虎だづぬ、わば食わせでけろじゃ。
はがなんてせめどごぬよ、狭すぎでへるのばがばがすじゃ。
ないでけでもいんどもよ、でぎれば、笑てけろじゃ。
いづまんでもおべでけろなんて言わねじゃ。はやぐ忘れでけでいじゃ。
んでもよ、わがつくたこどばごいっぺのごってければいな !
最近よ、みづ歩ぐどぎぬはよ、ゆっぐり、気をつけでcross bikeでよ、あるてるんだ。
こごさすんでよ、40年以上さなるんどもよ、今までこんたぬ、山菜とったごどねえ。
こたぬよ、恵まれでだのぬよ、ずっと、それさ気づがねがったんだだげだな。
食べもんはよ、皆すてよ、買うもんだどおめもおらも想てるべ。
んでもよ、買う必要もねほど、みづばだどがぬおえでる。
ほんとありがでな。
皆すて、便利だどが都会でぎだどがいてよ、そどでかせでそのかねで食いもん買う生活だべ。
んでもよ、買う必要もねほど、食いもんはすぜんがくれでる。
すかもよ、すんげうめじゃ。
日本語(ぬほんご)はよ、主語ねんどが言われでるべ。
んだばよ、誰がしゃべて、やってるのは誰だ ?
ひょとすたら、世界精神だがもすんねな。
つがうごどばで言えば、無私(むす)ども言えるがもすんねえな。
そいど比べでよ、英語だば、お猿さんでもねえのぬよ、
「I, I(アイ、アイ)」
てばり、言てるべ。
我(わ)の主張の激す、我(わ)の文明のエゲレス(語)
無私まだは世界精神の和(輪)の文化のぬほん(語)
なだばどちゃ、くらすてえ、生ぎてえ?
ピラミッドの頂点こだがさ、立でばきもづいべが ?
わだばあづますぐね。
それよりよ、皆がそれぞれのスィーンでよ、ルィーダーさなる、ペッコな集団でやってぎてえ。
なんもすげいっぺの金もひょとすたら、いらねもんがもすらねな。
いろんな豊さあんのぬよ、ぺこめえのわみてぬよ、なもきづがねだげがもすんねえな。
最終てぎぬはよ、採集民(族)さ、なたらいがべチャよ。
こどばがよ、いぎがだどがぬ、おっきな影響あるて言われでるべ。
だがらよ、我(わ)の文明ぬ生ぎるより、和(輪)の文化のぬほんご広まれば、世界もいぐなるがもすんねな。
わさ、ありがでごどぬ、いいながまいるすて、そいづらどいい世界つくていげだらいど想てら。
んだばまんつ。
二文字の漢字の言葉を先後入れ違えるだけで、ニュアンスの違ったものとなる。
情熱は一般的で、物事を成し遂げるためなどには不可欠である、とよく言われている。
熱情の方が情熱より、熱さが大きいようである。
熱(あつ)き情(こころ)に‥‥想い募らせ‥‥夢追い人 ひとり 風の姿に似て
情が先か愛が先か━━
tikaさんとおっしゃる方のアメーバブログを拝見して、参考にさせていただく。
情とは青い心≒清い心、愛=慈しみ
情愛は、慈しむ前に、情けの心、思いやりの心が先行します、と書かれてある。
少し、愛情が意味するものよりも、相手を客観的にみているような感じがします、とも。
そして、「自分の心を先行させるように愛情を表現するよりも、先ずは、情愛の念をもって相手の事を考えてあげる。そうすることによって、静かに心の中で愛情も熟成されていく、そんな感じがします」と示唆してくださっている。
なさけ、こころ、とも読む「情」の一文字。
あなたはそれに如何なる想いを託すのか。
以下の論考は感情的にならずに、冷静に論理だけを働かせて考察していただきたい。
「神」が自分に似せて、人間を創ったのであれば、以下のようなことが導き出される。
もし、人が邪悪で非道で醜いものであるならば、当然、「神」にもそのような一面があるのだ。
すべての被造物が神のエッセンス(本質)を受け継いでいるとするならば、すべての好ましきもの、厭われるものもすべては「神」の所持しているもの・現れである。
つまり、今現在の善悪を争うこの世界の様相は神の巨大な想像(創造)の中での悲喜劇で吾々はその中で一役を担っている、ということ。
その中で個々人はどのようなパフォーマンスをするか、それが問われている。
ある人はシリアス過ぎるほどシリアスに。また、ある者はおちゃらけ全開で‥‥
いろいろな役があり、取り組みの様子もそれぞれバラエティに富んでいた方が楽しかろう。
深刻にやりすぎていたら時には力を抜き
「所詮、芝居にすぎない。最後は上手くいくに違いない」
と、心を解(ほぐ)し、楽しもうという方向へ。
他人事のように取り組んでいて白けていたら、楽しいものも楽しくなくなる。
物事はどのようなものでも、大概は真剣に取り組んだ方が本当に楽しいし感激もできる。
そして、自身も「神」であることを想い出し、活躍を !